第四走者 緋向子様

'あなたは甘いんだ、大久保さん。'
張が出ていったあとの執務室で、川路は一人になると椅子に背を押し付けてもたれ掛かった。
彼は少し苛立ち、何かすっきりしない、不可解な気分を拭い去ることができなかった。
'あなたは斎藤を信頼している・・・いいでしょう、斎藤もあなたという『人間』を信用している。'
川路は斎藤が川路の能力を信頼していても、川路という『人間』を信用していないことをいやに
なるほど承知している。
'斎藤自身も、あれは信用できる男だ。目的のために手段というものを選ばないが、目的や信条
はかたくななまでに選び、そしてそれを守り抜いている。'

ああ、この不可解な気分は・・・そうだ。私はあの二人に嫉妬している。彼は、微かに笑いを浮か
べた。自嘲だった。俺は、あの信頼というやつを持つことのできる仲に嫉妬しているのか。彼は、
その感情を振り払うかのように軽く首を振って見せた。いけない、たとえ些細で馬鹿げたことで
も、私情で判断を狂わせるな。今はそんなことをしている場合ではない。

'だが、大久保さん、人間は冷静さを保てない何かを、心のどこかに持っているものだ。あなたも、
気が付いてはいるのでしょう?あなたが『あれら』に対してもっと初めから強攻に出て押さえ付け
ていれば、我々がこうむった被害はもっと小さなもので済んでいた筈だ。だがあなたはそれがど
うしてもできなかった。それはあの地とあの人物が、あなたにとって聖域だったからだ。違います
か、大久保さん。'
川路は首の力を抜いて頭を後ろに仰け反らすと、目を閉じた。
西南戦争の始まる少し前、川路は大久保卿に秘密裡に何人もの密偵をかの地に放った。その
目的の一つは、西郷の暗殺である。彼らがよりどころとしている人物が消えてしまえば、他の連
中は烏合の衆に過ぎない。たとえ紛争が起ったとしても、兵士たちの士気は上がらないだろう。
しかし西郷がいたところで反乱を押さえ込むことはできる。西郷自身、その軍事力の差を知って
いて、反乱が国力を疲弊させるだけの無駄なことであると知っていたからこそ、ただひたすら彼
の同志達から雲隠を行っていたのではなかったか。考えなくてはいけないのは、その後の国の
疲弊だった。
被害は、最小限に押さえなくてはならない。
だが、大久保卿は川路の秘密裡の独断を知り、激怒した。
'そのあなたが、斎藤をかつての同士のもとに放つのに、なんの曇りもなくあの男を信じきってしま
っている。あの男だって人間だ。傍目には見えない、壊れやすい部分をどこかに持っていないと、
誰が断言することができる?・・・大久保さん、確かにあなたは政治家としてこの上もなく有能だ。
だが・・・あなたという人間は、とんでもなく甘い。理想だけで物事を動かすことはできないのだと
知りながら、あなたはその理想を押し通そうとする。そしていつかその甘さがあなたの足下をすく
うことがないようにと・・・私は心から祈っています。'
彼は、大久保卿の不評を買い、怒りを受けても、彼自身の決断を後悔することも、疑うこともなか
った。同じ状況に戻されたとしても、彼はまた同じことをやるだろう。
'あなたは傷だらけになりながら茨の道を歩み、私は、泥濘のなかを歩いて行く。泥と汚辱にまみ
れてね。だが私は、それ以外の道を歩もうとは思わない。'
夕暮れに空が紅く染まり、激しさが和らいだ陽の光が川路の執務室に差し込み、満たしていた。

ー*ー

「俺には、難しいことはわからん。」
永倉新八は、海を見つめながら呟いた。砂浜で、曇天の下、北国の冬の荒い波が波打ち際に、
たたきつけられるようにして打ち上げられる。そこは波に洗われて雪を払い、砂地が剥き出され
ている。打ち捨てられたように見える漁師の船が雪に埋もれながら疎らに所々点在しているのが
見えるだけで、他に人気はない。永倉の人柄の良さがにじみ出るような顔に、深い皺が眉間に
寄せられる。斎藤は黙ってその横顔を見つめている。
彼と斎藤は、幕末以来始めてこの北の地で再会した。斎藤は独立運動組織内にいる元新選組
隊士が、蝦夷地に安住している彼に声をかけているのではないかと考え、彼に連絡を取った。
彼に渡りをつけて貰うつもりだった。それはあたっていたが、だが彼本人はその流れに加わる気
はなく、かなり以前に彼らへ最後の連絡をして以来その糸はとぎれている。
「俺は聞いたよ。組織のリーダーの'あいつ'の理想と計画とやらをね。俺はそれに是非をつけら
れなかった。これでも俺は悩んだんだ、何が正しいのかってな。でも、答えはでなかったよ。それ
で俺は身を引いた。俺のなかに迷いがある以上、俺は連中に協力できん。なあ、斎藤・・・あいつ
はあのときから変わっていた。しかし変わってしまっていても、あの真摯な眼の光はこれっぽちも
曇っちゃいなかった。今のあいつなら本当にあの話を実現するかもしれないな。」
永倉新八は斎藤を見た。斎藤の眼を覗き込むようにして見つめる。並みの男と変わらない身長
の彼は、近くにいると少し斎藤を見上げる形になる。
「・・・お前も同じだ、斎藤。お前の眼はあのときから変わっていない。」
「人は変わる、だけど永倉さん、信念はそれを曲げるか捨てない限り、変わることはない。」
斎藤は、この男が昔から好きだった。この人を包み込むような暖かさのある人柄で、隊内にも彼を
慕うものが多かった。この人物のこういうところは、昔から変わっていないのだろう、と、斎藤は思っ
た。
「お前の信念は、あのときから変わっていないのか、斎藤?」
斎藤は黙って頷いた。
「死んでも、俺は自分を曲げる気などはありませんよ。」
「そうか。・・・その上を、お前は歩み続けてきたんだな。」
斎藤も彼も暫く黙って対峙した。永倉がふっと顔をゆるめ、笑った。
「あの幕末の頃、俺は鳥羽伏見が近づく頃まで疑問なんか持たなかった。将来、自分のしている
ことがどう作用し、自分がどうなっていくかなんて、これっぽっちも考えなかったよ。俺は、楽しんで
いたのかもしれん。ああやって、闇雲に剣をふるって突き進んでいくことがな。だが、近藤さんと土
方さん、それにお前たち・・・あの時代、あの時、先が見えてしまっていた以上、こんな辛いことは
なかった。だが、俺は俺自身のけじめさえつければそれでいいと思っていたんだ。最後は、武士
として散って行く。そう言いながら俺はこうやって生き残ったが。でもお前たちは違った。お前たち
はそこから一歩外れたところを見ていた。」
「永倉さん。俺達だって、そんな風にやってきたわけじゃない。」
「いいや、お前は俺が見ようとしなかったものを、正面から見据えていたよ。だからお前は今、明治
政府のなかにいる。違うか?」
斎藤は返事をしなかった。
「彼らに、連絡を取って頂けますね?」
「・・・やってみよう。ただ俺の接触できるネットワークがまだ生きているかどうか、保証の限りじゃな
いがな。」
「感謝します、永倉さん。」
「体が冷えてきたな、家へ戻ろう。うまい酒があるんだ。」
暖かみのある笑いを向けながらそう言う永倉を見て、斎藤は彼もこういうところが変わっていないの
だな、と思った。

ー*ー

斎藤と組織の顔合わせは、まずは案内役の男と接触することから始まった。斎藤につけられた案
内役は、永倉の隊にいた男だった。当時少年だった彼は成長し、外見が変わっていたが斎藤は
その男を認識することができた。彼は人物確認の役目もかねて送られてきたのだろう。
彼は斎藤を市内の宿屋へ案内すると、そこで連絡があるまで待つよう、伝えた。
だが次の日も、その次の日も連絡が来る気配がなかった。斎藤はただ部屋にじっとして、手持ち
ぶたさに彼らからの連絡を待った。

"何言っとるのや、正気かいな!連中、旦那が連中と連絡せなんだら、克浩を生きたまま切り刻んだ
るゆうとんのやろ?克浩、旦那の身内やんか。それなのになんで・・・!"
手始めとしてあれが斎藤の元に送られてきた。箱に克浩の髪が入っていた。漆黒の髪が無惨に
切り取られ、大量の血で汚れていた。魂が冷やされるような、陰惨さがそこにあった。この持ち主
がすでに無事ではないのではないかという想像を見るものに孕ませ、恐怖を伴った嫌悪感を与え
るような代物だった。
そしてそれに絡んだ縁からの接触の申し出を拒んだ斎藤に、張は感情的になって叫んだ。
"あんさん、鬼や、人間やない!"

だが、'次'は、なかった。それ以来縁から斎藤への連絡は跡絶えたまま、縁に予告されたように
切り刻まれた克浩の亡骸が、斎藤の元へと送られてくることはなかった。張もそれ以来その件に
は口をつぐんでいた。だが、事情を知っているものは皆、もはや克浩が無事生きているとは誰も
考えなかった。

"・・・何やら、妙なことになっとる。"
縁の根城を探ってきた張はなにやら言い難そうに言った。その屋敷は表向きとある政府内にコネ
を持つ外国人の所有になっていて、一種の治外法権にされているため警察は手を出せない。斎
藤がさっさと話せと促すと、長は上目使いで斎藤を見て言った。
"・・・克浩、あの屋敷のなかで無事生きてる。五体満足のままや。・・・というか、その、大事にされ
てる。あることのぞいて乱暴なことはされてへんらしい。"
張が何を言いたいか斎藤は見当がついても、彼は苛立ちながら報告ははっきり行えといい放った。
"だから・・・その、なんでもあそこに軟禁されて、頭のてっぺんからつま先まで、高貴なお方の愛妾
みたいに磨かれて、屋敷の奥に大事にしまわれて、でもって毎晩、雪代縁の夜伽役やらされてる
ゆう話や。"
黙っている斎藤に、張は言い放った。
"存外、可愛がられて幸せに暮しとると違うかいな。"
その言葉が終わらないうちに、斎藤が張の襟を掴んだ。刀を首筋に当てられでもしたような、ぞっと
させるような斎藤の眼が張を見ている。
"じょ、冗談や。"
張は、冷や汗を流しながら言った。

斎藤は頭に浮かんだこれらの記憶を振り払おうとした。

"これでも俺は悩んだんだ、何が正しいのかってな。でも答えはでなかった。"
永倉の言った言葉を、斎藤は思い出す。

「永倉さん・・・」
斎藤は立ち上がると、部屋の窓を開けた。曇天で、絶え間なしに空から重々しい北国の雪が落ち
てくる。
「俺は、迷ったりなどしませんよ。自分で道を選んだ以上、俺はその道を突き進んで行く。俺は、け
っして迷いはしない。」
冷たい外の空気が、斎藤の頬を撫でた。
「夕食を、お持ちしました。」
突然、廊下の方からその声が斎藤の部屋にかかる。斎藤はその声に聞き覚えがあった。窓を閉め、
刀を持ち、そっと戸口の方へ歩いて行くと襖を突然開ける。
「あー、誰かと思ったら斎藤さんじゃないですか。お久しぶりですね。お元気でしたか?」
「・・・」
斎藤はその人物を見下ろした。瀬田宗次郎だった。斎藤を見て、旧知の友人にでもあったように、
にこにこ笑っている。宗次郎は夕飯の膳を持って中にはいるとそれを床に置いた。斎藤は黙って
襖を閉めると宗次郎の前に立つ。
「ここで、何をしている?」
「僕、ここでただで泊めて貰うお礼に忙しいときの手伝いをしているんですが。」
宗次郎は膝をついて斎藤を見上げたまま、全く悪びれる様子がなかった。この並ではない神経は
相変わらずらしい。
「斎藤さんこそこんなところで何をしてるんです?」
斎藤はその質問を無視する。
「お前が良ければ、仕事の話があるんだが。」
「仕事?斎藤さんのことだから、きっととんでもなくやっかいな話じゃないですか?なんかいやな予感
がするなあ。」
「報酬は、捕まれば死罪間違いなしの第一級極悪指名手配犯の目こぼしだが。」
「・・・それって、もしかして僕のことですか?・・・いやだなあ、斎藤さんてば、相変わらずですねえ。」
そう言って後頭部に手を回すと、宗次郎はあははと笑った。

ー*ー

「面白い情報が入りましたよ。斎藤一が明治政府から寝返り、蝦夷地のレジスタンスに加わったと
いうんです。」
「・・・面白いというか、奇抜だな、それは。」
縁は明飛に向かって答えると、手にしていたお茶のカップを受け皿に戻した。明飛が人払いをさ
せるので何か重要な話でもあるのだろう、と待ち構えていたが、縁はまさかそんな話が飛び出して
くるとは夢にも思わなかった。縁は体を乗り出した。
「で、お前はそれをどう思う?」
「あり得ない話ではないでしょう。だけど・・・」
明飛は彼には珍しい、少し皮肉な笑みを彼の顔に浮かべて見せた。
「あの男はそういうことが得意なのでしょう?」
新選組在隊当時、斎藤がこなしてきた仕事の一つに二重スパイがある。土方の指揮下の元で彼
はそれを見事に遂行し、反勢力を一掃した。
「賢い者ほど、他人に捕らわれない自分というものを持っているものです。あの男は、どうなのでし
ょうね。」
縁は何も言わず、明飛から視線をそらせた。あの男の、冷徹に光る眼を思い出す。ふと縁は、彼が
送りつけた血に塗れた克宏の髪と衣服の一部を見て、あの男はどういう顔をしたのだろう、と、思っ
た。
「これから三日後、私はあなたの代理人として彼らと接触します。そのときに私は、あの男と会うこと
になるかもしれない。」
縁は黙って明飛を見つめた。黙って座っている彼は、さざ波一つたてない透明な水面を思わせる。
だが縁は、この男がその穏やかな容貌の下でどれだけ厳しく物事を計り計算し尽くしてから冷徹
に行動を起こすか知っている。
縁が明治政府に捕縛され脱出したとき、この男が真っ先にとった行動の一つが明治政府の手に
落ちた黒星と彼の部下たちの暗殺だった。そしてそれと同時に黒星の息のかかった組織内の不
穏分子も始末させた。縁が行方不明になり、黒星が捕縛されたあの混乱の極にあった組織をまと
めあげ、持ち堪えさせながらこの男はその先々への布石を打っていたのだ。
「ずいぶんと、楽しそうじゃないか、明飛?」
「ええ。彼とは、いつかやりあってみたいと思っていたのです。なかなか、一筋縄ではいかない相手
らしいですから。」
そう言う明飛の顔は、陶然とした表情をしている。それから彼はその表情を崩し、揶揄うように笑っ
た。
「出発する前に、克浩の所に顔を出してきます。私がいない間に、あまり彼を苛めないでください
ね。」
明飛はそう言って立ち上がり、出口へ向かおうとする。が、縁のつぶやきが彼を止めた。
「賢い者ほど、自分がある、か。」
縁はテーブルの上の自分の両手を見つめながらそう呟いた。
「なんです?」
彼は振り向いて縁を見た。縁は背中を向けたまま動かなかった。
「明飛・・・何故、お前は俺がいなくなったあの混乱のなかで組織に踏み止まり、俺を探し出して
その傍にいたんだ?」
明飛は彼に背中を向けている縁に近づくと、背後から両腕を彼の肩から体に回した。体を落とし、
唇を縁の耳に近づけて囁く。
「私は、あなたがいない世の中などつまらないのですよ。」
「Ming-Fei。」
縁は彼の名を呟くと、その手をとって眼を閉じた。頭を、彼の体にゆっくりともたせかける。
「お前は以前、人は神仏にはなれないと言った。だけど俺は・・・俺は、神仏など、いらない。」

明飛が克浩の部屋に入って行くと、克浩は部屋着にくるまったままベッドに横たわっていた。明飛
を見て顔を輝かすと体を起こす。明飛が寝台に腰を下ろすと、彼に抱きついた。まるで保護者に
懐く幼い子供のようだった。その後ろから使用人がティーポットと茶碗、西洋菓子をいれた皿を乗
せたトレイを運んできて、寝台の横の家具の上に置いて行く。そして無言のまま部屋を出ていくが、
克浩はそれを見もしなかった。
「体は大丈夫かい?克浩。」
「ああ、ちょっと疲れた感じがするだけだよ。」
明飛は、克浩が自律神経系を病んでいることに気が付いている。少し前から、漢方薬を調合した
ものを煎じては与えていた。いきなり誘拐され、殺されかけて、監禁された中で徐々に体を切り刻
んで殺してやると脅されたのだ。まともな神経の持ち主なら、おかしくならない方がどうかしている。
それに克浩は、もともとそう言う気質を持っているらしかった。部屋から出たところで逃げられないと、
克浩の部屋の鍵は開けたままになっているが、彼はその部屋から一歩も出ようとしなかった。日が
な一日中、彼は寝台のなかで毛布にくるまって過ごしていて、どんなに外で日差しが明るく降り注
ごうが、彼はただじっと寝台で蹲り、ぼんやりとしている。外へでるのを、怖がっている節さえある。
夜の内に良く眠れないせいか、半分うたた寝の状態の時が多い。
克浩が体を離すと、お茶をカップに注ぎ、砂糖を入れてスプーンで、音を立てずにそれを掻き回す
と克浩に手渡した。克浩はそれを受取り、口をつけた。
「今日から暫く、私はここを留守にする。何か欲しいものがあったら、今の内に言っておいで。」
克浩は、すがり付くように彼を見た。
「いつ、帰ってくるの?」
「いつになるかははっきりとはわからない。」
明飛は克浩の頬を片手で撫でた。
「君は、何を脅えているんだい?」
「だって・・・」
「私がここにいなくても、縁は君に危害は加えない。もう、わかっているだろう。君はここにいれば
安全だ。何も怖がることはない。君は精神的に疲れているんだよ。いろいろ、あったからね。」
「明飛は、どこへ行ってくるの?」
「込み入った仕事でね、ちょっと人に会いに行くんだ・・・そして、そこに斎藤一もいるかもしれない。」
その名前に克浩は動けなくなった。明飛はじっと克浩を見つめている。
あの男は俺のことで動揺などしないと・・・克浩は縁にそう、言い放った。実際そうだと思っていた。
だが本当にその通りだったと、それから後に言われた縁の残酷な言葉に、克浩は胸をえぐられた。

"お前の言う通りだ、斎藤は、お前のことなどどうでもいいらしいな。あの男は俺に返事を寄越して
こなかった。お前がどうされようが、別にかまわんらしい。"
"あんなことをしたって、無駄だっていった筈だ。"
"見捨てられたか。お前の男は酷いやつだな。"
"・・・"
"泣いているのか、お前?"
"俺を・・・見るな。その手を放せ。"
"泣くナ。"
"いやだって言ってるだろ!"
縁は癇癪を起こし、克浩を酷く殴り付け、押さえ付けて無理強いした。その乱暴さに克浩が耐えき
れなくなって泣き叫んでも、彼はその手を緩めなかった。その縁の暴力の下で、克浩はいっそ縁
が自分をこのまま殺してくれたらよいのに、と思った。俺が殺されても、あの男がそれで涙を流すこ
となどないのだから・・・

「斎藤一は、明治政府から寝返った。この土地の、反政府勢力に加わったよ。」
明飛のその言葉に克浩は我に帰った。あの男が、明治政府を裏切った・・・?体を彼から離し、その
顔を見上げる。
「斎藤が・・・?」
「そう。彼が。」
克浩は黙った。あの斎藤が、寝返った・・・?いったい、何が起っているのだろう?
「何故、彼が?」
「私にも詳しいことはわからない。何か話を聞いたら、教えてあげるよ。」
彼は斎藤の面影を脳裏に浮かべ、俯いた。
'斎藤。そうだ、彼は、俺をいいように扱い、その挙げ句に・・・'
「もし、あなたが斎藤に会えたら・・・伝言を頼んでいいですか?」
「もちろんだよ。」
「斎藤に、俺から、よろしくと。」
「わかった。確かに伝えるよ、克浩。」
明飛は、克浩を抱きしめた。
'俺は・・・馬鹿なことをしているのだろうな、きっと。'
克浩は彼にすがり付きながら、自分が涙ぐんでいるのに気が付いた。

ー*ー

懐かしい顔だった。あのときから歳月がたち、その時間が彼の顔に皺を刻み付け、片目を失わせて
はいたが、それはまぎれもなく彼だった。斎藤は、自分があの昔の時間の自分に戻ったような気が
した。あの若く、自分で自分を押さえ付けていないと考えるより先に行動に走りたがるような自分。
心から彼を敬愛していた。あの斎藤自身の意思で袂を分かち、わかれるまで彼を盲目的に崇拝し
てさえいた。
「土方さん。」
「久しぶりだな、斎藤。」
斎藤は彼に近づくと、その手を取った。彼は斎藤を抱擁した。彼は斎藤とほとんど変わらないぐらい
に背が高い。
「生きて会えるなんて・・・夢の、ようだ。」
もちろん、斎藤はずっと以前から話には聞いていた。彼が生きていてこの北の地で明治政府への
反政府運動を行っている。だが最初は噂の域を越えなかった。本当にそれが彼本人であるという
確証がなかった。そしてどうやらそれが本当であると確かな情報が入り始め・・・斎藤は内心穏や
かではない気持になった。彼と敵対したくはなかった。彼を敬愛するだけでなく、あの幾多の死線
や危機をともに潜り抜けてきた、魂を共有するような仲間としての感情はまだ斎藤のなかに生きて
いた。
「お前と会えて、嬉しいよ、斎藤。」
斎藤は、自分が早くもぐらつきそうになるのを感じた。理屈や理性の問題ではなかった。飢え渇い
たものが目の前の水に手を伸ばさなくてはいられないような、激烈な感情だった。

"斎藤君、私は、自分の、無二の親友をこの手で葬った。自分の命と同じぐらい、大切な相手だった。"

大久保卿のその言葉が、斎藤の頭のなかで響く。
'辛かったのでしょう、大久保さん。身を斬られるような苦痛を・・・'

「・・・彼らは権力を自分達の中枢に集中させ、地方を無視し、人々を弾圧し、不平の矛先を、他国
を侵略することでかわそうとさえしていた。そうやって権力を握った先には、汚職が横行し、政治家
個人の利益というやつがすべてにおいての優先事項となっている。連中にあるのは理念などでは
なく、私腹を肥やすための汚い欲望だけだ。これがあの夥しい血の犠牲の上に築かれた、明治維
新の正体だった。」
「それが、君が彼らを見きろうとする理由か?」
土方が斎藤に聞いた。斎藤が頷く。
「俺は、いや俺達は、ここに俺達自身の国をつくるのさ。民主主義の下、平等に、身分を問わず、
市民が国の一部を担うような国をね。いや、身分も何もない、本人の能力いかんでのし上がってい
けるような国だ。」
その言葉に、斎藤は、あの幕末の時代を思い出した。'彼ら'はそうやってのし上がって行くことを夢
見、時代の波のなかへ儚くのみ込まれていった。
「これは俺達の散っていった仲間達への、供養でもある。」
斎藤の心情を見透かしでもしたように、土方が言った。
'それが、あなたの今の夢か、土方さん。そして俺はその夢を・・・'
斎藤の表情には、なんの変化もなかった。だが、ほんの少し、その眼の色が曇った。だが、それに
気が付く人間などいない。

「機は、熟している。」
斎藤を前に、土方は言った。
「明治政府は、あの西南戦争からまだ立ち直っていない。あの時やったような物量作戦はもうとれま
い。それに、この地の冬の天候は進軍してくる連中を疲弊させるのに都合がいい。それだけでも戦
力がかなり落ちる。戊辰では敗退したが・・・あの時俺は、山ほどいろいろなことを学んださ。それが
こんな形で役に立とうとはね。今度は、連中もあの時のようにはいかない。」
「では、もうすぐ・・・?」
「ああ、どうせ明治政府の方も、このぐらいの情報は掴んでいるだろう?連中の犬を、いままで幾人と
なく始末しなくてはならなかった。」
彼は斎藤をじっと見た。
「彼らは、俺達のことをどこまで掴んでいるんだ?」

ー*ー

"西郷、西郷、ああ、なんてことを・・・!"
"この国のためだ、大久保、何故お前にはそのことがわからん。"
"違う、それは違う、この国のためじゃない、お前は薩摩のためにそれをやったのだろう。"
"そうだ、薩摩のため、引いてはこの国のためだ。"
"詭弁はよせ、お前は何もかもわかった上で・・・"
"お前は、なにもわかっとらんのだ。"
"わかっているさ、あの男は、これからもこの国のために必要な男だった。俺達にも必要'だった'男
だ。あの男がいなければ、今の私たちもなかった。それをお前は邪魔になったからといって・・・殺
したんだ!"

大久保利通は、自分の寝室で目を覚ました。夢のなかで最後に叫んだ自分の声の木霊が、余韻
みたいに残っている。纏い付くような汗で肌が湿っていた。部屋のなかは暗かったが、どうやらもう、
いつもの起きる時間に近いらしかった。夢のなかで感じていた過去の激しい感情が、余韻を引い
て彼のなかに残っていた。幾度となく、繰り返し見る夢だった。過去の、彼との楽しかった思いで
はもはや夢にはでてこない。見るのは苦しい記憶だけだ。
あの親友の夢を見たのは久しぶりだった。ずっと以前に袂を分かち、敵対しても彼はその親友を
慕っていた。彼が死んだ時は三日の間、食事が喉を通らなかった。
彼は暫くぼんやりと天井を眺めていたが、やがてゆっくりと上半身を夜具の上に起こす。そうやって
彼はそのままじっとしていた。
'西郷、お互い道を違えても、そして私がお前のやり方について行けなくなった後でさえ・・・お前は
私の支えだった。誰よりも大切な相手だったんだ。そして私は、そのお前を自分の手で葬った。'
彼は目を閉じ、右手を額に当てるとそれを押し付けた。
'西郷・・・私は、孤独だ。お前が死んでしまってからずっと。'

大久保利通が斎藤一を彼の執務室に呼んだあの日のことを、彼は内務省に向かう馬車のなかで
思い出す。窓の外を、ぼんやりと眺めた。曇天に太陽を遮られた朝の風景が、彼の視界にはいる。
あの時、川路を通して、彼が直接面会したいと斎藤を呼び出したことに斎藤は怪訝に思いながら
出掛けていった。こんなことは異例のことだった。斎藤は以前から仕事がらみで内務省に出入りは
している。だが、何故大久保卿がわざわざ彼を個人的に呼び出す必要があるのだろう?仕事のこと
なら、川路を通せばそれで済む筈だ。
斎藤が時間通りに彼の執務室にやってくると彼は斎藤を座らせ、自分もその前に座ると斎藤をじっ
と見ながら話を始める。
「報告書は目を通してくれたかね。」
「はい、すべて読んであります。」
「君に、頼みがある。」
少しの沈黙の後に、斎藤が答える。
「なんでしょうか?」
「彼らと関わる任務についてくれないか。これは、君にしかできないことだ。」
「それは、命令ですか?」
「命令、ではない。これは私から君への頼みだ。」
斎藤は、黙った。彼は立ち上がると、窓の方へ歩いていって立ち止まり、斎藤を見て、そして報告
書のなかにあった話と一部重複するがといって彼の口から概略をかいつまんで述べた。彼は話し
続ける。
「幕末以来の混乱で、この国は疲弊している。西南戦争で最後の力を使い果たした感がある。そ
の後の志々雄一派の反乱でも幾ばくか消耗した。もう、大掛かりな反乱を押さえるだけの体力が、
この国にはない。」
大久保卿が言葉を切り、二人とも互いをじっと見ている。
「私は、彼らの理念や理想をけなすつもりはない。素晴らしいとさえ思っている。だが、彼らが理想
とする国家を建設するには、この国は近代国家としてあまりにも幼い。物事にはすべて土台という
ものが必要だ。先に整備し整えなくてはならないことがこの国には山積みしている。この国を崩壊
させないために、なんとかして切り崩しは避けなくてはならないのだよ。」
大久保卿は視線を落とすと、再び斎藤を見た。
「だから、君の力が必要なんだ。たのむ、この任務、引き受けてくれ。」
「あなたは、俺に彼、この首謀者を暗殺しろと言っているのでしょうか?」
大久保卿は黙って斎藤を見た。悲痛な眼だった。
「その、通りだ。酷い話だとはわかっている。私を鬼だと罵りたければそうしてくれ。しかし、何があっ
ても、今、この国はそれが必要なのだよ。」
斎藤は、しばし黙った。
「俺は・・・」

斎藤の帰り際、大久保卿は彼の後ろ姿に声をかけた。
「斎藤君。」
「なんでしょうか?」
斎藤は彼を振り返った。
「今朝、私は夢を見たんだ。私の、私がこの手で葬った親友の夢だった。竹馬の友だったんだよ。
幼いころから、ずっと一緒に育った・・・」

ー*ー

その男と対峙したとき、斎藤は不穏なものさえ感じた。長い間死線を潜り抜けてきた中で身に付け
たカンのようなものだった。見ただけで、武人ではないとわかる。握手のために差し出された手は
柔らかく、しなやかだった。物言いは穏やかで、しっかりとしていて、だが決してそれを衒ったりしな
い知性と教養がその背後にある。向けられる顔は絶えず穏やかな微笑みを浮かべていた。彼を見
たものにその感想を求めると必ず、感じの良い、という答えが帰ってくるだろう。そして彼の正体を
知ったものは例外なく驚くのではないか?
「はじめまして。私は、明飛と申します。お会いできて光栄です。」
そう言って微笑む彼に、斎藤はたいした男だ。役者になれる、と、思った。斎藤に山ほど恨みを抱
えているだろうに、いっさいの感情が、その顔の皮膚一枚の下に完璧に隠しきられている。眼の色
にさえ、それがでていない。この男が雪代縁の組織の外交面をすべて取り仕切っている事は以前
から知っている。大事な取引の前には必ずこの男がまず雪代縁の代理人として登場する。縁の不
在の間、ずっと彼の代理を勤め、黒星を暗殺し、そして・・・斎藤も彼に笑いかけた。
「はじめまして。私は、藤田五郎と申します。」
「御高名はかねがね。土方さんの右腕でいらっしゃるとか。」
「そんなたいそうなものではありません。」
反政府組織は、武器弾薬の取引のみならず、情報を彼らから取り入れることもしている。その見返り
は金だけではない。独立したあかつきの貿易の利権や、取引だった。そうしてでも、彼らはその情
報が必要だった。彼らを後押しする外国勢は、都合の悪いことは決して漏らそうとはしない。だが縁
側とてどこまで信用していいのかわからない。それに、後のために、こちらの弱みは最小限に押さえ
ておかなくてはならない。
斎藤は、その対応役の一人に入ることを買ってでた。
「ご謙遜を。土方さんは、あなたをどこまでも信用していらっしゃる。」
'そう、こんな短い間に、あなたにこんな大役の一端をまかせるのですから。'
明飛はビジネスに話を移行した。
時間が経ち、話し合いが細部まで終わると、明飛は斎藤や、同席している人々ににこやかに別れの
挨拶を告げ、待たせておいた馬車に護衛とともに戻る。その入り口に立っている斎藤の手を、明飛
はすっと掴んでひいた。中に身を乗り出す斎藤に、彼は唇を耳元によせて囁いた。
「あの子は元気ですよ。あなたによろしく伝えるよう、頼まれました。」
突然の言葉だった。明飛が体を少し離して、二人は至近距離でお互いを見た。斎藤は明飛を鋭く
見た。何かを言おうとした斎藤を制して、彼は言葉を続けた。
「この事を、あなたの仲間に知られるのは得策ではないと思いますが。」
斎藤は黙った。彼が何を言おうと、彼の身内だった男が縁に捕らわれているという事は弱みを握られ
ていることと見なされるだけだ。下手をすれば任務に支障をきたしかねない。
「なんの、ことだ?」
「毛皮を切り取られた、かわいい兎のことです。」
「それで、俺を脅しているつもりか?」
「とんでもありませんよ。あなたとは是非、これから御昵懇に願いたいものです。」
斎藤は彼の顔を黙って見つめた。凄みのある斎藤の態度に、明飛は少しもひるまず、なにもその態
度を崩さなかった。
「これから、お互い長いお付きあいになりそうですから。」

「何を、彼と話していたんだ、斎藤?」
歩きながら土方は横にいる斎藤に言った。
「・・・いや、その、あんな男だから・・・」
土方はその言葉に笑った。
「お前、趣味が変わったな。明日も会えるさ。楽しみにしてろよ。」

ー*ー

克浩は、疼くような気持で部屋で寝台の上に横たわっていた。明飛がこの屋敷に帰ってきている。
おそらくまずは縁の所へ報告へ行っているのだろう。早く、彼に会いたかった。いや、正直に言え
ば彼は斎藤のことが聞きたかった。寝台の上、時刻がとりわけゆっくりと過ぎて行くような気がする。
克宏は横たわりながら布団を抱きしめた。
一刻は過ぎただろう。克宏の部屋へ、彼が姿を現した。克浩が立ち上がるより先に、彼は克浩によ
ってきて寝台の上に腰を下ろした。
「元気だったかい、克浩?」
「ええ、あなたも道中無事で良かった。」
克宏は彼に抱きついた。彼もそれを受け止め、抱きしめかえす。
「斎藤と、会ったの?」
明飛は、沈黙で少し間を置いた。
「ああ、会ってきたよ。」
明飛のその言葉に、克宏は目を開け、身を固くした。
「君からよろしくと、伝えておいた。」
「あの人は、元気だった?」
「ああ、とても。」
「彼と、何を話したの・・・?」
「仕事の話だよ。」
克浩は、黙った。聞きたくて、でもどうしても自分から言い出せずにいることがある。明飛は黙って
克浩を見つめている。克浩はすでに悟っていた。'このこと'を、口に出してはいけない。彼が自分
からそれを口にしないという事は、結果がわかっているのではないか?だめだ、それをやってはいけ
ない・・・
だが、彼は、もう自分を押し止めることができなかった。小鳥を追い掛ける猫のように、自分を押さえ
ることができない。声を出すために、口を開いた。
「彼は、俺には何も・・・?」
明飛は黙った。克浩はその沈黙の意味を悟った。その目に、少しずつ涙があふれ始める。
克浩は両手で明飛の袖を掴み、強く握り締めた。その手が、微かに震えている。
「あ・・・ああ・・・」
克浩の頬から顎へと、涙が伝わり、滴り落ちる。彼は唇を動かし、声にならない声で呻いた。
'俺は、本当に見捨てられた。'
「克浩・・・」
明飛が克浩を、慈しむように抱きしめる腕に力を入れた。克浩は彼にしがみつき、呻くように、泣い
た。激しい感情が突き上げ、克宏はそれに泣き叫びたかった。だが、その感情は、まるで出口を恐
ろしく狭められているかのように、苦しく、放出できず、形にならなかった。
'そうだ、最初から、あの男は俺などどうでもよかった。俺なんか、どうでもよかったんだ!'
克浩は、そう、叫び出したかった。だが喉から絞り出される音は声にならない。泣きわめきたくて、で
もそうすることができなかった。
'そうだ、俺はそれを知っていて、でも心のどこかでそれをどうしても認めたくなくて、わかっていなが
ら俺は一縷の望みというやつを今まで持ち続けていたんだ。俺は、馬鹿だ。'
「克浩。」
'そして、それでも俺はあの男を・・・!'
克浩は激しい息を肩と胸でつきながら体を離した。明飛をすがるように見上げ、顔を彼の肩に埋める
と彼の服の胸元を手探りで開き始めた。
「克浩。」
その手を、明飛の手が包んだ。
「私は君を慰めることはできない。」
その言葉に、克浩は動きを止めて顔を離すと彼を見上げた。涙を流しながら、唇は引き締められてい
る。
「俺は・・・一夜の慰み者にされる価値もないんだな。」
「違う。たとえそれが私でも、誰か他の者が君に触れると縁が怒り狂うから。私は、自分の友人を悲し
ませるようなことは、できないよ。」
「縁が・・・?」
「そう、縁が怒るよ。」
克浩はすこし黙った。
「そんなの、嘘だ。」
「嘘だと思うなら、誰かを誘惑してみるんだな。縁は、その相手を殺してしまうよ。」
克浩は、少し呆然として明飛を見つめた。あの縁が?
「それと、斎藤一のこの件は、縁には黙っていなさい。私も彼には何も話していない。」
「何故?」
「そうしたほうがいいからだよ。」
「縁が、それを聞いて嫌がるとでも?」
「違う。これは縁のためじゃない。君のためだ。」
明飛は克浩の顎の下に片手をおいた。
「君は、自分の価値を知らない。」
克浩の顔に触れさせた手で、その顔を軽く、ゆっくりと撫でる。
「そのうち、いやでもわかるようになるさ。」
耳元に彼が唇をよせ、そう、柔らかく囁かれ、抱きしめられると、克浩は体の芯に何かの麻薬を注が
れたような陶然とした気持になった。
「縁があれだけ君を毎晩愛していても、君はまだそれを楽しめていないだろう?」
克浩は、朦朧とした頭で頷いた。なんだか彼には逆らえなかった。これが他の誰かからされた質問
だったとしたら、克浩はそれをただ無視しただけだっだろう。たとえ相手にそういう気がなくとも、屈
辱さえ感じたかも知れない。だが彼のその言葉は自然で、克浩はまるでお茶の嗜好を聞かれたぐ
らいにしか感じなかった。
彼と肌を触れさせているのは、何か麝香を隠し持ち、柔らかい毛皮を持つ、暖かい獣と素肌を合わ
せているような、そんな心地好さがあった。彼が体を離し、再び克浩を見たとき、彼は克浩の見たこ
とのない顔になっていた。人をその中に引きずり込み、蠱惑する顔だった。その彼から克浩は眼を
離せず、黙って彼を見つめた。彼に触れられている部分に、痺れを伴った甘い感覚が、克浩の肉
体を包むようにように残る。
「教えてあげるよ。」
明飛はそう、言って、笑った。手を、克浩の衣服にかけて、なめらかな手つきでそれらをはがし、克
浩の肌をあらわにしていく。衣類をすべて取り去ってしまうと、彼は克浩を仰向けに横たわらせた。
克浩は黙って去れるがままになった。明飛が指を彼の体にのばし、その肌の上に滑らせて行く。い
つものマッサージとは違う動きだった。それは、愛情の行為に近かった。彼の指が克浩の肌の上を
滑り、感じやすい部分を避けて通り、更に離れたところから微かに振動を伝えさせる。触れられた
部分からあの心地好い感覚が、熱気のように克浩を包んで行く。克浩は、喘ぎそうになりながらぼん
やりと彼を見上げた。彼も克浩を見下ろす。しかし彼の目には欲望の色がない。克浩は、彼に手を
伸ばした。彼に口付けられ、抱きしめて欲しかった。しかし彼はその克浩の手をとると、克浩の頬に
軽く自分の唇を触れさせただけで自分の体を離した。
「うつ伏せになりなさい。」
克浩は不満に、すがるように彼を見たが、その言葉に従い、体を返し、うつ伏せになった。
「快楽の前で、自分を取り繕う必要などない。自分で自分を不自由に縛り付けるなど、馬鹿げたこ
とだ。」
明飛が体をかがめ、克浩の耳元で囁くようにいった。
彼のしなやかな指が克浩の唇に当てられた。そして滑り込むように口腔へ入ってくる。克浩は舌で
それを撫ぜた。すぐにそれが引き抜かれると、背中の皮膚を微かに触れるようにして滑り、下へ降
りて行くと体の入り口にあてられ、入り込んでくる。克浩は首を仰け反らせ、呻いた。
「体の力を抜いて。」
克浩はおとなしく彼の言葉にしたがった。彼の指先が、克浩のなかで曲げられ、蠢かされ、克浩は
呻いた。もう一つの、あの快楽とは違う、強くはない、だが深くじわじわと攻め寄ってくるような感覚
に、克浩は攻め立てられ、徐々にその波のなかにのみ込まれていく。
「私の前で、自分の本性をさらけ出してごらん。」
何か得たいの知れないものが克浩のなかで膨らみ、彼の存在を犯していくようで、克浩はそれに
身震いした。蠢く克浩の背中に、明飛は自分の片手をおいて慈しむように撫でた。
克浩の喉から、声が迸りでる。止められなかった。徐々に昇り詰めていくような感覚が彼を覆いつく
し、その感覚を更に自分のなかに飲み込もうと、自分からすすんで体を開き、蠢いた。
それが頂点に達したとき、克浩は呻きながら、泣いていた。他のことはもうどうでも良かった。叫び声
をあげ、顔をシーツに押し付けた。
その波が引いたとき、余韻のなかで啜り泣いている克浩に耳をよせると、明飛は囁いた。
「知っておきなさい。君はそのため息一つだけで、他の男の命を奪わせることができる。」
その言葉は、甘い毒のように克浩のなかに流れ込んだ。
「 ためしてごらん。」
克宏は、微かに頷いた。明飛は、笑った。
「私の克浩。」
'君は、あの男の傍にいるべきじゃない。君とあの男はいつか・・・破滅するまでお互いを食らい尽くし
てしまうよ。'
「明飛。」
「なんだい、克浩?」
「矢野に会わせて。」
克宏は横たわったまま、身動きせずに言った。
「俺の背中のこの墨を、完成させて。」
「わかった。君がもう少し回復したら、彼を呼ぼう。いいね?」
明飛は克浩の顔にかかる髪をそっと撫でるようにかきあげ、頬に軽く口づけると部屋を出ていった。
克浩は、ただじっとして寝台に横たわっていた。体のなかに欲望の燠火が燻り、疼くような熱を持
って克浩を苦しめた。砂漠のなかで渇いているようだった。もう一度、あの感覚を燃え立たせ、気の
すむまで味わってみたい。
彼は仰向けになり、暫く寝台の天蓋を眺めた。右手を持ちあげ、その指を口に含むと、それを舌先
で舐め回した。そしてそれを引き抜くとゆっくりと脚の間に持っていく。脚を開いて膝を立て、中指
で入り口を探り当てると、徐々に、それを自分のなかに沈めていった。唇を開き、左手で顔を覆うと、
眼をつぶった。自分で自分のなかを掻き回しながら頭をゆっくりと動かす。
「あ・・・」
小さな声がその唇から漏れた。掌を強く自分の顔に押し付けてから離し、彼は目を開けた。克浩は
動きを止めて硬直した。寝台の脇に、いつのまに入ってきたのか縁が立って彼を見下ろしていた。
面白そうに、笑っている。
「続けろ。」
縁はそう言うと、寝台に腰を下ろした。克浩は少し躊躇い、視線をそらすと脚を閉じ、続きを始めた。
「脚を開いて、やっているところを見せろよ。」
縁はそう言って手を克浩の脚にかけた。克浩はそれに従い、眼を閉じると脚をゆっくりと開いた。そ
して顔をそむけると再度、指を動かし始める。縁をまともに見ることができなかった。だが彼は、快楽
に甘えるような声さえ漏らした。誘うような声だった。
縁は暫く黙って満足そうにそれを見物していたが、やがて上体を倒して克浩の上にかがみ込んだ。
縁が彼の肩を掴み、口付けると彼はその両手を縁の首と頭に回した。唇を開き、縁の舌を待ち受け、
それが入ってくると自分の舌を絡ませた。克浩の手が縁の肌を服の上からまさぐった。縁が克浩の
手を掴んで自分のに誘導すると、克浩はおとなしくそれに従い、縁を布地の上から撫で回す。縁は
体を離すと、服を脱いで仰向けに横たわった。
「俺の上に乗って、自分で入れてみろ。」
克浩は熱に浮かされたように彼の上に脚を開いて跨ると、彼を手にとって自分のなかに誘導した。
腰を下ろし、自分のなかに飲み込み、体を蠢かし、頭を後ろに反らせた。髪が、自分の背中に柔ら
かく触れて、撫でる。克浩は体を動かしながら声を上げた。
そこにあったのは、純粋な欲望だった。混ざり気のない、滴り落ちる蜜のように、それは克浩に絡み、
覆い尽くしていった。
縁に体を掴まれ、彼の体の下に組み敷かれると、克浩は彼の背中に両手を回した。縁が体をすり付
けて愛撫してくるだけで、なかなか続きを行わないもどかしさに、自分からすすんで彼を受け入れよ
うとする。縁をつかんで、自分にあてがった。だが縁は上半身を離し、克浩の陶然とした顔を見下ろ
した。
「この、恥知らずが。」
そう言いながら、その顔は楽しそうに笑っている。
「早く、来てくれよ。」
縁はその克浩のうわずったような言葉に声を立てて笑うと体を沈め、彼のなかに入っていった。克浩
はそれに悲鳴のような絡み付く声を上げる。縁は体を倒し、克浩の肌に自分の体を密着させた。
縁はこうしても克浩の体に自分の体重をほとんどかけない。彼に唇を塞がれながら、克浩はあの斎藤
の、自分の体にのし掛かるときに容赦無く彼の体を体重とともに押し付けるやり方を思い出した。克
浩はそれに息苦しささえ感じたものだった。
'斎藤。'
克浩は目を閉じ、あの男とのすべてを、細部まで思い出す。煙草の匂い、自分を押さえ付ける手の
強い力、制服のラシャ地の固く冷たい感触・・・
克浩は気が狂ったように体を激しく動かし、唇から呻き声を漏らした。
'斎藤。'
克浩はこのおぼえたばかりの快楽に自分をたゆたわせ、縁をその中に捕らえた。だが彼の脳裏に
浮かんでいるのは、あの自分を見捨てた男の姿だった。
'斎藤、お前は、俺を・・・'
克浩はその高まりの頂点のなかで、悲鳴を上げた。彼は我を失い、縁が最後の段階に差し掛かっ
た瞬間、彼はその口から他の男の名を、叫んだ。
「斎藤・・・ああ、斎藤!」
縁は体を硬直させ、自分の脈動を克浩のなかに感じながらその叫ばれる名を聞いた。それが終わ
ると彼は体を離して座り込み、ぐったりとして身動きせずに横たわった克浩を無言で見下ろした。
冷たい怒りで満ちた鋭い眼で、克浩を見つめる。

すべてが静まり返った中、克浩は目を覚ました。部屋の灯りは消えていて、隣りに縁が横たわり、
寝息を立てている。彼はそっと起き上がり、静かに寝台を抜け出した。寝台に投げ出されていた自
分の衣類を肩にかける。中庭に面した大窓に近寄り、カーテンを少し開いて外を見た。凍てつくよ
うな空気の空に満月がかかっていた。その冴え冴えとした光に照され、外の世界は蒼く輝いている。
暖炉の火はもうすっかり消えていて、薄手の物を一枚肩にかけただけでは寒すぎたが、克浩はそ
のまま布団には戻ろうとはせず、じっと外を眺めていた。
「何を、見ている。」
突然のその声に、克浩は振り向いた。縁が上半身を起こし、薄い暗がりのなかで克浩を見つめてい
た。
「月を。」
克浩は答え、淡い月の光の中で、笑った。体を縁の方に向け、窓を背にして立つ。そしてじっと立っ
て縁を見つめたまま、動こうとはしない。縁は寝台から降りると、克浩の方へ歩いていった。彼の前
に来て立ち止まる。少しの間、彼らはお互いを見つめあった。縁が、口を開く。
「では、何を考えていた。」
「何も。」
「嘘ダ。」
二人の間に、沈黙が流れた。縁は、忌々しそうにじっと克浩を見ている。
克浩は、微かに、微笑んだ。身を、縁に投げ出し、彼にすがり付く。その克浩の様子に少し戸惑っ
ている縁に我が身をすり付けながら、克浩は陶酔するように呟いた。
「斎藤、一。」
克浩は、ゆっくりと、その名を舌先で味わうように呟いた。甘い、声だった。その呟かれた名に、縁の
眼が薄暗がりのなかで猫のように光る。
「殺して。」
まるで幼い少女が、自分に恋する男の愛情を弄ぶために難題を吹っ掛けているような、そんな無垢
さを装った媚びを含む声で克浩は言った。克浩は、縁の体に回した手に力を込めた。
「あの男を、殺してくれよ。」

'愛してるよ、気狂いみたいに。どうしようもないほど。俺はお前を愛してる
んだ、斎藤。'

縁は何も答えず、じっと克浩を受け止めている。
縁の胸に押し付けられた克浩の顔は、うっすらと笑っていた。