歌う貝

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 群集の吐き出すいきれから逃げるように、宴の喧騒からひとすじ逃れ出るように、エルフは息を弾ませ、ただひたすらに駆けていた。一散に、輝く銀の髪はたなびいて後ろへ流れ、流星の地をゆくような幻視の様を思わせた。彼は磨かれた石の床を突っ切り、壮麗な大階段を長い衣の裾をからげて登った。ドリアスでは、めったに見られぬありうべからざる恐慌だった。彼は水が滑るように歩くエルフのはずだった。
 小さな白皙の顔が少なからず紅潮していた。彼が置き去りにしてきた宴のさざめき、笑い声、楽の音などが石の天井を伝って嘲笑うように反響してきた。逃げられぬ――遠くへ、もっと遠くへ、外へ出ることのあまりない足は衣に絡んで、がくりと膝を折った。忙しい息が吐き出された。身の丈に余る銀髪の留め飾りは重みで流れを堰き止められず、垂れるにしたがって前へなだれ、いくつも外れて落ちた。それらが石を叩く軽い金属音が鈴の音のように、あたりへ広がり、それすらも彼を怯えさせた。
 大階段を上りきったあとの広い四辻だった。彼は一方の壁にもたれかかり、額からずり落ちかけていた銀の環を脱ぎ捨て、床に置いた。いよいよ髪はもつれ、蓬髪の体をなしたが彼にとってはどうでもよいことだった。ここは無人の境である。ドリアスの殆どのエルフは先刻居た宴に出ている。彼は打ち上げられた魚のようにぐったりしつつ、その眼は恐怖と戸惑いで半ば像を結んでいなかった。であるから、四辻のもうひとつの角からエルフの集団が歩んでくるのに、気づかないのも無理はなかった。そのエルフたちはことさら静かに歩む。――
「ダイロン!」
 鋭い音楽のような声へ、彼は打たれたように身を震わせた。同時にすばやく立ち上がり、ひらりと別の辻へ逃げ込む、それを一挙動でやってのけた。しかし鋼のごとく強い手が、一瞬早く、金鞭のしなやかさでダイロンの腕を掴んでいた。ドリアスの伶人はあっけなく引き戻された。
「その姿――何をしている?」
 掴んで問うたのは、氷のような淡青のきついまなざしだった。白金の髪を持つエルフ、ひとむれの中でも際立って目立つ刃の美貌、王の相談役のサイロス、そのひとだった。ダイロンの歌の友だった。彼は一部の隙もなく身を纏い、他のエルフも同様にしていた。おそらくこれから遅れて宴へ向かうのだろう。
「如何なされた」
「宴で争いごとでも?」
「そうだ。争いごとだ。そうして逃げてきた。大したことはない」
 周囲の眼から、そして真っ向を射抜く蒼の眼から、逃れるようにダイロンは身をよじらせた。掴まれた腕は動かない。ぐるりを取り囲むエルフは護るがごとくに位置を固めた。
「離してくれ。何でもない。自室へ帰りたい。サイロス」
 顔にも似合わぬ強い力の、優雅に苛烈に政ごとをするエルフ。――サイロスは、揺るがぬ視線を注いだまま、ダイロンの腕を離さずに床へ身をかがめた。銀環を拾い、そのきらめきを一振りすると、下知を受けたようにエルフ達が一斉にしりぞく。ドリアスの枢要たる彼が、このような倣岸な挙措に出るのはいつものことだった。側にいるエルフは、常に彼の眉根を読んでいる。
「離せ」
「少々、場を外す。おのおの方、先へ」
 承知した、と口々に囁いてエルフの一団は去って行った。後にはサイロスとダイロンと、繋がった二人の影のみ残された。二人がともにしばらくの間は無言だった。やがて水晶の放つ光に照らされて、サイロスが掴んだ腕をそのままに歩み始めた。伶人のはかなさで、ダイロンは抗いつつもあえかに引きずられてゆく。いくつもの淡い陰影が、回廊のあちこちに傾いて流れていた。ゆるい段を降り、彫りの見事な柱列を抜け、辿り着いたのは他ならぬサイロス自身の部屋だった。部屋と回廊とをへだてる綴れ織りを巻き上げ、薄布を垂らした入り口でダイロンは呟いた。
「私は帰る」
「喋りたくはないのならば」
 サイロスが口を開くと、磁力のようなねつい強さがあった。
「私は構わぬ。だが、この手は離さぬぞ」
「貴方に何がわかる」
「察しているつもりだが」
 銀環を持つ左手の人差し指で、避ける間を与えずに伶人の唇に触れた。途端に氷に焼かれたごとく飛びすさり、逃げようとするのを無理強いに部屋へ放り込み、躯で蓋をした。
「唇を、か」
「些細なからかいごとだ」
「何故、かように取り乱す?」
 部屋というよりは自然の形を残した洞のような、穿った鑿のあとをわざと削らぬ房だった。それは行き届かぬのではなくドリアスのエルフの好みである。メネグロス全体が、一種荒々しい荘厳な自然の伽藍だった。回廊には鍾乳石が垂れ、壁には水晶の花が咲き出でて明かりに光っていた。ダイロンの部屋などは、掘っているうちに出てきた水晶の結晶体を壁一面に残してある。明かりを点けると、それらが月下の渓流の波のようにきらきらと輝くのだった。それでも、床のみは滑らかに仕上げるようドワーフへ彼らは命じていた。椅子もなく、床の上へ薄い織りの布を幾重も敷き広げ、そこへあてものをして座ったり、半身をくつろがせたりするのが彼らのやり方だった。今も、ダイロンは敷物の上へ力なく打ち臥していた。
「何があった」
 サイロスは口調を和らげる。すると衆目の前での鞭打つような調子とは別の、柔らかな温かみが声音に満ちた。オスシリアンド、歌う川の国の出自を持つナンドオルは、その声に持つ魔力でダイロンを落ち着かせようとしていた。怯えた鳥のように上下していた肩が、眼に見えて収まってゆく。
 距離をとり、シンゴル王の相談役は立ったままそれを見下ろした。けぶるような瞼のあたり、弧を描く細い金の眉に動かぬ典雅さがあった。否、――否とダイロンならば云うであろう。この二人は互いが互いの表情を読むのに長けていた。
「黙っていては話にならぬ」
「…………」
「それにしても、シンゴル王の伶人の唇を盗むとは不届きな。到底置いてはおかれぬ叛逆だ」
「……彼は、そのようなつもりではなかった、決して」
「だが」
「悪い偶然だ。それと、酒――」
 ダイロンは低くうつ伏したまま語り始めた。
 今宵の宴は近年にないほど大きく華やかなものであった。名のある貴族や公子達が顔を並べ、全ドリアス中の星の光を集めたごとく、彼らは盃を交わして彼らの主を待ちわびていた。そこかしこで歌が聴かれ、竪琴の音が満ちた。だがそれもダイロンが座を占めるまでのことである。たちまち公子に取り巻かれ、伶人はひとくさり歌った。今一度、今一度と歌の所望が増えてゆくのへ、彼は咽喉をからさぬ程度に次々と歌った。諸侯の間を回る時、声のかからぬ暇はなく、シンゴル王の露払いも聞かれず、彼はだんだんに疲れ果てた。もとより蒲柳の質である。よい加減に切り上げて王の入来まで、休んでいようと声を振り切って広間の隅の小房へ身を隠した。そこへ手ごわくも追ってきた一人の貴族がいた。彼は若く、しかも酒に酔っていた。
「無体な話ではないか」
「彼とは見知り越しでもあったし、その竪琴には見るべきものがあったのだ。ともかく、私は、別段不快でもなかった。普通に話などをしておった。彼が、あれを取り出すまでは」
「あれ、とは?」
 ダイロンの眼の前をさらさらと衣の裾が横切り、優雅な手でふわりと捌かれて沈んだ。サイロスは近しく伶人の傍へ座ったのである。長い白金の髪が床一面の銀髪へ触れた。
 ダイロンも身を起こし、友と向かい合う形で座りなおしたが、その面はまだ俯いたままだった。しばし色の濃い沈黙が流れ、やがて伶人はかすかな溜息をついて、手を広袖の袂へ入れた。
「ファラスの浜辺に打ち上げられたものだ。今宵の宴の余興にと回されてきた」
 広い口を持った、欠けのない殻の巻貝だった。サイロスが手を出そうとしないので、ダイロンは当てが外れたようだった。
「持ち出すつもりはなかったが、袖に入っていた。貝は――歌う。知っているな?」
 サイロスはわずかに頷いた。
 時折ファラスから送られてくる珍しい品の中に、美しい巻貝の混じっていることがあった。それは海を知らないドリアス生まれの者にとって、格好の玩具だった。冷やりとする貝を耳に当て、心を澄ますと、風のような唸りの中にいまだ聴かぬ海鳴りが、鴎の声が聴かれるという。貝の囁きは若いエルフの憧れだった。岩室の中で生まれ育った彼らには恐れというものがなかった。
 サイロスも若いエルフであったが、その齢で相談役に登りつめた身としては、子供じみて浮かれた遊びに到底我慢がならなかった。彼はオスシリアンドを捨てて、戦から逃れてドリアスへ来たのであるから。この国から自分の思いを引きずり出すかも知れぬ歌に、耳を貸す気にはなれなかった。彼は狷介で通っていた。
「貴方は聴いたのか?」
 尋ねれば、ダイロンは必死の面持ちで首を振った。
「聴いてはおらぬ」
 髪が宙に舞うほどの強い拒絶の勢いだった。
「歌をなりわいとする身に、運命の足音が抗えぬ強さで迫ってくればと思うと恐ろしくて、聴いてはおらぬ」
「賢明だ」
「彼は、酒の勢いを借りずともいつになくはしゃいでいるように思えた。もともと陽気な質ではあったが。――ついに手に入れた、今宵この貝が我らにどんな歌を聴かせるのか、宴の肴ともしよう――そう云って、ひどく楽しげな様子で貝を眼の前の床に置いた。私はその時退出するべきだったかも知れぬ――貝の歌を聴いたものの末路を、避けてはいても、二、三の悲劇を知らなかったわけでもないから。だが、彼の顔は明るく疑いを知らぬように見えた。その若さに、私は気圧されてしまったのかも知れぬ。彼が無造作に貝をつかむまで、止める術を知らなかった」
「貴方のせいではあるまい」
「彼は酔って笑いながら、貝を耳に当てた。その酔いが醒めるのに時はかからなかった。顔色は青ざめ、衣をかき乱し、彼はその場へ身を投げ出すと泣き咽んで苦しんだ。私の衣の胸をつかむようにして、私に迫った。私にも聴けと」
「…………」
「心が二つに引き裂かれるようだ、と彼は言った。この痛みを分かち合って欲しい、と。私はあくまで拒んだ。恐ろしかった。訳がわからなかった。何故私なのか、と!ルシアン様に迫るのならばわかる。我らが王女を離れて海辺へゆけるわけがあるまい。しかし何故、私――聴けと同時に歌えと云った。恐ろしかった」
「ドリアスの時を、そのまま持ってゆこうとしたのだろう」
 サイロスは抑えた素っ気無い口調で云った。
「ドリアスの歌は貴方だ、ダイロン。貴方がドリアスだ。心を二つに裂かれた者には縋るよすがと見えたろう。貴方の歌があれば――海辺とドリアスを、思いの裡に二つながら収めることが出来る」
「サイロス、――彼の腕が――私を掴んで離さずに――」
「忘れろ。放っておくより他はない」
 長い白い指が銀髪に優しく触れた。厳然たる楔のような声音とは反対に、それは柔らかく髪を漉き、丸い小さな頭を撫でた。その手つきはあくまで穏やかだった。ダイロンはそれほど美しいエルフというわけではない。ただ、彼の儚げな目鼻立ちや、伏せがちにまたたく銀の睫毛が、己を失った者の眼にはある種の衝動を起こさせるのかもしれなかった。サイロスはひっそり笑った。
「それで、狂乱の果てに唇を?」
 指は髪を離れ、耳下をたどり頤を取った。伶人は素直にされるがままに顔を上げた。もうひとつの顔が近づき、唇が重なった。軽く触れ、吐息を交わすのみの口づけだった。
 顔が離れた時、ダイロンが云った。
「何故だろう――貴方とこうしていると、私はさのみ厭ではない」
「光栄だ」
「何故だろう――」
 それはいぶかり、不思議がる子供の表情だった。灰色の眼が見開かれ、素朴な疑問と途惑いを映していた。
「貴方は海へ呼ばれない、と云った」
「…………」
「海は自分を呼ばぬ、鴎の声も聴くことはないだろう、と」
「ああ」
「貴方が海へ呼ばれないのなら、私も聴くことはないだろうか――?……西へ、焦がれずとも済むだろうか?――」
「…………」
「貝は、私に歌わぬだろうか――?」
 けぶる蒼の瞳が静かに出迎えた。そこにあるのは安寧――そしてやすらかな情愛の色。ダイロンには不可思議にさえ思える、慈雨をたたえた湖だった。深い、底のない、優しい水は汲めども尽きず――しばし対峙し、やがて銀の睫毛が伏せられた。わななきながら絃弾く指が貝へ向かって伸ばされた。それが触れる、細かく震えながら触れようとする転瞬、ひとつの声がその間を切り裂いた。
「ダイロン殿」
 部屋の入り口、垂れ布を巻き上げるようにして、傍仕えのエルフの顔が明るく輝き、覗いていた。
「火急の際に失礼を致します。ここにいらせられましたか。宴に、我らが王のお成りにて――歌をお召しになっておいでです」
「すぐにゆく」
 応えたのはサイロスの方だった。
「シンゴル王の伶人はすぐにゆく。ダイロン、立ちませい」
「――私、は」
「参じるがよい」
 ぎくしゃくとうつろに戸惑う視線を、サイロスは受け止めて微笑んだ。
「疾く、参じるがよい。御前にて歌えばよしなしごとも散ろうよ」
「サイロス、」
「王命を待たせてはならぬ。私ならばここに居る」
 つと、衣の袖をさばく体で、彼は貝を拾い上げた。袖のうちに持ったまま、伶人へ手を伸べてやさしく立たせ、その髪を撫でつけてやった。身づくろいに手を貸そうとするエルフを眼で制し、銀の環をダイロンの額へ載せてやると、すぐ下の両頬を袖で包んだ。
「ここに居る。我が元へ帰れ、伶人よ」
 薄絹に囲われて白い顔が頷いた。それがみるみる名高い伝承家の矜持を帯びてゆくのへ、サイロスは眼を細め、励ますように笑いかけた。二人だけの無言の空間はもはや無かった。何度も振り返り、振り返り、ダイロンはエルフについて垂れ布をくぐった。回廊を衣擦れの音が遠ざかっていった。伶人が連れられてゆき、しんと静まり返った部屋の中に、ぽつりと呟き落とす声のみ低く流れた。
「ゆかせぬよ」
 彼は己でも気づかぬうちに、拳を強く握り締めていた。手の中で、貝は粉々に砕け、無残な破片と化してばらばらと床に落ちた。それにも気づかぬかのように、欠片が食い込み、手から血が流れているのさえ、一向に意に介した様子もなかった。彼はただ、とある一点のみをじっと見つめて、動かなかった。








シンダアルエルフはそもそも海に呼ばれないと思います。
「ある種の衝動」もエルフにはおそらくないでしょうね。すみません。
まあ、うちのサイロスとダイロンはこのような関係性だという見本のようなもので……おそろしく出来が悪いのですが、参考に思い切って載せました。