十時十分のかたちに足を開いて、腕を組んで、夜店にも警官が立つようになった。本来
なら規定の上で、姿勢は直立不動であるけれども、嗤い声のまじった賑やかさと、熱気の
うずまくこの空気では、固いことも云われないのかもしれない。
 よしずを張りめぐらして、四坪ほどを粗く囲った中に縁台を置いて、三人ほどが座ってい
て、そこから交替で立つか、あるいは警邏に出てゆく。かけならべた提灯の下に、嫌われて
いる警官も、つね日ごろの権威をふりすてて、泥鰌ひげがゆるんでいるように見える。ひと
しなみに上気した中に、ひとつ変わらない顔があって、それが斎藤だった。
「金魚、うーい」
 祭にはつきものの、金魚売りが声を上げて通ってゆく。天秤桶を担いだそれを、いったん
はよけて、津南はさりげなくあとから金魚売りの後ろをついて、子供らに混じった。歩きなが
ら、桶に目をやるふりをする。浅い木桶の中で、赤や黒の色彩がくるめいている。
 提灯の水に映った明かりがくだけて散る。津南はうつむいて、それに夢中なふりをする。
よしずの外に、安宅の関の門番みたいに立っている人影。長身の制服。長屋であの日、不
吉なしるしのように現れて、左之助を打ち倒したあの時から、津南の目に焼きついて離れ
なかった。耳が燃えるようで、津南は金魚売りに声をかけて、金魚玉をひとつ買いすらする。
口径の狭いぎやまんの壺に、持ち手を引っかけて、提げられるようにした金魚の容れ物。夢
中らしく明かりにかざして、透かしてみせる。彼我の距離二間足らず。
 削げた、鋭い顔つきの中の深沈たるまなざし。ひき結ばれた口。鋼のような目の色は、今
は隠されてしまって見えない。しかし津南は知っている。知っているから、目を合わさないで、
まっすぐ前を向いて通りすぎる。
 自分は祭を楽しみに来ているのだ。このとおり、子供の喜ぶようなものが好きなのだ。
 買って帰って、もてあますにしろ、本当にそれが楽しくて通っている。矢場を覗くのも、小
屋がけの見世物も、並んだよしず張りの食い物屋も、遠いお囃子、浮き立つようなとんび
の音色も好きだから通っている。道筋に提灯がともり、風が花火の硫黄の匂いを運んでくる
と、つい堪らなくなって出てしまう。今日も、きのうもその前も。周りのざわめき、物音のひとつ
ひとつが、はっきりと浮き出して聞こえ、雑多な人々の群れ、気配が集まってうわーんと唸
っているような響き。大道芸の掛け声。その芸に嗤う人、囃す人、手拍子をとり、野次から
戯れ歌にかわる。それらをつなぐ高調子の笛の音。
 前を行く人の足ばかりを見ている。いやにゆっくりと、のろのろ進んでいるような気がする。
何も起こらずに、粘つく地べたから足を引き剥がすような重さが急に軽くなって、今日も終
わるのだ。十間ほど通りすぎて、津南は熱でもあるかのように、冷たい硝子の玉を額に当
てる。



 夜道をゆく、壊れないように、前に突きだして持っている金魚玉がときおり光る。月が夜
空にあって、あたり一面青白い中で、金魚の容れ物はぎやまんでつくった、生きた炎の
提灯みたいだ。ひらひらと赤がくるめいて、浮かれた色彩がもの悲しい。
 堀にあけてしまおうか。それとも子供に呉れてやろうか。昂ぶった気持ちで、足早に歩い
てゆくと女子供の一団とすれちがった。
 帰る津南とは反対に、これから夜店へゆくのだろう。楽しげに囁いて、屈託のなさそうな
顔でそろって頭を下げた。近所の連中で、むこうは津南の顔を知っていて、津南は知らな
い、ということがよくある。会釈を返しながら、津南は面はゆくなった。
 祭の行き帰りどうし、楽しいですね、という思いがそこにはあった。だから彼らは、まったく
知らない人間にでも、ここですれちがったら会釈をするだろう。楽しげに、笑いながら。一団
の中に幼い少女がいて、津南の手にした祭の気配に目をとめた。津南はよっぽど、その少
女に声をかけて、金魚を渡してしまおうと思ったのだ。そのほうが、祭は祭でいられる。自分
のうすらみっともなさも救われる。
 だが、津南は無言で突っ立っていた。それも一瞬、少女はにこにことして、もう一度津南
に頭を下げると、前をゆく母親に追いついて、その腕にすがった。津南も自分の家路へと
歩きだした。



 長屋の明かりが見えるところまで来て、金魚玉を掲げてみる。祭の日には、とりわけ大勢
の人が集まる日には、いつもより落ちる魚を出すから、この金魚は生きないだろう。とりた
てて美しくもない。大事にされるわけでもない。
 津南は小さな絵草紙屋から、夏向きに団扇の絵を頼まれているのを思いだした。せめて
捨てずに、絵に描いてやろうと思う。そうすれば済む。何が済むのかわからないが。
 大事に手のひらで、包むようにして持ち帰った。そのすぐ後、それが無惨にこわれて散
らばり、土のうえに水と硝子が月光をとどめることを知らなかった。自分が履いている下駄
だけを、橋の上に残すことになるとも思わなかった。足音がひそやかに、ゆっくり近づいて
くることも。