「あんたは、よく判らないよ」
 この座敷へ入ってから、何度となく発したつぶやきが、自分にも疲れて諦念の響きに聞こ
えた。たしかに、疲れることをした。舌はだるくて、ろれつが回らなかった。床の間にまで使った
さくら紙が飛んでいるのを、拾い上げて屑籠へ入れながら、相手は振り返った。
「判らないとは?」
「全部だよ。あんたの神経から、正体から、やることなすこと、ここにこうして今いる俺とのこと、
全部だよ」
「どのように?」
 声が嗤っている。ひそんだ面白がるような響きと、おざなりに体裁を塗った同情と、いまの
声なら、津南はうっかりと襖を開けたりはしなかった。静かな風のように入ってきて、津南を
席巻し、あれよあれよというまに同衾まで持っていった。
 呆れたとも、感嘆ともつかぬまなざしを津南は送る。窓框の前に坐りこんで、立て膝をして、
うしろに寄りかかり、煙管をくゆらしているその顔は、はじめて年相応にみえる。
「喫むんだな」
「当たり前だろう。何だと思っている?」
 大仰に眉を上げ、しかめてみせてから、ふっと流れるように嗤いへ抜けた。
「………まったく、何だと思っているのかな」
 朴念仁だと思っていた、と津南は腹立たしく考えた。その言葉が、他の同居人や友人にも
向けられているかと思うと、奇妙な怒りが湧いてくる。
「………失望させないでくれよ」
「誰を?」
「左之をだ。あの年で、あんたを犬ころみたいに慕ってるんだ。抜刀斎をじゃなくて、剣心を
だよ。緋村さん」
「痛み入る」
 今度は明瞭に嗤いをふくんだ。津南はかっとして、思わず寝そべっていた姿勢から身を
起こした。ほどけた赤毛を、溜め息がわりにうち振って、後ろへさばいた童顔の剣客の笑み。
柔らかいとばかり思っていたそのふてぶてしさ、不敵さかげんに、気圧されながらも云いつ
のる。
「知っているだろう」
「何を?」
 だから、何を、とくすくす嗤いの語尾。この男は今日はずっと嗤っている。こんなふうに、抜刀
斎と呼ばれる時よりたちの悪い、投げやりな笑み、それも似合うのだと、津南は認めないわけ
にはゆかなかった。次々に現れる貌に、半ば惑乱しきっていた。
 しかし、今日のこれは、本当はとうに予期していたのかもしれない。いつだって、津南は剣
心の人となりに違和感を感じていた。女子供にとりまかれ、小突かれながらにこにことしている。
それが彼の安息なのだろうか。京洛の気に、一度だって触れた者が、その後も魂を呼ばれる
ことなくぬるま湯に浸かっていられるものだろうか。
 不思議なことに、あの内務省擾乱の夜、向けられたまなざしからは何も感じなかった。今、
目の前にいるこの男は確実に病んでいる。
(何だって―――)
「何、を?」
(何だって、俺に見せにくるんだ)
「知ってるだろう。あの、あんたがいるところの娘、あの道場の娘の腹が、いつふくれるか、角の
交番のやつら全員で賭けをしてる。左之助とあんたと、どっちが父親か、弥彦はもう男にして
やったのか、なんてのもある。もちろん向こう三軒両隣でもだ。つきあいがなくっても」
「知っているよ」
  あまりに軽い、気のなさそうな返事だった。
「あの娘はそんなことに気のつくたちではないよ。わざわざ、教えてやることもあるまい」
「けれど」
「拙者は断ったのだよ」
 人の悪い、にやにや嗤いが口辺から顔に広がった。
「拙者はちゃんとご辞退申し上げたよ。それでも望んで、みずから災厄を引き入れたのなら、
拙者のあずかり知るところではあるまい」
「………あんた」
「人だって、望んで斬ったのではないよ」
 いつのまにか、自分の腿に剣心の手が掛かっていて、津南はぎょっとする。軽く、しかしよど
みのない容赦もないすばやさで、ごく自然に、重さのないような体が乗りかかる。あくまでも急
がず、津南の力を利用して、剣心は悠然とその身を押さえこんだ。
「好きこのんで、何も人を斬ったわけではない。―――そんな云いぐさが、斬った者の身内に
すら通用するなどと思っているのだ」
 にがい、諦念にも似た、かわいた懺悔のつぶやき。
 舌と一緒に耳へ吹きこまれて、苦しそうだ、と一瞬思いかけた津南の情は消え去った。悪人
だ。こいつは、しようのない色悪だ。
「―――ああ、拙者はもっと、悪くならねばならんなあ―――」
 くすくすと、首筋を這う赤毛の頭から、悦に入ったような嗤いが洩れた。
「仇をさがして、長い長い彷徨のはてにみずからも手を汚し、立ち返れなくなってから、見つけ
た仇は改心していました、なんていうのは、滑稽ではないか、え?」
 天井にゆらゆらと水面の照り返しが映えている。白昼堂々、この船宿の二階へ逢引にきて、
待っていた津南としては、すこぶるきまりが悪かった。それだから、つい許してしまった、と埒
もなく考える。弱みを握られたわけではない。見つかって、そもそも気にするような相手でもな
い。………
 ただ、相手を待つのがけだるかった。
「………追ってくる者がいる」
 髪で津南の胸、鎖骨を掃くようにして、剣心はゆっくりと頭のほうへ伸びあがった。唇を触れ
合わせんばかりにして、その寸前で、掠れた声でささやく。
「きっと、拙者のもとへ辿りつく。殺し合いになるのかな」
「……………」
「拙者が勝つなら、あの美しい姉弟を、二人とも手に掛けたことになる。いっそ花を折るようで、
爽快だな。そう思わぬか」
「殺すのか………」
「そう、拙者は彼らの顔が見てみたいよ」
 もはや津南の声を聞いていないかのように、ひとりごちた。
「あんなに信じきって、犬のように見ている彼らの、拙者がそうであったと知ったときの顔が見
てみたいよ。さぞかし、口へ饅頭三つぐらいは入るだろう」
「……………」
「何だと思っているのかな。………それを、幸福だと思わねばならんかな。時々、何もかもが
ぞっとするほど馬鹿らしく、辛気くさくなる。それも、拙者がしあわせだからかな。日なた水の
ように」
「……………」
「だが、それはしない。―――刻限だな?」
 津南は黙って、非難するように剣心を見た。
「わざとしたのか、と云いたそうだな。無論だよ。壬生狼の怒りようも、一度はこの身に受けて
みたいものだから」
「斎藤は憤らないよ」
 外で、船頭の呼びかわす声が遠く響いている。あたるよう、と雁木へむかって舳先をつける
ときの声。櫂の軋む音。
「………もっと、別のことだろう。あいつは」
「どうかな」
「面白がるだけだ、こんなのは」
「どうかな。飽きた玩具でも、横から人にさらわれると、とたんに惜しくなるものだ」
「余計なお世話だ」
 にぎやかい水上の往来のざわめき。それを聞きながら、津南はずうずうしく裾へ入りこんで
いた指を振り払った。くっくっと鳩のような、剣心の含み嗤いに、なだめるような響きがあるの
も気に入らなかった。乱れたままの着物から腕を抜いて、立って着なおす。床の皺を蹴りち
らして、平らにする。
「お主は、絵師だから」
 振り払われたまま、あいかわらず自堕落に寝ころんで、嗤っていた剣心が、ぽつりとつぶ
やいた。
「絵師だから、さ―――」
 おのずと人とは見えるものも違っていよう。そう云い終える前に、津南はさえぎった。
「描くもんか。あんたなんか、描かないよ」
「それでいい」
 ひどくおかしげに、愉しそうに、剣心は請け負った。
「今は、な」
 だが、描かないでいられるか?とその眼が問うている。津南が絵を出すたびに、絵草紙屋
へ足を運んで見にきているのは、左之助ではなくて、この男ではあるまいか、とふと思う。
 狼の吐息と、血の匂いを。
「お主は可愛がられていない」
 顔を近づけて、立って正面から津南を覗きこんだ。残酷な子供の、百歳の年寄りの、異国
めいた色の薄い眼が猫のように瞳を細くしていた。津南はとらわれて、身動きできなかった。
ふたたびすとんと腰を下ろしてしまう。
 上から赤毛がさらさらとかぶさって、津南の髪とまざりあった。額に口づけられ、歯の間から
舌を出して少しずつ舐められると、体の芯に、さっきの熱と痺れがよみがえる。
「こうしただけでそれが判る。お主ははけ口に使われているだけだ。拙者はそれを、あまりに
不憫に思うから」
「失せろ」
 生気のない、疲れた声で津南はつぶやいた。
「あんたの遊びにはつきあえない。その仇とでもやりあって、勝手に死んでくれ。悪いけど」
「拙者は死なぬよ」
 負けずおとらず、艶のない声だった。自嘲ぎみに肩をすくめ、
「どうやら、悪運が強いらしい。それに、そう悲観したものでもないよ。見ていてご覧。斎藤は
きっと憤る」
「憤らないよ」
「憤るよ。―――月岡どのはしあわせ者だよ」
 顎が天を向くほど、そっくり返って窓框にもたれ、剣心は低く嗤いつづけた。嗤いながら、
ふりそそぐ外光を愉しむように目を閉じた。
 日はすでに傾きかけている。それから体を起こして、だるそうに窓の外を見下ろすと、見
知った人影を見つけて、大きく目立つように手を振った。