克宏が自分の部屋に帰ったのはその三日後だった。顔色悪く、少しふらつきながら克宏が
自分の部屋にたどり着くと、伊織がその戸の前に立っていた。克宏を見て顔を輝かせ、そし
てその克宏の幽霊のような様子にショックを受け、凍り付いたように動けなくなった。克宏の
左手には白い布が巻かれ、その姿は力無くやつれている。
「克宏・・・!」
「ああ、伊織・・・」
克宏は彼を部屋に招き入れた。ふらつき、腰を下ろすと伊織もその隣に腰を下ろす。克宏は
彼に抱きついた。
「心配したよ、ずっと家に帰ってこなくて・・・一体どうしたんだその手は。怪我を、したのか?」
「伊織。」
克宏は彼を潤んだ目で見つめ、訴えるように言った。
「頼む、独逸でもどこでもいい、しばらく姿を隠してくれ。」
「克宏?」
「あの男・・・正気じゃない。あんたに、危害を加えようとするかもしれない。頼む、どこかへ逃げ
てくれ。」
「何があった?」
伊織はそっと克宏から体を離すと、その顔を見つめて言った。克宏は、なんとか感情が高ぶり
そうになるのを押さえながら何があったか話し始めた。伊織は黙ってその一部始終の話を聞い
ていたが、克宏が話し終えると、今度は自分の斎藤と出くわした一件を克宏に話して聞かせた。
「そんな、ことがあったのか。」
克宏は言った。
伊織は視線をそらし、暫く何やら思案している風だったが、やがて克宏の方へ再び顔を向けた。
「逃げよう。」
伊織は意思のこもった声で、ためらいのない口調で言った。。
「・・・私の従兄が上海にいて、そこを拠点にして商売をやっている。気の良い奴で、社交辞令で
なく、私にその気があるなら来いというんだ。このままでは、君はあの男に本当に殺されてしまう
かもしれない。君さえ良かったら、俺と一緒に来てくれ。」
克宏は伊織を見つめた。
「本気で、言っているのか?」
「もちろんだ。」
克宏はくずれるように彼にすがり付いた。彼もそれを受け止める。
「あんたと一緒なら、俺はどこだって行く。」
「克宏・・・」
克宏は、彼の体の暖かみを感じながら彼を抱く手に力を込めた。急がなくてはならない、あの男
がまた何かしでかそうとする前に。一抹の不安とともに克宏は思い、伊織の彼を撫でる手に、そ
の不安を打ち消した。そう、彼と一緒なら、大丈夫だ。もし、彼と一緒なら・・・
 
ー*ー
 
夜中にこっそり出発し、駅の近くに宿をとって一泊して、朝の汽車で横浜まで出かけようというこ
とになった。万が一、斎藤に見つからないようにという用心のためである。もしこの事が発覚した
とき、彼がどういう行動にでるのか、二人とも全く予想がつかなかった。伊織は荷物をまとめ、置
き手紙を自分の部屋に残し、家人に見つからないようにこっそり家を抜け出ると克宏を迎えにい
った。右手で鞄を持ち、左手で克宏の手をひいた。いっそ走り出したいと気がはやるが、克宏
はまだ少し手の傷のせいで弱っている。人気のない道を行き、かなり歩いたところで二人は立ち
止まった。そこに、斎藤が立っていた。二人の方を向き、制服姿で帯刀している。
「ご両人そろって、お出掛けか。」
斎藤は二人を見つめた。睨み付け、真剣な顔をしている。いつものあの冷笑的な雰囲気はない。
「斎藤・・・」
克宏は、呟いた。恐怖で顔から血の気が引いている。伊織に寄り添い、彼の腕にしがみつく。
「何か、我々に御用ですか?」
伊織が言った。彼への恐れを押し隠し、斎藤を睨む。
「お前は、失せろ。」
「言われなくたって、私は行くさ。」
伊織は克宏の手をひいて、歩き出した。まるで狂犬の前を通るように、斎藤を睨み、視線を離さ
ずゆっくりと斎藤から離れようと歩く。
「待てよ。」
二人が何歩か歩いたとき、斎藤は言った。その斎藤の言葉に、伊織は彼を睨みながら止った。
「そいつは、置いて行け。」
「断る。彼は物じゃない。」
二人は、じっと睨み合いながら押し黙った。
「自分の命が、惜しくないと見える。」
伊織はじっと斎藤を睨んでいたが、鞄をほおり出すと叫んだ。
「克宏、走れ!」
彼は克宏の手を引いて走り出した。だが斎藤の動きの方が遥かに、速かった。二人を追い掛け、
追い付くのに時間はかからない。そして彼らの手前に来ると、刀に手をかけ、抜刀した。伊織の
後ろにいた克宏は、その一部始終を鮮明に見て取った。鯉口の鋭い音が克宏の耳に響き、磨
き抜かれた刃が闇の中で不吉に光る。克宏はただ目を見開き、なすすべもなくそれを見ている
ことしかできなかった。斎藤のその刀の刃が克宏のすぐ眼の前を横切り、後ろから伊織の心臓の
真ん中を垂直に貫いた。
 
克宏は、それを呆然と眺めた。斎藤の刀を体に突き刺したまま、彼は地面にうつ伏せに倒れて
ゆく。そのすべての動きが、恐ろしくゆっくりと、残酷なほど鮮やかに克宏の眼にうつった。その
短い瞬間が、まるで何分もかかったかのようだった。
 
伊織の背中から、血のしみが着物にどんどん大きくなりながら広がって行く。克宏は震えながら
彼のそばに膝をついた。何か叫ぼうとするが、喉から声がでてこない。
「あ・・・ああ・・・」
克宏は、震える手で伊織に手を伸ばした。伊織は倒れたままじっと動かない。目にうつる光景が、
現実のものと思えなかった。克宏は両手で伊織の着物を掴んだ。自分の手が、彼の鮮血で染ま
る。克宏は震える両手を開き、それを目を大きく見開いて見つめた。
「・・・伊・・・・・織・・・?」
克宏は伊織の屍骸を見つめながら呟いた。
「・・・伊織・・・」
暫くそうやって蹲り、じっとしていたが、ゆっくりと、夢遊病のような動作で彼は立ち上がった。斎
藤は、その光景を呆然として眺めた。
 
克宏は、振り返って斎藤を見た。虚ろな眼で、子供のような表情をしている。暫くそうやってじっと
していたが、突然、克宏が笑いだした。小さな笑い声を、喉の奥から絞り出す。しばらく、くっくっと
いうおかしな声を出していたが、やがて克宏の喉から哄笑があふれでた。呆然としている斎藤の
前で、克宏は気違いのように笑い続けた。目からは涙があふれだし、それが顎を伝わって流れ落
ちている。斎藤が克宏の方へ踏み出し、克宏の腕を掴んだ。斎藤が克宏を捕まえたまま見つめる
が克宏は哄笑をやめない。克宏の眼の色には、正気が、なかった。
 
ー*ー
 
相模は、床に横たわる克宏を見つめた。眼を見開き、微動だにせずにずっと天井を眺めている。
相模が何か声をかけると、その大きな目を彼に向けるが、首を少し振って返事をするだけでほと
んどものを言わない。運び込まれた直後は、何かわけのわからぬことを、譫言のように小さな声で
呟いていて、その姿に相模は克宏が乱心したと思った。血に塗れた姿に怪我をしたのかと思うと、
斎藤はこれはこいつのじゃない、こいつは掠り傷一つ負っていないと告げた。相模は克宏を湯殿
へつれてゆき、着物を脱がし湯で血を洗い流した。髪にこびりつき、固まっていた血が湯に流さ
れて彼の肌を赤く染め、克宏はそれに一瞬脅えた。
 
夜具に横たわっている克宏が、その顔を相模に向けた。
「斎藤が殺したのは、俺だったんだ。」
相模は黙って克宏を見た。何のことを言っているかはわからないが、おそらく聞き返しても、まとも
な答えは帰ってこないだろうと思った。
「迦陵頻伽を、刺し貫いたんだ。あれは俺なんだよ。」
克宏は顔を天井の方に向け、静かに目を閉じた。その青白く動かない横顔は、永遠の眠りにつ
いたかのように見える。相模は、彼をじっと見つめた。彼は、胸を締め付けられる思いがした。一
体、この青年に何があったのだろう?彼は疑問に思ったが、知らない方がいいことがこの世にはご
まんとあることを、彼は見に染みてわかっている。斎藤が彼の詮索を好まないとわかっている以上、
彼は何かを詳しく探るつもりなど無かった。
 
彼の本当の主人は、斎藤ではない。彼の主人にそうしろと命令されたため、彼は斎藤に仕えて
いるに過ぎない。その彼の主人が、この家を斎藤に提供していて、その家の一部として彼が斎藤
に差し出されたのだった。
 
彼は暫くそうやって克宏の横顔を眺めていたが、克宏が眠りについたのを確認すると、立ち上が
り、部屋を出た。襖を閉めた後も、彼はそこから暫く動かず、じっと佇んでいた。
 
ー*ー
 
次の日の昼過ぎ、庭の手入れをしている相模の元へ、克宏は姿を現した。明るい日差しの元で
も顔色が悪かった。体の動きに力がないが、眼に正気が戻っている。少しふらつきながら歩いて
くる克宏に、相模は駆け寄った。
「大丈夫ですか、月岡様。」
「もう大丈夫です。有難う。」
克宏はしっかりとした口調で答えた。昨日の錯乱が、嘘のようだった。
「斎藤はどこです?」
「藤田様は昨夜遅くにお出掛けになりました。」
「今度は、いつここへ来るんですか?」
相模は躊躇したが、克宏を真っ直ぐ見て口を開いた。
「私は、そういうことに関しては藤田様から口止めをされております。ですが、藤田様は今晩、こ
こへ来る筈です。今でしたら、藤田様が帰ってくるまでまだかなりの間があります。・・・月岡様、
お逃げになるのでしたら、私はそれをお手伝いいたします。」
克宏は、微かに笑った。
「いいえ、俺は逃げたりしません。次に彼が帰ってくるまで、ここにいさせてください。お心遣い、
感謝します。」
弱々しいながら、克宏の表情は晴れていた。何かを決意したような顔だ。相模は克宏を見つめ
た。何を考えているのだろう?相模は、もしかして克宏が斎藤と差し違えるつもりなのでは?と思
った。何があったか、詳しいことはわからない。しかし彼は何も知らないわけではなかった。そう
されても仕方がないことを、斎藤はこの青年にしている。
「厚かましいのですが、俺の頼みをきいて頂けませんでしょうか?」
その克宏の言葉に、相模は頷いた。この不幸な青年が何を考えているにせよ、斎藤にに太刀
打ちできるような相手ではない。だが、せめて、何かの力になってあげたかった。
 
ー*ー
 
その夕方、斎藤が部屋にはいると、克宏が正座して彼を待っていた。すでに行灯が灯されてい
て、克宏の青白い顔がその光に照らされている。白装束に身を包み、彼の前の畳の上には、白
木の短刀が置いてある。克宏は、その顔をゆっくりと斎藤に向けた。その表情には悲しみも恨み
もない。無表情に、だが穏やかな眼で斎藤を見上げた。
「なんの、つもりだ、これは。」
斎藤は克宏を見下ろし、彼の前に行くと、畳に腰を下ろした。克宏は黙って斎藤を見ている。
「気でも狂ったか。」
「斎藤。」
克宏は口を開いた。穏やかな声だった。
「頼みがある。」
斎藤は克宏をじろりと見た。彼は自分の前にある短刀を拾い上げると、斎藤にそれを差し出した。
「・・・なんの、つもりだ。」
「俺を、殺してくれ。」
静かな声だった。なんの高ぶりも、感情の思い入れもない。斎藤は、黙った。何も答えない。
「俺の、一つだけの、最初で最後のお前への頼みだ。俺を、お前の手で殺してくれ。」
「・・・あの男を、追い掛けていくつもりか?」
克宏は黙って斎藤に頷いて見せた。微かに、微笑んでいるように見える。
「後追い心中するつもりか、くだらん。」
斎藤はそう、言い捨てた。
「お前、俺が憎くはないのか?俺はお前の情人を殺した仇なんだぞ。俺を殺してやろうとは思わ
ないのか?お前は、腰抜けか?」
「詮ないことだ、斎藤。伊織は、もう、いないんだ。お前が死んだところで、あいつは帰ってきては
くれない。」
克宏は、淡々と言った。その声には何の感情も滲みでていない。
「俺は、自分が空っぽになってしまったような気持がするんだ。この世に生きているような気がしな
い。もう、何も要らない。生きていたくもない。あいつはもう、俺のそばにいない。」
斎藤は黙っている。
「だから、斎藤、せめて、お前の手で俺に決着をつけてくれ。それぐらい、してくれてもいいだろ
う?最後ぐらい、俺の頼みをきいてくれ。」
斎藤は、克宏を、睨んだ。
「断る。」
斎藤はきっぱりとそう答え、克宏は静かに微笑んだ。
「斎藤、お前は、最後まで、本当に残酷な奴だなあ。」
克宏は短刀を鞘から抜き出た。自分の喉にその刃の先端を向け、自分に向けて、素早い動作
でそれを引く。なんの躊躇いもなかった。流れ出る紅い血が、ぼたぼたと克宏の膝の上にこぼれ
落ち、死装束の白い布地を染めていく。だが、その血は克宏のものではなかった。斎藤がその
刃を素手で掴み、それが彼の喉にとどく前に克宏の体の寸前で止められている。
「斎、藤・・・?」
斎藤の掌はその鋭い刃に傷つけられ、大量の血が流れ出ているが、克宏は無傷のままだった。
克宏は、斎藤を呆然として眺めた。驚きに動くことができない。斎藤は手で刃を掴んだまま放そ
うともせずに自分の血が克宏の躯に流れるにまかせ、怒ったようにじっと克宏の顔を見ている。
斎藤の顔が緩み、切なそうに克宏を見つめた。
 
「克、宏。」
斎藤は、始めて克宏の名前を呼んだ。彼は、これまで一度も彼を名前で呼んだことがなかった。
いつも物でも指しているような声で、彼をただ、お前、と呼び捨てていたのだ。
「克宏。」
斎藤が、呟くように言った。切ない声だった。短刀の柄をきつく握り締めていた克宏の手からそれ
が離された。斎藤が掌を開き、それを落とした。落ちて、畳に転がってゆく。斎藤の血に塗れた
手が、克宏の上腕を掴んだ。
「やめろ・・・克宏。」
斎藤の目から、涙がこぼれ落ちた。あふれるように大量の涙が彼の目から流れ出て、彼の顔を
濡らした。克宏は、呆然として斎藤を見つめた。
「行くな、俺を、おいていくな・・・」
斎藤は、克宏にすがり付いた。
「どこにも行くな、お前は・・・ここにいるんだ・・・。」
克宏は、目の前の光景が、現実とは思えなかった。この冷徹で無慈悲な男が、恥も誇りも捨て、
自分を捨てていくなと泣いている。
 
克宏は、穏やかに斎藤を見つめた。奇妙なことに、彼を憎み、恨む気持は湧いてこなかった。
自分のなかから淀み、わだかまっていた何かがすべてこの瞬間に洗い流されてしまったような
心持がする。不思議だ、と、克宏は思った。あれだけひどい目にあわされ、滅茶苦茶にされ、
殺してやりたいとさえ思って憎んできたのに・・・今、俺はこいつを哀れんでさえいる。
 
「お前は、俺に傍にいて欲しかったのか?」
克宏が聞いた。斎藤は、克宏にすがり付いたままじっと黙っている。
 
'お前は・・・他人の愛し方など知らなくて・・・かわいそうに。お前は、そうやって他人と自分を苦
しめることでしか、自分の感情を表現することができなかったのか。お前自身も、それに苦しめ
られるというのにな。'
克宏は斎藤に手を回した。顔を自分の方へ向かせ、その涙を流している瞼に、押し当てるよう
にそっと口付る。
'こいつは、おそらく何かに傷付いたまま・・・その傷口が痛んで血を流していることにすら気付か
ず、ずっとこいつなりに苦しんできたのだろう。俺が伊織と出会うまで、自分が負った傷の痛みを
自覚さえできなかったように。'
克宏は思った。彼が何をその内に抱え込んでいるかは知らない。だが、克宏は斎藤が、克宏を
失う痛みに泣いていることを知った。
'俺とお前は、同じだったんだな。'
 
「俺はどこにも行かない。」
克宏は穏やかにそう言った。斎藤は克宏にしがみ付いたまま、子供のように声を殺して泣いてい
る。
「俺はずっとお前のそばにいる。どこにも行かない。お前を、一人にしたりしないよ。」
克宏は何度もその言葉を繰り返して斎藤に言い聞かせた。
「お前、俺が怖かったのか?馬鹿なやつだなあ・・・俺は、お前の傍に、いるよ。だから、もう泣かな
くてもいい・・・」
 
その晩、克宏は斎藤をずっと抱きしめて眠った。克宏はただ彼を懐に抱いたままで、今までに味
わったことがないほど穏やかな気持のまま、安らかに眠ることができた。彼を抱きしめているのが、
心地好かった。こんな気持を、記憶がないほどの昔に、どこかで味わったことがあるような気がした。
 
次の日、克宏が床のなかで目を覚ますと、床のなかに斎藤の姿はなかった。彼はもうすでに、家
の中から姿を消していた。
 
ー*ー
 
それから後、克宏が斎藤と会うことは、もう、二度と無かった。
 
 
 
                      
 
ー*ー                                ー*ー                                ー*ー
 
 
 

克宏はそれから少しして、伊織の姿かたちをもとに菩薩像を描き始めた。妙なことに、何度、彼
の顔の下書を行っても、その顔はいつのまにか微かに微笑んでいるように仕上がった。それらを
目の前に置いて、克宏は思った。
'俺のことを恨んでないって事なのか、伊織?・・・そう、受け取って、いいんだな?'
克宏のなかで、彼が頷いたような気がした。そんなの俺の身勝手な思い込みだ、と自分を戒めた
が、克宏は彼が本当にそう思ってくれているような気がした。それを描いている間中ずっと、克宏
は彼が自分の側にいてくれているような気がして、克宏は穏やかな気分になれた。
 
'俺は・・・お前が不幸だったとは・・・どうしても思えないんだよ、伊織。お前のことを考えても、俺
は胸が苦しくなったりはしないんだ。薄情な奴だ、と、嘲笑ってくれ。・・・おぼえているか?俺達、
ずっと長いこと話し込んでいることがよくあったよな。お前といると、俺は笑った。俺は、お前といた
この短い間に、ずいぶんと沢山のことをしたような気がする。あんなつかの間だったのに、ずいぶん
と長いことお前と一緒にいたような気がするよ・・・俺が今描いている、お前の絵が仕上がったら、
その瞬間にあの世に行ってしまう事になっても、それでもう何も後悔しないような気がするんだ。'
そのとき、克宏は彼が笑ってもう一度頷いたような気が、した。
 
それから克宏は一心不乱にそれを描き上げ、完成させると、彼はそれを伊織が埋葬された墓所
のある寺に奉納した。
 
ー*ー
 
斎藤と最後にあってから二月後、克宏は、斎藤のあの別宅を訪ねていった。自分でも何故そんな
気になったのかわからない。家に至るまでの竹が群生した中を、克宏は地面にはえる植物を踏み
しめる音のなか、ゆっくりと歩いていった。いってどうしようという気があるわけではない。ただ克宏
は何かに緩かな力でせき立てられ、その道をたどった。
 
家の前で少し逡巡し、彼は相模を呼んだ。しばらく間があり、彼が顔を出した。
「月岡様。」
彼は克宏に呼び掛けた。
「今日は。」
克宏は答えた。相模は彼に挨拶を返して、言った。
「月岡様、藤田様が、ここへいらっしゃることは、もう、ありません。」
克宏は一瞬、視線を落とし、再び上げると少し逡巡しながら聞いた。
「何か、彼から俺に伝言はありませんか?」
彼はすまなそうな顔で克宏を見返す。
「いいえ、藤田様からは、何も承ってはおりません。」
克宏は、彼を見た。相模も黙って克宏を見ている。
「そうですか。あなたには、お世話になりました。礼を言います。本当に、有難うございました。」
克宏は気を取り直してそう言い、彼に頭を下げると、踵を返した。
「月岡様。」
相模がその後ろ姿に呼び掛け、克宏は足を止めた。
「・・・藤田様は・・・あなたを愛してらっしゃいました。ご自分でもどうしてよいのか、わからないぐ
らいに。」
克宏は、振り返って相模を見た。微かに、克宏は微笑んでいる。
「知っています。そしてたぶん俺は・・・ずっと以前からそれをわかっていたような気がするんです。」
克宏は、その先を言おうとして、言葉を飲み込み、口をつぐんだ。そして背中を向けて歩き始め、
そのまま、相模に言った。
「・・・有難う。相模さん。」
彼を黙って見送っている相模の視線を、克宏はその背中にいつまでも感じたが、彼は一度も振り
返らなかった。克宏は、相模に感謝した。そして彼とも、もう、二度と会うことはないのだろう、と思
った。
 
ー*ー
 
その足で、克宏は白菊のいる見世に行った。彼を見て、格子の向うで白菊は驚き、克宏に駆け
寄ってくると喜んだ。
「まあ、先生・・・ぜんっぜん顔を見せないで・・・」
「済まなかったな、白菊。・・・いろいろと・・・あったんだよ。」
克宏は、彼女に寂しそうに笑いかけた。
「本当に、いろいろあったんだ。」
その日彼は、白菊を客として買った。
 
部屋で、彼は白菊にこれまでのことを話し始めた。すべて、正直に、隠すこと無く話した。彼女は
驚きながらも黙ってそれを聞いていた。その長い、長い話が終わると、克宏は俯いて黙った。白
菊は切なそうに克宏を見た。
「そしてやっと、すべて終わったんだね、センセ。」
「ああ、伊織は死んだ。斎藤はいなくなってしまった。なんだか、夢でも見ていたような気がする。
本当にあの二人が存在していたのか・・・それすら疑わしく思えることがあるんだよ。」
克宏は白菊を見つめた。
「俺はずっと、お前に会いたかった。お前と話をしたかったよ。」
白菊は泣きながら笑った。
「知ってる?センセ。伊織さん、センセがあの邏卒に追っ掛け回されて私たちと出くわす前から、セ
ンセを知っていたのよ。」
克宏は驚き、言葉に詰まった。白菊はずっと克宏を見つめている。
「ここでセンセを何度か見かけたって。それであの人私を呼んだの。センセが、私をよく使っている
って、きっと誰かから聞いたんでしょうね。ただセンセが何者か、私たちは客に言わないように固
く口止めされているから、センセが誰か知っていたかどうかは疑問だけど。・・・あのセンセと始め
て会って以来、あの人センセに会いに、私のところへ通ってたの、知ってた?それからセンセが官
権に引っ張っていかれたって話をしたら、可哀想なぐらい心配しちゃって・・・」
「だから、伊織を俺にけしかけたのか?」
その克宏の言葉に、白菊は少し黙った。克宏は、何となくそんな気がして言ってみただけだった
が、どうやら図星のようだった。克宏は続けた。
「それで、彼が俺に会いに来る算段をつけたのか?」
「そう。それからあの人に入れ知恵したの。センセと私のところへ来たら、二人で私を買いなさいっ
て。私は部屋へ行かないから、センセに酒を沢山飲ましてそのまま押し倒しちゃえって。」
克宏はさすがにあきれて彼女を見た。だが、彼は納得した。伊織は遊び慣れていない風ではな
いものの、あんな器用なことをできる人間に見えなかった。あれらのことが、克宏の心の隅にずっと
引っ掛かっていたのだ。きっとこの様子では、他にもいろいろ吹き込んだに違いない。伊織のあの
行動は、すべて彼女がシナリオを書いたのではないかと克宏は思った。
「でも、お前なんでそんな・・・?」
「そこまで強引にでれば、センセもあの人なら拒まないんじゃないかとおもったんだもの。センセ、
あの人が好きだったんでしょう?でなきゃセンセ、きっとあの人からも逃げてた。・・・センセって、見
てて私怖かったのよ。人を拒んで、殻にこもって。それでそのうち、かくん、と、どこかで折れてしま
うような気がしていたの。性悪女か何かにだまされて、知らないぶん、周りが見えなくなって・・・でも
あの人、人をだまして悪さするような人じゃなかったから、センセにけしかけても大丈夫だと思った
のよ。・・・おせっかいだと思うでしょう。でも、何となくそっとしておけなかったの。・・・そりゃあ、確か
に・・・私なりの打算もあったことだけど。」
・・・そして、彼女は伊織からいくらか金をせしめたのだろうな、と克宏はなんの感慨も持たずに考
えた。白菊は泣き崩れた。
「でも、こんなことになるなんて・・・」
克宏は白菊をじっと見た。彼女は普段、決して'余計な'事をする女ではない。他人に対して、一線
を引いたところがあるのだ。こいつは、これで俺を心配してくれたのか・・・?
「俺、彼が好きだったよ。本当に好きだったんだ。他人に対してこんな感情を持ったのは、十年ぶ
りだった。ずっと、他人なんか要らないと思ってたんだ、俺。本音を言うと、他人が怖かった。他人
と関わるのが、怖かったんだよ。裏切られるのも、失うのも、もう真っ平だと思った。でも、彼といて、
俺は嬉しかったよ。彼を失ったとき、俺は自分が壊れちまったかと思った。実際、壊れたんだ。で
も今、俺はここにこうしているんだな。生き残って、こうしてお前と話してる。彼は、もう、いないのに。
なんだか、それが不思議な感じがするんだ。彼はもういないのに、俺は彼の一部を感じるんだよ。
彼が、俺に生きろって言っているような気がする。彼の分までずっと。」
克宏は口を閉じ、微かに微笑んだ。白菊は黙って克宏を見ている。
「・・・俺、彼が逝ってから、彼の絵を描いたんだ。何枚も描いたけど・・・どれもこれも彼は絵のなか
で笑うんだよ。元凶の俺がこんなこと言うのはひどいけど、彼は何も恨んでないような気がするんだ。
なんだか、本当にそんな気がするんだよ。ひどい奴だって、俺を嘲笑ってくれ。」
白菊は赤い目で克宏を見上げた。
「私に言わせたら、男は皆、極悪人だよ、センセ。そうやって、他人をすべて自分の脇役としてしま
う。女を物として扱うよりまだ酷い。でもね・・・自分のやりたいことやっていった伊織さんは、悔いは
なかったと思うんだよ。あの人、ほんとにセンセが好きだったから。以前、あの人がセンセと出くわす
前の事だけど、あの人うっかり私に本音を漏らしたことがあるんだ。滅多に自分を出さないような人
だったのにね。あの人、こう、言ってた。自分はもう、長いこと、生きている気がしなかったんだって。
本当に欲しいことも、やりたいこともなく、ただ死ぬまでの時間を、うめるためだけにずっと何かをや
っていたような気がしていたって。」
克宏は何も言えずに白菊をただ見つめていた。彼女はもう、泣きやんで、激情に押されでもしてい
るように喋り続けている。
「そんな人だったから、私もあんな入れ知恵した。私のところへやってきて、センセのことばかり聞
くから。センセが女も男も嫌いで興味のない偏屈な変わり者だって教えてあげたら、すっかりしお
れちゃって。なんかほおっておけなかったの。でも、センセみたいな人間嫌いの唐変木の、色は
白いけど白木の位牌に昆布かぶせて着物着せたような男の、いったいどこが良かったんだかわ
からないけど。・・・センセにはもったいないような、いい男だったのに。」
白菊はあらぬ方を見てため息をついた。
「おい、白菊・・・」
克宏は、その自分へのひどい言い草に、おかしくて笑いたいような気分になったが、不謹慎だと
思い、堪えた。
「あの人、ずっと前に私に口滑らして・・・私がセンセに似ていると・・・男に似ているなんてひどい
言いようだけど、でも私、そう言われて嬉しかった。」
克宏はあのとき、何故自分が強姦される女を描くのに彼女を選んだか、それは彼女が自分に似て
いたからだったんだな、と思った。俺はきっと、無意識に自分に似た女を選んでいたのだろう。
「俺達は似ているよ。そう、思わないか?」
克宏はそう言い、白菊はそれに頷いた。
 
ー*ー
 
その半年後、克宏は、年期のあけた白菊と所帯を持った。克宏はその日々のなかで、あの二人
に関するすべての記憶を頭の、どこか目立たない場所に追い遣った。そしてそれから後、彼は
滅多なことでは、それらのことを思い出さなかった。彼はそうやって、長いこと、穏やかな年月を
送った。そう、まるで、何事もなかったかのように。
 
ー*ー
 
それから、何十年たっただろうか。
 
ー*ー
 
秋のうららかな日だった。彼は、彼の父の納骨のために会津を訪れていた。それは故人である
父の遺言だった。遺骨を無事墓におさめ、すべての手続きを終えて東京へ帰る日、彼は最後
の別れのために、彼の父の墓を一人で訪れた。天気の良い午後で、明るすぎるとさえ感じる陽
光が境内の中、一面に降り注いでいた。眩暈がするような明るさだった。真夏の暑い最中でさえ、
彼はこんな陽の光を見たことがない。境内には誰一人としておらず、不思議なほど何の物音も
しなかった。そのしんとしている中、彼は父の墓の前で、一人の男性が花を供えているのを見た。
彼は一本の白菊を墓前に供えている。父の知り合いか?彼は思った。きっと、かなり近しい人な
のだろう。あの花は父の好きだった花だが・・・父はそれを恥ずかしがって、滅多に人に言うこと
はなかった。その男性が振り返って彼を見ると、彼は少しいぶかしんだ。見たことのない男で、
父の知り合いにしては、ずいぶん毛並が違う人だった。すんなりした体型と白い滑らかな肌は、
彼が普段、あまり体を動かさないたぐいの人間だと物語っていた。素人とは掛け離れた、何か
洗練された雰囲気が漂っている。綺麗な人だな、と、彼は思った。
「こんにちは。」
その男は微笑みながら彼を振り向いて言った。
「・・・こんにちは。」
彼は不思議な思いに捕らわれながら挨拶を返す。
「父の、お知り合いの方ですか?」
「はい。この、....氏の息子さんですか?」
「そうです。」
「私は、彼の古い知り合いです。短い間でしたが・・・」
彼は面食らった。この人は、何を言っているのだろう。父の古い知り合い?目の前のこの人物は、
せいぜい二十歳ぐらいにしか見えない。父は享年、七十二歳だった。なにやら妙なことを言う・・・
その人物は、訝しげな彼の様子を気にもかけないように穏やかに微笑みながら彼を見つめて
いたが、突然、入り口の方へ、嬉しそうに顔を輝かせて振り向いた。
「斎藤!」
その人物が叫び、身を翻した。門の方へと、長く艶やかな黒髪を揺らして軽やかに走っていく。
いつのまにか、背の高い黒ずくめの男が門に寄りかかって立っていた。顔は見えないが、煙草
を吸っているのが見えた。二人で寄り添い、何やら親しげに言葉をかわしているが、何を言って
いるのかは聞こえない。そして二人で門をでていく。その出ていく瞬間、黒い男が一瞬だけ彼
を振り返った。その男の、父の若いころに生き写しな顔に、彼は息を飲んだ。少し、そこに金縛
りにあったように立ち尽くし、彼は、門に走った。門の外の左右には、一本道だけが広がってい
て、その道はずっと、路地がないことは以前に見て知っている。だが、左右どちらを見回しても、
そこには誰もいない。夢でも見ていたのだろうか?彼は、そこに呆然と立ち尽くした。夢のような
茫漠とした感覚の中で、何か、通常自分がいる場所とは違う世界にでも入り込んだような気が
した。墓の方へ戻ると、青年が供えていった白い菊の花が、陽の光の中でその鮮やかな純白
の色を誇っている。彼はそれを手にとり、ぼんやりと、眺めた。
'夢では、なかった。'
彼は呆然としてそこに佇み、そして、いつまでもそこに立ち尽くしていた。明るい光が彼の周り
に降り注ぎ、その白い花を輝かせていた。
 
ー*ー
 
その二週間後。
 
白菊と道を歩いていた克宏は、いきなり暴走を始めた馬に滅茶苦茶に踏み付けられ、倒れた。
白菊が半狂乱で彼に駆け寄り、彼を抱き起こしたとき、もう克宏は虫の息だった。その薄れた
意識のなか、彼はぼんやりと目を開け、虚ろな視線をさ迷わせた。
「ああ、斎藤・・・」
克宏はとぎれとぎれに呟いた。
「お前、俺を無理矢理つれに来たのか・・・相変わらずお前は、勝手な奴だよなあ・・・」
白菊が見守るなか、それが彼の最後の言葉になった。
「センセ・・・」
白菊は、呟いた。彼女の涙が、克宏の頬に落ちる。克宏は、ゆっくりと目を閉じた。穏やかに
微笑み、幸せそうな顔をしている。
「センセ・・・」
 
ー*ー
 
克宏が埋葬された墓の前で、白菊は長いこと佇んでいた。葬儀は三日前に終わった。彼女は
厳かに、そつ無く彼の喪主をつとめた。その間中、彼女は一度も涙を見せなかった。どこかで、
情の怖い女だ、と、誰かの囁く声が聞こえたような気がする。彼女は佇みながら、手に何本もの
白い菊を持っている。
'知ってる、センセ?本当に、センセは幸せそうな顔してたよ。幸せな夢見ながら、眠っているみ
たいだった。みんな、センセは極楽へいったんだろうと話していた。'
彼女は花を、墓の前へおいた。
'センセが死んで、私、泣けないんだ。私の目の前で、あんな酷い死に方したのに。・・・私たち、
長年、一緒にいたのにねえ。センセは、最後、私の腕のなかで、私を見なかった。他の人の名
前呼んで・・・でも、どう言うわけか、恨む気になれないんだよ。どうしたんだろう。'
彼女の目から、涙があふれでてくる。彼女はそれを拭おうともしなかった。
'だから、私は泣かないんだ。それぐらいの意趣返ししたって、ばちは当らないよ、センセ。'
彼女の喉から嗚咽が漏れだし、花の上に突っ伏して、泣き出した。叫ぶようにして、鳴き声を上
げる。悲しみの他に、そこには何か開放されたような響きがこもっていた。彼女は泣きながら何
かが自分から抜け出、楽になっていくのを感じていた。
'さようなら、センセ・・・'
 
白菊は、それから彼の命日に毎年、白い菊を供えた。それは克宏が、生涯愛してやまなかった
花だった。
 
克宏が伊織のために描いた菩薩像は、戦後の混乱のなか、外部へと流出した。それは今、某所
の美術館の片隅に、ひっそりと飾られている。その作品は克宏独自の作風とは微妙に異質で、
作者不詳と銘打たれ、そしてその怖いほど研ぎ澄まされた幻想的な美しさで、訪れる者達を今
でも魅了している。
 
その、場所は・・・