「だから君は、明治政府を批判したのかい。そして官権につれていかれた。」
克宏は彼を驚いてみた。克宏は彼にこの話をしたことがない。
「・・・なんで、君がそのことを知っているんだ?」
伊織は克宏をすまなそうに見た。
「済まない。ただ、推測してみてかまをかけたんだ。」
「・・・済まなくなんか無いさ。そもそも、助けてもらっておきながら、事情も話さなかった俺が
礼儀を欠いてるんだ。謝るのは、俺の方だ。」
「君を助けたのは私ではなく、白菊だよ。」
その言葉に克宏は反応した。そう、たしか彼は白菊と馴染みだった。
「白菊とは、長い付き合いなのか?」
克宏は言ってしまってからつまらないことを言ったと、それを後悔した。だが伊織は表情を変え
ないまま何も答えず、ただ克宏を見つめた。
「君に会えるかと思って何度か白菊の所へ足を運んだ。官権につれていかれたと聞いたとき
は、気が狂いそうだった。」
克宏は口をつぐんだ。斎藤との間に取調室で行われたことが脳裏をよぎる。斎藤との確執が、
昏い翳のように克宏に覆い被さっていた。
「無事に帰ってきてくれて、良かった。本当に、嬉しかったんだよ。」
伊織は、克宏がどのようにしてそこを出てきたかを知っている。もちろん、彼はそんなことには
触れない。だがそれは毒をもった小さな刺のように克宏の内部に食い込み、悩ませた。目に
見えないところでそれは肉体に食い込み、疼くように痛む。
「・・・俺が、どういう人間か、知っているだろう。」
克宏は、俯いたまま言った。
「例の、俺が官権に引っ立てられていったとき、取調室で指を折ると脅して俺を蹂躙した男、
そいつと、取引したんだ。警察が、俺から捜査の手を引く代わりに、俺は・・・」
克宏は立ち上がり、襖を閉めると彼の目の前に背中を向けて立ち、ゆっくりと着物の帯をとい
た。目を伏せ、身に付けている物を取り去ると、床に落とす。伊織は呆然としてそれを眺めた。
克宏は顔をそむけながら伊織に自分の無惨な傷だらけの肉体をさらして見せた。白い肌に、
紅い線状の傷跡が痛々しかった。見るからに、何か事故で怪我をしたという傷跡ではない。
「どう、したんだ、それは?」
伊織はそれを、食い入るように見つめ、目を離すことができない。
「あの人でなしが、俺にやっていることがこれだ。警察の捜査から俺を外す代わりに、俺をそい
つの玩具にさせろと言ってきた。・・・俺は、それを承諾したんだ。」
「なんてことを・・・!」
伊織はショックを受け、呆然として克宏を眺めた。克宏は半ば自棄になり、自嘲的に笑った。も
う、終りだ。克宏は思った。こいつは俺から逃げ出し、二度と近づいてこないだろう。これでいい
んだ。どのみち傷付くなら、早い方が傷が浅くて済む。克宏は、幼少の頃以来、他人に期待な
どしたことがなかった。期待などせず、自分で自分を守っていれば裏切られ、傷付くこともない。
そうやって彼は他人を拒否して生きてきたのだった。
「わかっただろう。俺は、臆病なろくでなしだ。」
「・・・ひどい。」
伊織は立ち上がり、克宏の肩を強く掴むと、克宏の顔を真っ直ぐ見つめた。その顔は怒り、全
身で憤慨している。
「何ていう奴だ、そいつは?」
克宏は戸惑いながら答えた。
「斎藤、と名乗ったが、所内では藤田警部補と呼ばれていた。覚えているか?君が俺と始めて
会ったとき、俺を追い掛けていた男、あいつだ。」
伊織は恐る恐る克宏の頬に手を伸ばして触れると、彼をそっと抱きしめた。
「ひどいことを・・・」
伊織は小さな声で呟いた。彼はそのままじっとして、克宏もやがて彼の背中に手を回した。彼
の体の暖かみが克宏に伝わってきて、克宏は気持が、和らいだ。克宏は彼といると、何か優し
く、穏やかな波長のようなものを感じる。それは克宏を空気のように包み込み、和ませた。
「君の、力になりたい。」
伊織は呟いた。彼の切実な感情が、その言葉に滲んでいた。
伊織は克宏から体を離し、彼の上着を拾って克宏の肩にかけた。
「そんな格好でいつまでもいると、体に毒だ。」
克宏は無理に笑おうとし、涙が頬を伝っていった。伊織は克宏を座らせ、抱きしめた。克宏の
喉から嗚咽が漏れだした。彼はその小さな頃以来始めて、他人の前でなんの躊躇いも感じず、
声を張り上げて泣いた。心が痛んで泣く時は、彼はいつも独りで隠れ、声を殺して泣いた。他
人に傷をさらけ出すなど、真っ平だと思っていた。体を彼にまかせ、身を投げ出している克宏
の震える肩を、伊織はいつまでも優しくなで続けた。
 
ー*ー
 
それから時々、伊織は克宏の部屋を訪れるようになった。ただ、お茶を飲みながら話し込んで
いくこともあれば、食事に誘うこともある。たまにだが、克宏の部屋に泊まっていくこともあった。
 
時々、彼が漏らす言葉の断片から、克宏は彼があまり家に帰りたくないのだと悟った。あの始め
て彼と遊郭で出くわしたとき、彼が酒が欲しくてここへ来たと言ったことを、克宏に語ったのを思
い出した。克宏はそれを彼の優しさと言葉の綾だと思っていたのだが、どうもそれだけでもない
らしい。克宏の元へ来ない日の夕方は、彼はほとんどその自由な時間を彼の友人達と過ごして
いるらしかった。
 
克宏は始めて、他人が自分の部屋にいても寛げるようになった。それどころか、彼が傍にいてく
れるのは嬉しかった。克宏が仕事をしている横で彼が書など開いていると、克宏は幸せな気持
になった。
 
彼が唯一、彼の家族に関して克宏に語ったのは、彼の腹違いの妹のことだった。"勝ち気な娘
なんだ。"
彼は笑いながら言った。
"皆、私と彼女の性別が逆だったら良かったのにと言っている。家督は彼女に婿をとらせて、その
人が継ぐようになるんだ。だから気儘に、好き勝手にさせてもらっているよ。"
幸せそうに笑っている人間が、必ずしもそうなのとは限らないんだな。何気ない物言いで、たい
したことじゃないさ、という顔をして淡々とそれらを言っている伊織を見て、克宏はそう思った。彼
がその穏やかに笑う顔の裏に隠し持つ翳のようなものを、克宏の感受性は磨硝子越しに何かを
見るようにぼんやりと感じていた。そして克宏がそれらをのぞき見るとき、彼のそのおっとりした
気性の中で時々覗かせる敏捷な頭の良さを思い出した。克宏が他人を排斥することで自分を守
ってきたように、彼はその柔らかな物腰で自分を武装することで、周りから自分を守ってきたのだ
ろうか?克宏の目には、彼がすべてをあきらめているかのように見える。生きることも、死ぬことも。
だから彼は優しくなれるのだろうか、諦念が彼を支配しているから?他人に何も望まないから?克
宏は、克宏が官権につれていかれたときのことを話したときと、その無惨に傷つけられた肉体を
見せられたとき以外、彼が感情を高ぶらせるのを見たことがない。
 
そう、彼は克宏を大事にしている。全身で、彼への好意を克宏に伝えている。だが、それでも克
宏は一人になると、自分のなかの自分自身の一部が、うぬぼれるなと彼の心に語りかける。
'忘れたのか?実の親でさえお前をいらなかったんだろう?親でさえ愛せなかったお前を、愛せる
奴がいると思うか?お前はそれから学んだ筈だ。今更他人に期待して、裏切られて、また、ずた
ぼろになるまで傷付きたいのか?'
克宏は独りで部屋に蹲り、涙ぐみながら頭のなかに響くその言葉を聞いた。
'そうさ、他人なんか、必要ない。期待さえしなければ、何とか一人でやっていけるさ。馬鹿なまね
はするな。今までそれでずっとうまくやって来たんだろう?お前は独りだったし、これからもそうした
方がいいんだ。やめておけよ、他人と深いところで関わるなど。後で、必ず後悔することになる。
自分の心を、他人に渡すな。'
わかっているさ、克宏は、自答した。言われなくったって、そんなことは全部わかっている。彼は
座り込んだまま自分の膝を抱えた。重い、鉛のような疲労が覆い被さってきて、秋風のなかにいる
ような寒気が彼の内から湧いてくる。
「俺は・・・怖い・・・」
克宏は小さく、そう、呟いた。彼は自分の胸を締め付けているものがいったいなんなのかわからず、
見捨てられた子供のように不安で悲しくなった。彼はじっと蹲り、独りで長いことそのまま身動きし
なかった。
 
ー*ー
 
ある日、伊織は彼を訪ねてきて、言った。
「彫物を体にいれたいんだ。よかったら、下絵を描いてくれないか?」
克宏はその申し出に驚いた。彼はそういうことをしたがる人間に見えなかったからだ。克宏が喜ん
で承諾すると、彼は言った。
「左肩、丁度心臓の裏側に、そんなに大きくないものを入れたいんだ。私は、自分の体躯に君の
絵をいれたいんだよ。」
「どんな絵がいいんだ?」
伊織は少し黙ってから、口を開いた。
「・・・迦陵頻伽を、君の顔で。」
そういってから、彼は気恥かしそうに笑った。
「自分でも、年端のいかない奴みたいなことを言っているのはわかってるんだ。でも私はそうした
いんだよ。・・・それとも、君が嫌なのか?」
克宏は照れくささを隠しながら彼を見た。それを承諾すると、克宏は何枚か下絵をつくり、彼に
見せて意匠を相談する。そういう仕事を、克宏はもう何回もやったことがあった。刺青の墨に近
い色を選び、色を付けてみる。その顔に、伊織は何度も注文を付けた。
「君は、こんな寂しそうな顔をしていない。そう、もっと穏やかな顔をしているよ。」
'そうだろうか?'
克宏は思った。鏡で見る自分の顔は、彼が言うようには笑っていない。彼に向ける俺の顔は、
もっと違っているとでも言うのか?
 
克宏は何度も仕事で彼と組んだことのある、知り合いの彫り師に仕事を頼んだ。そして伊織が
刺青を入れに行くとき、克宏は彼に同行した。さほど大きくないものなので、一日もあれば済む
という。上半身裸になって、うつ伏せに横たわり、口に布をくわえて時折呻き声を出す伊織を、
克宏は微動だにせずに見つめていた。彫り師が針を突き刺す度、皮膚を破る気味の悪い小さ
な音が間断無く響く。始めてみる光景ではなかったが、克宏は体を固くして、まるで自分がそう
されているような、辛い思いに耐えながらそれを見ていた。
 
その夜、伊織は克宏の部屋に泊まっていった。家に帰れば、家人が彼の異変に気付き、何が
あったのかと問いただすだろう。いずれ知られることだが、伊織は今はそっとしておいて欲しか
った。それでなくとも彼の義母は彼を疎ましく思っていて、何かにつけて彼の揚げ足を取ろうと
いつも待ち構えている。体力を消耗しているときに、煩わしい目にあいたくなかった。
 
二人で床に横たわり、横向きになって暗闇の中で二人はお互いを見ていた。伊織は、始めて
克宏に自分のことをくわしく語った。父は元は徳川に仕える下級武士だったが、維新後の混乱
に乗じ、商人として財を成した。母は、彼が幼いころに死んでしまい、しばらくしてから彼の父は
後妻をとった。父は自分の商才の足りなさと父親の営んでいる商売への興味の無さに失望し、
義母は血の繋がりがなく、前妻に似ている自分を憎んでいる。自分に西洋医学を学ぶため、独
逸への洋行の話が出ているが、義母は費用のことに苛立ちながらもそれに賛成している。後妻
の実の娘である妹が年ごろだから、そうやって自分を外国に追い遣り、その隙に自分の娘に婿
養子をとらせ、家での自分の居場所を無くしてしまうつもりなのだろう、と語った。
「じゃあ、君はもうすぐ遠くへ行ってしまうんだな。」
克宏は、寂しそうに呟いた。灯の消された闇の中で、伊織が微笑んだ。
「私は、どこへも行かない。」
克宏は、黙って伊織を暗闇越しに見つめた。
「私は、外国なんか、行かない。卒業したら、医学所に職を見つけて家を出るつもりだ。私は君
がいる、この東京にいるんだ。」
克宏は黙って彼を見つめ、、彼は克宏を抱きよせた。
 
そのまま、克宏は始めて他人に自分のことを語り始めた。彼の親は彼を疎んじ、捨てるように幼
い彼を奉公へ出した。もう、生きているのか、死んでいるのかさえもわからない。克宏も、今更彼
らを探す気はない。その先で出会った相楽隊長と彼の赤報隊のこと。そして明治政府による彼
らへの裏切りと敬愛する隊長の処刑。それから東京へ流れ、師事していた絵の師匠のところを
飛び出したことなど。心の奥底にしまい込み、もう見まいとしていた過去のことが克宏の脳裏に
よみがえった。その塞がることのない古傷のような痛みに胸を締め付けられ、彼が涙ぐんだとき、
伊織が彼の手をとって握った。
「ずっと、私のそばにいてくれるか?」
克宏は、その言葉に頷いた。そして子供の頃に彼のなかで、凍り付き、冷たく麻痺してしまって
いた心の一部が氷解し、脈動を始めた。その感情の動きは痛みを伴って克宏に大きな波のよう
に押し寄せてきたが、彼はその痛みを心地好くさえ感じた。そして自分以外の誰かの体に触れ
るのは暖かいのだな、と思った。そんな風に思ったのは、これが生まれて初めてのような気がす
る。克宏が貪るように彼に強くしがみつくと、彼は黙ってそれを受け止めた。克宏は、自分の一部
が彼に融合し、彼のなかに溶け込んでいくような気がした。
「俺は、ずっと、あんたと、一緒にいる。」
克宏は呟いた。彼のなかに、もう、迷いも躊躇いもなかった。たとえこいつが俺を裏切り、俺の心
をずたずたに引き裂くことがあっても、もしそうなっても、俺はこいつの傍にいたことをけっして後
悔したりはしないさ。克宏はそう、思った。
 
ー*ー
 
その日克宏が斎藤に呼び出されていくと、克宏が部屋に入っても、斎藤は黙って酒を飲み続け
ていた。何も言わず、克宏を見さえしない。何か考えているようにも見える。克宏は黙って彼の
そばに座り、視線を外に向けて月を眺めた。だんだん、その月が満月に近づいてきている。
「おい。」
突然、斎藤が克宏に声をかけた。克宏が斎藤を見ると、彼は克宏を不機嫌そうに見ている。
「こっちへ来て、俺のをくわえろ。」
克宏は蹲り、頭を斎藤の膝の間に落とした。斎藤の着物の前を開け、それを取り出して手で支
えると口に含む。斎藤はじっとそれを見下ろしていた。克宏の頭の動きに会わせて、彼の髪も
揺らめいている。斎藤は彼の髪を掴んで、引っ張り、彼の頭を引き上げた。
「もういい。お前の着物をまくって、俺の上に座れ。」
克宏は黙ってそれに従った。斎藤に向き合って膝を床につけ、腰を下ろす。斎藤の顔を彼は
至近距離で見た。斎藤の冷ややかな目が彼を見ている。
「自分で、俺のをいれてみろ。」
克宏は斎藤のを右手で支え、自分の体にあてがうと、少し揺らしながら中へ徐々に入れた。克
宏は目をつぶり、ため息のような声を漏らした。少し慣れたとはいえ、快感があるわけでもなく、
まだ苦しいだけだ。斎藤の方に捕まり、腰を下ろす。
「まだ全部入っていないぞ。入れて奥まで届くよう、お前の腰をすり付けるんだよ。」
克宏は顔を顰めながらなんとかそれをやりとおした。
「自分で、自分を慰めろ。」
克宏は目を見開いて斎藤をじっと見つめた。斎藤は冷徹にそれを見返す。
「そんなこと、できない。」
「やれと言ったらやれ。俺の言うことはすべて命令だと言った筈だ。」
克宏はしばらくじっとしていたが、目を伏せると自分の着物の裾に手を入れた。中で手を蠢かす。
「着物をめくって、俺にちゃんと見せろよ。」
克宏は手を止め、躊躇っていたが、手を入れたまま左手で着物をゆっくりと引き上げた。年端の
いかない少女のように、その顔が赤くなった。
「続けろ。」
何度か手を動かし、克宏はじっとして動かなくなった。俯き、何かを堪えたような顔をしている。
「何をやっている?続きをやるんだよ。」
「お願いだ・・・許してくれ。」
斎藤は、彼の顎を掴んで、自分の方を向かせた。克宏の目に、涙が滲んでいる。
「だったらいいぞ。自分で自分のなかに張り型を突っ込ませてやる。俺の前に足広げてな。そ
れだったらできるだろうが。」
克宏は、なんとか続けようとした。斎藤が克宏を受け入れさせたまま後ろに倒した。夜具に押し
付けて、着物の前を開く。自分も着物を肩から落とした。
「やめるな。自分を慰めるんだよ。」
克宏はぐったりとしてそれを続け、斎藤は彼を深く突き上げた。
「そうだ・・・そのまま続けろ。少しは物わかりが良くなってきたじゃないか。」
斎藤が突き上げる中、彼はなんとか、それをやりとおした。克宏は手を止め、体液が彼のなかか
ら流れ出てくる。斎藤はその中、さらに彼を貫いた。克宏は呻いた。自分の体が、彼の意思に
反して斎藤を締め付けるのがわかる。痙攣し、さらに深く飲み込もうと、蠢いている。
「あ・・・」
克宏の口から、苦痛でも快楽でもない声が漏れた。斎藤は快楽に顔を歪め、満足そうに克宏を
見下ろしている。克宏は目をつぶった。
 
斎藤が体を離し、彼の隣に寝そべった。煙草に、火を付けている。克宏は仰向けに横たわった
まま、天井を眺めてじっとしていた。
「お前、最近、自分の部屋に男を引っ張り込んでいるそうだな。」
克宏は、弾かれたように反応して斎藤を見た。斎藤も克宏の方を向いた。斎藤は、面白そうに
笑っている。
「・・・なんの、ことだよ?」
「.....の、商家の息子だって?医学書生の。」
克宏は血の気の引いた顔で斎藤を見つめた。なんでこいつがそんなことを知っているんだ?
「おとなしそうな顔をして、俺では物足りなくて他の男を引っ張り込んだか。よほど慰み者になる
のが気に入ったと見える。粋狂な若旦那の、暇潰しの相手だろう。」
克宏の平手が斎藤の頬にとんだ。だが克宏の手が斎藤に届くより早く、斎藤の手が克宏の手首
を掴んだ。そのままそれを捩じ上げられ、痛みに克宏は小さな悲鳴を上げた。斎藤は、揶揄うよ
うに克宏を見ている。斎藤が彼を離すと、克宏は鋭く叫んだ。
「あいつのことを、あんたが語るな。」
克宏は、怒りに満ちた眼差しを斎藤に向けた。その火のような反応に、斎藤は少し意外そうな顔
をする。
「そいつに、本気で惚れてるのか、お前?」
揶揄うような口調で斎藤が言った。克宏は黙って斎藤をにらみ付けている。
「・・・お前に、関係ないだろう。」
「くわばら、だな。」
斎藤は克宏に鼻で笑って見せた。
 
ー*ー
 
その日斎藤は、克宏を呼び出すと宿につれていった。斎藤は克宏の腕を掴み、部屋に引っ張
っていく。いったい、なんだっていうんだ?克宏はいぶかしんだが、質問しても斎藤はただ黙って
いろと答えただけだった。宿の者に案内され、部屋にはいると、そこに男が座っていた。すでに
一人で酒を飲み始めて、寛いでいる。どことなく、斎藤と同種の匂いがする感じの男だった。平
和な堅気ではない、しかしやくざものとも違う、研ぎ澄まされたような緊張感を隠し持ったような
凄みがある。見目は悪くないにも関わらず、その雰囲気が見てくれのよさをうすらぼんやりと霞ま
せている感がある。何者だろう、と克宏は思った。傍らに刀を置いていないが、この廃刀令がひ
かれて久しい世の中で、刀の不在がこの男には不自然にすら見えた。身なりが良く、髪は断髪
にしている。座り込んでいるのでよくはわからないが、斎藤ほどではないにしろ背が高そうだった。
斎藤より少しばかり年上に見える。
「久しぶりだな、斎藤。どうしていた。」
男は座ったまま斎藤に笑顔を向けると、親しそうに彼に挨拶した。斎藤は克宏をつれて彼の前
に座った。
「相変わらずだ。お前の方こそどうしていた。」
「すべて順調さ。この時代も、これで結構悪くないもんだ。」
斎藤は、克宏を紹介した。酒が運ばれてくる。男は克宏に向かって、愛想良く話しかける。だが、
克宏はせいぜい男の言葉に返事をするぐらいで、身を固くして座っていた。何のために斎藤が
自分をここへつれてきて、この男に引き合わせたか・・・だいたいの予想はつく。斎藤が、暇潰し
のためにわざわざ克宏をここへ引っ張ってきただけの筈がない。だがそれでも克宏は、万に一
つもなさそうな望みに祈った。俺の考えていることが、外れているといい・・・
 
だから、斎藤が克宏に着物の帯をとくように命令しても、克宏は驚いたりしなかった。克宏はただ
唇を噛みしめた。視線を斎藤から男に移すが、その男は黙って克宏を見ている。克宏のその困
惑している態度に同情しているようにすら見えるが、彼は何も言わない。話はあらかじめついて
いるのだろう。克宏は再び斎藤を見た。斎藤は冷徹な顔で克宏を眺めている。
「どうした?早くしないか。」
「斎藤・・・」
「何をやっている?俺に恥をかかせる気か?」
できるものなら、斎藤の顔に唾を吐きかけてやりたかった。殴りかかって、この人でなしと罵り・・・
もしこれがもっと以前に行われていたら、克宏はもしかしたらそうしていたかもしれない。すべて
を捨ててここで斎藤に反逆し、こいつに一矢報いてやる。克宏はもう何も守ろうとせず、自分の
誇りをとることを選んだだろう。だが克宏は、斎藤が伊織のことを知っているのが気掛かりだった。
どうやって調べたのか知らないが、斎藤は彼が何者なのかまで知っている。
'俺一人だけならどうとでもなる。俺はこの腕と命以外、失うものなど他に何もないのだから。'
克宏は眼を伏せた。
'だけど、もしこいつが彼にまで危害を加えたら・・・'
克宏は静かに立ち上がった。努めて何気ない風を装い、顔から表情を消そうとし、自分の身に
付けているものに手をかける。
'いっそ、狂ってしまえたらいいのに。'
屈辱に対する、激情は湧いてこなかった。静かに、彼はすべてをあきらめた。それに彼は、彼が
屈辱にうち震えれば震えるほど、斎藤の残虐性を刺激して、更に彼を喜ばせるだけだとすでに
わかっていた。二人の男の無遠慮な視線の前で、克宏は帯をとき、着ている物を床に落とした。
何も身につけない姿になり、おとなしく立って彼ら二人を見下ろした。斎藤は、満足そうに笑っ
た。男が克宏に手招きし、彼はそれに従うと膝を落として座った。男が克宏の顔をじっと見つめ
る。克宏はこういう男の表情を見慣れている。男たちは、見世で遊女を値踏みするときにこういう
顔をする。
「色が白いな、君は。それに化粧もしていないのに、唇が紅い。」
男の手が、克宏の顔に触れ、喉を伝って胸に移行する。克宏は黙ってそれに耐えた。
「君がもし女だったら、太夫で通じるぜ。」
目を伏せている克宏を見て、男が笑いながら言った。
「そう、固くなるなよ。別にとって喰おうというわけじゃない。」
そういって、克宏の頬を指の甲で優しく撫でた。優しそうに笑ってはいるが、その眼は欲望で光っ
ている。彼は自分で着物の帯をとくと、前を開けた。克宏の頭にそっと右手をそえ、軽く下に押し
て克宏に頭を下ろすように促す。克宏はそれに従い、胡座をかいている男の膝に手をかけると、
上半身で這い蹲って、男のに口をつけた。まだ柔らかいそれを口のなかに飲み込み、舌で愛
撫すると、それはたちまち彼の口のなかいっぱいに広がった。男は克宏の頭を撫でた。
「いい子だ。だが音を立てて、やってくれるか?」
克宏はそれに従った。卑猥な音が、彼の口で響く。斎藤が後ろから克宏の腰を掴んだ。着物を
つけたまま前だけ開け、克宏に自分のを当てて侵入させてくる。
「噛むなよ。」
斎藤が言った。克宏の腰を押さえ、押し付けるようにして入ってくる。克宏はくぐもった声で呻い
た。乱暴に後ろを蹂躙され、固く目をつぶる。その動く衝撃で、くわえている物が克宏の喉の奥
まで何度も突き当たった。
「すごいな、これ。興奮するよ。」
男が苦しんでいるような口調で言った。両手は克宏の顔を撫で、よくそれを見ようと、時々克宏
の髪をかきあげている。克宏はひたすら、早く終わって解放されたいと、そればかりを願ってい
た。
 
だが、それが終わっても、克宏は解放されなかった。暫く休んで落ち着くと、斎藤は克宏に、横
たわった男の体を愛撫し、その上に乗って自分で彼のを克宏の体内にいれることを強要した。
克宏はそれに従った。相手の男を再びそういう気にさせるために、卑猥な格好までさせられた。
仰向けになっている男を自分のなかに受け入れ、体を動かした。
「君は、まだそんなに慣れていないようだな。」
男が克宏の腰を掴み、彼の動きを誘導しながら言った。
「こいつ、女さえまだ知らないんだ。」
克宏は斎藤のその言葉に、彼の口を塞いでやりたいと思った。彼は煙草を吸いながら面白がる
ようにこちらを見ている。男の手が克宏のを愛撫し始め、克宏は顔を歪ませた。
「感じているのか、いい子だ。」
体を動かし、受け入れている内部を締め付けた。克宏の口から、声が漏れた。克宏が斎藤を見
ると、彼の鋭い眼に気が付いた。横たわっている男からは見えないが、それは確実に克宏の方
を向いている。克宏は一瞬、不審に思い、そして斎藤に向かって微笑んで見せた。
'お前、もしかして、俺が他の男と楽しんでいるのが気にくわないのか?'
何だかその考えが馬鹿馬鹿しかったが、斎藤はそう感じているとしか見えない。克宏はわざと顔
が彼に見えるように喉を仰け反らせ、体を激しく揺さぶって見せると、盛大によがって見せた。克
宏は斎藤の不機嫌そうな顔を、ちらと盗み見ると、口を男の耳元によせた。
「ねえ・・・まだいったりしないでくれよ。」
克宏は男に囁きかけた。
「まだ楽しみたいのか?大丈夫だから安心しろ。」
体を男の上に倒し、密着させる。腰の動きと呻き声だけは派手にして見せた。男にしがみつき、
甘えるような声を出した。
「あ・・・だめだ・・・そんなに締め付けないでくれ。」
「やだ、気持いい・・・」
男の方が苦しんでいるかのように顔を歪ませ、小さな声を出した。克宏はしがみついたまま、男
の肌に埋めていた顔を上げてちらと斎藤を見る。その忌々しそうな顔に、克宏は不遜に微笑ん
で見せた。
 
男が帰ってしまうと、部屋に斎藤と克宏の二人になった。克宏は裸の体に着物を羽織ったまま、
杯をとって酒をぐいと飲み干した。斎藤を見ると、克宏の方を見つめながら煙草をふかしている。
無表情だった。自分の感情を圧し殺しているように見える。その煙草を灰皿に押し付けて消すと、
いきなりその平手が克宏の頬にとんだ。克宏は斎藤を見た。その克宏の顔が笑っている。
「どうしたんだよ、斎藤。」
斎藤は何も答えない。
「お前、楽しんだんじゃないのか?俺を他の男に抱かせて、それを見物したかったんだろう。俺
は、うまくやっただろう?お前の言う通り、まだ女さえ知らないのにさ。」
斎藤は克宏の着物の襟を掴み、その顔をもう一度張り飛ばした。そうされても、克宏はうっすらと
笑ってさえいる。
「何だ、お気に召さなかったか?よくやったと誉めてもらえるかと思ったのに。」
克宏の笑い声が、部屋に響いた。彼は憑かれたように笑っている。
「あの男、えらくご満悦な態じゃなかったか。俺は、お前の面目を施したんだろう?」
「この、淫売が!」
斎藤が克宏を強く突き飛ばし、彼は夜具の上に転がった。克宏は横になったまま、顔を上げて
上目使いに斎藤を見た。くっくっという笑い声がその喉の奥から漏れている。
「その通りだな、俺は淫売だよ。お前に自分を差し出して、助命して頂いているんだからな。」
斎藤は、冷たく克宏を見下ろした。身支度を整えると、黙って部屋を出て行く。その後ろ姿に、
克宏は声をかけた。
「何だ、もう帰るのか?もっと、可愛がってはくれないのか。それとも、俺のような淫売はいやか?」
克宏の哄笑が斎藤の背後に響き、斎藤は黙って部屋を出ると、戸を閉めた。
 
暫く克宏はそうやって発作を起こしたように笑っていたが、徐々にその笑いは啜り泣きに変わっ
ていった。彼は夜具に突っ伏し、顔を押し付けて号泣を始めた。
'反吐が出る・・・俺自身に。'
そうやってひとしきり泣いたあと、克宏はぼんやりと壁を見つめながら、死ぬことを考え始めた。
だが伊織のことが脳裏に浮かび、克宏はその考えを振り払う。
'いや、俺はただでは死なない・・・'
克宏は体を起こすと、のろのろと帰り支度を始めた。その眼が、怒りで激しく輝いている。
'そうさ・・・俺が死ぬときは、あいつも道連れにしてやる、必ず。'
 
ー*ー
 
夕方、伊織が学友とわかれ克宏の部屋へ向かっていると、人気のない道に長身の邏卒が立っ
ていた。帯刀している。そいつは吸い込んだ煙草の煙を空中に向かって吐き出すと、伊織を見
た。伊織は、その男を覚えていた。始めて伊織が克宏とで会ったとき、彼を追い掛けていたあの
警官だった。伊織は眉を顰め、立ち止まり、そいつと対峙した。口元に笑いを浮かべ、そいつを
物怖じしないで見つめた。こいつが何を考えているか知らないが、この男相手に引いてはいけな
い、彼は本能的にそう、思った。
「久しぶりだな。」
斎藤が彼を見つめながら言った。
「お役目、ご苦労です。」
伊織が彼に会釈して答える。顔は笑っているが、彼の目はそれを裏切っていた。
「お前さん、頭が良いらしいな。俺を覚えているのか。」
斎藤が口元で笑いながら言う。
「記憶力は良い方ですので。」
伊織が答える。斎藤は煙草を地面に投げ捨てた。
「あのとき、俺が追っていた男をお前が知っているとは意外だったな。」
「なんのことか、わかりかねますが。」
斎藤は少し黙り、伊織を見た。
「しらを切りたいなら、それでいい。たいした問題じゃないからな。だが、俺は茶番が嫌いなん
だ。時間の無駄という奴もな。」
斎藤はいきなり抜刀した。鯉口を切る音が鳴ると同時に、伊織の喉元にその切っ先を突きつけ
る。ほんの少しそれが伊織に押され、彼の喉は一筋の血を流した。これには伊織もさすがに血
の気が引いた。刃物という凶器に対する、本能的な恐怖が彼を襲った。そして彼も全く剣術に
心得がないわけでもない。けっして熱心ではなかったが、幕末まではたしなみとして習いに行
かされていたのだから。彼は斎藤の身のこなしから、その能力を推し量ることぐらいできる。
「なんの、まねです?」
震える声で、彼は言った。だがその眼は、脅えながらも気迫を保ち、斎藤をにらみ付けている。
「前途有望な、裕福な商家の若旦那が、余計なことに首を突っ込んで火傷するのは可哀想だと
思ってな、忠告に来たんだよ。」
斎藤は、刀を引くとそれを鞘におさめた。伊織はそれを、忌々しそうにじっと眺めた。冷たい口
調で、口を開く。
「・・・おぼえて、おきましょう。その親切に、礼を言う。」
伊織は、死線を幾たびも潜り抜けてきた武人である斎藤の気迫に押されていなかった。真っ直
ぐ立って、憎しみに満ちた眼で斎藤を見つめている。斎藤は彼をしばらく見つめた。対峙した
まま二人とも動かない。やがて斎藤が気を発しているのをとき、立ち去ってその姿が見えなくな
っても、伊織はそこに立ち尽くし、動かなかった。そして彼がその場を去ったとき、伊織の眼に
は恐怖と・・・怒りがあった。
 
ー*ー
 
誰かが克宏の部屋の戸を叩いたとき、克宏はそれを伊織かと思った。いつも彼が来るぐらいの
時間だったからだ。だが嬉々として戸を開けると、そこに立っていたのは伊織ではなく斎藤だ
った。克宏の顔が一瞬にして曇る。斎藤は、不機嫌そうに克宏を見下ろした。
「俺と来い。」
斎藤は克宏の腕を掴み、強い力で引いた。
「い、一体何を・・・」
斎藤は何も答えない。乱暴に克宏の腕を引くと、引き摺るようにして彼を引っ張って行く。その
有無を言わせぬ調子に、克宏は圧倒され、黙ってついていった。
 
例の斎藤の別宅へつれていかれ、相模が少し驚いた様子で二人を出迎える。斎藤は相模に
しばらく近づかないよう命令し、克宏を寝室へ引き摺っていった。寝具の上に転がされ、斎藤
は憎しげに克宏を見下ろした。克宏は、上半身を起こして、脅えながら斎藤を見た。斎藤は片
膝を立て、体を下ろして克宏の顎を片手で掴んだ。その眼に、怒りがある。
「お前なんか、端金で買える淫売と変らないんだよ。」
克宏は、斎藤が何故おかしな様子でこんなことを突然言い出しているのかわからず、混乱した。
しばらく斎藤は克宏を見つめていたが、平手で強く彼を張り倒した。その勢いに彼が倒れると
斎藤は襟元を掴み起き上がらせ、反対側をたたく。斎藤に襟元を掴まれながら、克宏はぐった
りとなった。
「いや、それ以下だな。お前は、玩具の抱き人形だ。せいぜい、飽きるまで弄んでやるさ。」
何故、斎藤はこんなことを・・・?克宏は痛みにぼんやりとした頭で思った。なんだか、いつもと
様子が違う。斎藤は、克宏をうつ伏せに夜具に押し付け、彼の身に付けている物を剥ぎ取った。
その乱暴な様子に、彼の着物はいくらか裂けてしまった。斎藤は刀を自分の腰からはずし、脇
に置くと自分の服の前を開けた。克宏に被さり、押さえ込むといきなり体に侵入してくる。克宏
はその苦痛に喚いた。
「いやだ・・・!」
「黙れ!」
斎藤が一喝するが、克宏は痛みにうめき声を殺すことができない。
「うるさいんだよ。」
斎藤の両手が克宏の首にのび、絞めた。克宏は、その締め付けられる苦しさのなかで恐慌に
駈られた。
'殺される!いやだ、助けて!'
そして斎藤が手を緩めると、克宏は叫んだ。
「助けて、殺される!誰か来てくれ、相模さん、相模さん聞こえたら来てくださ・・・」
斎藤が克宏の髪を掴み、寝具に押し付けた。克宏は息ができず、もがいた。
「黙れ!うるさいって、言っているだろうが!」
斎藤が喚きながら髪をぐいと引き上げ、克宏は顔を上げられ、泣きながら大きく喘いだ。激しく
息をついているため、声がでない。
'死にたくない。'
彼は心のなかで叫んだ。
'俺は死にたくない、"彼"のもとに帰るんだ、彼と一緒に生きて行きたい、死ぬのは、いやだ・・・'
克宏は、弱々しく助けを求めて呟いた。
「助けて・・・伊織・・・」
斎藤が、克宏から手を離して動きを止めた。じっとして、怒りを剥き出しにした顔で克宏を見下ろ
している。克宏は倒れて喘ぎながらじっとしていた。顔から冷たい感触とともに血の気が引いた。
自分が、何かとんでもない過ちをしてしまったような気がする。斎藤は片手で克宏の左手首を掴
むと、克宏の手の甲を上にして強く畳に押し付けた。鯉口を切る音が、克宏の耳に不気味に響く。
素早く、無駄のない動きで脇に置かれた自分の刀を抜き、斎藤は狙いを定めた。克宏は自分が
何をされようとしているのか悟った。顔から、すごい勢いで更に血の気が引いて行く。自分の顔が、
冷たく感じた。
「よせ、やめろ、斎藤!」
克宏は叫び、もがいたが斎藤の克宏を掴んでいる手はびくともしない。斎藤は厳しい表情のまま、
克宏の手の甲の真ん中を、畳に向かって一気に、その刀で垂直に刺し貫いた。
 
その瞬間、克宏は、絶叫した。不思議と痛みは感じなかった。だが目の前の刀に刺し貫かれてい
く自分の手が・・・現実とは思えず、恐怖に彼は叫んだ。刀は深く畳に差し込まれてゆき、克宏は
釘付けにされ身動きすることができない。克宏はただひたすら叫んだ。
 
斎藤は立ち上がり、冷ややかに克宏を見下ろした。克宏の涙でぼやけた視界に、純白の菊の花
が眼にはいった。白く、凛とした大輪の花を、真っ直ぐな茎の上で誇るように咲かせている。彼の
右手がそれにゆっくりと伸ばされた。何とか体を少しそれに向かって這わせ、手を生けられた白い
菊に届かせると、彼はそれを掴んだ。血に塗れた手に掴まれたそれは、所々紅く染まり、克宏の
手のなかでぐしゃりと砕かれた。克宏は崩れ落ちた。自分の手のなかでくずれた花を一瞬、眺め、
夜具に突っ伏し、動かなくなった。
 
「藤田様、月岡様、一体、何事です?!」
相模が驚いた声で部屋の外から叫んだ。斎藤はずかずかと戸口へ行き、黙って襖を開けた。斎
藤の体越しに、中の惨状を見た相模は蒼白となった。
「・・・月岡様!」
斎藤の脇をすり抜け、相模は克宏に駆け寄った。斎藤は黙って部屋を出て行く。相模は刀へ手
をかけ、蒼い顔でそれを引き抜いた。その瞬間、鮮血が克宏の手からあふれだす。克宏は、涙と
血に濡れた顔で、痛みに弱々しく呻きながらそれを見つめた。
 
医者が呼ばれ、克宏に手当てが施された。熱を出し、手の痛みに呻く克宏に、相模が薬を持って
きて飲ませる。
「月岡様・・・」
相模が心配そうな顔で克宏を見る。克宏は床のなかで、仰向けになって、ぐったりとして横にな
っていた。
「斎藤は?」
克宏が聞いた。
「他の部屋に、おいでになります。」
「花を・・・台無しにしてしまった。まだ綺麗に咲いていたのに。」
熱に浮かされながら克宏は譫言のように言った。
「斎藤は、俺を、壊すつもりだったんだ。あいつは俺を玩具だと言った。だから、飽きて、壊してから捨てるつもりなんだ。」
「月岡様、あの方は・・・」
克宏が眼を閉じ、意識を失っていくのを見て、彼は何かを言いかけた口をつぐんだ。