<アーンして>
■■■

「それでは卒爾ながら、失礼をば。――御口をひらいていただきましょう」
「…………」
「もそっと叫ぶ形のように、こう、です。それで宜しい。では」
「…………」
「お加減はいかがで?ああ、これは私としたことが。御身においては、お声を賜るのも今は無理、でございましたな。しかし何とも、このお役目仰せつかるとは光栄至極、そして我が君の慧眼たること、まさしく全てを見通すマンウェのごとし、と申し上げます。実に私こそが、ドリアスにおいて最も称揚される者の声、銀の竪琴の咽喉をこうしてうるおして参ったのですから」
「…………」
「あれはもう、幾年前のことになりましょうやら――彼が、全ベレリアンドに冠たる歌声の彼が、つまり我が友が、私を訪ねて私室の扉を叩いたものです。時は深更、まさに夜が明けるとともに喜ばしき宴の訪れ、一日の歌が始まるはずでしたから、私は驚きました。どうしたのかと言葉に出して訊かねばならぬ仲ではありませぬ。私はただ、黙ってその眼を覗き込んだものでございます。頑是ない、やるせない、まるで子供のような目つきをしておりました――彼が!私はますますの驚きに打たれ、彼を中へいざなったものでした」
「…………」
「明かりを落とした部屋の中では、その姿はいよいよ細く、小さく、またしても子供のごとき様に思われ、私はそっと、彼を掛け布でくるんでやったのでございます――夜着一枚のまま切なげにしておったものですから。そして飲み物を運んでこさせ、彼を柔らかい寝台へ座らせて、その手を撫でながら初めて彼が口を開くまで、ずっと添っておりましたのです。誰もあの場では、そうしてやらずには居られますまい――何と頼りなく、よるべなき影たる身であったことよ!……これは失礼を、手が止まっておりました」
「…………」
「何か仰られるのなら後で伺うとして。ここからが、実に話の眼目なのでございますから。彼はその貴重な指に、何か小さなものを抱え込んでいるようでした。しきりにそれを気にしながら、しかし私の眼からは隠そうとするのです――決心がつかない、とでもいった風に。何を袖にたくし込んでいるのか、しかしそこで我から口を開かせるのが手、でございます。私が一言も掛けずに、ただ侍って髪などを指で梳いてやりますと、とうとうその蜜のような唇が震えました。……お待ちください。まだ終わってなどおりませぬ。あにはからんや、私は彼が不安に打ちひしがれて我がもとを訪れたと、そう思っておりました。しかしそうではなく、彼は羞じらっていたのです。身も世もなく、ひたすら羞じらっておりましたのです。半ば涙の溜まった眼で、彼は呟きました。薬が――塗れない、咽喉に、と」
「…………」
「あいやお待ちください。いまだ済んではおりませぬ。彼の、銀の咽喉!毎朝ヒーリロルンの葉に溜まった露より他に飲まぬ彼です。夕べの霧にけぶる花より鳥のように水を吸う彼です。その咽喉に、もしものことがあってはドリアスの国の一大事ともいうべき、悲しみごとではありませぬか。私は出来るだけ優しく、静かに薬を使っているのかと尋ねました。こくり、と小さな銀の頭が頷きました。傷めているのかと訊けば、今度は横に振られました。とつとつと語るところを聞くに、とりわけ大きな宴の際には、中でも姫と歌を合わす時には、必ず前夜に蜜と果物の汁を混ぜたものを鳥の羽の先で塗っているとのこと。何ともいじらしい、小さな咽喉への気遣いよ!それが今、我が君にお使い頂いているものにございます。――また語るところによると、前年までは存外に器用なベレグに頼んでいたものが、彼は北方の警備へと旅立ってしまった。もちろん自分ではうまく塗れず、傍仕えの者に頼めばよいではないかと眼で問えば、彼はまたしてもかぶりを振るのです――大事のことだから、友とも頼むものにぜひ願いたい、と――私の胸は打ち震えました。私はそれまで、彼の数ある知己のひとりに過ぎないと、そう思い込んでいたもので――失礼を、また手が止まっておりました」
「…………」
「私の臥所に横たわり、雛鳥のように口を開いたその姿の震えて、おぼつかなげだったこと!私はひそかにベレグの旅立ちを喜びながら、もちろん念入りに――しかし多くは申しますまい。秘すれば花、とも申します。ともかく私の手先の器用なことは、今こうしておいでの我が君がよく御存知のはず、彼も喜び、あくる日の宴もつつがなく、かくして我ら二人の友情は甘い秘密をはらんで深く、我が君も御承知のとおり、年々いや増すばかりにて――」
「……もう良い!その口を塞ぎ居れ、不敬であるぞ!」
「これは異なことを――終わっておらぬと申し上げますのに。不敬?私が不敬の振る舞いを、と?」
「予が口の利けぬのをよいことにべらべらと――」
「不敬と仰いますのか。さてどれが、不敬でありましょうかな?」
「その方、謀ってやりおったな」
「さて」
「くだらぬ惚気話などをよくも予の耳に入れおって――」
「明日の宴に、その惚気話を我らが美しき王妃と王女の歌二つ、延々と歌うつもりであるからダイロン秘蔵の妙薬とやらを秘密裏に寄越せ、とお頼みになられた方が、何ともはや!私は、薬の由来を述べただけにございます」
「では、疾く下がれ!目通りかなわぬ、予はベレリアンドの王なるぞ」
「重々承知いたしますれば。……さて、塗り薬はまだ残っております。この先誰に塗らせましょうや?次の間に、ちょうど何とやらで名高い狩猟長が控えておりますが――」
「ええ、無骨者でかまわぬ。マブルング、無骨者よ入って参れ!」