銘仙、と聞くと、十二階や仁丹塔、林檎飴、紅梅焼きの匂い、ジンタの響き、サトウハチロー
なんかが浮かんでくるのは、長生きだからではありません。
 それらの認識が、正しくはないことも知っている。しかしなお、週末ごとに浅草をうろつき、そ
こを取り扱ったエッセイや小説を集める浅草ジャンキー、懐古病クランケとしては、「銘仙なら
浅草!」と主張するものであります。都合よく、浅草を書いて随一の作家、都筑道夫の言葉が
あるので、ここに掲げたく思う。
「有名ブランドのジョギング・ウエアを着た中年男が、大きな指輪の光る手に、太い綱をにぎっ
て、たくましいセパードを先に立てていく。その横を、雑種の瘠犬を追い立てて、洗いざらしの
Tシャツの初老の男が歩いていても、まったく違和感がない」
 浅草は下町ではない。むしろ、東京の田舎であります。立ち働く仲居さんのポリエステル、
粋筋の大島、そぞろ歩きの銘仙なんかが、一点の不自然さも無く調和して、共存している。ヤ
クザもののアロハシャツ、場外馬券売場の革ジャンパーの群れに混じって、茶会へゆく薄色
の着物が少しも変でない。疑いもなく、その中の一つとして、銘仙は浅草にあうのであります。
 そしてまた、浅草、とくればどうしても銘仙でなければとも思う。紬の縞だったら、本所や深
川を歩きたくなるし、やわらかものを着たら資生堂パーラーでアイスクリーム。光沢のせいなの
か、木綿よりも銘仙が、より浅草のうさんくささ、通俗性にフィットするようであります。乱歩の愛
した、押絵をつかったのぞきからくり、正史のえがく見世物小屋やバラックの回転木馬館。ごと
ごとと、夕焼けの空めざして花やしきのコースターがのぼってゆく。すすけたような、沈んだ色
合いの華やかさと俗悪さが。
 木綿の絣であるならば、「明るい農村」とまではいかなくても堅実な生活の匂いがする。銘仙
は、安っぽい華やかさの悲哀に満ちている。
「孤島の鬼」の木崎初代が回想場面で着ていたのも銘仙。「黒猫亭事件」の松子が手配写真
で着ていたのも銘仙。うわついて、派手でありながら、その泥くささが人をへだてない。乱歩と
正史、私が正史をより愛するのもそこなので、乱歩を読んで、ぐらついた気持ちのままに正史
を読み、金田一耕助に逢い、やっと安心したりするのです。泥くささの効用、というのは確かに
あります。
 夜店の焼きそば、駄菓子屋の得体の知れない砂糖水。考えたらまるで子供の私が、それら
にさわぐのは毒の味だからです。インスタントラーメンのうまさ、スナック菓子の習慣性。それら
が見識ある人たちに、眉ひそめられるものであればこそ、その味は味以上の何かへ変化を遂
げるのです。私にとって、銘仙の後ろにくっついているのはそれらと同じ、安っぽいロマンです。
安っぽいからこそ、けばけばしさが悲哀を生んで、みとれずにはいられない。
 祭りの翌朝、縁日の跡に立ち尽くすようにして。私にとって銘仙を着るのはそういうことです。
安っぽいロマンを愛し、浅草に焦がれ、つまりはノスタルジアに、ちょっぴり俗悪の色をなすった
ものなのです。