克宏は、幽霊のようになって、自分の長屋にたどり着いた。彼はすでに抜け殻だった。彼の魂
は打ちのめされ、力を使い果たした。もう、動けない。警察署で解放されたのが夕方で、家に
たどり着いたのはもうあたりが暗くなってからだった。憔悴しきっていて、体が軋むような感じが
する。頭痛がして、身体中の関節が痛んだ。自分の部屋に入り、行灯を灯す。部屋が、何かよそ
よそしく感じられた。暗く、空気が淀んでいて、その主を、責めているように感じられる。嘲るような、
誰かの声が、克宏の頭のなかで響いた。
'あんたは、もう出かけていった前のあんたじゃない。'
克宏は、畳に腰を下ろすと、土間に下げられた脚の間に手を落とし、俯いた。
'あんたと、あんたの仲間を卑怯な手で裏切ったあの連中に、あんたは卑屈に膝を屈して命乞い
をした。怖くて、痛くて、恐ろしくて・・・それに耐えられず、自分の命が惜しくて、あんたはその誇
りを捨てたんだよ。惨めなやつだ。'
その声を、克宏は現実に聞いたような気がした。克宏は上半身を倒し、天井を見つめた。ほの暗
い行灯の灯りの元で、もとからあった天井のしみが、少し大きくなっているような気がした。
'死んだほうが、いいんじゃないか?何のために、耐えている?いっちまえよ、お前の隊長の所へ
さ。楽になるぞ・・
・隊長は、待っているぜ・・・'
克宏は、眼を覚ました。その瞬間、彼が感じていた重苦しい雰囲気は、飛び散るようにして、消え
た。
「センセ、センセいる?」
克宏は、弾かれたように起き上がった。腰を下ろして、そのまま寝入ってしまったらしい。戸の隙
間から陽の光が漏れて差し込んでいて、白菊が彼を呼びながら戸を叩いている音がする。克宏
は起き上がり、戸を開けに行った。
「センセ・・・」
克宏を見ると、白菊はほっとして力が抜けたようになった。
「ああ・・・よかった。先生が官権につれていかれたって聞いて・・・どうなったのかと・・・」
「心配かけてすまなかった。昨日、解放されて帰って来たんだ。」
「無事でよかった。」
克宏は微笑んだ。彼女が自分の身を心配してくれているという事が嬉しかった。
「なあ、白菊。」
「何?」
「俺、腹減った。」
白菊は一瞬、呆気にとられた顔をしたが、手にしていた手提げで、克宏を何度も思いきりたた
いた。本気で怒っている。
「人に心配させて、そんな呑気な!心配していたのは、私だけじゃないんだから。」
少し離れて、伊織がそこに立っていた。穏やかに微笑みながら、二人のやり取りを見つめてい
る。克宏は、彼をじっと見つめた。
'何で・・・俺はこんなことに気が付かなかったんだろう。'
克宏は、心のなかで呟いた。彼は何故この男に初対面で胸襟を開き、打ち解けたのかその
瞬間、わかった。霧がはれて、ぼんやりとした輪郭としてしかわからなかったものが、はっきり
見えたような気持だった。この男は、彼の敬愛してやまない相楽隊長に似ているのだ。容貌の
ほうもさることながら、彼の持っている雰囲気の方は、あの懐かしい隊長とよく似ていた。柔らか
くて、暖かい。どこか人を包み込み、安心させるような穏やかさがある。惜しむらくは彼がほっそ
りとした優男だという事だった。もし彼が隊長のように大柄だったら、きっと本当によく似ていた
ことだろう。
「差出がましいかとは思ったんですが・・・ついつい、来てしまいましてね。大丈夫でしたか、怪
我はありませんか?」
伊織は克宏に近づいて心配そうに言った。
「ええ、ちょっと疲れただけです。」
克宏は、そう言ってあることに気が付いた。白菊は、芸姑で外を勝手に出歩ける身分ではない。
おまけに、素人のおかみさんのような格好をしている。
「おい、白菊・・・何でお前ここへ来れた?!」
「伊織さんに、協力してもらった。知り合いの、素人の女の人に中に来てもらって、その人の着物
と切手(部外者の女性が廓に入るための通行証。それがない女性は門の外へ出れない。)を借り
て出てきたの。」
「危ないまねを・・・」
「ばれたら、庇ってね、センセ。」
白菊はそう言って面白そうに笑う。送っていくと申し出た克宏と伊織に、目立つといけないから、
と言って、白菊は人力車を呼んで帰っていった。
 
克宏は、白菊の行動に少し当惑した。何故、彼女はそこまでして克宏を訪ねてきたのだろう?た
しかに彼女は、こういったことを、危険と引き替えにしても楽しむような変わった気性がある。だが、
もしこのことが露見したら、彼女はただではすまないだろう。しゃれではすまないことになる。冗談
や粋狂でやれるような行動ではなかった。何か、俺の眼が遮られているところで、何かが起ってい
るのだろうか?後で、白菊を捕まえて問い詰めてみよう。克宏は思った。
 
「食事でも、一緒にいかがです?」
白菊が見えなくなると、伊織は言った。克宏は内心、少し訝しげに思いながらも、それに喜んで
承諾した。腹は減っていたし、この男と一緒にいるのは楽しかった。だが、白菊といい、この男と
いい、これらの行動が度を過ぎているような気がしていた。白菊は、まだわからないでもない。彼
女とは結構長い付き合いで、お互い気心も知れている。だが、この男は、たった一度会った事の
ある克宏に何故ここまでしてくるのだろう?
 
二人で連れ立って道行く途中、克宏は思った。いくら彼が相楽隊長に似ているとはいえ、俺が
他人にたやすく打ち解けるなど、珍しいこともあったもんだ。だが、そういうことが珍しいと言うだ
けで全くないわけじゃない。白菊だって、その口だ。白菊とは初対面の時から、克宏は全く彼女
に物怖じしなかった。彼には克宏が何者か知った大多数の連中が吐き出すような、ぎらぎらした
ところが全くない。あの高名な絵師先生と仲よくなっておいて損はない、といわんばかりの計算
高い態度、空辣な阿諛追従・・・克宏は、必要さえなければ滅多に自分の身分を明かすことはな
い。そんなことをしたって、煩わしいだけだ。だが彼は、最初に驚いただけで、あとは克宏に対し
て、気持のよい、打ち解けた友人のように振る舞った。その態度に、気負いもへつらいもない。
その自然な様子に、彼はきっと育ちがよいのだろう、と、克宏は思った。
 
伊織につれられて店で昼食を取り、そのあと一度わかれて伊織のなじみの茶屋で夕方に待ち合
わせをし、二人で白菊の様子を見に行った。見世の格子の向うで、彼女は悪戯っぽく笑って見せ
た。二人を見ると、嬉しそうに寄ってくる。
「元気かい?白菊。」
克宏は笑いながら言った。
「元気よ、たまには私を買ってくれる?センセ。」
その言葉に、伊織が口を挟んだ。
「私と、彼の二人で買ってもいいかな。祝儀ははずむよ。」
克宏はなぜか心臓の鼓動が高まった。単なる冗談さ、そう自分に言い聞かせて伊織を見ると、彼
は白菊を見つめて笑っている。
「もちろんよ。」
彼女は機嫌良さそうにそう言うと、格子を離れた。一人で少しうろたえている克宏の前で、伊織は
克宏を見て当然のような顔をしている。
「さあ。」
彼に促されて、克宏は中に入っていった。彼は克宏の意向など聞かなかったが、克宏は何も言
うことができなかった。
 
部屋で二人、白菊を待っている間、克宏はなぜか落ち着くことができず、始終いらいらしていた。
'俺はなんでこんな事してるんだ?'
何となく沈黙の間、手持ちぶたさになるのがいやで、やたらと酒に口をつける。
'白菊が来たら、逃げてしまおうか?'
そう思いながら、自分でもどうしていいのかわからない。いや実際のところ、自分がどうしたいのか
さえも彼はわかっていなかった。伊織は伊織でそんな克宏を前に、知らぬ顔を決め込んでいる。
「遊郭で、男二人で妓を待ちながら酒を飲んでいるというのも変わった趣向だな。」
伊織のその言葉に、克宏は動揺を隠しながら笑った。
「そうだな。」
「君は、白菊を買ったことがあるかい?」
「いや・・・彼女の絵はもう、何枚も描いたけれど・・・」
「綺麗な妓だ。恐ろしく肌の色が白い。そこら辺、君といい勝負だよ。こんなことを言ったら怒るか
もしれないが、どことなく君と似ているな。」
彼は克宏をついと見つめると、克宏の右手に視線を移し、その手を何気ない風にそっと取った。
「この華奢で柔らかな手であの凄まじい化け物の絵が描き出されるとはね・・・想像できないよ。」
手をとったまま、右手で克宏の頬に触れ、指を髪に差し込み、絡ませた。伊織は克宏をじっと眺
め、克宏も彼から視線を離せない。克宏は体が、動かなかった。
「あの幻想的な光景は皆、君の頭から紡ぎ出されるのか・・・?」
彼は体を近づけると、克宏の唇に自分のを軽く触れさせ、すぐに離れた。そして克宏を抱きよせ
ると、その首筋に頬と唇をつけた。
「だめだよ・・・」
克宏が、小さな擦れた声で囁いた。
「私が嫌いか?」
彼は顔を埋めたまま、目を閉じて克宏から離れずに聞く。
「もうすぐ、白菊が来る・・・」
「白菊は来ないよ。」
彼は克宏の体を、優しく夜具の上に倒して囁いた。
「ここには誰も来ない。」
克宏は身を震わせた。泣きそうな目をしている。彼はかつて、凌辱されかけて逃げたことや、あの
逃げられなかったときのことを思い出し、脅えた。その不安そうな様子は、まるで生娘のように見え
る。
「痛いことなんてしないよ。君の嫌がることもしない。」
両手で克宏の頬を包み、再び口付けた。今度は舌が唇を割って、克宏の口内に侵入してくる。克
宏は抵抗しなかった。
彼の右手が克宏の着物を割って、胸に直接、触れた。彼の口が克宏の唇から離れ、軽く撫でるよ
うにして顎から鎖骨へと続いて行く。彼は克宏から体を離し、上気している克宏の顔を眺めて微
笑んだ。克宏の着物に手をかけ、脱がそうとするのを克宏は上半身を起こしてされるがままになっ
た。なんだか頭が朦朧として何かをうまく考えることができない。伊織も自分が身に付けている物
を取り去ってしまうと、克宏の上腕をそっとつかみ、仰向けに横たわらせた。克宏の体に覆い被さり、
口付ける。自分のを克宏に触れさせ、蠢かせると、克宏は彼の背中に手を回し、しっかりと抱きつ
いた。
肌は暖かく、触れている部分が彼の欲望を克宏に伝染させたかのように心地好い。克宏は陶然
となった。彼は右手で克宏のを掴み、ゆっくりと愛撫を始める。克宏はそれに呻いた。克宏の体が
熱を帯びてきて、終わりに近づくと、彼は唇を克宏の胸の感じやすいところへつけた。下唇で撫で
上げると、克宏はその瞬間に呻いて、開放された。汗ばみ、寝そべったまま激しい呼吸に胸を上下
させている克宏を、彼はしばらく満足そうに眺めていたが、息がおさまると彼は克宏の体に手をかけ
た。うつ伏せになるよう導き、克宏はおとなしくそれに従う。克宏が体を返し、片膝を少し立てたとき、
脚の間が少しだけ伊織の目に晒され、彼はそれに眉を顰めた。
「・・・いったい、どうしたんだ、それ。可哀想に、ひどい裂傷になっている。」
克宏は弾かれたように反応した。体を起こし、座り込むと、伊織を脅えて怒ったような顔で見た。克
宏のその激しい反応に、伊織は驚いて黙った。克宏は顔をそむけ、吐き出すようにして答える。
「・・・官権に、つれていかれただろう。そこである男に脅されたんだ。」
伊織は呆然として克宏を見た。
「拷問にかけられたくなかったら、言うことを聞けって。忘れていたよ、あんたは医者の卵だったな。」
克宏はふてくされたように唇を噛んだ。
「幻滅しただろう。俺はこういう人間だ。指を叩き折ると脅されて、自分をそいつに差し出したのさ。」
彼は克宏を、悲しそうに見つめ、体を乗り出した。
「・・・辛かっただろう。」
彼の手が、克宏の頬に触れた。近づいて、そっと、しかし素早く抱きよせる。克宏が抵抗する間も
なかった。
「そんなの、君のせいじゃ無い。そう言われて、抵抗できる絵師がいるか?苦しかったんだろうな・・・
可哀想に。」
強く抱きしめられ、克宏は突然、緊張の糸が切れた。彼の物言いに安心し、徐々に嗚咽が込み
上げてきて、止められなかった。克宏は彼に強くしがみつき、泣き出したくなった。
「大丈夫だよ、もう。」
優しくそう言われて克宏は、違う、大丈夫じゃないんだ、まだすべて終わったわけじゃないんだ、
と、心のなかで繰り返した。だが克宏にそんなことが言えるわけがない。克宏は彼にすがり付いた。
たとえ今だけでも、何かにすがっていないと心が壊れてしまいそうだった。
 
ー*ー
 
それから何日かたった。斎藤からは、何も連絡はない。だからといって、克宏はそれを忘れること
はできなかった。あの男がこのまま俺を放っておく筈がない。そのことが、克宏の胸にささくれだっ
た刺のように突き刺さり、悩ませた。
'俺は、あのとき、あの男に膝を屈して、助けてくれと、懇願して・・・'
克宏は身震いした。時々、強迫観念のようにその時のことが頭に浮かび、克宏はそのたびに屈
辱の苦しみにあえいだ。
克宏は、そう仕向けたあの男と、それに屈服した自分自身を、憎んだ。
                                                               
ー*ー
 
夕方だった。訪問者に克宏が自分の部屋の戸を開けると、そこに若い男が立っていた。見たこと
のない男だった。
「月岡克宏様ですね?」
男は聞いた。
「そうですが、何か。」
「斎藤様の使いで参りました。お手数ですが、ついてきて頂けますか?」
それは質問のかたちをとってはいても、質問ではなかった。克宏がそうすると、確信した物言いだ
った。克宏は硬直し、黙って頷いた。そうするしかなかった。
 
道中、男は一言も物を言わない。どこへ行くのか聞いても、ご案内しますと答えが返ってきただけ
だった。何も言わないよう、命令されてでもいるのだろうか?そしてそれからしばらく歩いた後、克
宏はその家に案内された。周りに竹が群生しているなかにある、こじんまりとした瀟洒な家だった。
その案内人は家人を呼び、克宏を引き渡すと家人と会釈を交して去っていった。克宏を出迎えた
のは、斎藤ではなく知らない男だった。結構、歳はいっているだろう。四十代半ばは、確実に過ぎ
ているように見える。男は、品の良い動作で克宏に頭を下げた。
「月岡克宏様ですね。お待ちしておりました。わたくし、藤田様に使えているもので相模と申しま
す。どうぞ、中に入ってお待ちください。藤田様は後で来るとのことでございます。」
大きくはなくとも、良く通る澄んだ声だった。克宏は中へ通され、湯殿へと案内された。湯浴みし
てでてくると、真新しい浴衣を渡され、それを着て裏庭に面した部屋へと案内される。雨戸の障子
も開け放たれており、小さいが典雅な趣味が見て取れる庭が見渡せた。家屋も隅々まで手入れ
が行き届いていて、細かいところまで趣味の良さが微に入って行き渡っている。
 
ここは、あの斎藤の家なのだろうか?克宏は疑問に思った。あの男はそんな趣味人には見えない。
だが、ただ単にここを借りているだけにしては、あの克宏を向かえた人物は斎藤に仕えていると
いった。克宏は庭に眼をやった。綺麗で趣味は良いが、どこかよそよそしい。克宏は思った。ただ
それだけを優先し、暖かみや、居心地の良さをすべて後回しにしているような感じがする。それら
を通して、住んでいる人間というものが伝わってこない。
 
相模が酒と肴を膳に乗せて持ってきて、克宏の前においた。
「藤田様は、もうすぐいらっしゃるとのことです。」
克宏は彼に向かって会釈した。どこか、長年にわたって人に使えてきた人物に特有の、柔らかく、
自分の感情を遮断した物腰だった。だが彼の態度にはうわべだけではない暖かみがあった。もし
克宏が違う状況で彼にあっていたなら、きっと彼に好感を持ったことだったろう。
「ここは、斎藤の家なんですか?」
藤田という名を使わなくても、相模は全く戸惑わないで答える。
「そうでございます。」
そう言って彼が部屋を出ていくと、克宏は運ばれてきた料理を見た。芸術的なかたちに裁断され、
盛り付けられたものが皿の上に載っている。食器も含めて、その色合いが美しかった。あの相模と
いう男がつくったのだろうか?彼と克宏以外に、この家に人がいる気配はない。外はだんだん暗く
なってゆく。克宏は運ばれてきたものには手をつけず、座り込んだまま、ただぼんやりと庭を眺め
ていた。そして小半刻もたった頃、いきなり襖が開けられ、克宏はそちらを見た。着流姿の斎藤
がそこに立っている。彼は無表情に克宏を見下ろすと、克宏の前に座った。
「待たせたな。」
克宏は黙って斎藤を見た。斎藤が克宏を見返す。相模がやってきて、酒をのせた盆を斎藤の前
に置いて下がっていった。
斎藤はそれを自分で注ぐと、杯に口をつけた。
「お前も、飲めよ。」
斎藤はそう言うが、克宏は斎藤を睨んだまま動かない。斎藤は酒の杯を置いた。克宏が黙って
それを見ていると、なんの前触れもなしに斎藤の手が克宏の頬にとんだ。鋭い音がし、克宏は
驚き手を打たれた顔に当てて斎藤を見つめる。斎藤は当然だとでもいうような顔をしている。
「俺がお前に言うことは、すべて命令だ。」
克宏は顔をそむけ、乱暴な動作で自分の前の杯をとり、酒を自分で注ぐと、それを一気に飲み
干した。そして杯を音を立てて膳の上に戻す。克宏は斎藤を睨みながら、手の甲で口を拭った。
斎藤は片手で克宏の顎を掴むと、自分の方へ向かせた。
「いったい、いつから俺に目をつけていた?」
克宏は斎藤を睨みながら言った。
「なんのことだ?」
斎藤は克宏から手を離して言った。面白そうに、笑っている。
「すべての、タイミングが良すぎる。これは偶然なんかじゃない。」
「お前が何を疑ぐってるか知らんが。」
斎藤は酒を口元に運んだ。
「もし俺が何もしなかったら、お前は今頃まだ牢獄の中で、さんざんいたぶられた後だったろうよ。
体のどこかが、使い物にならなくなっているぐらいのことはされていたかもしれん。お前は、何も
わかっちゃいないんだ。」
斎藤の手が、克宏の右手首を掴んで、自分の方へと引き寄せた。着物の裾にその手を潜りこま
させて、自分のものを握らせた。下帯はつけていない。克宏は手首を掴まれたまま、顔をそむけ
た。
「何、恥じらってんだよ。男が初めてというわけじゃあるまいし。」
克宏は、唇を震わせながら斎藤の方を向いた。斎藤が手を離し、克宏は自分の手を引っ込めた。
斎藤は黙って立ち上がると、克宏を隣りの部屋まで乱暴に引っ張っていった。ひいてある床の上
に転がされ、仰向けになったうえに斎藤が覆い被さってくる。口付けられ、斎藤の舌が克宏の唇を
割って入ってこようとするが、克宏は口を閉じてそれを頑強に拒んだ。斎藤は克宏の鼻をつまんだ。
息ができなくなり、克宏が唇を少し開くと口腔に斎藤の舌が、我が物顔に侵入してくる。微かな煙
草の匂いが不快だった。舌と唇を舐め回され、克宏はもがいた。斎藤が体を離すと、浴衣の前を
開けられ、腰の下に折り曲げた布団をあてられた。斎藤が自分の身に付けている物を取り去る間、
克宏はただ黙って横たわり、真っ直ぐ天井を見つめた。斎藤は何やら小さな容器を取り出すと、
その中身を自分のと克宏の脚の間に塗った。斎藤の手が克宏のそこに触れられたとき、克宏は
痙攣したように身を震わせ、固く目を閉じた。斎藤の両手が克宏の脚を抱え、脚の間に斎藤があ
てられ侵入してくる。ゆっくりとした動きだった。
「ああ・・・・あ・・・」
克宏は目を大きく見開き、頭を仰け反らせて呻いた。苦痛に、布団を固く握り締める。彼は以前
に斎藤に凌辱されるまで、男を受け入れたことなどなかった。斎藤は動きを止め、忌々しそうに
克宏を見下ろした。
「おい、力むな、入らんだろうが。ここを壊されたくなかったら、躯の力を抜け。さもなきゃ、以前み
たいに無理矢理突っ込むぞ。」
「できない。」
克宏は涙ぐみながら訴えた。いわれた通り躯の力を抜こうとしても、緊張で身体中に力が入り、ほ
ぐすことができない。斎藤は暫く冷然として彼を見下ろしていたが、そのまま荒々しく克宏のなか
へ、力任せに自分を侵入させた。克宏は悲鳴を上げ、斎藤の体を押し退けようと暴れた。
「いやだ、お願いだ、やめてくれ、そんな。」
だが彼がいくら腕に力を込めても、斎藤の体は彼の力では微動だにしない。彼は抵抗をやめた。
夜具の上におとなしく横たわり、天井を見てすすり泣いた。克宏は言われた通り、なんとか体の
力を抜こうとした。彼はすべてあきらめ、なされるがままになった。抵抗したところで、自分が苦しい
だけだ。それからの斎藤の動きは、優しかったと言える。克宏の様子を見ながら、徐々に侵入して
くる。全部根元まで入ってしまうと、斎藤は体を動かし始め、克宏はそれに呻いた。
「お前も腰を動かしてみろ。逆に楽になるぞ。」
その言葉に克宏は従った。痛みに耐えながら、なんとか体を動かそうとする。だが斎藤は忌々し
そうに舌打ちした。
「おい、何やってんだよ、俺の動きにあわせろ。女がやるみたいにしてやるんだよ。知らないわけ
じゃないだろう。」
克宏は動かなくなり、横を向いた。黙って、あらぬ方を見ている。
「おい、お前まさか・・・知らんのか?」
斎藤が訝しげに言ったが、克宏はじっとして何も答えない。
「女郎屋に出入りして、裸の女を描いてるお前がね・・・以外だったな。」
斎藤は面白そうに笑い、再び克宏を攻め立て始めた。克宏はきつく目を閉じ、斎藤に攻められる
苦痛に耐えた。
'そうだ、俺は女さえ知らない。それを、この男が・・・'
目を開けて視線を床の間へやると、純白の菊が生けてあるのが眼に入った。克宏はじっとその綺
麗な花を眺めた。何となく、この男に似つかわしくないような気がする。おそらくその花はこの男で
はなく、相模の趣味だろうと克宏は思った。
花から眼をそらすと伊織のことが頭に浮かび、克宏はそれを意識から振り払おうとした。この男の
体躯の下で彼のことを考えると、彼との思い出がすべて穢されてしまうような気がした。
 
ー*ー
 
かつて、克宏を誘惑しようとした芸姑や素人女が何人かいたが、彼はそれをすべて拒み、女嫌い
の風評をたてられた。次にそこに出入りする男達も拒んで、変わり者のレッテルを張られた。克宏
が白菊を気に入っている理由の一つは、彼女がそんな雰囲気を微塵も感じさせないことだった。
彼女は克宏を、男としてみていない節がある。
"たまには私を買ってくれる、センセ?"
彼女たち遊女にとって、客は必ずしも対象としての男ではない。交わりは労働の一つなのだ。そ
れに至るまでの気のあるそぶりは単なるサービスで、目の肥えたものが見れば、どちらかぐらいわ
かる代物である。だがもちろん、そうでなくなることも多々ある。本気を装った遊びを彼らは行って、
遊びが本気に変質することもありうる。あれは本来、愛の行為である筈なのだから。妓(売る方)も、
男(買う方)も。だが克宏にそうやって声をかけたときの白菊は、あきらかに快楽を買わないか、愛
ではなく。と克宏に呼び掛けていた。克宏は、彼女のそういうところが気にいっていた。たとえ克
宏と彼女が一晩一緒に過ごしても、お互いの間のその友情は何も変わらないだろう、と思わせる
ようなところがある。そして実際変わらないだろうな、と、克宏は確信している。そしてそうではない、
情愛の絡んだ交わりというものを、克宏はなぜだかわからないが嫌悪していた。それは克宏に、
悪臭のする淀んだ沼の底の泥を思い起こさせた。彼は遊郭に出入りし、客と妓の情に絡んだ揉め
事を、いつも冷ややかな眼差しで見つめていた。気を引かれた相手がかつていなかったと言えば、
嘘になる。だが克宏はそこへ、他人と深いところで関わる場所へ、決して踏み込んでいこうとはし
なかった。
 
でも、あの伊織が彼を誘惑したとき・・・彼はそこから逃げようとはしなかった。逃げることはできた
筈なのに、彼は始めてそうしようとは思わなかった。しかしあのとき、彼の眼鏡の奥の眼差しや、
柔らかな物腰の体躯の線や、それらのものが克宏を征服するかのように圧倒し、克宏はまともに
彼を見つめることができなかった。まともに視線を向けると、彼が内で感じているすべてを見透か
されてしまいそうな気がした。伊織が白菊と克宏を尋ねてきたあのとき、克宏の頭は、その前夜
斎藤に凌辱されたことを意識の裏側に追い遣った。食事をしてわかれ、茶屋で待ち合わせの約
束をした克宏は、そのまま湯へ飛んでいった。体の汚れを洗い流しながら、彼の頭にあったのは、
伊織に会えることだけだった。克宏は自分の正気を疑った。そして彼と部屋にいて、彼が克宏の
手をとったとき、克宏は触れられた部分が痺れたようになって動けなくなった。克宏は魅入られ、
彼にその身をまかせた。
 
'もう、何も考えたくない。'
机に向かって何かを描いていた克宏は道具をその上に置き、床に仰向けに寝転がった。なんだか、
物事に集中できない。どうやら斎藤は約束を守っているらしい。あれから、克宏の元に官権のたぐ
いが来ることはない。あのとき何人もの彼と同類だった人間達が逮捕されたが、今その一部は釈放
され、一部はまだ獄中にいて、そのうちの一人は牢のなかで首を吊った。表向きはそういうことにな
っているが、噂では取り調べ中の拷問のせいで、死んでしまったとのことだった。
'もう、なんだかすべてがどうでもいい。'
克宏は天井を見つめながら投げやりに思った。死んだ奴は良い奴だった。だからこそ・・・彼はたぶ
ん裏取引も仲間を売ることもすべて頑強に拒み、こういうことになったのだろう。克宏は目を閉じ、自
分が斎藤に強制されたことを思い出した。
'これが俺の正体だ。助かりたいがために自分を蹂躙した男へ自分の誇りを売り飛ばし、その次の日
にはのうのうと情人へ会いに行く。俺はそれを恥じてさえいない。ああやって辱められて、何喰わぬ
顔で生きている。恥知らずの人非人・・・'
 
ふと、戸の隙間から文が投げ入れられているのに気が付いた。いつのまにそんなものが?と、思いな
がら立ち上がりそれを拾いに行く。土間に足を下ろして座り込み、手にとって広げて読む。彼の顔は
暗く沈んだ。斎藤からだった。今夜、出向いて来いと書いてある。彼はそれを手にしたまま俯き、しば
らくそこにじっとしていたが、それを丸めて屑籠に放り込むと出かける支度をした。拒むことは、でき
なかった。
 
ー*ー
 
前回と同じく相模が玄関で克宏を出迎え、部屋に案内した。今日は斎藤は先に来ていて、すで
に酒を飲み始めている。克宏は斎藤の前に座った。お互い、何も言わない。斎藤は黙ったまま
杯を克宏に渡し、それに酒を注いだ。克宏はそれに口をつけ、飲むと斎藤を見つめた。
「きつい眼だ。」
斎藤がそう言って含み笑いをした。
「俺が、憎いか?」
克宏は黙って答えない。斎藤は面白そうにそれを見ている。しばらくそうやってお互い対峙して
いたが、斎藤は立ち上がり、克宏を床につれていった。彼はおとなしくそれに従う。斎藤は克宏
に着物をすべて脱ぐように命じた。彼は斎藤が夜具の上に座ってみている前でそれらを全部取り
去り、裸になった。
「四つんばいになれ。」
克宏は唇を引き締め、斎藤を睨むとその指示に従った。斎藤は身を乗り出し、克宏の右手首を、
彼自身の右足首に縛り付けた。
「何をする気だ。」
「唖になったわけじゃなかったんだな。」
斎藤は克宏の質問を無視すると、暴れて抵抗しようとする彼を殴り付け、左手首も同様にして左
足首に縛り付けた。克宏は頭を夜具につけ、下半身を上に上げたまま身動きができなくなった。
脚を閉じることができない。
「お前は、少し仕付けてやる必要がある。」
斎藤は克宏の後ろ姿を眺めながら言った。乗馬用の鞭を手にして、それを右手のひらに何度か
軽くたたきつけた。その軽い音が、不気味に克宏の耳に響く。
「やめろ、何考えてる!」
鞭が克宏の臀部にふり下ろされ、鋭い音を立てた瞬間、彼は苦痛に声を上げた。
「お前は俺の奴隷だ、そうだろう?」
その言葉が終わらないうちに、もう一度鞭がふり下ろされた。克宏は喚いた。
「やめろ・・・!」
斎藤が克宏の髪を掴んで引いた。後ろから克宏の耳元で囁く。
「奴隷には、奴隷の口のききかたがあるだろう。それが主人に対する言葉遣いか?」
斎藤は克宏から手を離し立ち上がると、今度は続けて鞭を振るった。鞭が克宏の皮膚を切り裂き、
鋭い音を立てる度に彼は悲鳴を上げた。その苦痛に漏れでる声を、押さえることができない。恥も
外聞もなく克宏は泣き叫んだ。
「許して・・・やめて、ああ・・・」
斎藤が手を休め、克宏は弱々しく囁いた。だが斎藤は何も答えない。今日、この部屋にはいって
来て斎藤の顔を見たとき、克宏はこいつに従ったりするものか、と、斎藤を憎しみに満ちた眼で
眺めた。だが今、早くもその気概は斎藤の振るう暴力の前に崩れ落ちようとしている。克宏は自分
を弱く情けない存在に感じ、その自分自身を深く嫌悪した。自分のあずかり知らない一面が暴か
れ、晒されたようで彼はそれを恥じた。だがすぐに、目の前の苦痛に、克宏は何も考えられなく
なった。鞭は細く、鋭い。それからしばらく続けざまに鞭が振るわれた後、突然斎藤は手を止めた。
克宏は縛られ、その体勢を崩すことができないまましゃくりあげた。斎藤の手が彼の臀部に触れら
れ、軽く撫でた。斎藤が身に付けている物を脱いで、自分自身を克宏に押し当て、挿入し始めた。
「少しは教えられたことを学んだようだな。」
克宏は歯を食いしばり、声をたてるのを堪えた。斎藤が更に押し入れ、克宏に体をすり付けた。
「今度は木偶人形のまねか?」
斎藤が揶揄うように言った。
「縛られて、身動きがとれない・・・」
克宏が苦痛を堪えながら答える。異物で体のなかを掻き回された刺激の不快感に彼は耐えた。
早くこの責め苦が終わって欲しかった。とらされている体勢も苦しくて耐えがたかった。
「自分が、どんな格好しているか、お前に見せてやりたいものだな。はした金で買える夜鷹だって
こんなまねはやらない。」
'いや、だ・・・!'
克宏の心は泣き叫んだ。
'いやだ、こんなことはいやだ・・・!'
できるなら、蹲って子供のように泣き叫びたかった。
'死にたい、死んでしまいたい。'
斎藤が克宏のウエストを両手で掴み、激しい動きを繰り返した。そして彼が動きを止め、克宏から
体を離し、その縛めをといても彼はじっとなされるがままになった。手足を自由にされると、克宏は
うつ伏せに横たわった。顔を横に向け、じっとした。鞭で打たれた部分が疼くように痛む。斎藤は
しばらく横になって一息ついていたが、そのうち着るものを身に纏うと、黙って部屋をでていった。
克宏は指一本動かす気力もなかった。ただ黙って眼を見開き、何を見るともなくじっとしている。
 
しばらくして、相模が一人で部屋にはいってきた。手に、何やら小さな箱を下げている。
「大丈夫ですか、月岡様。」
相模は克宏の横に腰を下ろした。克宏はじっとしたまま何も答えない。相模は箱を開けると、膏
薬を取り出して克宏の傷付いた部分に塗った。優しく、いたわるような手つきだった。薬が傷口に
新しい痛みを与え、その痛みに克宏はきつく眼を閉じた。
「傷に良くきく薬草が調合してあります。どうか暫く我慢してください。」
薬を塗り終えてしまうと、相模は克宏の体に浴衣をかけて隠した。
「どうか、そのままお休みになってください。藤田様はお出掛けになりました。今夜と明日はもう
戻ってきません。よろしければ、明日の朝、薬草の湯を用意致します。」
その言葉には、克宏に対する懸念と思いやりがこもっていた。克宏は頷いた。このまま、自分が
歩いて帰れるとは思えなかった。
「では、何かあればどうか気兼ね無く私をお呼び下さい。この家には月岡様と私だけでございま
す。何か私が必要なことがありましたら、私は喜んでやらせて頂きます。」
克宏はぼんやりとその言葉を聞きながら、床の間に飾られている白い菊の花に気が付いた。た
しか、前回も生けられていた筈だ。また新しく、同じ種類の花を持ってきて生けたのだろうか?
「相模さん。」
克宏は頭を彼の方に向けた。
「なんでしょう、月岡様。」
「以前もそこに白い菊の花が飾られていたけど、その花が好きなのですか?」
相模はその花に視線を向けた。
「あれは・・・藤田様の好きな花です。手に入る限り、いつも部屋に白菊を生けております。」
克宏はそれを、意外に思った。あの男が花に対する嗜好を持っているなんて?
 
相模が部屋を出ていってしまうと、克宏はゆっくりと体を起こした。浴衣を身に付け、いい加減に
それを着つけた。酒が置いてある盆の前に足を投げ出して座り、酒の杯をとり、手酌で注ぐとそれ
を飲み干す。克宏は柱に体をもたれかけさせ、後頭部を押し付けた。空にかかる下弦の月を見
上げる。酒をさらに口に運び、ぼんやりと月を見つめ続けた。左肩から浴衣がずれて落ちたが、
彼はそれを直そうともしなかった。指一本動かす気になれず、怒りも悲しみも、なにかの感情
さえ湧いてこない。立ち上がる気力さえなかった。
'俺、どうなるんだろう。'
克宏は、力無く思った。しばらくして、相模が食事の膳と酒を持ってきて、克宏の前に置いた。
典雅な食器に盛られたその料理は、彼が料理人としても一流であることを克宏に示していた。
「有難う。」
克宏は、ぼんやりしたまま彼に言った。克宏は相模の顔からなんの感情も読み取ることができ
ない。意図的に感情の上にかぶせられたそれが、相模なりの克宏への思いやりだった。相模は
黙って礼をすると、静かに部屋を出ていく。彼の姿が見えなくなるとすぐに、克宏に嗚咽が込み
上げ、彼はそれを堪えた。
'せめて、彼に聞かれたくない・・・'
そう思うと彼は堪えられなくなった。胸が裂かれるような痛みに、彼は、泣き叫んだ。理性でそれ
を止めることができなかった。
'あ・・・あの男、俺の体躯を蹂躙するだけでは足りなくて、俺の誇りまで踏み躙ろうと・・・!'
声を張り上げて彼は泣き、慟哭しながら、相模はこれを聞いてしまっただろうか?と、思った。
 
ー*ー
 
その日、伊織が訪ねてきたのは夕方だった。克宏は自分の部屋にいて、仕事用の絵を描き散ら
していた。克宏の隣人が、それらしき人物が彼の留守中に、ほとんど彼の部屋を毎日訪ねてきて
いたと教えてくれていた。最近、克宏は部屋を留守にすることが多かったせいで彼とは顔を合わ
さなかったのだろう。克宏が斎藤に呼び出されていたときも、彼は克宏を訪ねて来たらしい。
 
克宏は、伊織に会うのが怖かった。自分が斎藤に何をされているか、彼に悟られたくなかった。も
しそれらが知られたら、彼は克宏から離れていってしまうだろう。
 
部屋の戸を叩き、低いが良く通る優しそうな声が克宏に聞こえる。
「克宏、いないのか?私だ、伊織だよ。」
克宏は立ち上がり、彼を迎えにいった。克宏の胸の鼓動が少し早くなっている。克宏は戸の前
に立ち止まり、少し躊躇すると思いきって開けた。
「克宏。」
彼は微笑んで克宏を見つめた。克宏も彼に笑い返した。
「良く来てくれたな。入ってくれよ。」
彼は中に踏み入れ、戸を閉めた。
「何回か来たけど、いつもいなくて・・・心配したよ。また官権につれていかれたんじゃないかと。」
「最近急がしかったんだ、いろいろと。」
後ろめたさを拭いながら克宏は答えた。
'もう、官権につれていかれることはないんだ。たぶん、ずっと。'
克宏は心のなかでそう呟き、その自分の言葉に胸を締め付けられた。
 
夕飯をとりに、二人で外へ出かけた。伊織が克宏をつれていったのは、宿屋の二階だった。その
部屋は一回から階段が通じていて、その間に仕切りはない。声を大きくあげれば宿の女将を呼ぶ
ことができるが、普通に話している分には会話は他の者に聞かれることはないだろう。たぶん、色
町と、客の中継所をしているような、そういった場所らしかった。
'ついでに、馴染みの芸姑の文でもとりに来たのだろうか?'
克宏は勘ぐり、そう考える自分を恥じた。そうだとしても、自分に彼のことを何か言える権利がある
と思っているのか?
酒と食事を注文し、伊織は、克宏に話しかけた。押し付けがましさのない様子で、徐々に克宏の
ことを聞いてくる。酒の酔いも手伝って、克宏はいつのまにか彼の赤報隊のことを話し始めていた。
 
「・・・そう、俺達は利用され、今の政府の人身御供にされた。その生け贄の礎石の上に、明治政
府の連中はのうのうとして、その栄華を享受している。そして彼らは、俺達を闇に葬りさろうとさえ
したんだ。こんな理不尽なことがあるか?俺はあいつらを、絶対に許さない。」
克宏は自分が何を話しているかに気付き、俯いた。
「・・・つまらない話をしてしまったな。すまない。」
「私は君の話が聞きたいんだ。良かったら、続けてくれないか?」
克宏が伊織を見ると、彼は微かに心配するように微笑んでいる。
「私は、君のことが知りたいんだよ。」
「俺は・・・」
克宏は口をつぐんだ。何となく、彼にここまで気を許してしまって良い筈がないと考えていた。彼
は色事を経験したことがなくとも、世間知らずの子供ではないのだ。