戀菊抄
 

緋向子
 

もうすぐ、陽が暮れかけ始めようとする時刻だった。どこか遠くで鴉が甲高い声を上げ、その
翼を羽ばたかせる音を響かせた。克宏は、山が遠くに見える人気のない葦の原にいて、そ
の日のその風景を描き写していた。彼は、自分がずいぶん長いことそこへいたことに、その
鳥達の声で気が付いた。彼はあまり、風景画を好まないのだが、そのとき彼が引き受けてい
た仕事にそれがどうしても必要でここにやって来たのだった。午後にこの人気のない葦の原
に絵の道具を抱えてやってきて、一刻ほどで帰る筈だったのが、いつのまにやら予定を遥か
に越えて集中していたらしい。もう帰らなくては思い、道具をしまい始めたところで、彼の背後
で、何か擦れるような音がした。その音に、克宏は脅かされたように驚いた。弾かれたように
反応し、後ろを振り向く。いつのまにそこへ来ていたのだろう?背の高い、三十代半ばぐらいの
帯刀した警官がそこに立っていた。その擦れるような音は、その警官が燐寸を擦った音だっ
た。克宏が振り向いても、彼は自分の口にくわえた煙草から視線を落とさず、煙草に火を付
けている。彼は煙草を深く吸い込み、それをゆっくりと吐き出すと、やっと克宏に視線を向け
た。克宏は、この男に微かな違和感を感じた。その顔も、琥珀色の目も、何か表情を隠して
いるような、どこか妙な自然ではない感じがする。だが、相手が警官だったことに彼はとりあえ
ず安堵した。
'なんだ、邏卒か・・・なんか、妙に驚いてしまった。'
克宏は落ち着き、彼を見返した。だが、その警官の鋭い目付きに、なぜか妙に胸が騒ぐ。
「・・・今日は。」
内心の、微妙な動揺を押し隠しながら、克宏は彼に挨拶した。
「今日は。精がでるな。あんたは、絵師か?」
警官がうっすらと笑いを浮かべ、そう言った。紅く染まっている空の下で、彼の眼が金色に光っ
ているように見える。克宏はなぜかそれに、少し、心臓の鼓動が早まった。
'・・・ただの光の加減だ・・・夕焼けが照り返しているだけじゃないか・・・相手は、警官だ。何
を、俺は、脅えている?'
「そうです。」
克宏は努めて自分の動揺を隠しながら、答えた。
「名を、聞いてもいいだろうか?俺は斎藤一という。」
「俺は、月岡津南という雅号を持っています。」
警官が一歩、克宏の方にゆっくりと踏み出し、克宏は、彼を見つめながら後ろに一歩引いた。
「聞いたことのある名だ。きっと有名なんだろうな。失礼だが、俺はそう言うことに疎くてね。」
警官が、うすら笑いを浮かべながら、克宏の方へゆっくりと歩み寄ってくる。克宏の、心臓の
鼓動が早まった。
 
'危険ダ'
 
彼の本能が、全身で警告を発している。まるでその男が、隠し持っている鋭い爪や牙を徐々
に剥き出しにしているような、そんな恐怖が、克宏を蝕んだ。相手の眼に、克宏は狩をしてい
る肉食獣に追い詰められようとしているような、そんな錯覚を味わった。自分の考えを馬鹿馬
鹿しいとは思うものの、相手に対する恐怖は払拭できない。
 
逃げようとしている小鳥を捕まえようとでもするような、そっとした動きで、歩きながら、男は克
宏にゆっくりを手を伸ばす。直感と理性の間で、克宏はどうしてよいのかわからずに硬直した。
 
'・・・一体、なんだっていうんだ、相手は、ただの警官じゃないか。脅えて逃げたりしたら、あら
ぬ事を疑われるだけだ。'
 
近づいてくる男の手を見つめ、脅える。心臓が大きく膨らみ、収縮する。彼の神経は最大限に
緊張し、身構えている。
'いったい、こいつは・・・何を・・・?'
そして男の手が克宏を捕らえようとした瞬間、彼はすばやく身を翻し、男の手を逃れた。それ
は、本能のようなものだった。
 
いけない。捕まっては、いけない・・・
 
手にしていた筆記具を放り投げ、葦の原のなかへ分け入り、全速力でそのなかを走る。彼は
脚の速さには自信があった。とにかく、人家のあるところまで逃げなければ・・・だが、背後で
男が克宏を追い掛け、足が葦を踏みしめる音はいっこうに遠くならない。克宏がちらと後ろを
振り返ると、すぐ後ろにあの男が迫っていた。軽い身のこなしで、獣のように敏捷に彼を追い
掛けている。克宏は恐慌に駈られた。自分のはあはあいう激しい息の音が、大きく自分の耳
につき、半ば乾燥した葦を踏みしめる音がそれに掻き消される。ひたすら一瞬でも速く前へ
と脚を駆り立てるが、悪夢のなかのように、思うように体が動かない。そのもどかしさに、克宏
は涙ぐみそうになった。
 
突然、克宏の左腕が後ろから強い力でつかまれ、彼は地面に引き摺り倒された。その瞬間、
克宏は頭が空白になり、何も考えることができなかった。捕まれた腕を荒々しく引かれ、仰向
けに転がされ、男がそのうえに跨って彼を押さえ付けると、面白そうににやりと笑いながら彼を
見下ろした。克宏は激しくあえぎながら男を見上げた。その男は、呼吸を乱してさえいない。
「鬼ごっこは、終わりだな。」
男が、揶揄うような口調でいった。
「い・・・いったい、なんのつもりです?!」
呼吸が落ち着き始めた中で彼は叫び、逃れようともがく。鯉口を切る音が鳴った。男は突然、
抜刀すると、克宏の首すれすれの所でその刃を恐ろしいほどの速さで振った。克宏がもがい
ている中、揺れていた彼の髪が幾筋か断ち切られ、それが克宏の顔の上に羽根のように柔
らかく落ちた。男は、その刀身の先を、ほとんど触れるような距離で克宏の喉元に突きつけた。
その刀身は、滑らかに光り輝いている。絶望的な恐怖が克宏を覆った。彼は微動だにできず、
硬直して横たわり、眼を見開き、男を見上げた。
「だ、誰か助け・・・て・・・」
叫ぼうとしたが、小さな声をやっと絞り出すことができただけだった。体が、小刻に恐怖にふるえ
はじめ、それを押さえることができない。男は満足そうに笑うと、克宏を見下ろしながら言った。
「おとなしくしていれば、命まではとらない。」
「あ・・・ああ・・・」
何か言おうとするのだが、声がまともにでてこない。男は冷静な様子で立ち上がり、刀を手にし
たまま言い放った。
「脱げよ。」
克宏は震えながらなんとか上半身を起こし、ただ黙ってそいつを見た。何を言われたのか、一
瞬、理解できなかった。
「着物を切り裂かれたくなかったら、自分で脱げ。それとも、ずたずたにされた格好で歩きまわ
って恥を晒したいのか?」
克宏は立ち上がり、震える手で自分が着ているものに手をかけた。手を、思うように動かすこと
ができない。彼の目から少しずつ涙がこぼれ落ち始めた。俯いて自分の着物を取り去り地面
に落とした克宏を、男は強く突き飛ばした。克宏は仰向けに倒れ、その場所の葦がなぎ倒さ
れる。男が跪き、自分のからだの上にのし掛かっても、克宏は自分に起きていることが信じられ
なかった。かすかに男に染み付いた煙草の匂いが克宏の鼻孔を刺し、そいつの着ている制
服の、克宏の体を押さえ付け、覆ったラシャ地の固い感触だけが、妙に現実的に感じられた。
脚の間に固いものが押し当てられ、それが躯のなかに侵入してくると克宏はその苦痛に喚い
た。
「やめろ、やめてくれ!」
だが彼は全くためらうこと無く、さらに深く突き上げる。切られるのとも、叩かれるのとも違うその
未知な痛みに、克宏は叫んだ。生きながら貪り喰われるような怖さが、そこにあった。
「たのむ、やめてくれ、俺、壊れちまうよお・・・」
克宏の眼には、男の頭だけが視界に入り、周りを見ることができない。克宏が懇願しても、そい
つは黙ったまま手加減する様子も見せなかった。克宏はそいつの腕の制服を、両手で強く握り
締めて引っ張りながら頭を仰け反らせた。克宏の涙ぐみ、視界がぼやけた眼に、葦の穂を越え
て、鮮やかな、紅く染まった空が見えた。
'空が・・・空が、あんなにも鮮やかに紅く燃えて・・・まるで血みたいに・・・あれは、血が、流れて
いるんだ・・・俺は、きっと、このまま死んでしまう・・・'
克宏が痛みに喚き散らすと、男はそれを楽しむかのように笑いながら克宏を見下ろす。彼が悲
鳴をあげると、男はさらに手荒く彼を扱った。何度か、顔を殴られた。
 
あたりはほとんど暗くなってしまっている。風が葦をざわめかせ、克宏の裸で投げ捨てられている
躯にも吹き付けた。冷たい風が彼の剥き出された肌を撫で、その冷たい感触に身震いした。
 
'寒い。'
 
男はもうとっくに行ってしまった。何も言わなかった。立ち上がり、身支度を整えると煙草に火を
付け、燐寸の燃えつきた軸が克宏の傍らに投げ捨てられ、克宏は黙ってそれを眺めていた。
それから男が行ってしまって、もうどのくらいたつのだろう・・・?克宏は微動だにせず、その投げ
捨てられたものをただ見つめ続けていた。彼にはどのぐらい時間が立ったかわからない。あた
りがすっかり暗くなってしまってから、緩慢な動作で上半身を起こした。体に力を入れると、乱暴
された部分に痛みが走った。
「あ・・・」
立ち上がろうとしたが、力無くか細い呻き声をあげてふらつき、彼は再びそこにぼんやりとした様
子で座り込んだ。
 
'帰らなきゃ、うちに。'
 
虚ろな目付きで、弱々しく自分の脱ぎ捨てられた着物に手を伸ばすと、冷たい風が克宏の顔に
吹き付け、風に吹き上げられた髪が顔に優しく触れた。風が収まり、彼の髪が肩に落ちた瞬間、
突き上げられるような激しい感情が込み上げ、彼は嗚咽した。
 
彼は激しく声を張り上げた。着物を地面にたたきつけ、そのうえに突っ伏した。
 
体を震わせ、叫びながら、彼は泣いた。
 
ー*ー
 
それから七日の間、克宏は日々を無為に過ごした。昼過ぎまでうたた寝するように眠り、起きて
いる時間のほとんどを、部屋に閉じこもり、何をするとでもなくぼんやりと過ごす。何回か訪ねて
きたものがいたが、居留守を使ってすべて無視した。顔に殴られてできた青痣を見られたくな
いというのもあったが、誰にも会いたくなかった。何をする気も起きず、酒さえ飲みたくない。その
あいだ、不思議と乱暴されたことは頭に浮かんでこなかった。ただ、彼を引き摺り倒した男の着
ていた制服のラシャ地をつかんだ感触を、克宏は嫌悪感とともに、ふと思い出すことがあった。
そしてそうやって過ごした日々の七日目、何かの折に外へでたとき、道を歩いていた若い女の
装飾品が彼の眼を引いた。それは引き倒されてから、葦の穂の向こうに見えた、水に血を流し
でもしたかのような空の色を彼に思い起こさせた。
 
'紅い色なんぞ、嫌いだ。血の色みたいで、気味が悪い。'
 
彼は自分の部屋に引き返し、畳の上に仰向けに寝そべると、あんな色は年増なんかに似合わ
ないさ、趣味の悪い女だ。と、意地悪く考えた。
 
しばらくそうやって部屋で寝そべり、いらいらしながら天井を眺めていたが、自棄のような勢いで
起き上がると、彼は絵の道具を抱えて外にでた。彼は足早に、急いた調子でためらい無く目的
地に向かった。彼が向かったのは、遊郭だった。
 
彼は芸姑を使って絵を描こうと思った。彼は、制服姿の邏卒に強姦される女を描くつもりだった。
 
今まで何回も頼んで使ったことのある、白菊という芸姑を呼んだ。彼より少し年上の、その名のよう
に白くたおやかな容姿をしている。克宏は、彼女の一見、物静かではあっても、凛として張ってい
る気性が好きだった。
「センセ、お久しぶりだねえ。」
そう言って克宏に笑いかける姿は、彼を少し和ませた。この世界にいて、辛いことも多いだろうに、
彼女は克宏に打ち解けても、そんなことをおくびにも出したことはない。克宏も、彼女に向かっ
て情けないことは一言も口に出さない。それでいて、お互い相手といるのが好きだった。そうやっ
て気持を張って甘えずにいても、いっしょにいると寛ぐことができた。
「本当に久しぶりだ。」
克宏は、最後に彼女にあったのは、一体いつだったろうと思った。
 
彼が乱暴される女を描きたいのだ、と言うと、白菊は驚いた。
「春画でも、描くのかえ?」
「まあ、そんなところだ。」
「・・・めずらしい、先生がねえ・・・」
克宏は春画を描かない。依頼されても、その系統のものはすべて断っている。描きたいと思った
ことはないし、自分に良いものが描けるとは思わなかった。
 
だが、克宏は止めることのできない、込み上げ、突き動かされような衝動に駈られていた。醜悪
なものを、画面に造り上げてやる。克宏は思った。残酷で、眼をそむけるほど陰惨で、暴力的な
ものを。あの自分が感じた、地獄の底の闇のような絶望と、魂を貪り食われるような苦痛を、その
まま女の顔に写し出してやる。そして、老衰で死にかけている男にすら劣情を起こさせるような
絵を造り出すんだ。だが克宏は、できあがった絵を、どこにも発表するつもりはなかった。
 
彼女を描くのが一段落ついて、今日はここまでにしておこうと克宏が告げると、白菊は自分の着
物を肩にかけただけの姿で克宏によってきて、彼の頬に右手をあてると言った。
「センセ・・・大丈夫かえ?」
白菊がなんのことを言っているのかわからず、克宏はギクリとした。自分の身に起ったことが、すべ
て彼女に見透かされたような気がした。
「今日のセンセ、ずいぶんと熱心だった・・・いえ、熱心なのはいつもだけど、でも、今日は、何か
鬼神にでも憑かれたようで・・・何か違う世界に、魂だけ入り込んでしまったような感じが。」
そう言うと、彼女は少し首をかしげ、手を離すと、ちょっと笑って言った。
「気、悪くしないでください。ただの素人のたわごと。きっと、先生がめずらしいこと言い出したん
で、それで不思議な気がしただけでござんしょう。」
 
白菊が見世にでてしまっても、克宏は帰り支度もせず、しばらくぼんやりと一人で部屋のなかに
座っていた。
 
"今日のセンセ、鬼神が憑いてるようだった。"
 
"何か違う世界に、魂だけ入り込んでしまったような・・・"
 
'一体、俺は何をやっているのだろう。'
克宏は思った。
'俺は、あのとき俺が感じたものを紙の上に再現してみたいと・・・苦痛も、恐怖も、絶望も。だが、
俺は一体、なんのためにそんなことをやっているのだろう?'
 
克宏がぼんやりと物思いに耽っていると、禿の一人が部屋にやってきて、克宏に伝言があると
言った。                                                                                                                                            
「先生に、会いたいって人が取り次いでくれと言ってる。」
「俺に?」
克宏は訝しげに答えた。自分が今日、ここにいるという事は、誰も知らない筈だ。
「誰だい、それは?」
「それが、名前を言わなくてもわかるって。」
禿は、手紙を彼に差し出した。克宏はそれを受取り、裏を見たが差出人の名前は書いていない。
克宏はそれを広げて読むと、心なしか少し蒼い顔をして、禿を見た。
「そいつを、ここに通してくれるか?」
「あい。」
禿は返事をすると、部屋をでていった。克宏は血の気の引いた顔で、その手紙を握りつぶし
た。なかには、彼の発行しているものについて話があるのでお会い願いたいという旨のことが
書いてある。克宏は、明治政府を糾弾する記事を書いては秘密裡に出版している。おそらく、
それがばれてお上に捕まったらただではすまないことになるだろう。手紙をつかんだ指先が、
痺れるように冷えきった。なんとか冷静になろうと、克宏は自分が出版してきたものを思い浮か
べ、自分がやってきたことを、頭の中で整理しようとした。
 
どのぐらい時間が立っただろうか?いきなり部屋の戸が開けられ、帯刀した邏卒がそこに立って
いた。その人物を見て、克宏は動けなくなった。そこにいたのは、克宏を薄野で捕まえ、引き
摺り倒したあの警官だった。口元には傲慢そうな笑みを浮かべ、鋭い眼で克宏を見下ろしてい
る。そいつは黙って戸を後ろ手に閉め、帽子をとって、克宏を立ったまま見下ろした。克宏の
顔が険しくなった。
「俺に、何の用だ。」
そう言われて、男はにやりと笑った。
「話がある。」
「俺は、お前となんか話したくないね。」
克宏は、氷のような眼付きで相手を見上げた。憎しみに、全身が彼に対して悪意を発している。
だがその警官は、少しも動じた様子を見せない。克宏のその態度を、楽しんでいるかのように
さえ見える。
「そう、邪険にするな。俺の話は、聞くだけ損はないと思うがな。俺は、お前に何かをとり計ること
ができるのかもしれない。お前が裏でやっている、そこでわたっている危ない橋は、今にも最後
の綱がちぎれそうになっているんだぞ。」
克宏は斎藤をじっと眺めていたが、斎藤がそれを言い終わると、冷たく、怒りを圧し殺した声で
いった。
「なんの話かしらんが、結構だ。俺はお前の力なんぞ必要ない。」
「話を最後まで聞いたらどうだ?俺に悪態をつくのは、それからでも遅くはない。」
「何を持ち出すか知らないが、どうせ、汚い取引だろう。俺はそんなもの真っ平ごめんだ。」
克宏は、吐き出すように言った。
「話を聞くのも嫌だと言うわけか?」
克宏は、黙って男を睨むが、そいつは全くひるむ様子を見せず、皮肉っぽく笑いながら克宏を
見つめていた。その眼が、一瞬、金色に光ったように見えた。克宏のカンが、警告を発している。
克宏はゆっくりと立ち上がり、男の視線がそれを追った。二人ともお互いから視線を離さず、にら
み合っている。
「そうだと言ったら?」
克宏のその言葉が終わらないうちに彼は克宏に手を伸ばし、捕らえようとした。しかし、克宏の
動きの方が一瞬だけ、速かった。男は、出口の方に立っている。克宏は身を翻し、男に向かって
床に置いてあった肘掛けを投げつける。男はそれにひるんだ。窓の方へ走ると、その二階の窓
から飛び降りた。地面に降り立ち、中庭を走って横切り、反対側の家屋に飛込む。後ろを振り返
ると、あの男が庭へ飛び降り、こちらへ追い掛けてくるところだった。克宏は、廊下を走り、角を曲
がると、部屋の一つに飛込んだ。
 
「頼む、かくまってくれ!」
白菊がそこにいるのを見て、克宏はそう叫んだ。部屋のなかには白菊と若い男の二人が、座って
酒を飲んでいる。二人とも、血相を変えた克宏がとびこんできたのを見て、驚いた。
「センセ!」
彼女はすばやく立ち上がると、襖を開けて克宏をとなりの部屋へ押し遣り、押し入れの戸をほん
の少し開くと、自分の着物の帯をときはじめた。着物の前を開けて自分の肌をさらけ出し、座って
いる男の膝の上に座った瞬間、部屋の戸が荒々しく開けられた。制服姿の斎藤が厳しい顔をし
て、そこに仁王立ちになっている。彼はそこにいる二人をじろりと見た。
「何か、ありましたか?」
白菊が口を開こうとした瞬間、その若い男が落ち着いた声で警官に向かってそう言った。
「ここに、髪の長い、若い男が逃げ込んでこなかったか?」
「さあ・・・さっきからここには我々しかいませんが。」
「隠し立てすると、お前達も同じ罪に問われることになるぞ。」
「お疑いでしたら、お調べになりますか?」
男はそう言って、視線をあらぬ方に向けた。斎藤はずかずかと部屋に入り込むと、その視線の方
へ向かった。戸を乱暴に引き開けるが、押し入れのなかには夜具しか入っていない。
「せっかく来たんよ、遊んでいきなんし。」
白菊が立ち上がり、商売用の妖艶な作り笑いを斎藤に向けた。着物の前がはだけて、彼女はそ
れを恥じもせず立って斎藤を揶揄うように見つめた。年端のいかない少年を揶揄う、年増女のよう
な態度だった。斎藤は、ふん、と鼻をならした。
「邪魔したな。」
斎藤はそう言い捨て、乱暴に戸を閉めると、姿を消した。白菊は戸の方へ行き、耳をあてて外の
物音を聞いていたが、少したってから戻ってくると襖を開けて、克宏を呼んだ。
「センセ、もう、大丈夫。」
蒼い顔をした克宏が、部屋からでてくる。白菊は彼を座らせた。
「大丈夫かい、君?」
男が克宏を見つめて言った。酒を空の杯に注ぎ、克宏に手渡す。
「飲まないか?落ち着くよ。」
克宏は震える手でそれを受取り、一気にぐっと飲み干した。かなり上等な酒だった。克宏が杯を
置くと、禿が白菊を外から呼んだ。彼女は克宏を再びとなりの部屋に押しやると、部屋の戸を開
けた。
「姐さん、ちょっと。」
禿が彼女に何やら耳打ちした。白菊は男の方へ戻ってくると、すまなそうに男を見た。
「あのう・・・」
「他から呼び出しがあったのか?私はかまわないから、行っておいで。今晩は、ずっと行っていて
いいよ。なんだか、酒を飲んでいたい気分だから。だがまたそのうち、埋め合わせをしてもらうよ。」
男は、微笑みながら穏やかに言った。白菊は頭を下げた。
「いつも、済みません。」
彼女は克宏を再び部屋から出した。
「私は、行かなくてはならないので。センセ、しばらく私の部屋に隠れているといい。」
「いや、ここにいた方がいい。さっきの警官が、まだ外を歩きまわっているとも限らない。だが、ここ
にはもう来ないだろう」
男が言った。
「だが、君に迷惑がかかるかも知れない。」
「かまわんさ。君さえ良かったら、俺の酒の相手をしてくれないか?振り袖相手に一杯やっていても
面白くないんだ。」
「喜んで。」
克宏がそう言うと男は明るく笑い、白菊の方を見た。彼女は頭を下げ、部屋をでていく。
「じゃあ、センセ、気をつけて。」
彼女は男を振り返った。
「この埋め合わせは、きっと。」
白菊が部屋をでていくと、男は克宏に向き合った。
「助けてくれて、礼を言う。」
克宏は言った。男は、穏やかに微笑む。何か人を安心させるような、暖かみのある笑い方だ
った。性格の穏やかさが、にじみ出ていた。歳は、二十半ばぐらいだろうか?背の高い優男で、
小作りだが整った顔立ちをして、髪を断髪にしている。着流姿で、着ているものはかなり上等
で趣味も良い。見た感じは育ちも良さそうだ。どこかの若旦那か?克宏は思った。
「礼にはおよばんさ。どういう事情か知らないが、君を救ったのは白菊だ。たいした妓(おんな)
だよ、あれは。そう思わないか?」
克宏は頷いた。
「だが、となりの部屋で俺は君とあの警官のやり取りを聞いていた。君もたいした人だ。本当
に、礼を言う。」
男は、穏やかに克宏を見つめている。克宏に杯を持たせ、酒を注いだ。
「・・・俺、あんたの興を削いじまったみたいだな。すまなかった。」
「気にしないでくれ。実を言うと、俺は今晩、別に女が欲しかったんじゃない。誰かと飲んでい
たかったが、友人全部に振られてここにやって来たんだ。それに・・・白菊は、面白い妓だから。」
「たしかに、あいつは面白い。」
克宏は和み、笑った。酒に口をつける。
「俺は、伊織という。君は?」
「俺は克宏。月岡克宏。」
「君は、白菊のなじみなのか?」
「いや、俺は絵師で・・・今日は白菊の絵を描きに来たんだ。知らないかもしれないが、津南とい
う雅号を持っている。」
「・・・月岡津南か?」
伊織は、驚いて克宏を見た。
「俺の妹が、君の錦絵を山ほど持っているよ。驚いたな。こんな若い人だとは思っても見なかっ
た。」
「よくそう言われるんだ。」
克宏は微笑んだ。彼にはめずらしく、初対面の相手にも関わらず、この伊織という男相手にリラ
ックスし、打ち解け始めていた。彼にとっては、滅多にないことだった。克宏は人間嫌いで通っ
ている。始めて会った相手と、簡単に和む人間ではない。
「君は、何をやっているんだ?」
克宏は聞いた。
「医学生だよ。」
 
その夜、克宏は彼と空が明るくなるまでずっと話し込み、その部屋に泊まっていった。昼過ぎに
二人とも眼を覚まし、一緒に食事をとると、またそのうちいっしょに酒を飲む口約束をして、別れ
た。
 
ー*ー
 
「少しは、身に染みたか?人の言うことは聞くもんだってな。」
斎藤が、克宏を見下ろし、そう言って笑う。克宏は力なく俯いた顔を上げ、相手を見上げた。警
察の取調室で、克宏は後ろ手に縛り上げられ、椅子の上に座らされていた。政府を誹謗する
目的の印刷物を発行した疑いで、克宏がここへつれられてきてから二日目になる。克宏の口の
端は誰かに殴られでもしたのか切れていて、少し血がこびりついていた。目の下には隈ができ
ていて、すでに憔悴したような顔をしている。
「可哀想になあ。まともな体で、ここを出れないかもしれん。」
そう言って笑いながら見下ろす斎藤を、克宏はきつく、睨めつけた。斎藤は彼に近寄り、彼の
髪を片手で強くつかみ、乱暴に後ろへ仰け反らせ、顔を自分の方に向かせた。
「まだ、元気が残っているらしいな。だが、いつまでそうやって強情を張っていられるかな。」
斎藤の顔へ向けて、克宏は唾を吐きかけた。だが斎藤は頭を動かしただけで、それを難なく
避けた。髪をつかんだまま、平手で克宏を殴る。大きな音が、部屋に響いた。
「お前、その性格、矯正しないと、いつかとんでもない目に会うぞ。」
斎藤が面白そうに、同情を装って言う。髪を掴まれ、斎藤の方へ向けられている顔を、克宏は
精一杯睨んで見せた。
「俺の性格なんか、お前の知ったことかよ?」
克宏は、吐き捨てるように言った。
「しょうがないやつだな。痛い目にあうまで、わからないと見える。」
斎藤は克宏の頭から突き飛ばすように手を離し、彼の背後へと回った。縛られている手をとり、
その右手の小指をつかんだ。それから手の甲の方へと、ゆっくり曲げていく。その痛みに、克
宏は呻いた。
「指を、すべてへし折ってやってもいいんだぞ。」
斎藤は背後から、克宏の耳に唇をよせて優しく囁いた。指をつかんでいる手に力を入れ、克
宏は我慢できずに悲鳴を上げた。
「お前の指の骨を、グシャグシャに砕いてやろうか?」
克宏の顔から血の気が引いた。
「そうしてやれば、もう、二度と絵筆は持てなくなるだろう。お前が絵を描けなくなったら、それ
を残念がる連中が、世間には山ほどいるんだろうなあ。」
斎藤が、再び力を込め、克宏は目を見開き、叫んだ。
「やめろ!」
恐怖に目を見開き、なんとか涙ぐみそうになるのをとめている。
「やめろ、やめてくれ!」
「やめろ、だと・・・?それが人にものを頼むときの態度か、お前。」
斎藤は克宏から手を離すと、腕を組み、冷ややかに彼を正面から見据えた。
「俺に何か頼みたかったら、そこに跪いて懇願しろ。」
克宏は黙って斎藤を見上げた。
「別にお前にその気が無いのならいいぞ。俺は部屋を出て行き、お前を他の連中に引き渡す
だけだ。血の気が多い連中が、ここには山ほどいるからな。言っておくが、連中は俺のように手
加減なんぞせん。何も言わないで、とりあえず指の一本や二本、へし折ることぐらい平気でや
るだろう。不具にされて、一生泣いて暮したいか?お前のような若い男は、輪姦された挙げ句
ずたずたにされるかもしれん。」
克宏は、俯いて唇を噛んだ。おそらく、この男の言っていることはおそらく真実だろう。拷問にか
けられることはともかく・・・手を滅茶苦茶にされるかもしれないという考えに、克宏は耐えられな
かった。そんなことになるなら、死んだほうがましだ。克宏はそのままじっとして動かなかった。
「好きにするんだな。」
それを見ていた斎藤は踵を返し、出口へ向かった。彼が戸に手をかけた瞬間、克宏は顔をあ
げた。
「待てよ。」
克宏は呟き、斎藤は戸の前で、顔だけを振り向かせた。
「なんだ、人にものを頼む口調じゃないな。」
克宏は下を向いて俯いた。
「待って・・・ください。」
克宏は小さな声で呟くと、俯いたままゆっくりと立ち上がった。膝を床に落とし、跪く。斎藤は
克宏の前に戻ると、面白そうに彼を見下ろした。体を落として片膝を立て、目線を克宏の位置
へ持ってくる。白手袋を填めた片手を、克宏の顎に添えて自分の方へ向かせた。
「助けて欲しいか?」
「・・・はい。」
克宏はそう答え、唇に力を込めて引き締めた。手が、屈辱でかすかに震えている。
「だったら、俺の奴隷になるんだな。」
斎藤のその言葉に、克宏は目を見開き、硬直した。真っ直ぐ斎藤を見据える。
「なん・・・だって?」
「聞こえなかったのか?助けて欲しかったら、俺に絶対服従を誓え。そのかわりお前はここから
解放され、お前が俺の掌のなかにいる限り、再びここへ連れ戻されることはない。」
克宏は、何も答えることができない。一体、この男は何を俺にさせようと・・・?克宏は、相手の
思惑を計ろうとした。
「どちらか選べ。ここを出るか、残るかだ。」
克宏は、言葉をださずに唇を動かした。なにかを言うつもりでもなく、ただ唇が震えている。
「い・・・いったい何のつもりで・・・」
「簡単だろう、お前を可愛がってやろうというだけだ。俺にしては、これは破格の取引だがな。」
冷徹な、物でも見るような斎藤の眼が克宏を見つめている。
「そんな、事が罷り通ると・・・?」
「弱みは、俺ではなくお前の方にある。そうだろう?俺はどっちだっていいんだぞ。これは別に俺
が、何がなんでもやりたい取引ではない。だから、お前に選ばせてやろうというんだ。」
斎藤は、あきらかにこの状況を楽しんでいた。克宏が屈服すると踏んで、それを彼自身に選ば
せるかたちで彼を追い込もうとしている。獲物を喰らう前の余興のようなものだ。補職する獲物を
追い詰めた狼はそれに向かって囁く。自分で身を俺に投げ出せ。そうすれば、一息に噛み殺
し俺一人で食らってやる。そうでないのなら、腸を食いちぎられ息のあるまま置き去りにされ、生
きながらハイエナ達に徐々にその体をに食いちぎられることになるぞ。どちらがよいか、自分で
選べ。
 
克宏はそれを悟り、怒りが彼を突き抜けた。こいつ、俺を弄んでいる。俺の肉体を蹂躙するだけ
では飽き足らず、俺の魂まで踏み付けようと・・・
「俺を、脅迫したことを訴えてやる。」
克宏は斎藤を睨んでいった。
「俺を捕まえ、乱暴したこともだ。」
「やりたければ、やれ。」
斎藤は動ぜず、ただ皮肉な笑みを漏らした。
「お前が投獄されたあとで、それを信じるやつがいると思うか?それとも、ここを出てからお前さん
の新聞とやらでそれを糾弾するつもりでいるのか?お前の記事の出版に手を貸す印刷屋は、もう
東京中、どこを探してもいないんだよ。お前は自分の立場というやつが、いまいち把握できてい
ないようだな。」
斎藤は、克宏を殴った。克宏は床に投げ出され、ぐったりとなった。斎藤は克宏の襟をつかむと、
持ち上げ、立ち上がった。克宏の首に力が入らず、頭は仰け反っている。
「どうするかさっさと決めろ。俺はこれでも忙しいんだ。」
克宏は答えを選択した。屈辱に涙ぐみそうになるのを何とか堪え、言った。
「ここから、俺を、だしてくれ。」
斎藤が、克宏をつかんだまま再び殴った。
「言葉の使い方を間違えているだろう。」
「ここから、だして、ください。」
克宏は神経が高ぶり、嗚咽が徐々に漏れ始めた。
「俺が命令することを、何でもすると誓うんだな。」
克宏は、泣きながら、そう、斎藤に誓った。屈服させられた屈辱に、彼の魂は引き裂かれ、血を
流した。その痛みに、彼は泣いた。斎藤は克宏を満足そうに見下ろし、彼はただ跪き、俯いてい
た。なんとか気を取り直し、嗚咽を押さえる。それでも長い間隔をおいて、何度か涙が頬をつた
った。
「俺の靴を舐めろよ。」
その言葉に、克宏は顔を上げて斎藤を見た。斎藤は冷徹に笑いながら克宏を見下ろす。
「俺の靴を舐めろと言っているんだ、何度も同じことを言わせるな。俺は気が短いんだ。」
斎藤の左足が、克宏の胃に直撃し、鈍い音を立てた。彼は悲鳴を上げると、床に倒れ、うずくま
った。床についている克宏の顔の鼻先に、斎藤の靴の先が差し出される。克宏は、それに口付
けた。新しい革と油の匂いが鼻についた。何秒かそうしていてから唇を離し、床に倒れたまま斎
藤を見上げる。
「まあ、いいだろう。立て。」
斎藤が屈み、克宏の襟首を掴んで体を起こさせた。克宏は再び斎藤の前に跪く。斎藤は克宏の
鼻先で自分の洋袴の前を開けた。克宏は黙ってそれを眺めた。
「くわえろよ。」
克宏はじっとそれを眺め、斎藤の顔を見上げた。
「聞こえなかったのか?さっさとやれ。」
顔をそれに近づけ、すでに上を向いているそれを口を開けて中にいれた。克宏はそのままじっと
した。
「なにやってんだ?舐めるんだよ。もし歯を立てたりしたら、問答無用でお前の腕をへし折ってやる
からな。」
克宏は舌を動かした。斎藤のどろっとした体液がほんの少しだけ口のなかに流れ出てきて、克宏
は嫌悪感に目を閉じた。口のなかが涎であふれたが、斎藤をくわえ、斎藤の体液と入り交じった
それを飲み込みたくなんかなかった。彼の口の端からそれが少し流れ出る。
「根元までのみ込んで、舌を絡めて吸え。」
そうしようとするが、喉に押し込まれるのがいやだった。それを深く飲み込もうとしない克宏に、斎
藤は焦れたように彼の髪を片手で掴むと、頭を自分に押し付け、斎藤のが克宏の喉の奥にあた
るとそのまま左右に押し付けるように動かせた。喉を犯されて、克宏は呻いた。斎藤が克宏の髪
の毛を掴んだまま自分から引き剥がす。克宏の涙と唾液で汚れ、激しく息をつく顔が斎藤を見上
げた。押し込まれている最中、うまく息ができなかったため、呼吸が苦しかった。
「・・・おまえ、これをやったことがないのか?そんなんじゃ、いつまでたっても終わらないぞ。」
克宏は黙って、彼を見下ろしている斎藤を見た。
「まあ、いい。他にも方法はあるからな。」
斎藤か克宏の襟首を片手で掴み、恐ろしく強い力で引っ張って立たせると、机の上に、うつ伏せ
に上半身を押し付けた。克宏の下半身に身に付けている物を引き下ろす。
「やめろ、やめてくれ!」
克宏は喚いた。逃れようともがくが、後ろ手に縛られている上に体が弱っていて力が入らない。斎
藤が覆い被さると、彼はもう動けなかった。
「お前がちゃんとうまいぐあいにやれば、その分痛い思いをしなくて済んだんだがな。」
自分の唾液で濡れたそれが、克宏に押し付けられる。斎藤は両手をあてると、克宏の躯を両サイド
に広げた。
「いやだ・・・それだけはやめてくれ、お願いだ。」
克宏はすすり泣いた。
「うまくやれなかった罰だ。」
体のなかに、固くなったものが侵入してきて、克宏は痛みと恐怖に悲鳴を上げた。入り込まれる
瞬間、壊され、めり込んでいく軋むような音が彼の耳に聞こえた
ような気がした。克宏が痛みに
悲鳴を上げてもがくのを、斎藤はあきらかに楽しんでいた。