緋向子



十年という歳月を振り返ってみるとき、それが長い歳月だったとは克浩は感じなかった。
十年前のあの赤報隊にいた時間の記憶があまりにも強烈すぎて、それ以後の思い出を
少しばかり霞ませるのかもしれない。あの、隊長を愛していた激しい感情が、今の克浩を
時々、悩ませた。自分自身より彼を愛していた。彼に認められ、ずっと傍にいたいと願っ
ていた。彼が克浩に自分の欲望を向けることで克浩の信頼を裏切り、粉々に打ち砕いて
さえ、克浩は心からそう望んでいた。そして克浩が知りたくなかった彼の克浩に対する欲
望という昏い一面に直面したとき、克浩は自分の一部を凍結させてしまった。切り捨てる
ことはできなかった。それは亡霊のように、十年たった今でもずっと克浩に付きまとってい
た。逃れることが、できなかった。日常の大部分でそれは隠れて姿を見せなかったが、何
かのおりに、突然、脅かすように姿をちらつかせては克浩を悩ませた。それは時としてかた
ちを変えたために、克浩自身でさえ気が付くことさえないこともある。たとえば、かつて他人
と関わることを排斥してきたこと、何かにせき立てられて狂ったように酒を飲んだ夜。歪んだ
かたちで発露する激情。

自分の部屋で克浩が左之と酒を酌み交わしているとき、その影を克浩は感じることがある。
左之は彼が何を過去に隠しているか、その一部を知っている。けれど、決してそのことに触
れようとしない。それを故意に避けている。それは克浩の思い込みではなかった。あれほど
隊長を崇拝し、敬愛していた左之が、克浩の前で隊長の話題を出すことがほとんどなかった
からだ。彼は克浩がそれに後ろ暗く思っていることを知っている。そうでなければ、何故あの
左之が隊長のことについて口をつぐんでいるのだ?今となっては、克浩が唯一の隊長の思い
出を共有した相手だというのに。

ー*ー

皆、そのことを知っていた。克浩が隊長に呼ばれると、目配せしあう隊員達がいた。隊長は
そのときすでに、外聞を憚らず克浩を自分の寝所に引き入れていたからだ。克浩は黙って
耐えた。彼にそれ以外、一体何ができただろうか?そんな事をされるのがいやだからと言って、
ここを逃げ出したところで、彼に一人で生きていく力はない。親はいるものの、彼らは克浩を
迎えたりしない。克浩はそれをいやになるほど知っている。親に人買へ売り渡されなかった
だけ、まだましなのかも知れない。

隊長に呼ばれて克浩が行くと、左之はいつもじっと目を見開いて彼の姿を見ていた。克浩
は左之を見ることができず、その視線を痛いほどに背中に感じていた。
ーもう、彼は他の隊員から、左之の保護が必要ではなかった。もう克浩に度を超した何かを
仕掛ける隊員などいない。皆克浩の後ろにいる隊長の影を見ていたからだ。
'あいつは隊長のお気に入りだからな。'
そういって意味ありげに笑う連中に、左之もまた黙って耐えた。聞きたくなかった。

ー*ー

その日の夕方、ある隊員が克浩に隊長からの伝言を持ってきた。隊長が克浩を湯殿で呼ん
でいるというのだ。
「背中をながして欲しいんだそうだ。しっかりお慰めしてこいよ、夜伽も準隊員の大事な役目
だろうが。」
まわりの連中がそれにどっと笑った。克浩は震わせながら、唇を噛んだ。何も言わず、誇り高
く昂然と頭をあげて、周りには目もくれないようにして悠然と歩き去る。左之にさえ、視線を向
けなかった。左之は黙ってでていく克浩を呆然として見送った。

伝言を持ってきた隊員が、呆然としている左之を見た。
「どうした、左之助。どういう意味か、わからんのか?」
「いや、こいつはちゃんとわかっているさ。まだ刺激が強いんだよ。」
左之は、相手を睨んだ。
「克浩を侮辱するのか?」
そいつは、笑った。
「侮辱?本当のことを言って、何が悪い?」
「克浩は、そんなんじゃない!」
左之は、食って掛かるようにして言った。相手の男が、嘲笑するようにして笑う。
「そんなんじゃないだと?お前も知っているだろう。なんで隊長は外出の時あいつを同行する
んだ?しらない奴はいないぜ。茶屋の二階にあいつを連れ込むんだよ。他の隊員追い払って、
二人っきりでな。」
左之は黙った。彼だって、知らないわけではない。ただ頭の片隅で、それらをどうしても信じ
たくなかった。あの隊長と克浩がそんな事本当にするのか?想像、できない。考えたくなんか、
ない。
「ま、隊長はあいつがお気に召したって事だ。それだけだよ、左之。四の五の言うほどのことじ
ゃないじゃないか。それともお前、もしかして克浩に焼いてるのと違うか?」
「なんだと?!」
左之の剣幕に、相手は少しひるんだ。ちょっと顔をひいて見せる。
「むきになるなよ、冗談さ、冗談。」
左之は背中を向けると、その場を離れた。何故だかわからないが、無性に悔しかった。後ろで、
誰かが克浩に関して卑猥な冗談を言っている声が聞こえた。

克浩は、隊長の着ているものを脱がすのを手伝っていた。以前の彼は、隊長の均整のとれた
体を目にすると、ほれぼれしながら見ていたものだった。だが今は違う。克浩は事務的に体を
動かした。そして隊長が彼の着物に手をかけると、痙攣したように反応した。下を向き、体を固
くする。
「克浩、脱がなくては、濡れてしまうだろ?」
「大丈夫です。少しぐらい、濡れたって。」
「後が面倒だよ。人の言うことは聞きなさい。」
克浩は黙って隊長の手が自分の体に触れるにまかせた。器用な無駄のない手つきで、克浩の
身につけているものをすっかり取り去ってしまう。隊長がなんのために自分を呼んだのか、これ
ではっきりした。彼は隊長に肩を抱かれて、うつむきながら湯殿に入った。

左之は、ぼんやりと一人で座り込んでいた。幼い彼は、自分のこの複雑な感情を整理すること
も、処理することもできない。彼らが言っていることが真実なのだろうとは理解できる。だが、それ
らはまるで異世界ででも起っていることのようで、彼の頭はそうしてもそのことを受け入れられず、
なじめなかった。あの、左之が克浩を押し入れに引っ張り込んで、隊長に彼を攫われた夜、左之
は隊長が克浩に何をしているか確信した。しゃくりあげる克浩を見て、もし克浩が彼を止めなかっ
たら、隊長に詰め寄りに行ったかも知れない。'なぜ、こんなことを?'と。左之は、隊長と克浩に引
きちぎられる想いがした。彼は隊長を崇拝していた。彼のする事、考えることをいつだって盲目的
に受け入れた。だが、今の彼は....。とてつもない違和感が左之を襲っていた。彼は混乱し、当惑
していた。

背中を流し終えると、克浩は身をひるがえして逃げようとした。その腕を隊長が後ろからつかんだ。
克浩の心臓が高鳴った。怖くて凍り付いたまま後ろを振り返ることができない。
「克浩、どこへ行くんだい?まだ終わっていないよ。」
その優しい声が、怖かった。
「でも.....」
腕を引っ張られ、膝の上に座らせられた。乱暴に口づけられ、抱きしめられた。いつもいやだと思
いながら、克浩の体は欲望に反応する。隊長に抱きすくめられただけで期待に高まり、体はそれを
望んでいる。隊長の手が克浩の脚の間に伸びた。
「いい子だ。そんなに私が欲しかったのか?」
克浩の口からため息のようなかすかな声が洩れる。隊長は彼を膝から下ろすと、頭に手を添えて
自分の方へと導く。克浩が頭をあげて、不安そうに隊長を見る。
「この前、教えただろう?」
隊長は、表情を変えない。上機嫌で、克浩に言う。
「隊長。」
「やるんだ。」
有無を言わせぬ口調に、克浩はあきらめて口をつけた。幼い彼の口はまだ小さい。侵入されただ
けで苦しかった。彼の動きのたどたどしさが、かえって隊長を喜ばした。
「上手だよ、克浩。お前は本当に役に立つ子だ。」
その言葉は愛情の戯画だった。克浩は泣きたくなった。いっそ、ただ無慈悲に蹂躙されていたの
なら、彼はこんな風に傷付いたりはしなかったかもしれない。単純に隊長を憎むことができた。だ
が隊長が垣間見せる愛情は、克浩を悩ました。それらは、どうしても嘘に見えない。彼は本当に、
克浩を愛しているかのように見える。しかし、愛しているなら何故こんなことをする?何故俺をこん
な風におとしめるのだ?彼は自分がそうされるにふさわしい、価値のないものであるかのように感じ
た。俺は蹂躙されるのがふさわしい、ちっぽけな存在なのだ。

隊長は、その気配にすぐ気が付いた。湯殿の窓から、小さな二つの目がのぞいている。隊長とその
目があった。隊長は、表情を変えない。微笑んですらいる。その顔に後ろ暗さというものがない。左
之は面食らった。その光景に、物凄い違和感を感じた。現実とは、思えなかった。椅子に座った隊
長の脚の間に克浩が座り込んで、その頭を動かしている。左之は身を翻すと、すぐに消えた。自分
がこんなことをしたのがくやしかった。今の彼はあさましい覗き屋だった。彼は自分を深く恥じた。

ーだが、あの隊長は....

"男だったら、誰だってやることだ。隊長だって、別に例外じゃない。"
始めて隊長と克浩の話を聞かされて、食って掛かる左之に誰かがこう言った言葉が、左之の頭の
中にこだました。
"別に騒ぎ立てることでもない。お前も大人になればわかるさ。"

ー*ー

次の日、草むらに一人でぼんやり座っている左之のもとに、克浩が近寄ってきた。左之は彼を見上
げ、克浩は無言で彼の隣りに腰を下ろした。
「克浩.....」
左之は彼の名を呼び、そして昨日のことを思い出した。こいつは昨日のことに気が付いているのだ
ろうか?左之は、彼から視線をはずした。顔が、少し赤い。
「どうしたんだよ、左之?」
克浩が、不思議そうに訪ねる。だが、彼も気まずいものを感じていた。こいつは俺に恥ずかしく思っ
ているのか?
「なんでも、ねえよ。」
左之がボソッという。
「言いたいことがあるんなら、はっきり言えよ。」
克浩は、口を曲げた。
'どうせ、隊長のことでも聞きたいんだろう?お前だって、俺のこと知っているんだろう?聞けよ、なん
でも。正直に答えてやるから。'
克浩は、やけになって考えた。左之が何も知らない筈はない。そしてそれ以外のことで、彼が気ま
ずく思う理由なんか、無い。
「いい加減にしろよ、お前。」
左之が克浩を真っ直ぐ見て、ちょっと怒ったようにいった。
「なんだよ、そのいい加減にしろって言うのは。」
「わかんねえよ。何、お前俺に突っ掛かるんだよ。」
「突っ掛かってるのはお前だろ、左之。」
「うるさいっ!全部、お前が悪いんだ!」
「どーゆー理屈だ、それ。」
克浩は、怒った。何か知らないが、機嫌の悪さで八つ当たりに無茶苦茶なことを言われているのは
わかる。左之が、克浩に飛びかかる。押さえ付けて、体を擽った。
「なにすんだよ、左之、やめろよ。」
たわいない、いつも二人でやっている子供のおふざけである。左之が笑いだし、克浩もそれにつら
れて笑った。
「おい、やめてくれ、左之、苦しい.....」
克浩の体を下に組み敷いて、左之が動きを止めた。昨日のことが、脳裏をよぎる。左之はじっと克
浩を見下ろした。克浩が左之を見上げて少し緊張する。二人とも黙ったまま、しばらく見つめあった。
何となく気まずくて、体を動かすことができない。そして左之が克浩から体をどかそうとした瞬間、
後ろから声がかかった。
「何をやっているんだい、二人とも。」
その隊長の声に、なぜか二人とも硬直した。いつものように、優し気な声だ。だが、その裏に感じる
何かに二人ともどきりとした。なんだかわからない。だが、何かいつもと微妙に違う声だ。少しうろた
えている克浩を置いて、左之が克浩から体をどかす。それから左之が答える。
「ふざけてただけです。」
隊長が二人を見下ろしている。顔は笑っているが、その目は違った。
「ちょっと、私と来なさい、克浩。」
克浩はゆっくりと立ち上がった。隊長の方に行く。隊長はその笑っていない目で克浩を凝視してい
る。左之が心配そうに二人を見た。克浩は隊長に続きながら、ちょっと左之を振り返った。大人びた
顔で、少しだけ左之を見た。左之は、呆然としたまま、そこから動くことができなかった。

隊長は自分の自室に彼をつれていくと、彼を押し込むようにして部屋にいれ、後ろ手に戸を閉めた。
苦々しそうに克浩を見つめる。克浩はすこしうろたえた。黙って立って、脅えた目で隊長を見返す。
隊長が彼の腕を、右手でつかんだ。
「何をやっていた。」
怒りを、圧し殺したような声である。克浩は驚いてちょっとひるみ、気をとりなしてきっぱりと答えた。
「左之と、ふざけてました。」
「あれがふざけていたのか?」
克浩は、黙った。なんと言っていいかわからない。隊長は、何を怒っているのだろう?隊長の怒った
眼に彼はひるんだ。
「もう、誘惑するなんてことをおぼえたのか、お前は?」
克浩は驚いた目で隊長を見た。誘惑って、いったい、何を言っているのだろう?俺が左之を?!克浩
は、あまりにも馬鹿げたその物言いに、どう反応してよいのかわからない。彼が本気なのか、いや
正気なのかと疑った。
「私では物足りなくなったのか?こんな幼い歳をして。」
克浩は怖くなった。隊長の目の中にある狂気のような嫉妬が、克浩を射すくめた。こんな隊長は
始めてみる。怒りで我を忘れ、いつもの冷静で穏やかな雰囲気は微塵もない。克浩は、後ずさっ
た。隊長がつかんでいる彼の腕を引っ張り、自分の方へ乱暴に引き寄せた。克浩は前へ転びそ
うになった。それを隊長が受け止め、胸へ抱きしめた。
「克浩、私の克浩。」
悲痛な声で彼の名を呼ぶと、痛いぐらいに強く抱きしめた。
「すまない、私はどうかしているんだ。許してくれ、克浩。」
隊長のその様子に、克浩はただ、脅えた。
「もう、だめなんだ。終わってしまうんだよ、すべて。」
隊長は力を緩め、彼を放した。いつもの隊長に戻っている。だが微笑んではいない。冷静な眼
差しで、脅えている克浩をじっと見る。だが逃げようとした克浩の腕をつかんで、離さなかった。
彼を引き寄せ、口づけた。しばらくそうやっていたが、体を離し、彼をじっと昏い目で見つめる。
「怖いんだ,私は。」
彼の頬を涙が伝い、それが克浩の肩に落ちた。
「隊長?」
「もう、覚悟はしている筈なのに、私は怖くてたまらない。私がしてきたことは、いったいなんだっ
たんだ?連中にとって、都合のいい布石の捨て石となっただけだった。いいだろう、それがどうし
ても必要というなら。だが.....」
隊長の目から、止めどもなく涙があふれでてくる。それが克浩の体を濡らした。
「脅えさせて済まない、克浩。私は今日はどうかしている。どうしてお前にこんなことを話してしま
ったんだろう。」
隊長の涙が止る。彼は克浩の肩を両手でつかみ、真剣な顔で見据えた。克浩も隊長の顔を見返
す。
「私は、お前を離したくない、克浩。だが、赤報隊を抜けなさい。お前の引き取り先はもう、捜して
ある。」
赤報隊を抜ける?何故?隊長は、俺をどこかへやるつもりなのか?克浩の胸に、なんともいえない
不安が広がった。俺はまたどこかへやられてしまう、隊長や左之と離れて。そんなのは、いやだ。
「何も心配しなくていい。持参金をつけて、養子に出してあげるから。」
克浩は泣き出した。隊長は本気なのだ。彼は隊長の胸に飛び付き、しっかりと抱きついた。
「いやです、隊長、俺はどこにも行きません。ずっとお側に置いてくれるって、約束したじゃない
ですか。俺はどこにも行きたくない。隊長とずっと一緒にいる。」
克浩は号泣した。

彼は昔、親につれられて奉公先へやられたときのことを思い出す。あのとき、彼は不安で胸が押
し潰されそうだった。むかえでた家人に値踏みされるような目で見られ、冷たい言葉を聞かされ
た。そして泣き出しそうになっている彼の前に、彼が現れたのだった。その優しい声と差し伸べら
れた手は、まるで暗闇の中にいきなり太陽が現れたみたいだった。克浩には、それが眩しいほど
だった。そして家人の自慢の種である跡取りの彼が克浩を可愛がり始めたことに、他の人々は驚
いた。何故あんなかわいげのない子供を?克浩は、大人に媚びるという事をしなかった。いや、し
ないのではなく、そういうことができなかった。誰にもわからなかったのだが、彼は媚びて何かを
もらうようなまねがしたくなかった。その子供にふさわしからぬ気位の高さは、誰に教えられたわけ
ではない、彼の往来の気質だった。彼の実の親でさえ、それは理解できないことで、いつだって
彼は、'かわいげのない子供'といわれ、疎まれてきた。克浩は不思議に思った。何故この人は、
'かわいげのない'俺に目をかけてくれるのだろう。この隊長は、克浩が生まれて始めて、彼の持つ
ものを理解し、その感覚と、魂を愛でることのできた唯一の人だった。

「これは、お前のためなんだよ、克浩。」
隊長は、言った。克浩は頭を激しく振った。
「いやです。隊長の側を離れるぐらいなら、死んだほうがいい。」
「聞き分けのない事を言わないでおくれ。」
「こればっかりは言うことを聞きません。何があっても俺は、絶対お側にいます。いやです。絶対
にいやです。」
隊長は黙った。克浩の性格は熟知している。普段はおとなしく存在感がないが、一度主張すれ
ば絶対に引かない。彼が何かやると言えば、それは本当に行われるのだ。隊長はため息をつい
た。
「これからお前はひどく辛い目に会うかも知れない。私といたことを、後悔するかも知れない。」
「何があっても、絶対後悔なんかしない。絶対。」
「お前は、嘘をついている。現に、私にこんなことをされるのを嫌がっているじゃないか。」
隊長の手が、克浩の胸に伸びた。着物を割って、手がなかに差し込まれる。克浩は黙った。
「わかったね。用意ができたら知らせる。ただこの事は他の人には黙っておきなさい。左之にも
いわないでおくんだよ。」
「いやじゃない。」
克浩はうつむいて、小さな声で言った。それから声が、少し大きくなる。
「いやじゃない、俺は、これがいやなんかじゃない、だから、俺を、他へやったりしないでください。
俺は、あなたのそばに、居たいんです。」
固く目を閉じ、両の拳は震えるほど握られている。
「お前は嘘つきだよ、克浩。」
彼の両手が克浩の頬にのばされ、顔を包んだ。頬と唇に軽く口づける。克浩は、ずっと目をつぶ
っていた。床の上に横たわらせられても目を閉じたまま開けなかった。隊長は、克浩をじっと見
下ろした。
「誰がいったいお前を最初に穢すのだろうな。できるものなら、私がやりたかった。でも、今のお前
はまだ小さすぎる。」
克浩はその言葉に目を見開き、何もいえずに、ただ隊長を見返した。隊長の中指が、克浩の口の
なかには言ってくる。克浩は、それを軽く吸った。隊長がいつものこと、をしようとしているのはわ
かる。だが、克浩は不思議とそれをいやだと思わなかった。彼の顔が近づいてくると、克浩は手を
伸ばし、彼の顔に自分の手をやって、自分から唇を近づけ、吸った。彼がいつもやっているように、
舌を彼の唇を割っていれてみる。隊長が顔を離し、ちょっと驚いたように克浩を見る。克浩は黙っ
て隊長を見返している。その表情は幼い子供のものではなく、一人前の大人のものだった。彼は
脅えても、恐れてもいなかった。どこか強姦されながら平然と振る舞っている女のような、そんな
威厳があった。
「お前は、」
隊長が何か言いかけて、やめた。お前は、将来、ある種の男たちの特殊な欲望を引き出すような
存在になるかもしれない、そう言いかけようとした。しかし、そんな事は言っても詮ないことだ。そ
して彼はそう仕向けたのが自分であるという事が、理屈ではなく本能的な部分でわかっていた。
ー隊長は視線を落した。顔を落して、克浩の胸に口づける。克浩は彼の頭と首に両手をまわす。
克浩は今まで
感じていたようなくすぐったさではなく、違う感覚を彼の愛撫から受けた。彼の体にしっかりと押
さえ付けられた脚の間に、せき立てられるような欲望を感じる。克浩は自分から彼の方へ、自分
の体を押し付けた。脚をあげ、彼の腰に絡み付かせる。

彼は克浩に爪を立て、その欠片を彼のなかに埋め込んだ。自分の死を目の前にした男が、本能
的に自分の遺伝子を残そうとするように、彼は克浩の魂に自分の爪痕を残した。克浩は、彼の
ための生きた石碑だった。彼が克浩を深く愛していた分、その反動を伴って、彼は克浩を傷付
けずにいられなかった。何もそれを止めることは、できなかった。その埋め込まれた爪の欠片は、
ずっと後になってさえ克浩を悩ませ、やり場のない怒りを引き起こし、彼を悲しませた。

ー*ー

いつものように、左之が克浩の部屋を訪ね、なんとなしに酒を飲み始めた夜だった。何かのおり
に赤報隊時代のことがでた。その日、左之は酔っていたに違いない。彼はつい、克浩に隊長は
お前を可愛がってたよな、といったのだ。克浩の体が硬直し、凍り付いたような表情で左之をじ
っと見た。
「・・・隊長が、お前を可愛がっていなかったとでも言うのか?」
「えっと、その....、ただお前って、隊長のお気に入りだったからさ。」
一寸うろたえながら左之は言った。何となく気恥かしく、克浩を真っ直ぐ見ることができない。克
浩が酒の杯を落した。それが乾いた音を立てて畳の上へ転がる。克浩はうつむき、自分の上着
の裾を両手でつかんだ。左之は凍り付いたように動けなくなった。目を見開き、じっと克浩を見
つめる。畳の上に、大粒の涙が幾粒も落ちた。
「左之、お前、俺が隊長に何されてたか、知ってるだろう。」
左之は何も言えない。克浩の肩が震えた。
「お....,俺、嫌だったんだ、あんな事されるの。でも、何も言えなかった。」
克浩の口から嗚咽が洩れた。
「克浩!」
左之は彼に飛び付くようにして、激しい勢いで抱きしめた。克浩は足を投げ出し、縋り付くようにし
て左之の体に手を回す。克浩は、子供みたいに泣き出した。
「ほんとに、嫌だったんだ、左之、嫌だったんだよお.... !」
克浩は声をはりあげて泣いた。克浩を抱きしめながら、左之は固く目を閉じた。彼は自分にその
責はないのだとわかっていながらも、なぜか克浩に対して自責の念に駈られずにはいられなかっ
た。
'すまない、克浩、俺、お前を助けてやれなかった、俺は無力だった。ゆるしてくれ.....'

赤報隊が壊滅した後、混乱の中で左之は克浩の手を引いて逃げていた。あちこちで爆発音が
聞こえる。人並み外れて強い左之と違って、克浩の体力は普通の子供と変わらない。克浩の走
る速度が目に見えて落ちた。
「左之、俺はもう、走れない、お前一人で逃げろ。」
克浩が息を切らしながら言った。左之が彼の手を引きながら、後ろを振り返る。だが左之の手を
振り払おうとした克浩を、彼はしっかりつかんで離さなかった。

隊長はもういない。俺が隊長の代わりにこいつを守らなくてはならない。

「ばか言え!お前を置いていけるかよ!」
「だけど、このままじゃお前までやられちまう。」
「うるさいっ!引き摺ってでも連れていくからな!無駄口叩かないで、とっとと走れよ!」
そのとき、閃光が走り、爆風に二人は吹き飛ばされた。左之が地面に叩き付けられ、意識を失う
瞬間、彼の名を呼ぶ克浩の声を聞いたような気がした。それからどれだけ意識を失っていたのか
はわからない。だが彼が気が付いたとき、彼は一人で倒れていた。起き上がり、頭から流れる血
を拭いながら半狂乱で克浩の名を呼んで捜したが、彼が再び克浩を見つけることは、その十年
後までなかった。

左之はわかっていない。彼は隊長を崇拝するあまり、自分と彼を同一視してしまった。隊長の愛
したものは、彼の愛するものだった。隊長が守ろうとしたものを、彼もまた守ろうとしていた。そし
て、隊長の欲しかったものも.....

'もし俺があのとき大人だったら、お前を助けてやれたのに。お前を担いででもあの混乱から連れ
出すことができた。お前をこの十年のひどい孤独のうちには置かなかった。でも、そうだとしても
俺は、お前をあの、それ以前の経験から救い出すことは、できたのだろうか?'

彼は泣きじゃくる克浩を抱きしめながら、苦しいほどの欲望を身内に感じていた。必死になって
それを押し止める。・・・あのとき、彼が隊長と克浩を湯殿の中に覗き見たとき、彼の脳裏にひらめ
いたのは、克浩の前で隊長にとって変わる自分だった。そのなかで彼は大人の自分の前に、あの
ときの克浩を跪かせて自分の欲望を満たしていた。左之は固く目をつぶって、その思い出を振り
払おうとした。

克浩は左之の腕の中で隊長の暖かい胸と、彼の自分に向けられていた欲望を思い出していた。
克浩は左之が何を今考え、何を彼のうちに押し止めているかわかっていた。左之の体が反応して
いることに気が付いていた。あのときの隊長と同じこと.....

'隊長、俺はあなたをどうしようもないほど愛して、そして憎んでもいました。'

克浩の隊長への愛情と憎しみは、一枚の紙の裏と表のように、切り離せなかった。彼の隊長への
愛情は深く、それが深い分、憎しみが愛情と同じ強さで強く彼の心を切り裂いた。

克浩は、隊長が彼と左之のうちに刻んだものの深さに、呻いた。
現し世の欠片