<試験勉強> | |
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こんなにも食い下がってくる弟子は初めてだ、とダイロンは笑った。笑われたサイロスは憮然たるおももちを返した。本来、このサイロスは笑われるようなエルフでなどありはしない。どのような場においても、どのような意味においても、薄金の髪戴く誇りかなナンドオルは、典雅と皮肉の鎧を持ち、舌剣の刃を握っていた。 そして、ダイロンのほうも軽々しく笑うエルフでなどない筈だった。その位階においては。この笑い、ダイロンが惜しげもなく振りまくこの笑い、銀の鈴を転がすような、それこそが今のサイロスの眉間の皺のゆえであり、癪の種だった。ダイロンはドリアスにおけるシンゴル王の伶人である。伝承の大家として数ある楽人たちを従え、ドリアスの音楽と時とをその手に束ねている。…… 「だからこそ、私は申し上げているのだが?」 諧謔と馴れ馴れしさと、親しみと、――つまり友愛の情をこめて、相談役の要たるサイロスが物申すのはただ一人、ダイロン。眼の前で二つに身を折っているしようのない笑いたがりの小鳥。 「といって――無理だと、さっきから。とても」 「無理とはどのように?」 「サイロス。我が友よ」 やっと笑いおさめて、ダイロンは白い頬にかかった銀髪をかきあげ、相手に向き直った。耳に掛けても、その豊かな銀の流れは頸から溢れ落ち、坐ったなりの膝までなだれ届いている。 「オスシリアンドの歌う民たる貴方。歌をもって我が友となったるところのサイロスよ。緑の若枝の中でも抜きん出たる器の貴方に、今更私が教えることなど何もない」 「それは、謙遜ではなく突き放しに聴こえるな。友よ、ベレリアンド一の歌、いや全アルダにおけるクウェンディに冠たる声持つ貴方が、教えることはないなどと。それでは私はヴァンヤアルに勝るとでもいうか?ノルドオルの歌人に打ち勝つ響きで海山を震わすと?」 「サイロス、サイロス」 小柄な銀髪の伶人は幼子をなだめるように、坐ったまま両手で空を撫でる手つきをした。敷物を重ねた上に膝立ちになって、先刻から権枢握るナンドオルは似合いもしない、詰め寄っての直談判というものをやっている。その眼はひどく必死だった。 長衣の裾が皺になるのもかまわずに、 「居並ぶリンダアルの公子がたにとて到底およぶものではない。……その公子がたを、貴方は今まで厳しく教えていたではないか?歌の長どのよ」 「サイロス」 白皙の顔に微苦笑が浮かぶ。 「それは役目というものだ。あのかたがたとて我ら歌う民を率いる以上、公の場で体面を失うわけにもゆくまいて。サイロス、今日は常日頃の貴方にも似ず、小児のように駄々をこねるのだな。貴方はたしかに王の相談役だが、全てにおいて他を越えねばならぬいわれはあるまい」 「わかっておらぬ。口で負かされはせぬぞ」 サイロスは衣の長い裾を後ろへさばいて、すいと寄った。 「わかっておらぬ。誰一人、わかっておらぬのだ。リンダアルの公子がたともあろうものが!そしてダイロン、貴方もそうだぞ」 「何を、そのように――」 「貴方に、ドリアスのダイロンに歌を教わるということを……!」 声はほとんど、押し殺した叫びのようだった。ダイロンは半ば呆れて、見慣れた友の薄氷の眼の色に今は熱が浮かんでいるのを見やる。彼の部屋に二人きりだった。これが宴の場だったら、サイロスの面目が永劫に失墜したかもしれない、などと考える。 「半日そのようなことを思っていたのか。正気か」 「この上なく。私にすれば気を疑うのは貴方の弟子たちの方だ。何を考えぼんやりと教えを受けているのやら。彼らの耳は飾りか」 「サイロス。不敬だぞ。ケレボルン殿やオロフェア殿のご子息はかなり筋がよい」 「お役目、であろう?」 むしろ拗ねてさえ見える表情で、ドリアスの枢要は不遜にも鼻を鳴らした。 「何故わからない?耳は何のためにある?ダイロン、貴方も焦れて思ったことはないのか、その身に置き換えて――」 「…………」 俯いてしまったダイロンをサイロスが覗き込んだ。 「あの、歌の夢――」 我が身が雲となり空へ浮くような、と囁くその声がもうすでに歌だった。伶人の意識は自然とそれにのり、紡がれる魔力でふわりとはかなく漂いだす。 (姫と、歌を合わせ――) (我が歌に姫の足がのり、蝶のごとくひらめき、霧のごとく軽やかに、草葉の露の上を――重なる落ち葉の上を――春の花々の上を――ひとひらも散らせることのなく。いつしか衆目も森の木々も遠ざかり、眼に入らず、ふたりで世界を紡ぐ――そのとおり、風となり雲となって高みへ昇ってゆく。星々が近く、輝きだし、あたりは銀に閉ざされる――光、ただ光――) 「ダイロン」 羽ペンを執る指が絃つまびく指の上に置かれた。 「公子がたのいずれもが、その境地まで達し得ない」 囁きは夢想をめぐり、甘かった。 「そしてただ聴く者においておや!そのような境地があることを思いだにしないだろう。ただ聴き惚れ、我に返って、賛辞の言葉を捜すのみ。彼らはおのれが魂の旅をするということを知らぬのだ。伶人ダイロンの歌によってのみその境地を垣間見る、小舟のように運ばれて、ほんの小さな川をゆく、おのれのおよびもつかぬ大河や海につながることには気づかないのだ。ましてやその舟が星々の間をはるか高みへ昇ろうなどとは――」 「サイロス、」 頭を振って夢を払い、ダイロンは相手の指からそっと自分のそれを抜いた。 「歌とはそうしたものであろう。また」 「ダイロン」 「――他とはそうしたものであろう」 わずかな響きの中にも諦念を感じ取ったか、誇り高いナンドオルは抜かれた指を再び捕まえた。ふいと顔をそらすのへ、回り込むようにして視線をもとらえる。 「孤独であろう」 「私には、姫がいる」 「だが」 「わきまえている。望んではおらぬ」 包まれた中の手指が小さく震えた。 「――ただ、歌を捧げるのみ。望んでおらぬ」 「ダイロン」 「それに、貴方がいる。サイロス」 うなだれ、しおれていた顔を上げ、伶人は灰色の瞳を友にあてて、にこりと微笑んだ。 「こうして小うるさく、口やかましく、構ってくれる友がいる。そのことが私には嬉しい」 思いもかけぬほど凛とした、しかし近しい笑みだった。 「まったく緑の沃野に鳴く鳥よりも、荒地に群れつどう鴉のように!飽くなきこと、私を放っておいてくれぬこと、優にやさしい七つの川の国の出とは思えぬな」 「この、小鳥めが」 つられていつもは冷たい青の眼が、見る者を驚かすような柔らかな光を帯びた。 「ならば鴉のように鳴き喚こう。今一度。――歌の教えを?」 「半日隣の部屋で侍していればわかったであろう。教えられるものがない」 「ダイロン。私は、姫のように共に高みへ登ってゆくことはできぬが」 そして、狐のごとき狡猾な唇の笑みを加えた。 「下にいて、見守ることはできる。このように」 ダイロンが動く間もなく、すばやく包んだ指を口元へ持っていった。策謀を嘯く唇が蜜のように、白い指の一本一本にうやうやしく押し当てられた。 「サイロス、狡いぞ」 「相談役として光栄だ」 「これでは、断われぬ」 「それこそがこのサイロスのやり口」 王へ小腰をかがめるときの微笑でもって、彼は笑ってみせた。 「――友たる者の務め」 「サイロス。私は厳しいぞ」 「わかっている」 「御前の宴まで間がないのだぞ」 「望むところ」 並み居る公子を顔色失くしてみせましょう、と大仰に、貴人に対するようにサイロスは胸に手を当てた。今更歌を学びたい、国の誰をも出し抜きたい、と云い出した友の顔を、ダイロンは改めて見やりながら、ただ呆れたように笑っていた。いつまでも、可笑しげに笑っていた。そうして友の視線がはずれた隙に、彼はこっそり、口づけられたおのれの手指を自分の口元へ触れさせた。…… |
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