リレー小説 雪虫



 椿の花の、時おり落ちる音すら大きく響く、しんとした冬の庭だった。気配も何も、冷え
た空気に吸い込まれて、風すらなかった。曇天から、音もなくふわふわと雪片が落ちて
くる。羽毛のように。待ち人が来なくて、ちぎって捨てた文のように。            
 雪の上に、黒っぽく細長いものが横たわっている。捨てられた、投げ出された、痛んだ
人形みたいな津南のからだ。追いかけてこられないように、縄目で封じた供養される
人形に似た。その息は、もはや深く、ゆっくりとして、夢うつつだった。ゆるやかに天から
死がふりつもり、主を慕って、歩き出すのを埋めてしまおうとする。                    
 最後の涙は頬のうえに凍りついた。さくさくと、雪を踏む足音を聞きながら、それも夢だ
ろうかとぼんやり思っている。遠く―――なつかしい日々の、はるかな木霊を聞くように。
斎藤がくることはない。
 紅蓮の城で、あたりを舐め尽くす炎のさなか、最後の煙草の火を擦るのを、左之助が
見ていなくとも、たとえ死んでいなくとも、けして来ることはない。自分は気にいられても   
いなかったただの玩具だ。人形に扱われ、名を呼ばれることすらなかった。知っていた
かもおぼつかない。                                              
 助けか、そうでないのか。津南は半ばうっとりと目を閉じる。斎藤がくることはないのだ
から、もし来るとしたら、それは幸せな夢なのだ。                         
 黒眼鏡の若い男―――銀髪の狂人の話す妙な抑揚。さし迫った、渇きをこらえている
かのような低い押えた彫師の囁き。                                    
 近づいてくるのは、どちらだろう。                                   




 津南はかすむ目を開いた。                                       
「…隊長。隊長。ああ―――」                                       
 
                                                     作:しえ


  …お迎え来てますが(汗)。
  一応表ページの「雪虫」の設定をそのまま持ってまいりました。ここから、斎藤×月岡でも縁×克でも、
  はたまた狂った月岡の脳内一人二役による隊×克でも、お好きにどうぞ。





第二走者 緋向子様


隊長が、彼の目の前にいる。変わらぬ姿で、昔と同じ、穏やかに微笑みながら。克浩は
昔、誰かを愛することができた心の時のままで微笑む。隊長を失ったとき以来彼の心は
麻痺し、彼の斬首とともに克浩は愛情というものを、捨てた。その隊長を失った瞬間、彼
は彼を取り巻く世界へ向かって、叫んだ。
'要らない・・・!俺はこんな世の中など、要らない・・・!'
隊長を目の前にして、克浩の心が凍傷にかかったように凍り付く前の激しい気持で彼を
求め、幸せな気持に浸され、彼を呼ぶ。彼に向かって、手を伸ばす。
「隊長・・・」
彼が何かを言っている。彼の口が開かれ、克浩の名を呼ぶのは聞こえるのだが、他は何
を言っているのか聞きとれない。強く冷たい風が克浩の顔に吹き付け、髪を後ろになびか
せる。克浩はそれに耐えられず、腕で顔を覆った。
「ああ、隊長、聞こえない・・・風が、風の音が遮って・・・」
克浩の言葉は隊長に届かない。だが隊長の最後の言葉を、克浩は捕らえた。そしてそれ
は夢が覚める瞬間に克浩をすり抜け、流れた。いけない、逃がしてはいけない。何か隊長
は大事なことを・・・
「隊長・・・」

木が火に燃えて、弾ける音が克浩の耳に響いた。薄ら寒い部屋のなか、何か暖かいもの
が彼の体にしっかりと巻き付いている。それがとても暖かくて、心地好かった。手が、誰か
の素肌に触れる。誰だろう、克浩はぼんやりとした頭で考えた。隊長?違う、隊長であるは
ずがない。克浩の目の焦点が徐々にあってきて視界がはっきりしてくる。彼を抱きしめて
いる、若い男のからだが目の前にある。克浩は力の入らない手をそっと伸ばして、相手の
胸に触れた。
「気が、ついたか?」
その言葉に克浩は弾かれたように反応し、硬直した。恐る恐る相手を見上げる。あの、まだ
若いようなのに老人のように髪の色が抜けている銀髪の男だった。縁とかいう。黒眼鏡はか
けていない。
「気分は、どうだ?」
その男は聞いた。無表情で、淡々と話す。
「大丈夫だ。」
克浩が答える。
「あんたが俺を助けてくれたのか?俺は凍死させられるところだったんだろう?」
縁は黙って、彼らが寝ている寝台のサイドテーブルの上に置いてあるディキャンタから赤
い液体をグラスにつぐと、それを克浩にさし出した。
「これを飲め。」
克浩はゆっくりと体を起こすと、それを受け取った。自分もその男も何も身にまとってない
ことに気が付く。この男が俺を暖めててくれたのか?克浩は思い、渡されたグラスに口をつ
けた。その赤い液体は甘く、含まれているアルコール分が彼の喉を焼いた。一口だけす
すり、体が暖まる感じに、思いきって半分ほどグラスを開ける。縁は、その克浩を厳しい顔
付きでじっと見ている。彼はあることに気が付いた。自分の長かった髪が、少し短くなって
いる。額に巻いていたバンダナもない。彼は自分の髪を一房、手にとってみた。それをじ
っと眺める。
「お前の髪を、少し切った。」
その言葉に克浩は驚いて男の顔を見た。
「お前が身につけていたバンダナで縛り、豚の血をぶちまけてお前の情人に送りつけて
やった。」
「情、人・・・?」
「そうだ。」
克浩は少し怪訝そうな顔をした。
「斎藤のことを言っているのか?」
「あの男以外にも、お前には相手がいるのか?」
男はにやりと笑った。克浩は、斎藤が彼の情人と呼ばれることに違和感に捕らえられなが
ら答える。
「違う・・・ただ、なんのために俺の髪をあいつに送りつけられたりしたんだよ?」
「あの男がちょっと邪魔なのでね。お前に危害を加えて、少し動揺してもらうことにした。」
克浩は驚き、目を見開いて男を見た。それから目をそらせて自嘲的に笑う。
「何か勘違いをしていないか?俺があの男の弱点になるなど、お門違いもいいところだ。
あの男は、俺なんざどうでもいいんだ。髪どころか俺の無惨な死体を送りつけられたところ
で、眉一つ動かさないぜ、きっと。」
「いいのか、そんなことを言っても。」
縁は面白そうに、顔をゆがませるようにして笑う。
「お前に人質の価値がないとわかれば、俺はお前を殺すかもしれない。」
克浩は皮肉っぽく笑いながら縁を見た。
「殺すと言うなら、とっととやってくれ。どうせ生きて返すつもりもないんだろう。それにくど
いが、あの男は俺のために指一本動かさないぜ。」
そうさ、と、克浩は心の中で付け加える。斎藤は俺のために動いたりしない。奴が俺のため
にここへ来ることなどあり得ない。あいつは俺をいつでも自由にできる人形ぐらいにしか考え
ていなかった。お互い相手に執着せず、ろくに言葉を交すこともしなかった。だから俺は無
理強いされながらもそれを受け入れたのだ。俺は誰とも深入りしたくなかった。斎藤を受け
入れたというのも、奴がたまたまそこにいたというだけだ。奴と俺の間に、何かがあったわけ
じゃない。斎藤だって、同じことだろう。・・・だが、あの雪の中で、俺はなぜ斎藤を思ったりし
たのだろう?なぜ彼を幸せな夢などと思ったのだ?
「毛並の変わった奴だな、お前。自分の命が惜しくないのか?」
縁は半ば驚き、面白がるようにして言う。克浩は、黙って縁を睨めつけた。縁は面白そうに、
笑った。
「お前とあの男次第では、ちゃんと生きて返してやるさ。しかし、お前は自分の命をそんな
に軽んじるのか?あの男のために・・・けなげなことだ。」
縁は首を左右にふった。
「誤解だ。それは。」
克浩が言うが、彼は信じてはいない。
「だったら俺がお前に手をつけても、あの男はなんとも思わないかどうか試してみようか?」
その言葉に、克浩は青ざめて体を引いた。単なるおどしだ、こいつは俺をからかっている。
そう自分に言い聞かせて威厳を保とうとするが、笑っている男の眼がそれは冗談だとはい
っていない。彼の右腕が克浩の左手首をつかんだ。克浩が持っていたグラスが床に落ち、
粉々に砕けた。甘い匂いが、立ち上ってくる。克浩は逃れようとするが、男の力は恐ろしく
強くて、克浩は捕まれた手首を少しも動かすことができない。縁は彼を捕まえたまま動かず
に、からかうような目付きでじっと克浩を見つめている。克浩はそれから逃れようと、もがい
た。
「はなせ。」
男は克浩の言葉に彼の手首をはなすと、両手でバランスを失った彼の肩をつかんでシー
ツの上へ仰向けに引き摺り倒した。
「なにを・・・!」
「まだ躯が冷えたままだ。暖めてやる。」
克浩は抵抗しようとした。だが、体に思うように力がはいらない。凍えたことで、よほど体力を
消耗させられたらしい。
「いやだ!」
縁は何も言わず、彼の足の間に体を割ってはいらせた。克浩は手で男の体を押し退けようと
してもがくが、男の体はびくともしない。たぶん、男の体つきからして平常でも腕力でかなう
相手ではないだろう。ましてや克浩の体は今、弱ってしまっている。縁が彼の体を自分の体
重をかけて押さえ込みながら、右手で彼の顎をつかんだ。
「命乞いをしてみろ・・・助けてくれるのなら、なんでもすると。そう誓えば、お前は殺さない。
生かして返してやると、約束してやる。」
克浩のきつい眼が、縁を見た。
「下衆野郎。」
その言葉に縁は怒りを浮かべ、平手で思い切り克浩を殴った。そのショックを伴った痛みに
克浩は一瞬、頭の中が空白になった。朦朧としながら眼を開け、縁を見上げる。冷たい怒り
に満ちた顔が、克浩を見返した。
「もう一回言う。死にたくなかったら、命乞いをしろ。」
克浩が、冷たい眼で縁を見据える。
「俺を、殺せ。」
克浩が冷徹に言った。縁がもう一度克浩を殴った。間髪を入れず、両手で首を絞めて持ち
上げる。克浩は、両手で自分の首にかけられた縁の手をほどこうと弱々しくもがいた。
「お前を、あの男の目の前で切り刻んでやる。なかなか死なないように、ゆっくりと。楽しみに
していろ。」
縁は忌々しそうにそう言い捨てると、克浩を放り投げるようにして放した。克浩は、横向きに
なると、喉を押さえてせき込んだ。

縁は、自分でもわけのわからない怒りに捕らわれていた。なぜ自分がこんなに激昂してい
るのかわからない。ただ克浩の態度が、彼の気に触っていた。彼はいままで、彼の前で屈
強な男が頭を下げ、助けてほしいと懇願するのを見てきた。ほとんどの人間が、自分の命
が絡むと誇りも信念も捨て、無様に命乞いをしたものだ。だがこの目の前の男は、助けて
やるという縁の提案すら突っぱねた。戦闘能力もなく、何かへの確固たる信念もない。自暴
自棄になっているのですらない。縁がその気になれば、今、ここで、素手のまま簡単に捻殺
せる。その非力な男が、命と引き替えに自分を投げ出すことを拒んでいる。

縁がそのまま何もつけないで一気に彼の体の中に入り込んでくると、克浩は耐えきれずに
悲鳴をあげた。眼と口を固く閉じ、顔を仰け反らせてそれにじっと耐える。克浩は体の内部
まで冷えていたと見えて、入り込んできた縁が熱く感じた。異物が体の中をかき回す不快
感と痛みに耐えられずに、眼を大きく見開いて呻く。縁がそれを見て面白そうに笑う。
「結構、きついじゃないか。まるで生娘とでもやっているみたいだ。あの男には、そんなに
可愛がってはもらっていなかったのか?それとも、後生大事にされていたというわけか?」
克浩は黙って目を開けて部屋の壁を見つめ、斎藤のことを思い出す。あの男と俺の間に、
欲望以外存在するものなんか、なかった。

うっすらと、克浩の目に涙がにじんでいる。肉体の苦痛に泣いているのではない。彼はなぜ
自分が悲しいのか、よくわからなかった。

縁のやり方は性急で、乱暴だった。克浩は斎藤のあのまるで無理強いでもされているような
乱暴さを思い出した。克浩は縁の体が熱くなってゆくのを感じた。縁の態度には、何かやり
たくないのにわざと克浩を粗略に扱っているような、どこか不自然な態度があった。克浩は、
それを敏感に感じ取った。何か彼は、体の痛んだ個所を振り回しているような、そんな痛々
しさがある。

軽く呻き声を立てながら縁が行為を終わらせた。彼は、力なく黙って横たわっている克浩の
体から離れ立ち上がると、身支度を整えながらいった。
「言っておくが、逃げようなどとは考えぬことだ。ここから人里までは、お前の足では歩いてい
けない。道に迷って、凍えて死ぬのが落ちだ。」
「一つ、聞いていいか?」
克浩は縁を見て聞いた。
「なんだ?」
「なぜ、助けた?俺を殺してしまうつもりだったんだろう?」
縁は、鼻を鳴らした。
「生かしておいて、人質にするためだ。お前を氷の立像にしてあの男に送りつけてやるのも
面白いと思ったのだが、あの男に、少しづつ切り刻んで送ってやるのも悪くない。」
縁は高笑いをすると、克浩に目もくれないででていった。その後ろ姿を、寝台に座り込んだ
克浩が黙って見送る。縁は部屋をでると戸を後ろ手に閉めた。その顔は厳しく引き締まって、
憎しみに燃えている。

'斎藤・・・一!'

彼の緋村への復讐の時、彼の作り上げた日本での足掛かりはことごとく破壊され、すべて使
い物にならなくされた。目の届かないところからじわじわと土台を崩し、最後に一斉にたたきつ
ぶすというやり方であの男はそれを行ったのだ。黒星を失ったのも大きい。信用できない相手
ではあったが、あの有能さは縁も舌を巻くものがあった。ただあの男、最後は縁の動向に気をと
られて組織の細部に目をやるのを怠ったらしい。その結果がこの無様な日本における組織の
壊滅と言うわけだ。だが、すべてが台無しになったわけではない。何より、縁本人は逮捕され
た中から脱出し、すぐさま配下に連絡を取ると組織の建て直しを図った。黒星がいなくなった
今、彼にボスの座を与えてやるという約束も無効である。そして何より、組織の幹部達が彼を
必要としていた。彼が復帰してすぐ、組織の切り崩しの原因も徹底的に調査させた。そして
その中に、斎藤一の名が嫌でも目についた。縁の組織は警察署内部にも、インフォーマーを
持っている。斎藤が情報をまとめあげ分析し、計画を立案、陣頭指揮を取っていた。この男さ
えいなかったら、おそらくこんな効率よくあらゆるものを叩き潰されたりはしなかっただろう。明
治政府が、彼を抱えたがったのも無理はない。

今回、日本でのすべてを建て直す機会を縁はつかんだ。以前から明治政府は、蝦夷地にお
ける徳川の残党による独立運動の動きに頭を悩ませている。それがここ最近、活発になって
いた。そこに縁が彼らと関係を持った。この独立運動が成功すれば、縁は彼らの政府の中枢
に食い込むことができる。そうでなくても、これはとんでもなく大きな取引となるだろう。

その中で、再び斎藤がその影を彼の前にちらつかせるようになった。巧妙に隠れてはいる、
だが、縁はあの男から目をはなさないでいた。ー何とかしなくてはいけない。

そのなかで、縁は克浩に目をつけた。斎藤が蝦夷地に去った時を狙い、攫って斎藤を追う
ように船でここ、蝦夷地につれてきた。そのまま氷漬けにして斎藤に送りつけてやることに
したのだ。

だが縛り上げて雪の中に転がしたとき・・・縁の中で、昔の記憶が痛みとともによみがえった。
血を流し、雪の中に横たわる彼の姉が微笑んでいる。もう、助からない。姉もそのことはわか
っている。だが残る力を振り絞り、姉は最後の生の輝きを残そうとしている。そしてその眼は
彼ではなく、抜刀斎に向けられている。

'姉さん・・・'

雪に広がる鮮やかな長い黒髪と小さな白い顔が・・・。縁は呆然とし、目を見開いたまま動け
なくなった。

'姉さん、俺を見てくれ、抜刀斎ではなく俺を!姉さん・・・!'

何かの拍子に青年の周りの雪の上に散らばった赤い花が、彼の姉の流した血のように見えた。
縛り上げられ、雪の上に転がされた青年は身動きしなかった。ただうっすらと目を開け、色を
失った唇で何かを譫言のように呟いている。長い手足は雪の中に埋もれ、降り積もる雪が、青
年の黒い髪に落ちて白く染めて行く。元々白い彼の肌は血の気を失い、雪との境目がつかな
い。青年の目から涙が一筋流れ、頬から雪の上へと落ち、青年は縁を一瞬だが見据え、それ
からゆっくりと目を閉じた。

何かの鳥が木の枝から鋭い声と翼を広げる音を放って飛び立ち、それに撓んだ枝が雪を地
面へと落とし重い音を立てた。横たわる青年を食い入るように見つめていた縁は我にかえる
と、彼の方に踏み出した。彼の側に屈み込み、片手で冷たくなった頬に触れる。何もつけて
いない手で、雪を掻き分けると、縁は彼を抱き上げて立ち上がった。部下に向かって、館の
暖炉に火が点った部屋に、毛布と羽根布団を用意するように命令する。

縁は彼を部屋につれていくと、彼から着せられていた衣類をすべて取り去った。濡れた体を
拭いてやる。寝台の上に横たわらせ、自分もすべて脱ぎ去って彼の隣に横たわり、抱きしめ
ると毛布で彼をくるんだ。彼の体は氷のように冷たかったが、縁は臆することなく彼を強く抱き
しめる。髪から雪は振り払ってやったものの、凍り付いていた雪がとけて少し濡れていて、縁
の力でも止められないようにひどく震えている。縁は南蛮の強いアラキ酒を口に含むと、彼に
口付けて無理やり飲ませた。その強いアルコールが青年の喉を焼き、彼は意識がない中で
軽くせき込む。

'隊長・・・'
青年が譫言のように呟き、その目から涙を流した。縁は閉じられたその瞼に軽く自分の唇を
押し付ける。彼の瞼は冷たい。

'姉さん・・・'

縁は心の中で呟く。激しい渇望が彼の中に沸き起こり、彼は抱きしめる腕に力を込める。普
段押さえ込んでいる、けっして満たされることのない思いが彼を覆いつくし、縁は呻いた。

'姉さん・・・いつまでも一緒だ、姉さん・・・'

縁はいつしか声を張り上げて、泣いた。

ー*ー

斎藤は、雪が降り注ぐ蝦夷地の冬の港を黙って見つめていた。海から吹き付ける、冷たい
風が彼の剥き出しの頬を切るように撫でる。雪の中、曇った空と、海の境目は区別がつかな
い。彼は海の向うを見つめ、ここに来て命を燃し尽くした筈の、若かったころの彼が敬愛し、
慕っていた人物に思いを馳せた。

'この北の地に、貴方は来て、そして・・・'

斎藤は、自分がらしくもなく感傷を感じていることに気づき、苦笑した。強い風に苦心して煙
草に火を付けると、頭を仕事の方に切り替える。

東京でなされた、大久保卿の執務室での話が頭の中に去来する。大久保卿は斎藤に座ら
せると、自分は庭に面した大窓の前に立って話し始めた。

蝦夷地では、徳川の残党による独立運動の活動が、近年活発になっている。それは原住
民と、地主による搾取に不満を持つ住民達を巻き込んでその機運が高まっていた。そして
それをフランス政府が後押ししている。もし独立運動が成功し、連中が下手な立ち回りを
行えば蝦夷地はフランスの植民地と化してしまう恐れもある。明治政府が一番恐れている
事態だった。一度内部が崩れると、それに乗じて諸外国に介入の口実を与え、この日本
そのものが外国勢に植民地化されてしまう恐れがある。何がなんでも、それは食い止めな
くてはならない。
さらに、蝦夷地は戦略的な地理条件において重要であり、豊富な資源の供給元でもある。
将来を鑑み、ここは何がなんでも押さえておかなくてはならない。
この独立運動を押さえられるか否かに、日本の将来がかかっている。

「斎藤君。」
大久保卿は彼の名を呼ぶと、しばらく黙って斎藤をじっと見つめた。
「独立運動の一派に、一部、元新選組隊士も絡んでいる。そのなかにおそらく、君がよく知
っている人物もいる。」
斎藤が視線を動かし、強い目付きで大久保卿を見つめた。
「この任務、引き受けてくれるか?」
斎藤はじっと彼を見つめていたが、淡々と答えた。
「それが、俺の任務でしたら。」



部屋の戸の鍵を開ける金属音がして、克浩はそちらを見た。戸が、ゆっくりと開けられてる
と、背の高い、容貌の整った男がそこに立っていた。いつでもそうしているという風に穏やか
な、人をどこか寛がせるような微笑みを顔に浮かべ、気取りのない優雅な物腰で克浩の方
へ近づいてくる。部屋の暖炉の火はとっくに消えていてくべる薪も尽き、克浩は毛布にくる
まってベッドに座りながら震えていた。その男はその様子を見て少し眉を顰めると、身につ
けていた黒い毛皮のコートを脱いで、克浩にかけた。柔らかい毛皮が克浩の顔を撫でる。そ
の男の体温を含んだ暖かい外套に克浩の震えが少し収まり、彼はその男を黙って見た。男
は膝を落として克浩の顔の高さに自分の顔を持ってくると、彼の手をとった。
「かわいそうに、震えているじゃないか。」
克浩の顔に、彼の暖かい右手が当てられる。穏やかに見つめられ、克浩はなぜかどぎまぎ
して子供のように俯いた。相手の男は、そう、歳をとってはいないだろう。どれだけ多めに見
ても、克浩より二桁以上の年上ではけっしてない。彼からは、今まで嗅いだことがないような
良い匂いがかすかにする。こんな状況で、相手は全く知らない人間でありながら、克浩は彼
に触れられるのが嫌ではなく心地好くさえあった。普段、克浩は知らない人間に触れられる
と嫌悪感さえ感じる人間なのだが。男は後ろに控えていた者に、何か暖かい飲み物を持っ
てくるよう、命じた。
「私の名は、明飛。」
男の柔らかい雰囲気の目が、克浩をじっと見る。もし克浩が女だったら、頬を染めるぐらいの
ことはしたかもしれない。他人を引き付け、魅了する眼だった。
「君は、月岡克浩君だね?」
克浩は、彼を見つめながら黙って頷いた。
「迎えにきたんだ。ここを出ていく。」

克浩は彼の外套にくるまれたまま、馬の引く橇に乗せられた。一体、彼が何故克浩を連れ出
すのか聞こうとしたが、ただ一言、ついたら説明するといわれた。その有無をいわせぬ口調
に、克浩は何もいえなくなり、ただ黙って彼につれられた。なんにせよ、今より状況が悪くな
るという事は考え付かない上に、どのみち嫌だといっても所詮つれていかれることになるの
だろう。
「寒くても、少し我慢してくれ。ここら辺は雪が深くて、馬車で来ることはできないのでね。」
その男は克浩の肩を抱いて言った。御者が馬に鞭をふるい、橇が走り出すと、恐ろしく冷た
い風が露出している肌を切るように撫でる。克浩は男に身を摺り寄せた。
「大丈夫かい?」
男が、聞いた。克浩は頷く。まぶしいほど明るい日差しの中、雪原に針葉樹の林が広がって
いる。白い雪が日の光の反射を受けて、辺り一面が輝いていた。その異国のような光景を、
克浩は食い入るように見つめた。
「あまり目を開けて雪を見つめすぎてはいけないよ。」
男がそう言って、克浩は彼を見た。彼も克浩を見つめ返す。克浩は、この男の容貌にどこか
異国的な雰囲気があるのに気が付いた。東洋人の容貌をして髪は黒く、目は暗い茶色をし
ているが、何かが違う。顔立ちがはっきりしているためだろうか?、と克浩は思った。名前も、
どこか異国風である。彼を見つめたまま、目が放せない。彼は克宏の方へ向いた。克浩の
不躾な視線にも彼はたじろがなかった。
「雪に照り返された光は激しいから、目を痛めることがある。君は肌の色素が薄いから、目が
充血したりするかも知れない。」
その言葉に、克浩は静かに目を閉じた。男は、彼の肩を引き寄せた。

街にはいる少し手前で、今度は馬車が待っていた。克浩は彼とともにそちらへ移される。逃
げるチャンスかとも思ったが、この明飛という男が克宏の腕をとって導いた。優しく、軽い感じ
で腕をとられていたにも関わらず、克宏が少し体を引こうとしただけで痛くないようにではあ
るが、強い力が込められた。克宏はその力に動けない。彼は、克宏を見て微笑んだ。
「さあ。」
その馬車は、西洋風の大きな建物の門をくぐっていった。克浩は疲れはて、何も聞く余裕が
なかった。ただ男に手を引かれ、館の一室に案内された。建物の二階で、中庭に面してい
る広い部屋だった。天井も高い。克浩がついたときには部屋に火が焚かれ、すでに暖かく
なっていた。奥の方の真ん中に天蓋付のベッドがおかれ、その反対側にはテーブルと椅子
が三脚おいてある。テーブルの上には金で繊細な装飾を施された水差しとそれと揃のグラ
スが乗っている。暖炉の枠の上には一対の陶磁器が飾ってあり、窓の近くに書き物机があっ
て、上には何冊かの本が乗っていた。鉄わくにガラスを嵌め込まれた、観音開きになる窓に
は鎖が幾重にも巻かれ、しっかりとした鍵がかかっている。だが、克浩はそのときそれらをよ
く観察する余裕などなかった。克宏は暖炉の前に近寄り、崩れるように座ると、そのまま疲
労で昏倒した。

ー*ー

克浩は、何か解放されたような気持の良さで目を覚ました。明るい日差しの中、寝台の上で
ゆっくりと体を起こした。シーツも布団も、まばゆいように白く、布団は柔らかかった。
「目が、覚めましたか?」
あの、克宏をここへつれてきた男がテーブルの前の椅子に座っていた。読んでいた本をテ
ーブルの上に置き、克浩の方を見て、にっこりと微笑む。初めに見た洋装をやめて、支那服
に着替えている。
「君は一昼夜の間、眠っていたんだよ。気分はどうだ?」
「大丈夫・・・です。」
「それは良かった。今、湯の準備をさせるよ。」

再び彼につれられて戸の外に出ると、腰に刀を提げた男がそこに立っていた。どうやら見張
りらしい。明飛を見て会釈し、克宏へ鋭い一瞥をよこす。克宏は階下へつれていかれ、母屋
から屋根のついた石畳の道でつながる湯殿へと案内された。どこも彼処も西洋風なこの建物
の中で、この湯殿だけが日本風だった。あとから建て増しされたのかも知れない。
「ゆっくりしているといい。あとでまた迎えに来る。」
そういって明飛は姿を消した。

克宏は湯につかりながら、頭のなかを整理しようとした。この状況は、何だかわけがわからな
い。
'一体何者なんだ、あの人?'
一瞬、斎藤の差し向けた助けという考えが頭をよぎり、克宏は、俺って人間が甘くできている
のか?と思い苦笑した。
'あの人、柔らかい手をしてた。あれは武人の手じゃない。'
斎藤の、特に掌側の指の関節に近い部分に厚みのある固い皮膚を克宏は思い出した。

縁の部下達は彼を知っていて、そのうえ敬意を払っていた。ということは、縁の組織の人間な
のだろう。ほかの連中の態度から見て、幹部か何からしい。だけど、なぜ俺がこんな待遇を
受けるのだろう?捕虜を閉じ込めておくのに、ほかに部屋がなかったというわけでもあるまい。
それにあの明飛という人物は、使い走りや使用人の仕事をするたぐいの人間ではない。俺を
懐柔して、連中に何か得なことがあるとは思えない。俺は斎藤の関係者、というだけで、斎藤
の仕事に関わっているわけではないのだから、何かの情報を引き出すことだってできない。
縁は斎藤へ俺の身につけていたものを送ったと言っていた。俺が斎藤への人質にさえならな
いという事を、連中はもう知っているはずだ。

湯船から上がり、脱衣室へ出ると、克宏の身につけていたものが消えており、代わりに新しい
着物が畳んで置いてあった。手にとって、袖を通してみる。柔らかな生地が肌に気持良かった。
薄いのに暖かい。その部屋から外へ出ると、明飛がそこに待っていた。手に外套を抱えていて、
克宏に近づくとそれを彼の肩に掛けた。
「湯冷めして風邪をひくといけないからね。」
そのまま克宏の腕をとると、彼は克宏をつれていった。克宏が今までいたのとは違う棟につれ
ていかれる。明飛は二階にあるその部屋の戸を何回か軽くたたき、開けると克宏を入るよう、
導いた。そしてそのあとに続く。克宏から外套を脱がし、彼の肩を抱いて明飛は言った。
「彼をつれてきたよ、縁。」
その部屋の長椅子に、縁が座っていた。その前のテーブルに手をつけられていない食事の
皿が並んでいる。縁は黙ってじろりと克宏を見た。明飛は克宏を縁の前に座らせると、では、
私はこれで、と言って部屋を出ていった。出ていく彼を、克宏は不安そうに見送った。それか
ら、縁に向き合う。縁はそんな克宏を不機嫌そうに見ていたが、赤い酒の入ったギヤマンの
杯を持って、克宏に差し出した。
「飲めよ。」
克宏は戸惑いながらそれを受取り、口をつけた。空の胃に、アルコールが燃えるように広がっ
た。
「腹が減ってるだろう。何か食ったらどうだ?」
これには、克宏はもっと早く反応した。最後に食事を口にしたのは、一体いつだったろう?彼
は不作法に、目の前の食事に飛び付いた。胃の腑が落ち着くほどの量をおさめると、克宏
は縁を見た。相変わらず縁はむすっとしている。しばらく沈黙が流れたあと、彼の右手が、
克宏の顔にゆっくりと伸ばされた。克宏は一瞬、痙攣したように反応して目を固く閉じた。縁
は立ち上がり、克宏の隣に座る。克宏は目を開け、縁を見た。彼はじっと克宏を見つめてい
た。あの傲慢さが払拭され、何かためらっているような顔をしている。
「何故こんなことをする?」
克宏は目を伏せて、言った。
「俺が欲しいのなら、力で捩じ伏せればいいだろう、この間やったみたいに。俺はあんたの
囚人じゃないのか。」
突然、グラスが投げつけられ、すさまじい音がしてテーブルの上で粉々に砕けた。縁の憎し
みに満ちた目が、克宏を昏く見据えている。その迫力に、克宏はおびえて体を引いた。縁
が立ち上がり、克宏の右腕をつかんだ。克宏はもがくが、縁の克宏をつかんでいる左手は
びくとも動かない。克宏は抵抗するのをやめ、腕を捕まれたままおびえた眼で縁を見返した。
縁は何も言わない。縁がもう片方の手で克宏の左の二の腕をつかみ、自分の方へと乱暴に
引き寄せた。克宏の後頭部の髪をつかんで、無理やり口づける。そうされても、克宏は眼を
大きく見開いたまま閉じることができなかった。縁はすぐに体をはなすと、克宏を引き摺るよ
うにして隣の寝室につれていった。克宏は体が硬直し、抵抗することもできなかった。引き
摺り倒されるようにして寝台の上につれられても、克宏はただ黙って縁を見返した。彼の迫
力におびえて、抗うこともできない。縁が、平手で克宏を殴った。そんなに、強くはない。克
宏は殴られた方向に顔をそむけ、身動きしなかった。縁が右手で克宏の肩をつかんだ。克
宏は反応しない。縁の指に、強く力が込められる。縁はそのまま動かず、じっと克宏を見下
ろした。その様子を不審に思って克宏は縁を見上げ、驚いた。縁は泣き出しそうな顔をして
いる。その様子は、まるで小さな子供のように見え、克宏は眼を見開いたまま彼を見つめた。
「俺は、こんなものが、欲しいんじゃない。」
縁が、慟哭するように、苦しそうな様子でつぶやいた。克宏は体を起こし、座り込んで俯い
ている縁の頭に恐る恐る触ってみた。彼は反応しない。克宏は黙って彼の頭を撫でた。突
然、縁が克宏に飛び付いた。苦しいほどの強さでぎゅっと抱きしめる。克宏は驚いてしばら
くじっとしていたが、子供みたいにすがり付いてくる縁の背中にそっと、腕を回した。
'ああ、こいつは寂しかったのか・・・'
克宏は、心の中で呟いた。かわいそうに、と克宏は思った。この男はきっと、ずっと気を張っ
て野性動物のように身を守ってきたのだろう。何故だかわからないが、克宏の心の中に、こ
の男の今まで隠し通してきた痛みや苦しみの一部が伝わってくるような気がした。克宏もま
た、そうやって心の中の痛む部分を引き摺り、他人の眼から隠してきたせいだろうか。克宏
は彼の苦悩が、彼のことを何も知らないにも関わらず理解できるような気がした。
「一体、君に何があったんだ?」
克宏は優しく言った。縁は彼の肩に顔を埋めたまま、じっとして答えた。
「姉さん。俺には昔姉さんがいたんだ。」
縁は黙り、克宏に回している手に力を込めた。
「殺された。俺の目の前で。俺、それを見ていて何もできなかったんだ・・・」
こいつもまた、大事な人間を失ったのか、無力なまま・・・克宏はそう思い、彼のために泣き
たくなった。それがどれほどつらい経験なのか、克宏は痛いほどよく知っている。克宏は彼
に何をされたかを忘れ去り、黙って彼を抱きしめた。

縁は自覚していなかったが、無意識のうちに彼は雪の中の克宏を助けることによって、姉
を助けることができなかった苦しみの埋め合わせをしようとしていた。その瞬間から、縁の
中で、克宏と彼の姉の存在が重複を始めた。克宏は彼の強迫観念の元となり、克宏とつ
ながっている斎藤は抜刀斎にとって変えられた。のちに斎藤を殺すことは、彼にとって10
年前のあの抜刀斎を殺すことと同じ意味を持つことになる。克宏は、縁を抱きしめ慰めるこ
とによって、自分が何をしてしまったのか、そのとき全くわかってはいなかった。

ー*ー

斎藤の目の前に、幅がそれぞれ一尺ぐらいの正方形の箱が置いてある。差出人不明で、
斎藤宛てに警察署まで送られてきたものだ。その机の上に置かれたものを、斎藤、現地の
警察所長、張の部屋にいる三人は凝視した。斎藤が手袋を填め、その箱を開けにかかる。
中に、油紙に包まれた何かが入っていた。斎藤はそれを持ち上げてみる。何か軽くて、柔
らかいものだった。斎藤は無言でその包を開けた。汚れた、馬の尾のようなものがボロボロ
になった布で結ばれている。赤黒い、泥のようなものがこびりつき、固まっていた。
「なんや、それ、!」
張が声を上げて叫んだ。斎藤はそれを驚いたまま凝視した。この模様の布は、たしかに斎
藤が何度も見たことのあるものだった。
「藤田君?」
所長が、不審そうに斎藤を見た。彼が何かを言っているにもかまわず、斎藤はそれを無視
して部屋をでていった。戸を閉めた斎藤の背中に、張を詰問する所長の声が聞こえた。

ー*ー

張は決まり悪げに、川路の執務室に座っていた。張は何となくこの男が好きになれなかった。
この男が斎藤を快く思っていないのを知っているからかも知れない。普段斎藤にひどい目
にあわされ、裏で口汚く罵ってはいても、彼は何となく好意のようなものを斎藤に隠し持って
いる。彼は斎藤の使いでここにいる。これまで張が川路川路と会うことはなかった。彼は今
日、横浜に着き、すぐさまその足でここへ向かった。今、目の前に川路が座っていて、斎藤
から託された書類や何かに目を通している。張は道中、こっそりそれに目を通して封を直し
ておいた。普段、張がこんな使い走りに使われることはない。こいつに何かを渡したら最後、
覗き見られるという事を斎藤も知っているからだ。川路が書類から顔をあげて張を見た。手
にしているそれをテーブルの上におく。
「君に、仕事を頼みたい。」
川路が言った。
「はぁ?」
張が、素頓狂な声を出した。
張は斎藤の配下である。どれだけ実力があろうと、彼の地位はいわゆる下っ端で、斎藤の
采配のみで動くようになっている。あけすけに言えば彼は信用されていないので、斎藤が
彼を押さえ込んで使っているのだ。
「報酬は、払う。受けてくれるか?」
「そりゃ・・・もらえるもんいただけるんやったら・・・でも、話の内容による。」
いぶかしげに張が聞いた。
「それはできん。話をする前にきめたまえ。」
そういって、彼は結構な金額を提示して見せた。張は、二つ返事で受けることに同意する。
「斎藤の今回の任務の内容だが、彼には独立運動内の組織に昔の知り合いがいることを
利用し、中に潜入してもらうことになっている。このことは、私を含め、ほんの一握りの人間
しか知らん。」
張の顔が厳しくなった。一体、川路のおっさんは俺に何をさせようとしているんだ?彼は、少
し黙ると続けた。
「斎藤を、見張れ。」
張は目を丸く見開いた。
「ちょ、ちょっと、あんさん・・・」
張は絶句した。斎藤と川路の二人はお互い嫌いあっているが、仕事においては二人とも相
手に全幅の信頼を置いている。この川路が斎藤に対しては仕事上、彼に白紙委任状を渡し
ているくらいだ。
「あいつに、少しでも妙なところがあれば報告しろ。斎藤がこちらに流す情報についてもだ。」
「斎藤の旦那が、向こう側に寝返るかもしれない、ってうたがってんのかいな!?」
川路が厳しい顔で黙り込んだ。張は何故自分が選ばれたか理解した。斎藤を嫌っているも
のには理解できないが、あの男を慕っている幾人かの部下達は、一人残らず恐ろしいほど
彼に忠実だった。心酔しているといっていい。今回、斎藤は何人かの部下を引き連れていっ
たが、そいつらは、皆、彼の息がかかっている者ばかりだ。そしておそらく、斎藤が本当に寝
返れば、彼のその部下達は一人残らず彼に付き従うだろう。そしてこちらを撹乱するための
偽の情報を流してくれば、こちら側は収集のつかない事態となりうる。だが張は、金で動く。
斎藤の強さに内心、敬意は払っているものの、彼と運命をどこまでも共にする気などない。だ
が、と、張は思った。俺が忠誠心など持ち合わせていないことは、こいつらは百も承知だ。も
し俺の方が連中に寝返って、斎藤の旦那の情報を流す事もあるかもしれない、とは考えてい
ないのだろうか?・・・いや、わかっていながらこの男は任務と斎藤を秤にかけている。怖い世
界やな、と張は思った。
「そして言うまでもないが、このことは決して斎藤に気取られるな。たとえどんなことがあっても
だ。」
張は、口を引き締めた。彼は斎藤を知っていて、斎藤も彼をよく知っている。やっかいな仕事
になりそうだな、と、彼は思った。

ー*ー

克宏に対する縁の態度は、時によって、まるで人格が変わったように天と地ほどに差があっ
た。彼は克宏を狂おしく抱きしめ、優しく扱ったかと思うと、次の日には激しく打ちのめした。
それは子供が何か難しい遊び道具を与えられ、気に入っているにも関わらずどうしてよいの
かわからずに癇癪を起こすのに似て、克宏は黙って彼の酷い仕打ちに耐えた。手荒に扱わ
れ、脅されても、克宏は彼を憎む気には、なれなかった。





第三走者 しえ


「明飛様がお見えになりました」
 召使が告げると、頭に布を引きまわして、植民地風の天蓋をつけた西洋寝台の
布団が動いて、縁が獰猛な、しなやかな獣が身を起こすようにして起き上がった。
 かたわらには、すでに黒繻子の支那服、翡翠の耳飾りひとそろい、拳法家の履く
軽い布の靴、なぞがおいてある。縁は服を取って、裸身にばさりと回して羽織った。
手を振って召使を下がらせ、自分で腰のかざり布を結ぶ。
 この、上海を牛耳り、遠く日本にまで暗躍する武器商人、その実マフィアの首領は、
美しかった。麻薬から暗殺までもを請け負う、その昏さ、魔都と呼ばれて、東洋第一
の妖異の巷の名をとった上海の闇、それがそのまま凝って人となったような、凶々しい
眼の色だった。自身鍛えた、引き締まった長身をしていて、いつもの暗色の支那服が
よく映る。凄腕の剣客でもあり、また拳法使いでもあるのは猫のような身のこなしで分
かる。
 端正な、表情のない美貌に、さらに眼の色を隠すように黒い丸眼鏡をかける。そう
すると、沈痛な面影は消えて、奇妙に冷笑じみた、均衡を欠いた半月形のあざけり
笑いが口もとに浮かんだ。
 その、髪。
 白髪というもおろかなほど、すっかり色が抜け落ちて、完全に銀髪の首領として
名が通っている。燦然と輝くそれを、ひと撫でして頬から払うと、縁は寝台に戻って、
布団の中から一本の腕を引っ張り出した。
 腕にしたがって、ぐったりした体が引き起こされる。力なくうなだれた頭の、垂れ
下がる長い黒髪を掻き分けてひっそりと囁く。
「起キロ。堪えたカ?」
「……………」
「明飛が来てイル。お前の指を切るか、耳にするか、明飛と骨牌で決めル。嬉しい
カ」
 抑揚のない口調で、耳に口をつけるようにして、縁は外国人風の片言を吹き込ん
だ。
そうされても、まるで聞こえていないかのように、相手の頭はぴくりともしない。
「月岡津南。―――まずは、贈り物の一ダ」



 最初は下絵の依頼だった。
 津南の懇意にしている、これも名高い若い絵師がいて、おもに錦絵の版木をつくって
いるが、本領は人の体に彫る彫物だった。版木のほうでも、彫物のほうでも、絶対に下
絵には他の絵師をつかわない、月岡津南の絵しか彫らない、というので有名で、津南も
彼以外に自分の絵を彫らせなかった。矢野鼎、といって、六歳うえの二十五だった。
 一枚ずつで、版元から正規に出る錦絵にはかならず、絵師の名前とならんで彫師の
名も入っている。それで選んで買う客もいるぐらいで、彫りというのは重要だった。墨の
ほうでも、一生その絵を背負うわけだから、ある意味彫師にはんぶん生を預けるわけで、
むしろこっちのほうで、矢野の人気はひどく高かった。
 月岡津南の下絵で、矢野―――<彫月>の墨を背負うのが、その当時の鳶の憧れ、
最高の贅沢だった。
 その下絵の案は矢野が出すこともある。その日も呼ばれて仕事場まで出向いていくと、
文机にもたれるようにして、矢野は筆の先を噛んでいた。
「来た、来た。やっぱり絵師でなけりゃあ、あの注文は形にできないよ。助かる」
「何を………」
「しゃりこうべに彼岸花だ。眼のあったところから、すうっと生えて重たそうな首みたいに、
咲いているのを彫りたいんだ」
「悪趣味だな」
「あんた好みだと思うがな。描いてくれ」
 ふだんはめったに口を利かない、津南と同じくらい偏屈で有名な彫師の、絵に対する
ときのねついまなざし、醒めたものいい、津南よりもはるかに大人びた物腰なぞが好き
だった。時に、津南の下絵を版木に彫りつけるとき、その入れ込みように圧倒される。そ
んなものを、自分は描いているのだろうかと、不安にもなれば、誇らしくもなる。
 絵を描きあげ、いつものように酒を飲んで、凝った気分がほぐれた時だった。いきなり
一人を先頭に立てて、どやどやと見知らぬ男たちが入ってきて、津南は目を見張った。
 かがやく銀の髪と、その下の昏い眼が津南を一瞥して、顎がふられる。とたんに津南
は畳の上にねじ伏せられた。二人がかりで、押さえつけられている津南の必死で上げた
目に、彫師が無表情で肩にたすきを掛けるのがうつった。
「矢野!」
「すぐ、済ム」
 答えたのは奇妙な抑揚の声だった。慣れない外国人の声音で、妙にかすれて軋んだ
人形の出しているような音で、その男はしゃべった。そうして口元を半月形にして笑った。
 若い、美貌の、黒衣の支那人かと思われた。その髪の、異様さにすくんだようになって
いる津南に、すばやく縄がかけられ、痺れるようななにかの芳香を嗅がされて、気を失っ
た。悪い夢のような、熱に浮かされた幻にうつうつとして、次に気がついたときには、吐く
息も白い山中だった。
「ごめんな。ごめんな」
 そう言いながら、うつむいて歩を運ぶ矢野の背中。その背に揺られて、雪の山道を下っ
ていた。
「明飛に逢えば、なんとかなる。なんとかしてくれるから。………絶対に、殺させやしない。
俺の墨を背負って生きるんだ。………」
 聞こえているのかいないのか、かまわずに、矢野は雪を踏みながらひとりごとを続けた。
白く息が顔のあたりにまつわって、雲のように二人の後ろまで、長く尾を引いていた。明飛。
誰だっけ。なつかしいような気さえする。津南は子供のように高い体温をもてあまして、男
の首にしがみついた。考えることも、子供のようだった。
「あんた、熱があるんだよ」
 矢野がうつむいたまま言った。
「もう少し出るのが遅れていたら、危なかった。縁が帰ってくる前で。………今のあんたに、
とうてい針は下ろせない。熱もあって、咳で背中が揺れうごいて、本当に無理なんだ、喘
息の発作なんだ、といっても縁は聞かないんだ。焦れきって―――恩もあるし、縁の願い
は聞いてやりたいけど、俺にはどうしてもできなかったよ。今のあんたを、殺すようなもの
だから」
 うつぶせに、畳に押しつけられたところが痛むほど、強く縛られて、それでも津南の体
は発作のたびに海老のように反りかえった。激しく揺れて、ひっきりなしにふるえる背中を、
矢野は自分の体で覆うようにして、一緒に苦しんでいたのだろう。げっそりと頬の肉が落
ちていたが、足どりは力強かった。まだ若いのだ。かわいそうに、と津南は思った。こうして
いても、どうせあのきれいな銀髪の鬼に、追いつかれて殺されてしまうのだ。………
(鬼)
 ふと津南は身じろいだ。琥珀いろの、薄い虎の眼のように光るまなざし。鋭い点に似て、
うがたれた表情のない瞳。ちがう。闇ひといろに塗りつぶされたあの鬼の眼とはちがう。
(だれ)
「あまり、動くな。………ひどくされたんだから」
「………さ、」
「無理にしゃべるな。薬が………」
「―――…さいとう、……」
「さいとう?」
「…………」
(思いだした)
「誰だ、それ―――」
 背に揺られながら、津南は朧とした頭の中で、その言葉をしっかりつかまえた。つかんだ
それを握って、また深い奈落の底へと落ちていった。かすかに、甘い安寧を感じていた。
おぶさる背中からはなつかしい、大切な人の匂いがして、そのくせ今のことがらとは結びつ
かずに、ただ安らぎだけが伝わってきた。なつかしい揺れ。………



 縁は狂人だ、と津南は思っている。
 雪を漕いでの山中の逃避行も、あっけなくつかまり、矢野は引き離されてどこかへ連れて
ゆかれた。すぐにでも殺すか、あるいは命の利き腕を折るか、と思いきや、縁は奇妙な目つ
きで、矢野をむしろ感謝をふくんだいたわりのまなざしで、黙って見送った。そうして津南に
目を戻すと、その静謐なおもてにまたねじれたような怒りともつかぬ、憎悪の不穏な色が
のぼってきた。
 手下に命じて津南を運ばせ、体をくるんでいた、矢野の上着を取り去って、単衣いちまい
で雪の中に転がした。それから後は、津南はよく覚えていないのだった。渇えたような、熱
をふくんで灼けつく強さで見つめる縁の眼。冷ややかに嘲笑を耳へ吹きこむ縁の唇。その
どっちもが、幻のように、あるいは本当のように揺れうごいた。津南を抱いた。荒れ狂った。
そうして遠慮がちに髪に手を伸ばした。おそれるように、その頬を撫で、流れた涙の痕に
くちづけた。………
 後ろから怒りに掴まれたような、縁の発作。そのあわいで、津南は生きていた。阿片と
口から流し込まれる異国の酒と、痛みとで。



 結んでたらした飾り紐を波打たせ、縁が入ってゆくと、明飛は暗い部屋の中で、熱心に
何かをやっていた。
 それを予期していた静かさで、縁が唐風でそろえた家具をまわって近づく。猫のような
忍び足のわけは、撞球台に組み上げたカードの大きな城だった。縁が持っている賭博
場のカードを使って、迫持、破風、天守と組んでゆくやり方は、このもの静かな人物に、縁
がかなわないものの一つだった。
「燕星はどうでした?」
 カードに目を注いだまま、穏やかに聞いた。こういう作業の途中だから、というのでもなく、
生まれた時から大声など出したことのないような、やわらかな広東語だった。
「黒星と同じだろう。結局」
 かすかに口を歪ませて、縁は撞球台にとびのって腰を掛ける。ふわり、と音もしない、
カードの城に揺れすら起こさせないその動きに、明飛の口元がほころんだ。
「あなたが興味を示さないからだ。あれで、燕星はあなたを喜ばせようと、一生懸命やって
いるのに」
「ただ、大きくある必要はない。俺が欲しいのは、小回りが利いて、脅すに十分な力もあっ
て、潰そうとしても、さっと散ってしまってまたすぐ元どおりになる、<柳に雪折れなし>の
組織なんだよ」
「よく覚えていましたね。そんな言葉を」
 二人の会話は広東語でおこなわれた。日本語を使うときも、縁はあの、外国人風の抑揚
を明飛の前では捨てている。
「どうでもいい。人誅さえ達すれば、なのに、黒星も燕星も―――」
「あなたを喜ばせたいんですよ」
「分からん。要するに、保身だろう?」
 明飛は何も言わずに肩をすくめた。黒星が、どんなに縁のために組織拡大に躍起になり、
そして途中で絶望して造反への意志を、やけのように育てていったか。言ってもしかたの
ないことだろう。せめて首領の座だけでも、とあとで聞いた。せめて、それならば。
「矢野の始末は任せていただける」
「好きにしろ。………あの彫りには、なにしろ贔屓が多いんだ。あいつの墨を背負ったのに
は、すぐにでも客がつくんだからな。彫りの順番を待っているのもいるし、上海に連れて帰
りたい。殺すな」
「多謝」
 白紙委任、とでもいうかのように、明飛は手にしたカードを開いてみせる。玄人のつかう、
本式の賭博用のカードには、表の絵がなかった。白紙の裏に数字だけで、模様と見えたの
は、細かく日本の意匠を描きこんだ飾り数字だった。
「………これも、彼のつくったもの。ひとりでも素晴らしい仕事をするのに、あの絵師と組ま
せたら、どんなものができあがるのか、見当もつかない」
「だから、あいつもどうでもいいと言っているだろう。人質にもならない、ばらして送りつけて
もひとり相撲だ、とあいつは言う。おそらく本当だろう」
「………それに、無理やり彫ったら死んでしまうし?」
 からかうような笑いをふくんで、明飛が覗きこむと、縁は眉をしかめた。
「お前が命乞いをするからだ。俺はどうだっていい。人誅にならないなら、意味はない」
「この町へ潜りこむのにも、だいぶ人と手間をつかいましたしね。厄介ものを、抱え込んで
いる理由はない」
 のらりくらりと、明飛は話を殺す方向にもっていく。縁はとうとう台から降りて、苛々と虎の
ように歩きまわった。
「勝ったんだから、お前の好きにすればいい。矢野の命もあの絵師も、扱いは当面お前の
預かりだ。話は終わりだ」
 弟に目を細める、慈悲ぶかい兄のまなざしで、明飛は莞爾とほほえむと、最後のカードを
城の上にのせた。
「まだ高くするつもりか?」
 天井を圧して、脆いカードの城は静かに台の上に立っている。その隣には、同じカードの
混ざって積まれたちいさな山があった。ゆうべの勝負の残骸を、眺めながら、ゆっくりと歌う
ように、
「カードが足りない」
「……………」
「あの狼を釣り出す前に、その手下が妙な動きをしているのは知っていますか?」
「志々雄のところにいた男か。妙な色の………」
「そう。藁束みたいな頭の色の」
 かがやく銀髪の首領に向かって、ちょっと会釈をしてみせる。縁は苦笑した。



 縁と斎藤との間には、大きな違いがある。
 二人とも強引だった。惨酷に、無慈悲な爪で津南を押えつけ、力をふるって思いをとげる
のに容赦はしなかった。縁はその上に、飽くことを知らぬ若さというものがあって、津南を夜
どおし苛んだ。
 乱暴ではあったが、津南を離したりはしなかった。最後の楔を打ち込んで、お互いの息づ
かいがおさまって、静かになってゆくのを聞きながら、目を閉じて津南を抱きしめている。拳
法家の力で、しなやかな腕で扱われたあと、それが固く巻きついているのを、津南は外す
ことができなかった。もがく力もない、息すらもかすかな獲物を手のなかに抱き込んで、縁は
眠りに入るのだった。津南がそっと抜け出て、休むために身を引くことも許さなかった。枕元の
水差しから水を飲むのも、朝までは我慢をして、かたい胸板に押しつけられ、ときおり抱きし
めるその腕が、痙攣したように強く締まるのへ、息もつまりそうな思いを味わう。鼻先に触れる
銀の髪、規則正しい、急にひきつるように乱れる寝息。不思議な香料の匂い。縁の肌の匂い。
………
 この男は若いのだ、と津南は思わずにはいられない。二十二、三だろうか、津南よりは二つ
三つ上なのだろうが、あの奇妙な抑揚と、小馬鹿にしたような歪んだ笑いの凍りついた口もと
で、大人を、それも老人を、あえて装っているような気がしてならない。無理に老成した態度、
というのは部下に接するときに目について、燕星の前では、この上なしの冷徹な、頭の切れ
る、獰猛な虎のような首領なのに違いなかった。彼が寝床の中から、枕につけた頭を上げも
しないで、反対勢力の廬殺を命じた時、津南はたしかに、燕星の細い目に、満足の色が浮
かぶのを見た。
 そうでなくてはならない、と誰よりも縁自身がそう思っているのに相違ない。冷ややかさと、
無感動と、無関心と、ある種の放心と、ときおりかきたてられる、あの異様なまでの怒りの衝
動。それらが合わさって、闇社会の縁だった。銀髪の鬼だった。
 そして、明飛。
 なにもかもわかっている、とでも云うような、うっとりする倦怠に誘いこむ、あの、眼。間違い
なく、高級娼館、それも闇と権力の匂いをまといつかせた城、豪奢を血で贖うたぐいの、饐え
た罪の匂いがした。美しい悪徳が、因循と道徳とをしたがえてそこにいる。縁を楽にさせてお
きたいようで、昼下がり、穏やかな顔をした縁を、そっと膝を貸して長椅子で寝かせていたり
した。津南が近づくと、黙って唇にひとさし指を当て、それからうながすように目を落とした。
(美しい生き物だろう?)
 無言で、そう云っているのがわかる。野生の虎を手なずけて、自慢するような、いとおしくて
ならないといった誇らしげな目つきで、津南は胸を打たれた。あれほど目ざとい縁が、子供の
ように目を醒まさないで、眠っているのにも驚いた。明飛はもっと近寄るようにと手招きをし、そ
の寝顔を見せる。昼の光の中で、髪がほんとうの白銀にかすんでいる。
 そして津南を抱く手の狂おしさが、それほど嫌いでない、むしろ涙の出るような安堵と、むず
がゆいやるせなさ、哀しい喜びのような感情を抱いている自分に気づく。少なくとも縁は、津南
を求めた。同じ乱暴でもそこには熱があった。縁の眼が、津南を通して、誰を見ていようと構いは
しなかった。ただ求められる、それだけで。
 縁は唇を求めすらした。彼の口と舌とは、津南もまだ知らない、あの陶酔を呼ぶだろう阿片の
味がした。予想と違い、津南は阿片を使われてはいなかったのだと明飛は云う。扱う者の賢さ
で、縁も阿片はやらない。とすれば、あの味は、縁がいつも舌の上で転がしている、「復讐」の
味そのものなのにほかならない。
 口づけをされるのは、躯よりもなお深いところを犯されるようで、津南はとまどった。とまどい
ながら、それが記憶に残るあの味を―――煙草の味を、持ち主もろとも、消し去ってくれれば
いいと願っていた。その主は、津南に口づけなどしなかった。だからあってはならない味であり、
願いだった。優しくなどされたくない。望んでもいない。
 縁はそれをかなえて、余りあるものをくれた。熱に掠れたような声、火のような体温、飢えて渇
いたそのまなざし。斎藤にはないものだった。同じ性急で乱暴だったが、あの男はひどく淡々と
していた。つまり、どうでもいいのだった。津南が死のうと、応えようと。
 いつだって、斎藤が欲するのはあの時と、それを共に生きた思いを分かちあう好敵手だった。
だから、剣をとらぬ津南は、はなから人とも見えなかったのだろう。大事にしたい人間は、ほかに
幾らもいたのだろう。あの、赤毛の剣客と、それから。
 斎藤が好きだったわけではない。ただ、自分は駄目だった、という思いが哀しくて、胸に重た
かった。十年前、二度は耐えられないとふかく思った。それが、もう一度来てしまったというだけ
で。
 それだけで、こんなにも打ちのめされるのなら、捨てられるのに慣れておくべきだったのかも
しれない。自分は塵芥だと、つね日頃から、云い聞かせておくべきだったのかもしれない。攫う
ように引っ掴まれて、もてあそばれた半年間でも、去っていくのには変わりがないのだ。
「…何が…駄目だったの…」
 不思議によどみない、きれいな発音だった。まるきり子供の、頑是ない舌足らずの声で、それ
は隣で眠る男の口から洩れていた。
「何…が…悪かったの……俺……姉さん」
 いつもの、あの奇妙な抑揚はなかった。すすり泣きと、あどけないしゃくり上げと、彼が日本を
出てからも、夜ごと繰り返されてきたのに違いなかった。
 昏い、狂おしい情熱を凍らせた若い顔。
「…どうして…死んじゃった……の?」
 銀髪が月光をあつめて、燦然と光っている。その下で、彼がどんな表情をして泣いているのか、
津南はわかるような気がする。
(何もかも)
 暗い中で、津南はほほえんだ。
(何もかもが、駄目だから、駄目だったんだ)



 縁は津南に弱みをみせたことを、後悔しているのかもしれない。中庭をつっきって、鍛錬の
終わった体に水を浴びたまま、雫を獣みたいに振り切って、やってきた。ばたんと音をさせて
扉を押しひらくと、驚いている津南に目もくれぬまま、中央の卓に歩みより、置いてある水差し
に口をつけた。
 吸い飲みで飲むようにして、あおむいた咽喉が激しく上下する。飲みおわって、水差しを放
りだすと、かたわらの棚から布を掴みとって、顔を拭いた。拭きながら、くぐもった声で、
「まだ、朝寝カ」
「………………」
「飯を食わナイのなら、云ッテおけ。作るダケ手間ダ」
「………ゆ…」
「?」
「……ゆうべ―――ひど―」
「ふん」
 猫のように、鼻に皺を寄せたのだろう。布の陰で嗤って、半分濡れたそれを津南へ投げつ
けた。
「よく晴れタ。雪も新シイ。お前はそれを見られなイ」
 津南はのろのろと長椅子から身を起こした。
 たしかに、昨晩は雪が降ったのだろう。その照り返しと、晴れた時の目に沁みるような北国
の太陽の輝きは、明飛と橇の道中で見たきりだった。あれ以来、津南は注意ぶかく陽光から
遠ざけられ、日のさしこまない奥の部屋に封じこまれている。もっとも、部屋に鍵などかかって
いるわけでもなく、すっかり体を痛めつけられ、縁の求めが激しいので、日中はうつうつと寝
てばかりいた。
 外が朝なのか夜なのかもわからない。布を受けとって、顔を洗えという意味なのだと思って、
津南は唐風の螺鈿の手桶で、水音を立てはじめた。背後に縁が立って、まだ濡れている髪
から雫をしたたらせ、黙ってこちらを見ているのがわかる。彼が入ってきた時、ふわりと埃っぽ
い水の匂いがして、それで雪が降ったのだと思った。遠い朝、長屋の路地に降った雪の匂い
を、津南は思いだした。そばには斎藤がいた。………
「まだ、痛むカ」
 うなじに唇を押しつけられて、津南は飛びすさる。長椅子までは追ってこないで、縁は肩を
すくめると、向かいの小卓にもたれた。
「アラキといウのは、ひどく強イ。翌日まで残ル」
「……知って…」
「お前が泣クから、云うなりに飲まセた。寝台ではしがみつくシ、まるで子供ダ。とんだ酔虎ダ」
「………頭……痛た…」
「動イたからだ。寝てイロ。どうせ逃げられなイ」
「…矢野に逢わせてくれ」
 津南は気息をふりしぼって、ようやく云った。
「生きているんだろう。あいつは関係ないんだ。せめて、東京に帰してやってくれ。あの彫りが、
ここで腐っていくなんて」
「明飛のもノダ。俺の手を離レタ」
「それじゃあ……」
「逢いたイのは矢野じゃなイ」
 縁は背を向けて、昨晩津南が痛飲したアラキ酒の瓶、角ばった硝子から、自分の盃に注
ぎながら、
「違うカ?」
「何…を…」
「人ニものを頼むなラ、あいつの名を呼ブな」
「……………」
「覚えてイナいのか?寝台で、名を呼ブな」
「…ちが…」
「そレで、お前はぼんやりシてイるのか?」
 縁が振り返った。
 指の先までも美しい、引き締まった四足獣の動きで近づいて、津南は思わず見惚れた。
舞踊の名手にも似た体つきだった。
 それで、あの赤毛の剣客、抜刀斎と互角にわたりあったのだという。彼はその気になれば、
拳法、剣術、片足の旋舞を多用する胡地方の舞、その武闘術、何でも出来るのだと、いつ
か明飛が云っていた。廃人同様の縁を、日本から救いだし、ここまでに戻した、やっと物を
食べるようになり、口を利くようになり、また組織の再編に乗り出すまでに回復した。だから
「復讐」にしがみつかせておかなければならなかった、と明飛は云う。それが消えるか、成
就した暁には彼は死んでしまう。それだけが、縁を今後も生かして、生につなぎとめておく
ことができるのだから。
「それなしで、前に進めないか、とはしてみた」
 静かな、哀しげな微笑で明飛はつぶやいた。
「駄目だった―――どうしても、人は神仏にはなれない。恨みでしか、生きてゆけないの
なら、それでも生きていてほしい、と私たちは願っているんだ。愚かしいことだとは思うよ。
でも、それでも、人は神仏にはなれない」
 おそらくは、縁にも見せたことのない表情で、黒檀のような目を落とした。その先には、
白い長い指の手のひらがあった。汚れた仕事にふさわしくない、あるいは最もふさわしい
指だった。
 優雅に短銃の引き金を絞る指。
「何を考えてイル?」
 わざと無造作に、縁が音を立ててそばへ腰を下ろした。視線をあわせない端麗な顔に、
津南はふと、睫毛まで白いのだな、と思う。
「もうすぐ、逢えルぞ」
「誰に」
「斎藤ニ」
「逢える?」
「逢いたイだろウ?」
 ゆっくりと、あの三日月形の笑みが、縁の口にのぼってきた。
「逢わセてやル。死んで、逢わセてやルから、感謝シろ」
「違う」
「違ウ?」
 自分でも気づかないうちに、津南は縁の言葉をさえぎっていた。
「逢いたいじゃなくて、見たい」
「見たイ」
「もう一度だけ、見たい」
「逢いたイ」
「違う。向こうは俺のことなんとも思ってない。だから、見たい」
「見たイ」
 縁は繰り返した。
 ゆっくりと顔を上げ、初めて見るもののように、津南の眼をのぞきこんだ。そうしてしばらく
黙っていた。
 やがて、津南の顎を掴んで、そっと上を向かせると、黙ったまま口づけた。



 明飛ははるかに優雅で、立ち居振る舞いに風を起こさせなかった。それだから、彼が部屋
に入ってきて、津南がまだ痛む体を服で覆っていなくても、別段慌てる必要もない気がした。
ごく自然に、明飛は津南の上にかがみこんで、縁の放ったものの始末をはじめる。柔らかく
拭かれ、扱われて、津南はもう一度眠りに沈みこんでいきそうになった。
「矢野はどうしています?」
 背中や腰をやさしくこする、ゆっくりと、ほぐすような手つきに陶然としながら、津南は首を
動かして聞いた。裸でうつぶせに寝かせられ、体の上に香油を垂らされた。
「彼は元気でいるよ。あなたによろしくと」
 あいかわらず、彼の声はおだやかだった。指が香油にたすけられて滑り、津南の痛むところ、
縁に強く掴まれて筋をたがえてしまった腕や脚、首などをさすり、疲れを溶かしてゆく。
「………もう、自分は日の目を見られないから、よろしくと」
「……………」
「彼が手をついて頼んだんだ。自分はどうなってもいい、月岡津南に、縁が何をするかも見
当がついている。だが、絵だけは、絵の描けなくなるような真似だけはしないでくれ。どうか、
日本で描かないで、あの国で描きつづけるのでもいい。どんな形でもかまわない。ただ、絵
だけは、あいつの絵だけは取りあげないでくれ。あんなに凄いものを描くのに、あいつは自分
で判っていないんだ。なぜだか、不安で―――下絵を受けとりながら、これだけのものを描
くのに、いつも不安で―――あいつが、絵をやめてしまうんじゃないか、って」
「……………」
「自分はどうなってもいい。この手で、あいつの絵が彫れなくてもかまわない。ほかに彫師は
いる―――あいつの絵が、この先も続いてゆくんなら、それだけで嗤って死ねるんだ」
「死ん……!」
「心配はないよ」
 跳ね起きそうになった津南に、矢野の口調をうつすのをやめて、明飛はにっこりした。お
そるべく流暢な日本語で、
「彼はすべてが終わったら、上海へ連れて帰る。縁は彼のような人間が好きなんだ。どこか、
似ているからかな―――もちろん、ずっと以前から、鼎は縁の友達だ。ずいぶん助けもした
し、助けられもしたよ。日本にやってきて、横浜に居をかまえる以前からの馴染みなのだか
ら、粗略にはしない。ただ、もうこちら側の人間なんだ。そうなって貰わなくては困る」
「……………」
「あなたは」
 すばやく津南の目の色を読みとって、明飛が続ける。
「自分の絵で、<彫月>の墨を背負うことになっていたけど、当然日延べ。病気をこさえる
といけないから、それまでは、あなたの手も指も切れない。縁は焦れて、さかんに話を持ち
だすけれどね。賭けには全部私が勝っているから、心配はいらないよ」
 異国の歌留多、賭け試合、………ブリッジ、チェス、ダイス、ルーレット、縁が『負けた』と
いまいましそうに呟く科白から、津南はうろ覚えの言葉を拾い出した。
「縁も、自分の不得意なものばかり賭けに持ってくるんだ。不思議だよ。脅されているんだ
ろう、切る、切る、って」
「はい」
「あの人は。………」
 津南がこっくり頷くと、縁がかわいくてたまらぬといったように、明飛は目を細めた。この
美しい支那人が、時には縁の兄や、庇護者や、年の離れた恋人ででもあるかのように
津南には感じられる。実際関係はなくとも、少年の縁を庇護したのがこの男なら、その
方面のことも、闇社会のしきたりと一緒に、教えこんだのに違いない。形の良い銀髪の頭
を肩にもたれさせて、静かにその髪を指で梳いている明飛。津南はいくたびか、どきりと
させられたことがあった。罪深い父と幼女のたわむれにも似た、痛んだ果物の香りだった。
縁はじっと目を閉じて、子供のように手足を投げ出している。その耳に、明飛がひそやか
になにごとかを囁く。睦言にも似た、縁をおだやかにさせ、薬を使わずにうっとりと眠りへ
導くまじないなのかも知れなかった。
 あらためて、津南はこの男を見る。場合によっては、縁よりよほど容易ならない相手な
のだろうと思う。闘いに鍛えられてはいないが、ぴたりと津南の急所を押えて、動けなく
してしまう指。薬の知識。墨のような眼。静かに微笑んで、誰にも毒牙をもつ蛇とは感じさ
せないその物腰。おそらくは、他の上海マフィアを制圧して、地下じゅうに張りめぐらした
暗いつながり。………
「どっちにしろ、鼎はここにはいない。原版づくりで、体が空かないんだから、しばらくは
無理だろう。逢えないのは、そういうわけだ」
「……原版…?」
「贋金づくりだよ。ほら、ここまでしゃべってしまった。………日本でも、そろそろ紙の金
を使っているだろう?それが、鼎への条件だった。志々雄という、京都の逆賊と取引を
しているときから、縁はこの方面での混乱を狙っていた。引っかき回せば、かならず鳥は
出てくるだろうとね」
(志々雄………)
「志々雄が縁の仇を殺してしまわないよう、ずいぶん祈ったよ。手を回して邪魔もした。
助けることになったとしても、死なせてしまっては何にもならないのだから。いつだって、
死んでしまった者は強い。かなわない」
 苦い諦念のような口調に、津南は聞かされた縁の過去を思いだした。その姉のこと
を云っているのだろうか?
 縁の様子や、夜ごとの寝言で、姉を失った経緯がただごとでないのは知っている。津
南はあやうく、あの有名な赤毛の剣客、抜刀斎と呼ばれた知人が、関わり合いなのか
どうかを問いたくなった。縁の言葉は断片で、ただ姉のこと、雪が降っていたこと、自分
は間に合わなかったこと、それだけだった。
(どうして……死んじゃった…の?)
 それと同じ問いを津南も幾夜発したろう。
 だんだんと、縁との間が、抜き差しならぬものになってゆくのに気づく。体を征服され、
心までもがこの歪んだ若い虎に巻き込まれて、喰われつつある。それは恋ではないかも
しれないが、情だった。津南は充足すら感じていた。
 その思いが、いっそ心全部を覆ってしまえばいいと思う。縁の銀髪、縁の指、縁の息
で、雪が上に降りつむように、朽ちてゆけたら。
(もうひとつの…)
「他に聞きたいことは?」
「ありません」
 断ち切るように、津南は無表情で呟いた。矢野は無事、自分も当面は無事、これ以上
何を望むことがあるだろう。
 気配で、明飛が何かを待っているのがわかる。津南は唇をひきしめた。一言だって、
ほんのかけらでも、そこから感情がほとばしり出るのを怖れるように。