墮 神

                    続、現し世の欠片



緋向子



その日斎藤が克浩の部屋に入り込んだとき、克浩はぼんやりと畳の上に座っていた。土間
の片隅に刀身を剥き出しにした短刀が転がっており、薄暗い地面の上でその刃が鈍く光っ
ている。斎藤が不審に思いながら後ろ手に戸を閉めると、彼は斎藤に虚ろな顔を向けた。
眼は怒りに燃えている。そのおかしな様子に斎藤が近づいていこうとすると、克浩は立ち
上がり、すさまじいいきおいで斎藤に飛び付くように抱きついた。彼は斎藤の肩と首に自分
の腕を回し、手にぎゅっと力を込める。そして頬を斎藤の頬に押し付けた。斎藤は面食らっ
た。乱心でもしたのか?こいつがこんなことをするなんて、想像もつかないことだった。彼はい
つだって他人に対してクールで、全身で自分の感情や好意を表すなど、決してやろうとはし
ないたぐいの人間だった。
「いったい、どうした?」
不審そうな斎藤の質問には答えず、克浩は斎藤の腕を乱暴に引っ張り、彼を畳の上に押し
倒し、仰向けに横たわらせた。斎藤は膝を折曲げ、足を土間の上につけたまま押し倒される
格好になった。その上に克浩が馬乗りになる。怒りと哀しみが混じりあった昏い目で斎藤を見
下ろす。斎藤は少し呆然としながら驚いた顔で彼を見返した。克浩の両手が、斎藤の制服の
胸の部分を握り締めた。それを引きちぎるようにして彼の胸元を開く。制服の釦が二、三個は
じけとんだ。斎藤は驚いた。
'こいつにもこんな力があったのか。'
克浩は顔を斎藤の喉元に下ろすと、唇を貪るように這わせていった。手を胸の制服の下に差
し込み、黒シャツの上から撫で回す。しばらくそうやって愛撫を続けていたが、手を休めて体を
起した。斎藤も体を起して彼を見た。やりきれない怒りに駈られた眼が斎藤に向けられている。
だがそれは斎藤を素通りして、何か他のものを見ていた。

克浩は斎藤の靴をとると、それに眼も向けないで斎藤を見つめたまま、後ろの土間に放った。
そして彼のベルトをはずしにかかる。前を開き、口に含むと、激しく吸った。斎藤ができる状態に
なると彼は身を起し、自分の着物を荒々しくほどきにかかる。着物がすべて畳の上に落ちる。バ
ンダナ以外すべて取り去ると、彼は斎藤のを右手で支え、自分の中に招きいれた。少しなかに
入り、安定したところで自分の体を下ろし、一気に貫かせた。克浩は息を吐き出し、小さな呻き
声を上げた。斎藤が抵抗しかねない性急さで彼はそれを行った。呆然としている斎藤の肩を強
く押して、彼は斎藤を横たわらせた。斎藤のウエストを両手でつかみ、彼は自分の腰を動かし始
めた。その気違い染みた行動に斎藤は唖然とした。彼は斎藤の左手を自分に導くと、やるよう、
促した。斎藤は素直にそれにしたがう。克浩は気が狂ったように興奮していた。斎藤の手の動
きに、体を動かすのをやめずにため息のような呻き声を上げる。

'見ているか、隊長。'

彼は頭を仰け反らして、眼を固く閉じた。

'見ろよ、あんたが見たがった十年後の俺だ。あんたは俺をこうしたかったんだろう?俺にこんな風
になってほしかったんだろう?これが今の俺だ。嬉しいだろう?満足か?なんとか言ったらどうだ、隊
長。'

克浩は獣のような声を立てると、その呻き声と共に斎藤の手の中にいった。体の動きを止め、斎
藤の体に倒れ込む。彼の内部の痙攣と弛緩を繰り返す締め付ける動きに、斎藤は耐えることが
できなかった。克浩の体の重みの下で、凄まじいほどの快感に、斎藤は苦痛を堪えるように顔を
歪ませると、果てた。

ー*ー

あのとき、優しく微笑みながら隊長は言った。
'あと十年もたてば、お前はどんな風に成長しているだろう.....早く見てみたいものだ。十年たっ
ても、私の傍にいてくれるかい、克浩。'
'はい、隊長、ずっとお側にいさせてください。一生、貴方につかえさせてください。'
その答えに、隊長は克浩を抱きしめた。隊長の胸に顔を埋めながら、克浩はこの上もなく幸せだ
った。本当に、一生、彼と共にいたいと思っていた。そう、あのとき、彼は何も知らなかった。隊長
が彼に見せる優しさや愛情の影に、一体何を隠しているのか。時々、その隠れたものが見えかく
れしてさえ、彼はそれを無視した。信じることができなかった。彼を敬愛し、信じていた。その裏に
あるものを彼が隠さなくなった時まで、克浩にとって彼は神だった。いや、克浩がすべて見通し、
すべてが崩壊した今この時でさえ、彼は克浩の神でありつづけた。克浩はそれから逃れることが、
できなかった。

ー*ー

十年前、あの夜、隊長が克浩を自分の欲望の相手をさせた夜以来、彼は隊長の影に脅えていた。
夜が明け、次の日いつもとかわりない隊長の姿を見ると、昨夜のことが夢の中のことのように思え
る。克浩は彼に挨拶をし、彼はそれに答えた。いつもと何も変ることのない朝。克浩の心の中以
外は。

それから一週間後、隊長が所用で出掛けることになったとき、彼は左之を同行させると言い出した。
いつも彼はそれに克浩をつれていっていた。彼が左之を同行させると言い出したのは、これがは
じめてだった。克浩はほっとすると同時に左之のことが心配になった。
'隊長は、左之にも俺と同じことをするつもりなのか?'
隊長に同行できると興奮してはしゃいでいる左之を見ると、克浩は不安になった。だが、彼がどう
いう目にあったか、左之に話すことはできない。せめて何か警告じみたことを言いたいのだが、急
に隊長がそれを言い出したため、左之と二人きりになることができなかった。ただ、言うことができ
たにしろ、左之にそれが通じるとも思えない。左之は彼以上に隊長を崇拝している。
「じゃあ、行ってくるぜ。」
明るく笑いながら克浩に手を振る左之を見ながら、克浩は胸が痛んだ。
'あいつは、隊長がどんな人か知らない。'
克浩は秘密を打ち明けられない孤独に泣きたいような気分になった。そしてその日出発するとき、
隊長は克浩に何も声をかけなかった。

その日の夕方、ちょっと疲れてはいるものの、なんの翳りも見せない左之を見て克浩はほっとした。
別に何もなかったらしい。だが夕食の後で左之が克浩に隊長が自室で呼んでいると告げられたと
き、彼の体にアドレナリンが走った。だが、行かないわけにはいかない。克浩は躊躇しながら隊長
の自室の前までいった。ためらいがちに声をかける。
「隊長、克浩です。お呼びだと聞きました。」
少しして隊長が答える。
「ああ、克浩、入っておいで。」
克浩は部屋に入った。隊長は彼に背中を向けて、何か書き物をしている。
「すまないが、ちょっと待っていておくれ。」
隊長は振り向きもせずにいった。克浩は隊長から離れたところに正座すると、彼が仕事を終わら
せるのを待った。10分もしただろうか、隊長は筆を置き、書いていた紙を畳むと克浩に振り向き、
彼に近づいてその前に座った。
「待たせてすまなかったね、克浩。」
いつも通り、穏やかに微笑んでいる。克浩は胸が高鳴った。
「最近、お前の顔色がよくないね。からだの具合いでも悪いのかい?」
「いいえ、そんな事はありません。」
克浩は事務的な口調で答えた。隊長はそれを見て慈しむような目をすると、少し目を細めた。
「私はお前のことが心配なのだよ、克浩。左之と違って、お前は少しばかり繊細にできている。」
克浩は、眼を見開いてじっと隊長を見た。隊長は表情を変えず、続けた。
「いつか、約束しただろう、ずっと私の傍へいてくれると。覚えているかい?」
克浩は一瞬間を置くと、うなずいた。
「お前は頭がいい子だ、克浩。この動乱が終わったら、もっと本格的に勉学できるところへ送って
あげよう。お前は将来、何がやりたいんだい?」
「・・・まだ、わかりません。」
克浩は答えた。
「ゆっくり、考えておいで、まだ時間はたくさんある。」
克浩はうつむいた。眼に動揺がでている。彼はその言葉の裏にある意味を汲み取った。ここを逃
げ出したところで、克浩に生きるすべはない。野垂れ死にするのが関の山だろう。彼の傍にいる
ほうが得策なのだ。自分の行く末さえ、自分で選びとっていけない自分の弱さに、彼は深く傷付
いた。幼く、頼るつてもなく、持っているものは自分の身一つしかない。隊長が立ち上がった。克
浩は体を固くした。彼は克浩をつかんで抱き上げる。いつもの抱き上げるかたちではなく、女でも
抱くように横向きに抱き上げた。そのまま寝具の上につれていかれ、下ろされても、克浩はただ黙
って体の力を抜き、なされるがままにしていた。仰向けに横たわされても,彼はそのまま天井を見
つめ、ぐったりとしていた。彼は自分の下半身が高ぶってさえいるのを感じた。隊長は彼の傍に
横たわると、彼の頭を優しく撫でた。慈しむような目で彼を見ている。
「いい子だね、克浩。」
ー突然、隊長が彼の上に覆い被さってくる。克浩は驚いたものの、逃げる暇さえなかった。顔が
両手で押さえ込まれ、軽く口づけられ、舌が唇を割って入ってくる。克浩は弱々しく抵抗したが、
彼の力に敵うわけがない。克浩はおとなしくなった。着物を割られ、胸に口づけられ、克浩は眼
を閉じた。快感さえ感じていた。脚の間に、隊長の体がしっかりと押し付けられている。痺れるよ
うな感覚が腰から下へあった。まるで何かを待ち受けているような.....

隊長が体を浮かすと、克浩のウエストに添えられた右手を、下に向かって移動させる。服の上か
ら優しく触ると、克浩を見下ろして微笑んだ。彼は克浩の着物の帯を解いた。克浩は震えだし、
泣き始めた。
「何をおびえているんだい、克浩。何も怖いことはないよ。痛い事もしない。眼をつぶっておいで。
よくしてあげるから。」
優しい声だった。克浩はもう二度と、その優しい口調を以前のように安らかな気持で聞くことはな
いだろう。彼は隊長のその優しさが、仮面で覆われたものなのだと知ってしまったのだから。

克浩は隊長の胸にしがみついた。
「隊長!、隊長....!」
自分でもどうしてそんな事をしてしまうかわからずに、泣きながら隊長の名を呼び続ける。
「かわいそうに、克浩。ずっと私の傍においで。悪いようにはしないから。私はお前を見捨てたり
しないと約束するよ。だから、私を信じて傍にいなさい。」
震えの止らない彼の体を隊長は抱きしめると、自分の袂で克浩の涙を拭き取り、瞼にそっと口づ
けた。克浩は眼を閉じたまま、震えがおさまりかけた顔でうなずいた。
「私は、お前が可愛いんだよ。」
隊長は言った。その何度も繰り返された言葉を、かつての克浩はどんなに幸せな気持で聞いた
ことだったろう。いま、その言葉は虚ろに響いた。たとえ隊長がどんな真摯な意味をそれに込めて
いたとしても、克浩はそれを額面通りに受け取ることはできなかった。

克浩の着物の前が開けられ、隊長の手が滑り込む。冷たい手だった。克浩はおとなしく横たわっ
たまま、されるがままになっていた。握られ、ゆっくりと動かされる。克浩は興奮した状態になって
いる。手が離され、そこに隊長の口がつけられ,飲み込まれると、克浩は声を上げた。隊長はす
ぐに口を克浩から引き抜くと、彼の耳元に口を寄せた。
「気持いいかい?」
克浩は自分の両腕で顔を覆ったまま、隊長を見ずににうなずいた。隊長が穏やかに笑った。
「いい子だ。もっと気持よくしてあげるからね。」
手が再び克浩にのばされ、動かされた。最初はゆっくりと、だんだん早さを増していく。克浩の息
が早くなった。波のように押し寄せる快感に、頭が空白になる。彼の口から声が洩れた。そんな
に大きな声ではない。だが理性で抑えきれない感覚の奔流に、克浩は自分の喉が声を放つに
まかせた。止めようとさえ考えられなかった。全部終わってさえ余韻がしばらくひいた。それは、彼
の生まれて始めての経験だった。

激しいほどの虚無感が克浩の中にあった。彼はただ黙って横たわり、その虚無感に身をまかせ
た。隊長は黙って彼を見つめている。克浩は彼の方を見ようともしなかった。横向きに横たわり、
顔を夜具に押し付けている。その夜、彼は克浩にそれ以上何もせずに、黙って自分の寝所に
戻した。克浩は布団の中で体を丸めながら、夜更けまで眠ることができなかった。だが一度寝
付くと、彼には珍しく死んだように朝まで眠った。

ー*ー

それからしばしば、彼は隊長の寝所に呼ばれた。抵抗することはできなかった。
克浩もすぐにそれを楽しむようになった。受け入れる以外、彼に何ができただろう?そうなってさ
え、隊長は彼に対して絶対的な力を持っていた。克浩は隊長に逆らえない。そういう風に、彼は
心のかたちを変えられてしまっている。あの、隊長が克浩に手を差し伸べ、克浩が彼を崇拝して
しまったときにそれは確立されてしまった。生まれたばかりの雛が、始めて眼にするものを母親
だと認識してしまうように。

受け入れ、求めてくる克浩を見て隊長は見て喜んだ。彼は、一回づつ、徐々に克浩を相手に
行う行為をエスカレートさせていった。少しづつ、彼を慣れさせていった。ただ一度だけ、彼が
克浩の体のなかに指を入れようとしたことがあったのだが、克浩はそのときだけは泣いて抵抗
し、彼から逃れようとした。
「悪かった、悪かったよ、克浩。」
そういって彼は克浩を固く抱きすくめた。それでも克浩は抵抗し、逃げようとするのをやめない。
「いやだ、隊長、いや....!」
「もうしないから、おとなしくしておくれ。」
克浩の抵抗が弱まった。
「これはちょっと早すぎたね。まだお前がこんなに小さいのだという事を忘れていたよ。」
隊長は軽く克浩の首から顎にかけて口づけると、耳元で囁いた。
「でもこれは、お前が大きくなったらすごくよくなるよ。自分から脚を開いて懇願してくるほどにね。」
そうなのだろうか?克浩は思った。克浩もすでにいろいろなことを、隊長以外の人から聞き知って
いる。そして自分から脚を開いて男を誘うような女を、皆は'淫乱'と呼んでいた。
'俺は'淫乱'とかいうやつになるのか?'
克浩は隊長の体の下で思った。隊長の言葉が耳に残った。俺は本当にそれを楽しむようになる
のだろうか。克浩は何も、誰にも言えなかった。その言葉は克浩のなかに呪いのように張り付き、
残った。

ー*ー

そしてあの最後の時がやってくる。隊長が逮捕され、斬首されるためだけに引き立てられていく
間際の時。

あのとき、あの最後の時、隊長は自分の身に何が起るのか見通していたのだろうか?彼はまるで
すべてわかっていたかのように見える。まるで仕上げのように、彼が克浩を絡め捕り、呪縛で身
動きできなくさせたあの瞬間....

事態が逼迫していたときだった。隊長は人気の無いところへ克浩をつれだすと、彼の短刀とい
くらかの路銀、それに一通の手紙を克浩に渡した。
「この短刀は私がまだ若いころにある人からもらったものだ。克浩、お前にあげるから、これを私だ
と思って持っていておくれ。」
克浩はその言葉に面くらい、不安そうに隊長を見上げた。一体、何が起っているのだろう?
「それともし私の身に何かがあったら、私の実家へ行って家人にその手紙を見せなさい。お前一
人ぐらいの面倒はそこで見てくれる。」
「隊、長....?」
克浩は心配そうに隊長を見上げた。隊長は、自分の身に何かが起ると思っているのだろうか?
「お前のことが、心配だよ、克浩。」
克浩は隊長の左腕をつかんだ。ぎゅっと握り締め、隊長を見上げる。隊長は悲しそうに克浩を
見返した。
「隊長、何故....?」
隊長はしばらくそうやってしばらく克浩を見つめていたが、いきなり、彼を抱きしめた。強い力で、
締め付けるように抱いた。克浩は驚き、眼を見開くだけで動
けなかった。
「愛しているよ、私の克浩、私にはお前だけだった。お前にずっと、傍にいて欲しかった。お前
の成長した姿を見てみたかった。でも、もう、時間がないんだよ。お前を守ってやれなくて、済ま
ない....。」
もう終りなのだ。克浩は理解し、涙を流さず彼は泣いた。何が起るのか、知らない。だが、隊長は、
自分に別れを告げている。泣くことのできない悲しみが存在することを、彼はその子供の身で知
った。別れたらもう、会えない。克浩は直感でそう思った。そしてそれは外れることはないだろうと
も。克浩は隊長にしがみつくように腕に力をいれた。かつて彼が単純に隊長を慕い、愛していた
ときのように。

'愛しているよ、私の克浩。'

その言葉が、いつまでも克浩の耳に残った。

それが克浩が隊長を見た、最後だった。

ー*ー

克浩が隊長の実家を訪ねることは、無かった。彼はあの後、混乱の中で人買にさらわれ、東京
へ流れた。隊長がくれた短刀は取り上げられ、どこかへ売られてしまった。彼は取り上げられる
ことに死に物狂いで抵抗し、動けなくなるほど打ちのめされた。

そして十年後、東京の骨董屋の店先で、その短刀を見つけた克浩は動けなくなった。
'ただの同じものかもしれない。'
そう自分に言い聞かせ、それを手にとってみる。骨董屋の主人が何か説明しているが、克浩は
それを聞いてさえいない。ー間違いなかった。鞘についているほんの少しの傷は、間違いなく
隊長が自分にくれたあの短刀のものだった。

克浩は骨董屋の主人に値段を聞くと、絶対に売らないように言い含め、手付けに財布をまるごと
渡すと店をでた。その足で版元へ向かい、金を借りるとその骨董屋へ戻り、言い値でその短刀
を買った。心、ここにあらずと言う感じだった。たとえ今、天変地異が起ったと言われても、彼は
何も聞こえなかったに違いない。

自分の部屋に戻り、書き物机の前でそれを手にとってみる。鞘を抜き、綺麗に磨かれた刀身を
見た。薄暗い部屋の中で、それは鈍く光った。その刃の表面にうつった自分の顔を克浩は見つ
めた。滑らかな刀身に、無表情な顔がうつっている。
'隊長、俺はここにいる。あんたの見たがっていた俺だ。'
克浩の眼から、涙が一筋、流れた。

"お前の成長した姿を、見てみたかった。"

"私は、お前が可愛いんだ。"

"愛しているよ、私の克浩。"

「あんたは、俺を愛してなんか、いなかった。」
克浩の眼に、怒りが浮かんだ。激昂して、唇が震えている。

「いい加減に、俺を縛るのをやめてくれ。俺もあんたなんか、愛しちゃいない。何故、俺にあんな
ことをした?俺をなんだと思っていたんだ?あんたは俺を玩具にし、ずたずたに引き裂き、そして
十年たった今でも俺をその呪縛から解放してはくれない。」

"十年後、お前はどんな風に成長しているだろう。それまで私の傍にいてくれるかい?"
"います、ずっとお側にいます....!"
"約束だよ、克浩、約束だ。"

隊長が満面に微笑み、両手を広げて彼を待ち受ける姿が克浩の脳裏にひらめいた。ー克浩は
獣のように声を張り上げ、短刀を壁に向かって思い切り投げつけた。それは乾いた音を立てて
壁へぶつかり、土間へ落ちた。

克浩は何回も激しく肩で息をつくと、うつぶせに倒れ込んだ。顔をあげ、天井の隅に眼を向ける。
怒りが、虚ろに流れていく。
'隊長、俺はもう、あなたから自由になりたいんだ.....'

"ずっと、お側に置いてください。隊長。"

"私はいつまでもお前と一緒だよ、可愛い克浩....."

「おい!いい加減にしろ!どうしたっていうんだ、壊れちまうぞ,お前!」
斎藤の怒鳴り声で、克浩は我に返った。斎藤の顔が目の前にあった。彼は斎藤の膝の上に向き
合って座っている。躯の動きを止め、ぼんやりと斎藤を見返す。斎藤は克浩の体をどかせると、
両肩をつかんで揺さぶった。
「おい!」
それでも克浩はぼんやりとした眼で、斎藤を見ている。いや、見ているように見えるが、本当に
何かをその眼にうつしているかどうか、疑わしいような目付きだった。
「しっかりしろ!」
斎藤の手が、克浩の顔を張り飛ばした。強い力で、大きな音を克浩の頬にたてる。克浩はしばら
く張り飛ばされたまま横を向いてうつむいていたが、やがて顔をあげて斎藤を見た。眼に正気が
戻っている。克浩がいつもの様子に戻ったのを見て、斎藤は息をついた。
「俺が、わかるな?」
斎藤が言った。
「ああ。」
克浩は静かに答え、斎藤を見た。
「なあ、斎藤。」
克浩は無表情に言った。
「もし、俺が頼んだら、お前は俺を殺してくれるか?」
斎藤は一寸黙った。克浩を見つめ、黙っていたが、やがて口を開いた。
「ああ、やってやるさ。もし、俺の気が向いたらな。」

克浩は、隊長が部屋の隅で自分を見下ろしているような気がした。あの斬首されたときの格好で、
ー泥と血にまみれ、雨に濡れた様子で身動きせずに、じっと彼を見つめていた。














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