現し世の欠片




緋向子



克浩という子供には、その幼いころから一風変ったところがある。風に色を見、
水にかたちを感じ取る。人が見向きもしない物のなかに何か特別なものを見いだ
し、他人から見れば、馬鹿げたことに時間を費やした。だが、常人はそれらのこ
とを理解することができない。そのために彼は他人の感覚という物に鋭敏となり、
自分を隠すことを覚えた。

その、赤報隊にいたまだ幼いときすでに彼は、時折神経の高ぶりによる不眠を覚
えた。特に満月の夜、彼はしばしば床を抜け出し、月の光を味わいに外へでたも
のだ。少し散歩し、再び眠りにつく。月の淡い光を眺めていると、今居るこの世界
が夢なのではないかという気がしてくる。自分を愛さず、捨てるようにして彼を他へ
出した親も、彼が今まで通り抜けてきた諸々のことも。それらの記憶が曖昧になっ
て、やがて消えてしまうのではないかという気がする。
'もしかしたら俺はだれかの夢の欠片なのかもしれない。俺自身も今夜消えてしまう
かも知れないな。'
彼は、しばしばそんな空想に、浸った。それは彼の願望であったかも知れない。
だが、自分自身で自分の命に決着をつけようと考えるには、彼はまだ幼かった。
彼のその未熟さという柔軟さが、彼を絶望へと追い込まなかった。それともう一
つ、彼には隊長という存在があった。彼に認められ、役に立つこと、そうするこ
とで彼は親に否定された自分の存在を取り戻そうとしていた。彼にとって、隊長
は神に等しい存在だった。神聖で高潔で、自分を暖かく包んでくれるもの....。彼
は自分の中でそういう隊長像を作り上げていた。幼い彼は、その自分の造り上げ
たものが現実なのだと信じて疑わなかった。

その夜も、彼は床を抜け出すと半刻程ものんびりするつもりで外へでようとした。
この時だけ、彼は自由だった。何者も彼に干渉することのない彼だけの時間。だ
が、この夜、彼は廊下で呼び止められた。

「おい、克浩。」

その囁くような小さな声に、彼は驚いて体を震わせた。
「どこ行くんだよ、お前。」
克浩は振り向いた。左之だ。部屋から半分体を出してこっちを見ている。用を足
しに起きたのだろうか?しかし彼は眠そうでもない。彼が必要もないのに夜中に
目を覚ましているなどあり得ない。いつだって彼は一度眠ると朝まで目を覚ます
ことがないのだから。

「別に....なんだよ、左之?」
左之は克浩をいぶかしげに見ている。
「お前、隊長のところへ行くのかよ?」
克浩はすぐに言葉を返すことができなかった。隊長のところ?こいつはいったい、
何を言っているんだ?
「隊長のところって、なんで?」
克浩はきょとんとしている。夜の闇の中でも、暗闇になれた左之の目はそれを捕
らえたらしかった。
「....本当に、違うのか?」
「だからなんでだよ、俺があまったれて隊長の布団に潜り込んでいくとでも思っ
ているのか?」
「....わかんなきゃいいよ。」
左之は恥ずかしそうに、そっぽを向いた。わからない。左之らしくない反応に克
浩は戸惑った。左之はなんだかすっきりしない態度をしている。言いたいことが
あるのに黙っているような.....これはまったく彼らしくない。左之はちょっと、
天井の方を見た。何か、ためらっている。
「左之、いったいなんだよ。言いたいことがあるんなら言えよ。....じゃなかった
らもう、寝ようぜ。」
「あのな、克浩、ちょっと来いよ。」
左之は克浩に近づくと彼の腕をつかむと引っ張っていった。有無を言わせず導い
ていく。
「なんだよ、左之。」
克浩はそれでもおとなしくついていった。何か話でもあるのか?人に聞かれたく
ないようなことで?

左之が克浩をつれていったのは、物置として使われている部屋だった。左之は押
し入れを開けて、下段に入ってる寝具を取り出すと克浩をそこに押し込む。自分
も入り込むと静かに戸を閉めた。光が射さない内部は真っ暗で何も見えない。左
之が擦り寄ってくる気配がして、克浩の左腕がつかまれた。
「なあ、なんだっていうんだよ。」
克浩はちょっと怖くなった。何かが変だ。左之はいったいなんのつもりで....?

「なあ、お前もう、....だったりするのかよ?」
左之ははっきりしない口調で何かを言ったが、克浩はそれをきちんと聞き取れな
かった。暗闇の中、左之の表情はうかがうことはできない。
「何言ってるんだよ左之、話なら明日聞くよ。」
「....いや、俺....やってみたいんだよ。」
照れたような口調で、左之はわけのわからぬ事を言った。
「やるって、何を?」
克浩は努めて明るく答えた。感のいい彼はすでに左之が何を考えているか薄々わ
かっている。逃げようとして戸の方へ向かうが、左之がそれを体で阻んだ。
「さ、左之、もう寝ようよ、明日起きれなくなっちまう。」
左之は無言だった。暗がりの中で克浩の体を押さえ付けて床に倒した。浴衣の前
を広げると左之の唇がそこを這った。克浩の広がった脚の間に彼の体が入り込み、
体重をかけてしっかりと押し付けられる。
「いやだ、はなせよ、やめろ!」
「騒ぐなよ、誰か起きてきたら叱られるぞ.」
左之が圧し殺したような声で言った。克浩の抵抗が弱まる。....彼はそれが怖かっ
た。左之はそれを知ってて言っている。
「すごくいいんだってよ。夢中になって、やめられなくなるって。」
左之の暖かい唇が、克浩のを捜して彼の頬にあてられる。左之は彼の顔を両手で
つかむと自分の口で克浩の唇を探し当てた。強く、吸う。克浩は左之を押し避け
ようとあがいたが、年は同じでも左之は彼より体が大きく力も強い。
「痛いよ、左之、気持悪い。」

ー左之は、あまりたちの良くない男にこういうことを教わった。その男は、女は
いつでもこういうことをされがっていて、抵抗されてもやってしまえばこちらに
惚れる、次は女の方からやってくれと頼んでくる、そうした方がその女のためな
のだ、と、無茶苦茶を教え込んだのだ。そして'男でも同じことなのか?'という左
之の無茶苦茶な質問に面くらい、年上の威厳を精一杯保ちながら、'男相手だっ
て、女と対した変りはないのさ。'と、威張って答えた。ちなみにその男、若く
てまだ女どころか男とも実際にしたことはなく、左之に先輩風を吹かせていきが
ったことを言っただけだった。そいつもまさか左之がこの年で、しかも克浩相手
に試してみるとは想像もしなかったであろう。

「なあ、おまえ、これやったことはあるか?」
左之の手が克浩の脚の間にのびる。上下に動かすが、何せ自分のもまだうまくや
れないやつのやることである。それに相手は左之だ。克浩が左之相手にそういう
気分になるわけがない。克浩は嫌悪感で、左之から逃れようとあがいた。
「いやだ、やめろよ、お前なんか絶交だ!」
克浩は、半分泣きながらわめいた。

突然、押し入れの戸が引き開けられた。二人ともぎょっとして凍り付いたように
動けなくなる。克浩ははっとすると急いではだけた浴衣の前を掻き合わせた。
「何をしているんだい、二人とも。」
隊長の優しい声が響く。どういう表情をしているのか、暗さのために顔は見えな
い。何も気が付いていないような、何もとがめるところのない穏やかな声だった。
「あの....これは、その....」
左之がしどろもどろに返事をする。克浩は黙っていることしかできなかった。
「夜ももうこんなに遅い。左之、床へ入って休みなさい。」
「はい。隊長。」
左之はおとなしく返事をすると、押し入れから出た。部屋の出口へ向かう。その
後に続こうとした克浩を、押し入れの前で隊長は肩をつかんで止めた。
「克浩、お前はちょっと待ちなさい。」
左之が止って後ろを振り向いた。隊長は左之の方へ顔を向けると言った。
「私はちょっと克浩と話がある。お前は先に休んでいなさい。」
「でも....」
何か言いかけた左之を隊長は制して、穏やかだが有無を言わせぬ調子で言った。
「わかったね。」
左之はおとなしく返事をすると出ていった。彼は部屋を出ていく前にちょっと後
ろを振り返って克浩を見た。心配そうな顔をしている。克浩が怒られるとでも思
っているのだろう。左之がでていってしまうと隊長は克浩の方を見て微笑み、彼
の脇に手を入れて抱き上げた。
「ちょっと最近背が伸びたかい?」
克浩は黙っている。大好きな筈の隊長が怖くて、逃げ出したかった。でもそうす
ることはできない。彼は、そうすることを許されていない。
「克浩はだんだん大きくなるなあ。」
隊長は明るい声でそういうと、ぎゅっと克浩を抱きしめた。

'怖い。'

克浩の心臓の鼓動が、少し早まった。彼は何故自分が隊長を恐れているのかわか
らなかった。彼は怒っているわけでも、機嫌が悪そうなわけでもない。優しく、
慈しむような顔で自分を見ている。暗闇になれた目は、ぼんやりとだがそれを捕
らえることができる。ただ、何かが違う。まるで隊長が違う何者かであるよう
な.....きちんと説明することができない。その目の中にある克浩のよく知らない
何かが、彼を萎縮させた。彼はそれをどこかで見たことがある。だが、それが何
なのか思い出すことができない。

隊長は克浩を抱き上げたまま部屋を出ると、自分の寝所に彼をつれていった。そ
の間、隊長は無言だった。部屋の中はまだ灯がついていた。克浩はひどく驚いた。
部屋につれていかれたことにではない。隊長は彼を抱いたまま部屋にあるテーブ
ルの上に腰を下ろしたのである。隊長が、こんな行儀の悪いことを?そして、自
分の膝の上に克浩を横向きに乗せた。克浩は脚を閉じ、身を固くしてうつむいた。
隊長は克浩の肩に左手を置き、克浩の髪を右手でそっと撫でた。彼は克浩を見な
がら優しく微笑んでいる。彼は顔をあげて隊長を見ることができない。隊長はし
ばらくそうしていたが、やがて口を開いた。
「固くならなくていいよ、克浩。私は別にお前を叱りに来たのではないのだから
ね。ただ、ちょっとお前と話をする必要がある。」
しばらく沈黙が流れ、克浩はやっとの想いで頷くことだけができた。
「いい子だ。」
隊長はそう言うと、克浩の頭を撫でた。ちょっと、間を置くと穏やかに口を開く。
「克浩、左之はお前に一体何をしたんだい?」
克浩は恥ずかしさに赤くなった。なんと言っていいか、わからない。
「正直に言ってごらん、私は怒ってなどいないのだから。何があっても、お前を
怒ったり、嫌ったりしないよ。」
穏やかであるがきっぱりとした物言いに促されて、克浩は口を開いた。彼は隊長
に逆らうことなどできない。彼にとって、隊長とは絶対なのだから。聞き取るの
がやっとの小さな声で答える。
「あの....,左之が俺の口を....吸ったんです。」
「それから?」
「胸に、触ったり....」
しばしの沈黙が流れる。
「それだけじゃないだろう?」
隊長が促した。彼は隊長に嘘をつくなどできない。
「左之が、俺の....」
克浩の声が消え入るように小さくなった。隊長は克浩の顎に片手を添えると彼の
顔を自分の方へ向かせた。優しく微笑んでいる。
「左之はお前にこんなことをしたのかい?」
その言葉が終わるか終わらないかの内に、隊長の長くて白い指が、克浩の脚の間
にそっと忍び込んだ。
「あ....」
克浩は小さく声を上げると、驚きに身を固くした。隊長が、こんなことを....?
「こういうことは、お前は始めてかい?」
克浩は、かすかにうなずいた。顔が、熱を持ったように熱かった。
「まだちょっと早いけど、大人にしてあげようね。楽にしていなさい。怖いこと
はないから。」
指が、そっと動かされる。克浩はそれに反応したが、快感より驚きの方が勝った。
肩に回されていた手が克浩の胸元に差し込まれて優しく撫でられる。克浩は抵抗
することができない。ただじっと身を固くしていた。隊長はしばらくそうやって
愛撫を続けていたが、やがて胸を撫でていた手を克浩の顔に添えると、顔を克浩
の方へ落し、そっと口づけた。左之とは違う、体温の低い薄い唇がついばむよう
にして滑らかに克浩の唇を撫でる。
「体の力を抜きなさい。別に痛い事はしないから。」
隊長はうわずった声でそう言うと、克浩の両足を右腕で少し持ち上げ、彼の体を
膝の上でもっと自分の胸近くに移動させた。固いものが浴衣越しに克浩のお尻に
当たる。隊長はそのまま克浩を強く抱きしめ、腰を持ち上げるようにして克浩に
それを押し付け、揺らすように動かしながら上下に下半身を動かす。その規則正
しい揺られるような動きの中で、克浩は目をきつく閉じて隊長の胸にしがみつき、
顔をそこに埋めた。何も考えられず、呆然とした。ただ隊長が一体何をしている
のかは、理解することができた。隊長の息が荒くなり、軽い呻き声が洩れる。突
然、動きが、止った。彼は汗ばんで、呼吸がはやかった。克浩にもたれ掛かり肩
で息をしている。彼はしばらくそうしていた。
「克浩。」
落ち着くと彼は、克浩の体躯から体を離して言った。放心したように片手を後ろ
につき、頭を後ろに反らす。
「今日は私の寝所で休みなさい。」
克浩は、身を翻した。飛ぶような速さで彼の手をすり抜ける。音もほとんど立て
ず、軽やかに走ってまっすぐ自分の寝床へと向かった。彼を呼ぶ隊長の声が、後
ろに聞こえた。

....左之が、部屋の戸の前に座り込んでいた。克浩が来ると、立ち上がり彼によっ
てくる。 心配そうな顔をしている。
「克浩、どうしたんだよ、隊長に怒られでもしたのか?」
克浩は泣きそうな顔をしている。左之は克浩に走りよっていった。
「俺、お前は悪くないんだって、隊長に言ってきてやる。」
左之は囁き、隊長の元へ行こうと身を乗り出す。克浩は左之に抱きついてそれを
止めると、激しく首を振った。
「違う、違うんだよ、左之.....」
克浩はしゃくりあげた。涙が止らない。克浩は左之に抱きついたまま、泣きやむ
ことができなかった。'どうしたんだよ、どうしたんだ、克浩....?'左之は訪ねるが
克浩は何も言わない。左之は黙って彼を受け止め、抱きしめた。その晩、彼は左
之の布団の中で彼にしがみついて眠った。左之の体は暖かく、しっかりとした質
量を克浩は感じることができた。克浩にとって、左之は現実だった。左之が時折
彼に行う意地悪の下で、左之はいつだって見返りというものを求めない愛情を彼
に持っていた。克浩はそれを見ることができた。それだけが彼を現実につなぎ止
めていた。

ー*ー

'あいつは隊長の色小姓'
あのことが起った以前から、克浩に纏わるそんな噂が隊内で囁かれていたのを彼
は後になって知った。左之はそれを誰かから吹き込まれたらしい。どうもそれは
嘘らしいと克浩の態度でわかったものの、そのときついでに聞いた実践をついつ
い試してしまったらしい。ろくでもないやつに教育されるとろくでもないことを
しでかすというわけだ。彼に自分が覚えたことを教えてやろうという気もあった。
言っておくが、左之に悪気はなかった。悪気がないから許されると言うわけでも
ないのだが。

克浩は隊長についていろいろと思い当たることがあった。それまであまり気にと
めなかったのだが。だが冷静になって考えてみると確かに妙だ。今まで、無意識
にそのことを考えるのを避けていただけなのだろう。そもそも隊長とそういうこ
とを結び付けることが、克浩にはできなかった。彼は克浩にとって、神だったの
だから。

何か隊長が出張で、あまり急ぎや重要でない用事で出掛けるときは、彼はしばし
ば克浩を伴った。左之はそのことでよくぶつくさ言っていたものだ。その用事が
終わり、自由時間ができると、彼は他の随行している隊員に時間まで好きに遊ん
でいるように告げ、彼はよく克浩をつれて水茶屋へ出掛けた。
'左之には内緒だよ。'
そう言って彼は山ほど甘い物を注文しては克浩に食べさせた。彼はそういったも
のをほとんど食べない。その後でもし人目がなかったら彼は克浩を膝の上にのせ
ては、抱きしめて頭を撫でた。
'私はお前が可愛いんだ。'
その言葉を、克浩は有頂天になって聞いた。自分の親に可愛がられた事のない克
浩は、そう言われて舞い上がった。隊長を愛していた。彼のためならなんでもし
ようと思った。ー確かにその言葉は嘘ではないのだが、克浩の想像できない意味
合いが、確かにそれに込められていた。だがそれを理解するには彼は幼すぎた。

あるとき、隊長は茶屋でいつもの通りそうやって克浩に食べさせてから、茶屋の
女を捕まえて、二階の部屋を借りたいと言い出した。
'この子をちょっと休ませたいんだ。長旅で疲れているのでね。'
克浩は少し不思議に思ったが何も言わなかった。彼にとって、隊長の言う事、す
る事、すべては絶対だった。'隊長は俺を気遣ってくれているのだ。'克浩は単純
にそう思った。そして部屋に案内されて二人きりになると、隊長は彼を膝に抱い
た。微笑んで彼を見、克浩も笑いながら隊長を見返した。
'何か、口についているよ。'
彼はそう言うとすばやく克浩の顔を両手で包み、自分の顔を寄せ、克浩の唇を自
分の口で覆って舐めた。一瞬だった。
'甘い。'
彼は唇を離し、ショックを受け呆然としている克浩を見つめ、優しく微笑んでそ
う言った。克浩は恐ろしく行儀の良い子供である。どんなにお腹が空いていても、
食べ物をがつがつ食らうようなまねは決してしない。彼が何かを顔につけている
という事などは、決して無いことだった。

結局そのとき、何か緊急のことが起ったため、丁度、誰かが隊長を捜しに来てそ
のまますぐ出発してしまったのだが。しかし隊長が克浩を茶屋の二階へ連れ込ん
だという話は、下碑た尾鰭をつけて隊内中に広まった。それからすぐに、あのこ
とが起ったのだ。

ー*ー

・・・それから十年後。克浩は自分の部屋で書き物をしていた手を休めながら、
すぐそこに座り込んでいる左之を見た。重箱の弁当と酒をすごいいきおいで食ら
っている。彼は部屋に入ってくるなり、'お、いいもんがあるじゃねえか。'と、
版元から克浩への差入のそれらに飛び付いたのだった。恐ろしいほどの速さで平
らげていく。克浩の分を残しておこうという気は、先から無いらしい。
'そういえば昔、こいつに食事の総菜を取り上げられたことがあったよな。'
克浩はため息をついた。
'食物は取り上げる、口で敵わないと見ると腕力に訴える。考えてみれば昔から
俺はこいつにいいようにされてきたよな、全く。で、今は訪ねてくれば、腹減っ
た、酒ねえか、金貸してくれよ、ときたもんだ。'
「食った、食った。」
左之はご機嫌であぐらを解くと、脚を前に投げ出して手を後ろについた。よくみ
ると、重箱の中に克浩の好きな蝦だけが手付かずのまま残してある。克浩は、ふ
と昔のことを思い出した。

あの赤報隊時代、ある隊員が何かで怒って克浩を責めた。ほとんど八つ当たりと
言っていいほど理不尽なことで、そいつは克浩を殴ろうと手を出したしたのだ。
そのとき左之がなかに割って入って克浩を庇い、左之が彼の変わりに張り飛ばさ
れた。
'克浩は悪くねえだろう!'
恐ろしい勢いで殴られたのにもかかわらず、左之はすぐに立ち上がってその男を
真っ直ぐ見上げた。そして全くひるまずに、その小さな背中に克浩を庇ったのだ。
その剣幕に、相手の男は何も言えなくなった。克浩は左之に庇われながら、その
背中を広いと思った。彼のなりはまだ小さな子供でも、中身はすでにいっぱしの
男だった。克浩は人を守る強さに、時として年齢は関係ないのだと知った。

'まあ、いいさ、左之。'
克浩は穏やかな気持で考えた。
'いいさ、お前、お前だけが俺を生きることにつなぎ止めてきてくれたのだから。
俺は時々、生きていることが現実だとは思えなくなることがあるんだよ。お前と
いると、見るもの触れるものが現実味を帯びることができた。何かに関わること
を自分の中に見つけ出すことができた。俺はお前の知らないところでいつもお前
に助けられてきた。....俺はお前にいえないような、もっとひどい目にもあってき
たんだよ、左之。'

「なんでえ、いきなり笑ったりして。」
左之が不審そうに克浩を見る。
「いや、お前って、昔からよく食うよな。」
「昨日から何も食ってねえんだよ.」
「いきなり大量に掻き込むと、体に毒だぞ.」
克浩は、笑った。

だが、次に左之が彼に抱きついて、胸元に顔を甘えるように擦り付けると、彼の
顔色が変った。
「なー、克浩、やらせろよ。」
そのまま左之が克浩を床に押し倒す。
「体に悪いんなら、食後の運動しなきゃだめだろ。」
彼は机の上の文鎮を手探りでとると、左之の頭を、がっこん、と言う音で思い切
り殴った。
「ってえなあ、ちくしょう。」
「いてえじゃない!なにすんだよ、お前!」
体を起して頭をさする左之を見ながら彼はムスッとした顔で服装を直した。
' 前言撤回 ! ムカつくこいつ ! '

もうすぐ、夏が来ようとしている。その年始めての強く激しい午後の日差しが外
を覆っていた。その激しい暖かさは、閉じられて夏でもひやりとすることのある
克浩の部屋にも忍び込み、彼はその温もりを感じることができた。




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