リレー小説 虜囚(仮)
「そういえば、あの餓鬼は息災か。何と云ったか―――失敗したザンギリ頭が、向かい風に
逆立ったみたいな、そう、相楽左之助」
 長屋の床下に、穴を掘って隠してある炸裂弾が、一度に爆ぜても、これほど驚かなかったに
違いない。津南はその一言で、弾かれたように顔を上げた。目前にかがみこんだ、、数寸と離
れていない相手の顔を睨みつける。
 その手は卓の下で震えていた。
「そう睨むなよ。別の蔓をたぐっていたら、ぶつかったんだ。お前のせいじゃあない」
「………勝手に先回りをするな」
「何しろ、あの騒ぎだろう。私室を焼かれたお偉いさんが怒っちまってな。どうしても、犯人
を差し出さなきゃあならないんで、こっちも弱ってるんだ。五体満足で返ってくるとは思えん
し」
「先回りをするなといったら!」
「いろいろと後のこともあるし、叩いても壊れそうにないのを送っておこうと思ってな」
 座らされていた椅子から、激昂して立ち上がった津南には目もくれず、手元の紙束をめくった。
「身内はなし…か。いいだろう」
「よくはない!あれをやったのは、一人だ。俺一人でやった」
「一人でか?」
「一人でだ」
「馬鹿を云うな。警視庁は人数まではもみ消せんよ」
「だから…!」
「だから、二人のうち頭株を差し出せば、けりがつくようにしてやった。人の苦労を、無にする
なよ」
「それがどうして、俺じゃないんだ!」
「どうしてあの餓鬼でわるいんだ?」
 津南は呆れて再び椅子に坐り込んだ。
 先刻から、のらりくらりと矛先をかわされている。内務省爆破の件で、とも匂わさず、津南を
分署の取調室に連れ込んでから、だいぶ時が経っていた。
 こうなることを覚悟していたのに、相手は手袋の手を振って、腕をふるいたそうな同僚を追い
出してしまった。本来なら、とうに縄で括って天井から吊り下げられ、縄目に十手を突っ込んで、
捻じ上げられでもしている筈だ。一向に話を急がず、かえって核心をはぐらかすのが不気味だっ
た。
(………藤田、とか云ったな…)
 長身の、見上げるような体躯をしている。きびしい削げた顔つきの、細めた目が針のように光る
のはたった今気づいた。取調べ中だというのに、津南にまったく背を向けて、何やらしきりに制服
の隠しを探っている。
 その佩刀は日本刀だった。
「あっ…!」
「何だ?」
 まだ珍しい、見慣れぬ西洋の紙巻煙草を口にくわえ、貧乏人はつかえぬ燐寸で、堂々と火を付け
ながら振り返った。勤務中の、警官の警察署内での喫煙はむろんのこと、ふだんの贅沢すらきびしく
いましめられている、筈だった。
「何だ?」
 津南は落ち着かなくなった。                               
                                                       作:しえ


…この後をご自由にお続け下さい(^O^)。
 


苛つき、不安をかき立てられている克浩を見て、斎藤は満足そうに目を細めた。
相楽左之助は緋村剣心がとっくの昔に引き取っていってしまっている。緋村には
そんなことは恐ろしく簡単だ。彼がその気になれば、政府の要人達をゆすること
だってできる筈だった。そのために彼は暗殺を恐れて十年前、流浪の旅にでたと
いう、噂がある。そして今再び東京に姿を現して腰を落ち着けたのは、その暗殺
の危険が少なくなったためだろうと言われた。この争乱が治まった世の中で、暗
殺が失敗した場合、それを揉み消すのは難いことになる。特に彼以上の剣客は、
そうそういるものではない。もし暗殺が失敗し、緋村が刺客の暗幕だけでなく、
彼の仲間を道づれにしたりしたらその暗幕は周りによって政治生命を絶たれるこ
とになるだろう。
緋村に喜んで貸しをつくりたがる連中が、政府内に山ほどいるのだ。

月岡殿はどうした、と迫る緋村に、斎藤はかたちだけでも取り調べを行わなけれ
ばいけないと説明した。
'いくらお偉方の命令でも、すべてを強引に終わらせた挙げ句、後々しこりを残
すのもまずかろう。揉み消すにも段階というものがある。'
何食わぬ顔をしてそう言い放つ斎藤を信用せぬ目で見つめながら、彼をにらみ付
けて緋村は食い下がった。
'取り調べといいながら、月岡殿の身に何かがあったら、拙者ただでは済ませぬ。'
'心配するな、俺がやつの取り調べを行い、他のものは近づけないようにする。
三日以内には身柄を返すと約束する。それでいいな?'
渋々ながら、緋村はそれで引き下がった。
最近、裏の世界で目だった動きはなく、斎藤が何かに駆り出されることは当分な
さそうだ。何かあったところで、息のかかった部下に言い含めて見張りをさせれ
ばそれで済む。

'さて。'

斎藤は煙草を深く吸い込むと、ゆっくりとそれを吐き出した。

'面白いものが手元に転がり込んできたものだ。'

斎藤の顔に、酷薄そうな笑みが浮かんだ。
第2走者 緋向子様
第3走者 しえ
 眉間の皺は、先刻の暗闘のなごりだった。日に透ける赤毛の下の、おだやかそうな童顔に
不機嫌の痕をきざんで、剣心は歩いていった。
 元、最強の維新志士、人斬り―――それはこんなかたちで、自分以外の人間の手足を縛る
こともある。苦い思いで、煙と一緒に吐き出された言葉を反芻した。正しくて、とりつくしますら
なかった。
(お前があんまり執着すると、あやしまれるぞ。抜刀斎が動いたからには、何かよほどのことが
あの絵師にはあるらしい。………一口割り込めないものか、とな)
(拙者は月岡殿に責がある。左之同様―――)
(神仏にでもなったつもりか。抱えきれない弱みなら、これ以上は増やすなよ。あの絵師を、押え
ておけば……なんぞと他の奴らに思わせて、災厄を引きこむならお前のせいだ)
(守るのだろうな。斎藤)
(仕事はな。………)
「…さてもお堅い血みどろ絵師、言い寄る仕事を振りぬいて、月岡津南、責め絵は上ぐれど、
秘戯絵は描かず―――だったな」
「あ…?」
 これもうつむいて、膨れて歩いていた左之助が顔を上げる。
「その津南の、秘戯絵が見られるやも知れぬ」
「克が、何……」
「知らぬよ。飯でも食いに行こう」
 剣心は苦くつぶやいた。

斎藤は無言で立ち上がり、机の引き出しから銀色に光る金属性の何かを取り出した。二つ
の筒上のものが、短い鎖でつながれている。克浩は椅子に座ったまま、不安を押し隠した
顔で斎藤を見つめた。その金属を手でじゃらつかせながら、斎藤は彼に近づいた。克浩は
椅子に座ったまま、反射的に身を後ろに引いた。その少し脅えた彼の目を見つめながら、
斎藤は満足そうに目を細めて笑った。

しなやかにすばやい動きで斎藤は彼の右腕を力強くつかみ、その金属を彼の手首にはめた。
その金具が閉まる金属音が、不気味に克浩の耳に響いた。
「何をする気だ。」
血の気が引いた顔で克浩は叫び、斎藤から逃れようと立ち上がりかけた。だが斎藤の動きの
方がすばやく、もう片方を彼の左手首にもはめてしまった。斎藤に押されて、彼は再び倒れる
ようにして椅子に座った。金属の固く、冷たい感触が彼の肌に不快だった。彼は硬直したよう
に斎藤を見つめた。斎藤は克浩から離れると、再び机の引き出しを開けた。最初、克浩は斎
藤がそこから取り出したものが何であるかわからなかった。黒い革の握りのついた細長いもの。
長さは二尺足らずぐらいだろうか。斎藤はそれを手にとり、その先端をちょっと見つめると、2、3
度軽くそれを振った。その動きに合わせて、それはしなやかに撓む。乗馬用の鞭だった。斎藤は
克浩が目に入っていないかのように見える。得たいの知れない恐怖感が克浩を包んだ。じわじわ
と、軽く締め付けられるような・・・斎藤は鞭をもった手を下ろすと、皮肉っぽい笑みを顔に浮かべ
て克浩を見下ろした。鞭の先端を克浩の顎にあて、軽く撫でる。克浩は凍り付いたように動くこと
ができない。その先端が彼の髪を少しばかり引き掛け、上げると彼を離れた。髪が柔らかく彼の
肩に落ちる。
「このゲームのルールを説明する。」
斎藤は言った。
「お前は命令されない限り喋る事を許されない。そしてお前が答えていいのは、"はい"か"いいえ"
だけだ。それ以外、どんな声もその口から出すな。」
「いったいなんで・・・」
そう言いかけた克浩の顎へ、斎藤の鞭がすばやく皮一枚触れるぐらいにとんだ。動きに合わせ
て克浩の顔も左に向けられ、鋭い痛みに彼は手で顔を抑えた。驚愕に見開いた目で斎藤を見
上げる。
「ゲームはもう始まっている。次はこんなものでは済まない。」
斎藤は具合いを確かめるかのように、自分の右の手のひらに鞭を軽く何回かあてた。
「床の上に、跪け。」
斎藤は命令した。しかし克浩は動かない。鞭が今度は容赦のないやり方で克浩の胸にとんだ。
着物を通してさえ、それは激しい痛みだった。
「今回だけは、もう一度言ってやる。跪け。」
克浩は立ち上がると、斎藤の前へ跪いた。斎藤は鞭の黒い皮の握りの部分を克浩の顎にあて
ると、それを上へ押し上げて自分の方へ顔を向かせた。
「怖いか。」
斎藤が聞いた。怜悧な声だった。彼はなんの感情も現さない。
「いいえ。」
克浩は囁くように答え、屈辱に顔が歪んだ。斎藤は満足そうにうなずいた。
「それでいい。覚えておけ、お前はここでは、ただの玩具の木偶人形なんだよ。人形に余計な
感情などはない。意志もない。プログラミングされた言葉以外喋ることもない。」
克浩は、呆然としてその言葉を聞いた。
「床に横たわれ。」
克浩が躊躇すると、斎藤の鞭が、彼の手にとんだ。
「さっさと言われた通りにしろ、この木偶人形が。」
克浩は黙って床に横たわった。手の自由を奪われているので、からだのバランスがとりにく
かった。腰を足の間に落し、上体を後ろに倒すと足をのばした。髪が床に広がり、彼は天井
を見つめた。床にあたる背中が冷たかった。斎藤は彼の傍に跪き、彼の着物の帯を解いた。
彼は緊張に身を固くした。

斎藤の頭が彼に下ろされ、彼の物を斎藤の唇が捕らえたとき、克浩は呆然として目を見開い
た。暖かく濡れた内部に飲み込まれ、蠢き、まとわりつかれるような動きに彼は切なく息を吐
いた。そしてすぐに斎藤が彼から口を引き抜いたとき、快感とそれをやめられた不満に、彼は
呻き声を隠すことができなかった。すぐさま、斎藤の鞭が彼の内股にとんだ。その痛みと敏感
な部分に近い場所を叩かれた恐怖で、彼は軽く悲鳴をあげた。痺れるような痛みが疼くように
続く。
「人形の分際で、声を立てるなと言ったろうが。」
斎藤は立ち上がって、彼を見下ろした。
「立て。」
克浩は、少しよろめきながら立ち上がった。彼の虚勢は、その顔から影をひそめつつあった。
彼は、自分の感情が麻痺し斎藤に支配されていくのを、ぼんやりと感じ取った。斎藤と言う
暴力的な支配者の前で、彼は無力だった。


第4走者 緋向子様


斎藤は克浩の右腕をつかむと荒々しく引っ張り、もう片方の手で首を後ろからつかむと彼
を仰向けに机の上に押し付けた。膝は曲げられ床へ向かって垂直に下がっている。克浩
の心臓が不安に高鳴った。斎藤は動く様子がない。克浩は恐る恐る斎藤を見た。斎藤は
立ったまま、じっと克浩を見ている。相変わらず、感情の読めない顔だ。克浩が動いたこと
に、斎藤は反応しなかった。その様子は何かをためらっているように見える。しかし何を?克
浩を服従させ、この場をコントロールしているのは彼なのだ。どんなことをやろうとしてるにし
ろ、何を躊躇することがあるだろう。

斎藤の手が克浩の顔にのばされた。ゆっくりと、触れるか触れないかという距離で彼の髪を
払うと、中指と薬指が克浩の唇に触れる。薬指が彼の下唇の付け根にに置かれ、中指が
そっと彼の口のなかに進入してゆき、引き抜かれると彼の唇を優しく撫で回した。克浩は
身を固くした。彼は、何をするつもりでいるのだ?
斎藤の顔が克浩の方へ近づいてくる。克浩は彼の顔を見た。彼の顔からあの傲慢さが払拭
されている。斎藤はためらいがちに両手で克浩の顔を撫でると、唇を近づける。克浩は理解
した。この男、この克浩の生殺与奪さえ握っている男が、彼に口づけたくてためらっている。
年端の行かぬ少年のように、そうするのを恐れている。 克浩は誘うように唇を開いた。

斎藤は身を引くと、制服の上着から小さな銀色の鍵を取り出した。彼の手首の縛めを解く。
それを彼の脇へ退け、彼の体を起こすと、ゆっくりと克浩の方へ顔を近づける。斎藤の手に
導かれ克浩は腕を彼の首に回し、両脚を斎藤の腰に絡ませた。斎藤は唇が触れるか触れ
ないかという距離で、一寸、ためらい、それから思いきったように荒々しく唇をつけた。すぐに
舌が彼の唇を探り、克浩は唇を開いてそれを受け入れた。斎藤の唇も舌も熱いほどだった。
克浩は意外に思った。この男は、恐ろしく体温が低い生き物のような気がしていた。克浩の
頭と背中に斎藤の手が回され、しっかりと彼の体に押し付けられた。その躯がとても暖かっ
た。克浩は始めてこの部屋が薄ら寒いのに気が付いた。斎藤の手が胸に差し込まれ、肌の
上をまさぐった。手が克浩の脚の間に差し込まれ、斎藤の唇が克浩から離れると、克浩は
かすかな声をため息と共にだした。

斎藤の手が克浩の腕をつかみ、激しいいきおいで机の上にうつぶせにされた。克浩はいき
なりのことに驚いて抵抗した。腕を捩じ上げられ、後ろ手に再び枷をかけられる。熱くなった
体にその金属は冷たかった。胃に机の縁が当たって少し痛む。斎藤の鞭が空気を切り裂く
音がし、克浩は臀部に熱いような痛みを感じた。思わず、小さな叫び声をあげる。
「もう少し、お前をしつける必要があるようだな。」
斎藤の面白がるような、冷酷な声が響いた。
「自分が何なのか忘れたようだな。お前は玩具にされる木偶人形なんだろう?」
「いいえ。」
克浩は抑揚のない声で答えた。斎藤に服従するのがいやだった。再び空気を切り裂くよう
な音がした。今度はそれが何度も繰り返された。克浩は唇を噛み、やっとの想いで呻き声を
殺した。
「答えろ、お前は、なんだ?」
「俺は、絵師だ。」
斎藤は克浩の髪をつかんでぐいと後ろに引っ張ると、耳元で囁いた。
「どうやらお前は、その体に自分が何者かを教え込まれる必要があるらしい。」
斎藤の忍び笑いが、克浩の耳に響いた。その意味合いに、克浩はぞっとした。
 下肢をいっぱいに広げられ、押し入ってくるものの圧迫感と痛みに、津南は何度もえづ
きあげ、目尻にうすく涙を滲ませている。
 嫌悪感で顔が引きつり、逃れようと相手の腕にむなしく何度も爪を立て、そのたびに
不自由な両手を、鎖ごと思いきり捻りあげられた。
「…っう!…う…」
「やかましい」
 追い打ちのように鞭が飛ぶ。
「人形が、わめくな」
 もとより、口には丸めた手拭いを押し込まれて、津南はうめくよりほかに出来なかった。
その上をほどいた帯で覆って、完全に舌を噛まれるのを防いでいる。呼吸すらままならず、
全身で打ちあげられた魚のように大きく喘いだ。その動きをも、圧殺しようとするかのように、
いっそう重みがのしかかった。さらに手が回ってきて、髪を掴む。机と斎藤の間で、津南は
ひらたくなっている。
 立たされて、さんざんに打ち据えられ、ぐらりとのめったところを机にうつ伏せにさせられて、
それから、いきなり侵入が始まったのだった。
「…ぐ……う…」
 慣らしもせず、油薬もつかわずに、自分を割り込ませようとはかる。
「ゆるめろ。人形」
「………………」
「はい、はどうした。返事をしろと云ったろうが」
 ここで、と云わんばかりに掴んだ腰を揺すぶった。悲鳴は声にならなかった。
「つまらんな。外して遣るか」
「………………」
「そろそろ鳴きようを覚えさすか。客が来ることでもあるし」
 独り言のように云った。
「苦しいか。―――息が」
 身を添わせるようにして、覆いかぶさり、耳に口を近づけた。その間も、間断なく無慈悲な
こじ開けは続いている。小さい病んだ猫のような、こまかな顫えを全身で確かめて、斎藤は
満足げだった。
 堅い机の表面に、半面押しつけるようにして津南は死に体でいる。その背中へ、手を伸ば
して吸いさしの煙草をとり、長くなっていた灰を、弾いて落とす。
「!」 
 一瞬の熱さにびくっとするのを、目を細めて味わった。次に背中を触れられて、津南はい
っそう怯えて大きく跳ねる。
「馬鹿」
 短く嗤う声がした。
「阿呆」
 唇で触れたのだ、と知って、津南はなぜか真っ赤になった。
第5走者 しえ

いつのまにか、気を失ったらしかった。少しずつ、ぼんやりと眼が覚めてくる。克浩は、床の
上に転がっていた。部屋には、誰かがいる気配はない。躯にも精神(こころ)にも、淀んだよう
な疲労がたまっていた。鎖でつながれている、両手首が疼くように痛んだ。暴れたときに、その
金属が食い込んで傷付けたらしい。克浩は、身を起す気力すらなかった。頭がぼんやりとして、
うまく働かない。克浩は力無く、眼が覚めた後も動かずにずっとそこへ横たわっていた。

誰かがやってくる足跡が、だんだん克浩のいる方へ近づいてくる。一人だけの、軽い、しなやか
な足取りの足音だ。その足音は彼のいる部屋の前で止ると、鍵を開け、戸を開ける重々しい音
が開いた。ー克浩は、そちらの方を見ようともしなかった。なんだか、すべてがどうでもよかった。
斎藤によって与えられた恐怖、屈辱、苦痛、快楽、それら諸々の強烈なストレスが克浩の精神
を侵食し、ダウンさせた。彼は変りつつあった。斎藤がいう、木偶人形に。彼の頭は、働こうとは
せず、体にうまく力が入らない。斎藤という存在が彼を支配し、服従させていく。彼の魂を捕らえ、
弄ぶ。克浩はすでに抵抗することができない。自分を失い、何かに身をまかせることしか彼は
できない。それが快楽となって、彼の魂を犯していく。どんなことよりも、いまはそれが心地好かっ
た。彼のあの気位の高さはもはやそれに打ち勝つことができなかった。それが高かった分の反
動を伴って、彼はより完璧な木偶人形へと造り上げられた。

斎藤が部屋に入ってくると、彼はそちらの方を見た。斎藤は冷ややかな笑みをその顔に浮か
べ、克浩の傍に体を落すと彼の腕をとって命令した。
「立て。」
斎藤に引っ張られながら、彼は素直にそれにしたがった。そのまま斎藤は彼の右腕をつかんだ
まま、長い通路を、彼を引っ張っていった。途中、何人かの警官がすれ違い、彼らを好奇心を
剥き出しにして眺めた。しかし克浩はそれに気も止めない。虚ろな顔で、ただ斎藤に腕を取ら
れて歩いていった。

外に、馬車が待っていた。どこぞのお大尽が乗るような、立派な造りのものだった。斎藤は黙っ
て克浩をその中に押し込み、自分もその隣りに座った。何もいわないで、御者が馬を走らせ始
める。
'どこへ、つれていかれるのだろう。'
克浩はぼんやりした頭でそう、思ったが、深く考えようとはしなかった。
揺れる馬車の中で、斎藤は克浩の肩に手を回した。彼は黙って斎藤にもたれ掛かり、振動の
揺れるまま、体をそのリズムにまかせていた。斎藤の体温が気持よかった。斎藤は煙草の匂い
の他に、麝香のような良い香りがした。制服に香でも焚いているのだろうか?
「気分は、どうだ?」
斎藤が聞いた。克浩は斎藤の顔を見た。
「大丈夫だ。悪くない。」
彼はそう答え、斎藤は満足そうにうなずいた。馬車が吉原の門で止り、それをくぐっても、克浩は
何も考えようとしなかった。ただ斎藤に体を投げ出していた。

馬車が止り、克浩は下ろされると、その建物の中へつれていかれた。斎藤から、五十がらみの
品のいい女に受け渡される。たぶん、そこの遊郭の遣り手婆なのだろう。斎藤はそのまま何も
言わないで姿を消した。その女は気品の中にも、どこか抜け目の無さをひそめているような女
だった。そしてその老いた顔の中に、かつての美貌の名残を見ることができた。すらりとした骨
格と無駄のない洗練された身のこなしは、今でも人目を引くたぐいのものだった。

克浩は軽い食事を与えられ、湯殿で身を清められた。女は大切なものでも扱うような手つきで
すべてを行った。顔色一つ変えないで克浩を裸にし、体を洗った。女は微笑みを浮かべ、感じ
の良い態度を始終崩さなかったが、余計なことは言わなかった。これは彼女の、ビジネス用の
態度なのだろう。克浩は何も言わず、彼女になされるがままにしていた。

彼は、鏡台の前に座らせられた。女が彼の後ろから、一緒になって鏡を覗く。女の右手の指が
克浩の顎にあてられた。なにか商品を扱うような、感情のこもらせない手つきだった。
「綺麗な肌やなあ。こんなのは、女でも百人に一人といないよって。」
克浩の肌は白く、独特のぬめるような光沢が、特に喉から胸に向かってある。
「白粉も紅も、塗ってしまうなんてもったいなくてできへん。」
克浩の唇は、紅とはまた違った紅い色をしている。女は次に髪を梳いて結ってみようとしたが、
ただの洗い髪にさせるように決めたようだった。迷った挙げ句、目尻に少しだけ紅い色を入れる。
最後に、何も身につけない上に薄手の女物の紅い襦袢を一枚だけ着せた。できあがった克浩
を見て、女は微笑んだ。
'うちにまかせてくらはって、ここで客をとるなら一財産つくらせてみせるんやがなあ。'
女は残念そうに、心の中で呟いた。

女に案内されて、寝室へとつれていかれた。寝具も調度品も、ひとつ残らずすべて洗練された
上等なものが置いてある。そのなかの幾つかは、あきらかに金だけでは手に入らないたぐいの
ものだった。斎藤が制服を脱いで、くつろいだ着流姿で待っていた。酒をのみ始めている。克
浩を見て、満足そうに眼を細めた。
「座れよ。」
斎藤は言った。克浩はそれにしたがって、斎藤の前に腰を下ろした。感情のない眼でじっと、斎
藤を見つめる。斎藤は笑うと酒の杯を置き、縄を手に立ち上がった。克浩の後ろにまわり、彼の
腕を手が片方の肘にまわるように固定し、縛った。縄を胸の方にもまわす。縛り終えると、彼を引っ
張って、夜具の上にそっと、寝かせた。座って、再び酒に手を伸ばす。
克浩は斎藤を見た。
「これから来客がある。」
斎藤は酒を手酌でつぎながら、克浩の方を見もしないでいった。
第6走者 緋向子様

剣心は、とある場所から神谷道場への帰り道だった。今言われてきたことが頭を離れない。
"悪いことは言わない。この件には、関わらないほうがいい。私も、何があろうと、手を出せな
いんだ。わけは言えない。すまない、緋村君。"



「おつれの方が、お見えになりました。」
襖越しの女の声に、斎藤は立ち上がった。相手を向かえるために、戸口へ踏み出す。
「お通ししてくれ。」
襖が音もなく開けられた。
その入ってきた男を見て、克浩は目を見開き、動けなくなった。克浩は彼を、新聞の写真で
見たことが幾度となくある。
'ただの似ている他人なのか?'
だが、斎藤の言う言葉に、克浩は硬直した。
「待ちくたびれましたよ、大久保さん。」
「待たせてすまない、斎藤君。一寸、いろいろ長引いてしまったのでね。」
背の高い、痩せた男だった。穏やかで優しげな容貌をしている。しかしどこか感じさせる威圧
感は、一目で彼がただ者ではないことを物語っている。写真で見る洋装ではなく、着流の着
物姿である。

大久保利通。政界の大物。この国で、トップの権力を握る男だった。克浩は理解した。この豪
奢な場所は、金を出したところで一介の人物が使える場所ではない。ショックで、克浩は少し
自分を取り戻した。正気に戻る。いったい、斎藤は俺をどうするつもりなのだ?こんな格好をさせ
て、俺をこの男に献上するつもりでもいるのか?克浩は先ほど湯殿で体の中まで洗浄されたこ
とを思い出し、蒼くなった。

斎藤は大久保卿と座り込み、二人で酒を飲み始めた。大久保卿が、克浩に視線を向ける。楽
しんでいるような目付きだ。克浩は憎悪に燃えた眼差しで彼を見返した。彼が憎む明治政府の
最高権力者....。
「彼が、話にあった男かね。」
「そうです。煮て食おうと、焼いて食おうと、自由です。何があっても、取り調べ中の事故で済む。
独房で自殺したとでも言っておけばいい。」
斎藤は、声を立てて笑った。克浩はその言葉にぞっとした。こいつらは、俺に何をするつもりな
のだ?克浩は反射的に縛り上げられている腕を解こうともがいた。大久保卿は、立ち上がって、
克浩に近づいた。座り込み、克浩の顎に手をあてて、彼の方を向かせる。目を細めて、克浩を
見た。
「反抗的な目付きだな。素晴らしいよ。理想的だ。」
大久保卿の目が輝いている。斎藤は布を無理やり克浩の口に押し込み、猿轡を噛ませた。克
浩は抵抗したが、簡単に縛られてしまう。
「悲鳴が聞けないのは残念だが....舌を噛まれるとつまらないのでね。」
斎藤が言った。克浩は妙なことに気が付いた。斎藤は大久保卿に敬意は払っているものの、
下手にでることはしない。一介の警官が、政界の大物と対等な態度をとっている。大久保卿も、
それを当然のように受け止めている。ー斎藤は彼の顎を、片手でつかんで覗き込んだ。
「悔しいか?お前が憎んでいる相手に、いいようにされるんだからなあ。」
克浩の目が憎悪に燃えた。斎藤は、目を細めて笑った。
「いつまでその強がりがもつかな。敗残者の生き残りが。」
克浩は、怒りに呻いて身をくねらせた。その彼の顔を、斎藤が張り飛ばす。克浩の体が飛ばさ
れ、仰向けに倒れ込む。
「物わかりの悪い奴だな。お前は玩具なんだって、教えたばかりだろう。」
斎藤が揶揄するような口調で言った。斎藤が克浩の下肢に座り込んだ。襦袢の裾が斎藤に割
られる。大久保卿が身をかがめ、克浩の腿に右手をあてた。ゆっくり
と、なで上げる。なにか、店先で品物でも見定めているような目付きで克浩を見ている。
「滑らかな肌をしているな。貴人の女みたいに白い。さぞかし、ふるいがいがあるだろう。」
大久保卿が、感慨深げに言った。
「悪くはないものだと言った筈だ。」
「悪くないどころか、恐ろしく上物だ。君の審美眼は、相変わらず素晴らしい。」
大久保卿の手が、克浩の胸元に差し込まれ、撫でまわされた。胸元が広げられる。
「見たまえ、肌にしみひとつない。さきほど高鶴が絶賛していたよ。」
高鶴?先ほど俺の世話をしたあの女だろうか?克浩は思った。克浩の手首に、手枷によってつ
けられた無惨な傷を見ても表情を変えない、あの他人に仕えることを訓練された女の物腰を
思い出した。

斎藤が克浩の体をつかみ、うつぶせにさせた。大久保卿がそれを手伝う。斎藤が克浩の膝
を、自分の膝で体重をかけて押さえ込んだ。克浩の着ている襦袢の裾が捲られ、腰の上ま
であげられた。逃れようとして暴れる克浩の動きが、逆にそれをやりやすくした。克浩の腰が
斎藤の手で押さえ付けられた。彼の下半身が探られる。何か固いものがそこにあてられ、少し
の間入り口を探られると、一気に貫かれた。克浩はショックと異物が進入してくる不快感に呻
いた。しかし、痛くはない。何か、固くて細長いものでそんなに太さはない物だった。斎藤が
体をどかし、克浩の頭の方へまわると彼の肩を押さえ付けた。克浩は顔をあげ、斎藤を睨ん
だ。斎藤は、冷徹な笑みをその顔に浮かべている。克浩の後ろで、聞き覚えのある音が何回
かした。鞭を、手のひらに軽く叩いてみる音だ。彼はあの取調室で、斎藤がそうするのを何度
も聞いた。克浩の顔から、血の気が引いた。ー空気が切られる音がして、克浩は熱いような痛
みを臀部に感じた。目を一瞬大きく見開き、固く閉じて苦痛に耐える。すぐに再び鞭がふるわ
れる。何回も繰り返され、克浩の目に涙がにじんだ。打ち据えられる度、張型らしきものが埋め
込まれた自分のところが収縮して締め付け、少し押し出されるのを感じた。斎藤は冷酷に克浩
を見下ろし、髪を引っ掴んで顔をあげさせ、自分の方を向かせた。
「苦しいか?」
斎藤が聞いた。克浩は涙ぐみながらもきつい目で斎藤を見返した。
「かわいそうにな。綺麗なお人形さんは口がきけない。苦しくても、声が上げられない。」
克浩がせめて抗議に体を動かそうと、身を震わした。自分の姿を見ることができない本人はわかっ
ていないのだが、それが彼を後ろから見ている大久保卿を刺激したらしかった。
「ああ、斎藤君、私はもう.....」
斎藤が大久保卿を見てうなずく。大久保卿は克浩から挿入されている物を一気に引き抜いた。
猿轡の奥で、くぐもった声が洩れる。それを放り出すと、大久保卿は克浩の腰を両手で引き上
げた。彼は肩と顔で自分の体を支えた。自分がどういう格好をさせられているか,そしてこれから
何をされるのか考えると、恥辱で死にたかった。斎藤のやることは的確だった。もし克浩が猿轡を
噛まされていなかったら、彼は舌を噛んでいただろう。彼は、彼が憎んでやまないものに凌辱され
ようとしているのだから。

克浩にそれがあてられ、徐々に進入され、浅い動きを
繰り返しながらだんだんと深く入れられていく。
「一寸、きついな。入りにくい。」
大久保卿が顔を少ししかめていった。
「素人だからな。」
斎藤が答える。
「おい、体の力を抜くよう、教えたろう。強情張っていて
も、お前が苦しくなるだけだぞ.本当にお前は物わか
りが悪いな、木偶人形。」
克浩は何も考えられなかった。痛みと、その異物の不
快感、そして屈辱に堪えた。本当に、死にたかった。

大久保卿が終わって離れると、克浩が息をつく間もな
く斎藤が彼を仰向けにした。もう、克浩は斎藤を見よう
とはしなかった。涙を堪えながら、黙って天井を見つめ
る。肉体の苦痛ではなく、自分の無力さに涙がでそう
だった。下肢を広げられ、斎藤が侵入してくる。大久保
卿がそれを黙ってみている。
「もう、おとなしくなったのか。つまらんな。」
斎藤は言い捨てると、克浩の首に手を伸ばした。克浩は恐怖に目を見開いた。だが、逃れることは
できない。克浩は頭を激しく振った。斎藤の冷たい両手が克浩の首に巻き付き、絞めた。一瞬、か
なり強く締め付け、弱める。それを繰り返した。克浩は目を見開き、口を開いた。脚を動かし、本能
的に逃れようと身をくねらす。
「どんな感じかね、斎藤君?」
大久保卿が尋ねる。斎藤は、快感に顔を歪ませている。
「絞める瞬間が、すごくいい。」

それが克浩が意識を失う前に聞いた、最後の言葉だった。

「赤報隊、だったのか」
 焦り、執拗に食い下がる剣心の前で、髯を左右に分けた軍服の男―――彼のことをいつも
気にかけてくれている、軍部の大物―――は放心したように、顔を片手で覆った。
「やってはいけない事を―――何てことを」
 それ以上、どうしても云おうとはしなかった。苦悩にゆがんだ、長めの慈顔の人が変わった
ような痛ましさを見て、剣心は立っていられないような焦燥を味わった。すまない、と頭を下げ
られた。土下座でもしかねまじき気配だった。純朴で、少しく威張り屋で、高官にふさわしく
誇り高いこの男が。
 剣心はのろのろと居酒屋の暖簾をくぐった。
 たちまちのうちに、今は遠すぎる感のある喧騒とあたたかさが、彼を包む。あの絵師もこれと
無縁のところに居るのだな、と思う。あれは、あの絵師は、放り出されて泣いているただの子供
だ。左之助と同じ、しかも左之助のように、大声で叫ぶすべすら知らない。
 飛天御剣流に出会うことがなかったら―――と、剣心は思うたびに、身うちの引き締まる思い
がする。それだから、自らの小船を見つけられぬ子供のことは、いてもたってもいられないのだ。
「さみしいねん。遊んでや」
 声がして、同時に見知らぬ若い男がどっかと前に腰を下ろした。卓に肘をついて、人なつこく
笑いかける。
「十字傷の旦那はん、久しゅう」
「………どこかで逢ったか?」
「あれ、つれないお人やなあ。髪ィ上げんでも、こないなええ男見たら一発で忘れんやろ。張や、
張。何や、不景気な面しとって、赤ッ毛のど頭に黴でも生えたんかい。まずそうに呑んどるんは、
酒に悪いで」
「失せろ」
「おお、怖。思うに、みんなあんたに騙されとるんや思うけどな。お手柔らかそうなお面をして、
中身はあの壬生狼の旦那とええ勝負や。阿呆らしい。嘆かわしい」
「………………」
「だんまりかと思えば、人を煮殺すような怖い目ェして、愛想たらいうもんがない。なんでこない
な奴等ばかり、別嬪さんをあつめるのや。天神さんの氏子かて、東京におるからご利益が来ん、
ちゅうのはない筈やが………」
 張が頭を振ると、色の薄い長髪がさらさらと肩にこぼれる。それを見ていた剣心は、ふと気づい
たように云った。
「お主は付いていなくて良いのか?」
「何を?」
「…だから、月岡殿の取調べに」
「誰や、その月岡って」
 張はきょとんとして、盗み酒の手を止めた。剣心の顔から血の気が引いていく。
「旦那は今お楽しみやで?」
(三日以内)
(三日たったら、必ず返す)
「何やら、最近捕まえた新しい玩具がえろう気に入りで。離さんのや。昼間から。わいも締め出さ
れとる」
 一ィ二ゥ三ィ、三時間も、と張は懐中時計の文字盤を数えた。
「…それは―――髪の長い―――」
「ああ、それや。そうそう、ちょいっと舐めてみたいような別嬪さんで、憶えとったんや。髪が長ご
うて―――あれに手ェ入れて、こう、遊んだら、さらさらとさぞかしええ気分やろ、思て―――ちょっ
かい出して、怒らせたら良さそうな玉やったけど、ほんならあれが、月岡津南やったんかいのう」
 感慨ぶかげに、思い出すような目つきをした。
「月岡津南云うたら、あれやろ、内務省に爆弾投げ込んだ。今ごろ昔の事件ほじくりかえして、引
っ張ってくるなんて、わいもおかしいと思うけどな。志々雄さんが死んで、お偉いさんも喉元過ぎ
りゃってんで、またぞろ冗談かます余裕もでけたというわけや。それにしちゃ、旦那にごねよる偉
いさんの名を聞かんけど―――まあ、枕絵でも描かせようって腹やないか、異人のご機嫌取りに。
 そういえば、旦那の態度はおかしかったで。その津南の、出頭してきたん見て、すーっと目ェ細
めよって、他の警部やら追っ払ってしまうし、わいは取調室に入れんし。扉に耳ィ当てたら、おもし
ろいもんが聞けるやろ、思てんけど、ばれたら七里結灰や。おっとろしい人やしのう」




 目の前に、柔らかい、生ぬるい空気の壁ができていて、津南はそれへ首を突き込むようにして、
前へ進む。立ち泳ぎをするように、幻の水をかきわけるようにして宙をさぐる。その目には、冷たい
冬の板張りの廊下が見えている。
 足はのろのろと、沼にとられてでもいるかのように云うことを聞かない。激しく痛むのは、きっと夢
の中の痛みがまだ残っているのだ。一刻も早く、このことを全部打ち明けてしまいたかった。早く楽
になりたかった。
(隊長―――隊長)
(怖い夢を見ました。………)
 もうすぐ、居室の襖から洩れる細い明かりが見えてくる。もうすぐ。追いかけてきた夢に、またして
も捕まってしまう前に。足が―――足が………
 開けた。
「ああ―――」
 いつものように、同じ位置に向こうを向いて、書きものをしている背中。津南は安堵に耐えきれず、
ひらいたままの敷居に茫と立ち尽くす。
「隊長―――怖い夢を……良かった………いなくなってしまわれて、俺も左之も、ひとりぼっちで、
………ずうっと、ひとりぼっちで―――良かった―――誰も助けてくれなかったんです」
 立ってくるのへ、心配させまいと、津南は微笑んでみせる。涙が滂沱とあふれてきて、頬の上を流
れ落ちて伝った。黒曜石を嵌めたような、昏い端正なまなざしが、そんな津南を凝っと見る。………


第7走者 しえ

克浩の脚がよろめいた。目の前の男が駆け寄ってそれを支える。克浩は彼に縋り付いた。
「助けて、隊長、怖い.....」
克浩の体から力が抜けた。男は冷静に彼の脈をとり、気を失っているだけなのだという事を
確認する。克浩の、手首のひどい傷跡に目をやった。胸や肩、裾からのぞく脚には斬られた
後のようなかたちの赤い痣が走り、首には絞められた形跡があった。男は顔色を変えず、克
浩の体を床に横たえさせた。
「高鶴、いるか?」
彼は隣室に声をかける。
「はい、失礼します、蒼紫様。」
襖が開けられ、先ほど克浩に身支度を整えさせた女が入ってくる。女は畳に横たわっている
克浩に目を止め驚いて、蒼紫を見た。
「誰だ?」蒼紫が女を見て言う。女は口をつぐんだ。
「隊長、左之....相楽隊長.....」
克浩がうわごとを呟いた。その名に蒼紫は反応する。
「これは、誰だ?」
もう一度蒼紫が女を見据えて聞いた。
「そのお方とかかわり合いになるのは危険でございます。蒼紫様。何かあれば、この私の首一
つで済むことではありません。」
「俺は、この男とすでに以前からのかかわり合いがある。高鶴、お前に迷惑はかけないと約束
する。」
女は目を伏せた。この高鶴という女、この楼閣の楼主であり、元は御庭番衆の配下にいた人
間である。しかし御庭番衆が消滅し、公的なかかわり合いが消えても彼女は蒼紫との関係を
絶つことはなかった。彼女は蒼紫にある恩を受け、一生、彼に仕えることを誓った身だった。
「このお方は、大久保利通卿のおつれ様でございます。名前は、私も存じません。」
蒼紫は克浩を見下ろした。目尻に化粧を施され、女物の襦袢で体を覆われていても、この青
年はどう見たって玄人には見えない。しかもこの様子では、同意の上でこんなまねをされたの
ではないだろう。
'下衆が。'
蒼紫は、心の中で呟いた。彼は観柳が行っていた、あの下碑た行為の数々を思い出した。



何かいい香りがかすかに、気持よい程度に充満していた。薬草のような。しかし、薬草のような
癖はなく、気持をゆっくり寛がせるような香りだった。克浩は心地好く、疲れが癒された気持で
目を覚ました。見慣れない部屋の風景が目にはいる。背の高い若い男が、窓辺に座ってこち
らを見ている。克浩は寛いだままぼんやりと彼を見た。
「気が、ついたか?」
克浩は黙っていた。思考がはっきりしない頭で、ぼんやりとこの人は隊長に似ている、と思っ
た。
「だれ....?」
克浩はやっとそれだけ言った。
「大丈夫か?自分が誰だか、わかるか?」
蒼紫が聞いた。
「俺は、克浩、月岡克浩。雅号は、月岡津南。」
蒼紫は納得した。彼の名は知っている。相楽左之助の友人だと言うことも。
「起きれるか?」
蒼紫が言った。
「ああ、大丈夫だ。」
克浩が答えて、ゆっくりと身を起す。
「階下に湯殿がある。気持を落ち着かせる効果がある湯だ。のんびり、つかってくるといい。」

克浩は浴衣を脱ぎながら、誰だろう、あの男は?と思い、次に自分がどのような目に会わされた
か、思い出した。躯に何か汚いものがまとわりついているようで気持悪かった。裸になった自分
の躯に視線をめぐらす。あちこち、痣や傷ができている。湯殿には、先ほどから感じている良い
匂いが強く充満していた。先ほどから感じているこれは、ここから来ているらしい。躯に湯をかけ
ると、至るところにできている傷たちにしみた。痛いが、思いきって、湯に漬かる。始めは苦しか
ったが、なれるとそうでもなくなった。かえって、気持が良かった。彼は体を伸ばすと、ぼんやりと
昨夜のことを考えた。何も感じなかった。まるで、夢でも見ていたように感じる。だが徐々にやっ
てくる神経の興奮が、彼の受けた心の痛みを物語っていた。怒りも、悲しみもわいてこない。し
かし、胸の中で何かが膨らみ、膨張していく感覚に、克浩は悩まされた。それは体の痛みよりも
苦しく、克浩を締め付けた。

湯からでると、新しい浴衣と傷薬が用意されていた。彼は薬を体に塗った。薬はまったく、しみ
なかった。浴衣を身につけ、庭に出る。何種類かの珍しい植物が、広い庭を埋め尽くしていた。
克浩はそれらを見たことがなかった。
「珍しい草だろう。」
その後ろからの声に、克浩は振り向いた。先ほどの男が、こちらにゆっくりと近づいてくる。
「湯船に入れられているものだ。シャムから渡来している。鎮静効果があり、気病にも効く。」
「いい、匂いだ。始めて見た、こんなの。」
'かなり、ショックを受けているな、どんな目に会わされたのか知らないが無理もない。'
蒼紫に何も尋ねず、少しぼんやりとしている克浩を見て、蒼紫は思った。
第8走者 緋向子様
「仕事やから、文句はおへん。けど、いい気持ちはしまへんどしたな」
 高鶴の言葉が戻っている。興奮すると、京言葉が出るものらしかった。
「あのお方、見目やかたちで選ばれたんと違います。赤報隊―――あの殺されはった隊長
はんの脇ィついていたお子やった。それで明治政府を憎んどる、こんなおあつらえ向きの
玩具はない云うて、喜んどりました、大久保はん」
 蒼紫の眉が上がる。
「初めは素人をかどわかすなんて、妙な遊びもあるものや、危ない橋を渡りよる、手間も掛け
すぎる、思いましたけど………」
「構わん、云ってくれ」
「切支丹を転ばさす、いうていろいろと拷問しやはりますな」
 高鶴は淡々とつぶやいた。
「確かに、転んだ切支丹は許されるのやけど―――腑抜けみたいになってしもうて、大事な
もん、魂みたいなもんを捨てさせられるいうんはそれで。どんなにしても、物を食わんようにな
って―――果敢なくなって。身食いをする馬のようにやせ細って死んでしまいますのや。確か
に転ばせる、いうんが眼目かも知れへんけど、その、捨てさせる、人として生きられんようにさせ
る、いうんが楽しくて―――どうにも良くて―――ああいうお人は。それだから、あのお方に目
串をさしたんやろ、思います。身体もそうやけど、人の心を、滅茶苦茶に泥足で踏みにじるの
が好きなのや」
「………………」
「身体はどうでもええですねん。そら、あのお方は二つとない肌やけど、日陰の花みたいな
顔してはるけど―――心の、いうなら形みたいなもんに比べたら。分かるお人には、堪らんの
ですやろな。鼻っぱしらを挫いて、その気位を踏みつぶして―――蝶よ花よと、可愛がられる
お人やない。踏み荒らして、爪の痕つけて、哀しい眼ェさせておきたい。その心に、自分の遣っ
たことが傷になって残るんが、よくって、よくって、壊すまでいじりまわして。………」
「もういい、高鶴」
 蒼紫はいたわるようにその肩に手を置いた。
「辛いことを思い出させた。済まなかった」
「かめしまへん。十何年も昔のことや」
 その月日が、一瞬の夢ででもあるかのように、高鶴は微笑んだ。
 この、紅楼の女あるじの、壮絶な過去を蒼紫は知らない。高鶴も話そうとはしない。ただ折
にふれ、蒼紫へ示す感謝の念、政府幕府を問わず、上で支配するものへの不信と諦念―――
それがこの老女に、配下としての強さと、頼もしさを与えていた。鶴角楼は仲ノ町の大見世
である。楼主同士のつながりを介して、吉原全体に穏然たる勢力を持っている。
「―――けれど、あの兎さん、ですわなあ―――」
 その中で津南の名を出す時、いつしか「お月さん」「兎さん」と呼びならわすことになってい
た。口止めを徹底しても、どこで誰が聞いているか分からない。出入りの激しい見世には置
いておけず、大久保たちをはばかって、吉原に並ぶ物売りの一軒、路地の奥の筆屋の二
階へ隠してあった。もっとも、津南が部屋から消えても、大久保とその連れは騒ぎ立てなか
った。
「こうなったら、吉原五丁町全部の意地にかけて、お守りしまひょ。けど、五年の切りほどき以
来、ここらもめっきりがた落ちだす。とてもじゃないが、助六はんをかばった揚巻はんのような
啖呵は、通じまへん。兎さん、どこかへ移しなはったほうがええやろ思います」
「それも考えていた。………」
「あの時は、うちの寮へ花魁の出養生いうて、繰り込みましたけど………眼も届かんし、何よ
り蒼紫様が通ってくるの、目立ちすぎますわなあ。周りは浅草田んぼやし、静かなぶん、人の
出入りがまる見えや」
「済まなかった。あそこなら、薬草園もあると思い………慌てていた」
「蒼紫様らしゅうもない。いきなり抱いて屋根から出ようとするん、驚きましたわ」
 忍びには不向きなほど、端麗な容貌の、目立つ長身の蒼紫だった。今も、夜陰にまぎれて
この鶴角楼まで、大門を通らず、凶鳥のようにお歯黒どぶを飛び越えて、屋根伝いに忍んで
いる。大門はとっくに閉じている時刻だが、まだ酔客の姿も多かった。その中に、政府の密偵
がいるかもしれないのだ。
 津南を連れ出す際には、鶴角楼の力が必要だろう。もう一度、抱いてどぶを越えようともした
が、遊女の足抜きに間違われたら事だった。それに、あまりにも様子が人形じみていて、動かす
のもためらわれた。
 暗い深遠を覗いたような、光のない眼。日が立つにつれて、ますます痩せて目立ってきた薄
い小さい肩のとがり。その上に流れる髪。つくりもののような指。………
「蒼紫様。………」
 思いを馳せている蒼紫の耳に、高鶴の声が宣告のように響いた。
「あのお方、これからが大変どっせ。………」

第9走者 しえ

「月岡殿!」
庭にじっと立っている克浩を見て緋村は叫んだ。その声に彼はゆっくりと彼の方を振り向いた。
虚ろな目だった。体全体に生気が感じられない。まるで死の床にいる病人のようだった。緋村は
彼に駆け寄っていった。
「無事だったか、月岡殿。」
「抜刀斎。」
克浩はやっとそれだけ言った。ほんの少しだが、声が擦れている。
「具合いは、どうだ?」
「大丈夫だ。」
緋村と一緒だった蒼紫も側に来た。克浩がそちらに眼を向ける。蒼紫の手をとると、顔を彼の胸
に埋めた。
「ああ、隊長...!」
緋村は驚き、克浩を凝視した。隊長...だと?!
「ずっとああなんだ。俺のことを隊長と呼び、側を離れようとしない。頭が錯乱しているらしい。首を
絞められた後遺症かもしれん。」
緋村はショックを受けた。彼の声が少し擦れた感じがするのはそのせいなのか。緋村は何故、蒼
紫が左之には何も知らせず一人で来るように指示したのか理解した。もし左之がこんな姿の彼を
見たら、間違いなくすぐさま、問答無用で斎藤の元へ殴り込みに行くだろう。
'斎藤、お前という奴は...!'
緋村の胸に、怒りが込み上げた。あのとき斎藤の言うことなど無視して、無理にでも連れ出すべき
だった。緋村は、自分を馬鹿だと思った。
「抜刀斎、下手に動くな。斎藤の後ろに、大久保利通がいる。こいつは昨夜、斎藤と大久保卿の
二人と一緒だった。」
驚愕に、緋村は凍り付いた。あの男と斎藤がつるんでいる?まったく想像の埒外のことだった。
「月岡殿は、治るのか?」
緋村は怒りを圧し殺して蒼紫に聞いた。蒼紫が冷静に答える。
「別に彼は、気が違っているわけではなさそうだ。神経を病んでいるだけに見える。たぶん、一時
的に錯乱しているだけだろう。様子を見なければわからないが、一生このままという事はないだろ
う。」
緋村は哀れむように克浩を見た。この青年が一体こんな目に会わされる何をしたというのだ?力が
ないというだけで、権力に踏み躙られていいようにされていいというのか?理不尽だ、と彼は思った。
先人たちの犠牲は、こんな世の中をつくるためにあったのではない筈だ。
「月岡殿を頼む。」
うつむいて緋村は言い捨てると、蒼紫と克浩の二人に背を向けた。蒼紫はそれを、黙って見送っ
た。克浩は、ただぼんやりと緋村を見ただけだった。

少しふらついている克浩を、蒼紫は抱き抱えた。彼は何もいわず、ただなされるがままにしている。
弱々しく蒼紫を見上げる。
「隊長。」
「そこし、休め。お前は、休養が必要だ。」
「はい、隊長。」
克浩は眼を閉じた。蒼紫は彼を抱えたまま家屋へ入り、二階へと彼をつれていった。静かに夜具
の上に下ろす。克浩が手を伸ばして、蒼紫の顔に触れた。
「隊長、いかないで。」
しっかりとした動きで、腕が蒼紫の首にまわされる。蒼紫は、克浩のいいようにさせておいた。克浩
が彼に抱きつく。
「怖い,隊長、いってしまったらだめです。行かないでください。」
「俺は行かない。だからおとなしくしていろ。」
そういって、蒼紫は彼のために死んでいった部下のことを思い出した。そして彼自身、克浩のよう
にではないが、彼の部下の死のために一時期、我を忘れたことがあるのを思い出す。ああ、そのせ
いか、と、彼は思った。彼はかたちはまったく違うにせよ、似たような何かをこの青年のなかに嗅ぎ
とったのだ。だから、放っておけなかった。確かに彼が緋村の知り合いだという義理もある。だが、
彼はここまでする筋合いはない。
「あなたが行ってしまってから、俺はずっと待っていたんです。」
克浩の腕に力がこもる。
「あなたが、恋しかった。」
克浩が彼に口づけた。さすがの彼も少し、驚く。こいつの隊長とやらは、稚児趣味があったのか?克
浩の舌が彼の唇をまさぐった。彼はされるがままになった。この青年が哀れだった。今の彼は、助け
を求めて縋り付いてくる幼い子供と変わらない。
「やっと、俺のもとに帰ってきてくれたんですね。」
克浩の手が、着物を割って彼の胸に差し込まれる。彼はその克浩の手を捉えた。克浩は動きを止め、
縋り付くような目で彼を見上げる。
「隊長。」
蒼紫は少し、眼を伏せた。克浩が彼の胸に顔を埋める。彼は横向きに横たわり、克浩の頭に手をま
わして抱きしめた。克浩が自分の顔を彼の胸にすり付ける。
「もう、お前を傷付ける奴はいない。眠って忘れるんだ、すべて。」
克浩は、胸に顔を埋めたまま声をたてて笑い、蒼紫は彼をじっと見た。
「隊長、忘れろなんて、酷い。」
克浩が顔を上げて彼の顔を見る。顔は笑っているが、眼のなかにかすかな怒りがある。
「俺は忘れない。ずっとおぼえている。あなたのことも。」
何のことをいっているのだろう?蒼紫は思った。だが、まともに聞き返して、答えが帰ってくるとは思え
ない。
「あなたが俺に自分を忘れるなといったんだ。そうでしょう?」
克浩の唇が、彼の胸にあてられた。
「苦しいんだ。助けてください、隊長。」
克浩の膝が、彼の足の間を割って入った。それがしっかりと押し付けられる。克浩の腕が彼の頭にま
わされ、唇が彼の口に押しあてられ、ついばむように撫でられた。
「隊長、俺は、あなたを待っていたんだ。今度は俺も一緒につれていってください、隊長。」
唇を頬から顎になぞってゆき、眼を閉じたまま呟くと、克浩は頭を上げ、蒼紫の顔を見て穏やかに微
笑んだ。手をのばし、そっと彼の両手をとり、自分の首に導いた。その手を自分の首にあてがい、力
を入れるよう、促す。
「やめろ、克浩。」
蒼紫は冷たく言った。その言葉は一瞬でその場を凍り付かせた。克浩は、叱られた子供のような眼
で彼を見た。蒼紫の眼の中に、かすかな怒りと悲しみがある。だが克浩に対して怒っているのではな
い。彼をこんな風にした者達への怒りだった。彼は本気で死にたがっている。何故この青年は、ここ
まで追い詰められねばならなかったのだ?しかもそれは薄汚い欲望を満たすための玩具として扱わ
れたためにこんな風にされたのだ。
「目を覚ませ、しっかりするんだ。俺は、お前の隊長じゃない。」
克浩は大きく目を見開いて彼を見た。そのままで微動だにしない。しばらく彼はそうしていたが、ゆっ
くりと仰向けに横たわった。
「克浩。」
蒼紫は彼を覗き込んだ。だが、何も反応しない。ただ横たわって天井を見つめている。
「隊長は、また俺を見捨てるんだ。俺がいらないんだ、もう。」
それだけ言い捨てて静かになった克浩を見下ろし、蒼紫は彼の頬に手を触れた。
「克浩。」
克浩は反応しない。黙って、身動きせずに天井を見上げている。彼は、克浩に覆い被さり、唇を克浩
の口にあてて優しく吸った。克浩の手が彼の背中にまわされる。
「隊長。」
克浩が嬉しそうに言った。
「目を覚ましてくれ、頼む。」
克浩はなにも答えず、自分の体を押し付けてきただけだった。蒼紫はそれをしっかりと抱きしめた。
蒼紫の手が彼の浴衣をつかみ、唇が胸につけられた。克浩の蒼紫の背中にまわされている手に力
が込められ、克浩は子供のように、笑った。
蒼紫は、そのまま唇を下ろしていった。

第10走者 緋向子様
 浅草は待乳山聖天、小高く盛り上がった神社の岡の裏にある、立ち木に囲まれた寓居へ、
その静けさには不似合いな、華やかな色彩のかたまりが飛び込んだ。
「―――蒼紫様!」
 可憐な、あでやかな振り袖の少女だった。贅を凝らした、真っ赤な鹿の子縮緬のすがたが
目に痛い。
「すぐ…いらして……くんなまし。大事でありんす、兎さんが」
 切りそろえた髪を見るまでもなく、吉原の大見世、鶴角楼の禿だった。使いなら、男衆を寄
越すはずだか、いつも廊下で見かけるこの少女が息を切らしている。
「楼主様も―――男衆でもどうにもなりんせん。二階から飛び出そうとして―――あのままで
は、吉原じゅうに、知れ渡ってしまいんす。花魁も、見世のものも、近づくことも」
「会所はまだか」
「それは、楼主様の一言で帰りんした。これでも仲ノ町の鶴角楼でござんすから―――けど、
兎さん、あの様子では続きいせん。しきりに蒼紫様、とおっせえして」
「分かった」
 蒼紫は本を閉じて、書見台の前から立ち上がった。いつもの外套は羽織らず、目立つ洋装
をやめて着流しにする。二重回しを引っかけながら、
「以前話した、緋村のところへ頼まれてくれるか」
「緋村様へ、とおっせえすか」
「そうだ。ここからでは、重ね重ね物入りだが………」
「要りんせん。俥代貰いんしても」
 禿は口を真一文字に結んだ。
「行きとうない。蒼紫様、お一人でお会いなさるのが、怖うざんすか」
「何」
「あんなに、呼んでいやすのに。………拾いんした犬だって、もっと」
 悔しげに唇を噛むと、禿は袂をひるがえして、先に庭へ出て行った。すぐさま、待たせておい
た人力俥の車夫が梶棒をとって、まわす音がする。
「お早く願いんす。………車夫どん、回して」
「お掴まりやして。―――はッ」
 たちまち地を蹴立てて走り去る人力俥、がらがらと音を響かせて、一目散に本郷へと向うの
だろう。そこには緋村がいる。………
 遠ざかる車輪の響きに、巻き込まれる自分を見るように、蒼紫は無言で見送った。結ばない
二重回しの紐が、手持ちぶさたにぶらんと垂れて、そのまま忘れられている。



 同居人に冷やかされたり、しつこく疑られたり、して剣心が本郷を出たのは、可憐な使いが
袖を噛んで焦れきった半刻過ぎだった。
 小さくても、廓の女として、素人女の嫉妬には慣れているのだろう。俥が走り出して、剣心が
隣で息をついても、眉ひとすじ動かさなかった。揺られながら、剣心は無駄と知りつつ、会話
の糸口を探ってみる。
「お女中。………」
「氷鶴でござんす」
「氷鶴どの。月岡どのの具合は」
「知りいせん。わちきは見世に居んすから………蒼紫様に聞きなんし」
「見世に、物騒な気配がないだろうか。怪しい奴が………」
「分かりいせん。兎さんのお名前、月岡様とおっせえすも、初めて聞きんした」
 内心、主の躾のよさに舌を巻きながら、二、三問いを続けたが、あきらめて背もたれに埋まり
こんだ。と、まっすぐ前を見ていた氷鶴が、ひとりごとのように云った。
「殿方は、『どこにも行かない』なんどと、よくもお云いなんすね」
「……………?」
「女郎の嘘より酷い。………」
 それきり、二度と口をひらこうとはしなかった。俥は日本堤を渡り、大門を抜けて、まっすぐ吉原
仲ノ町の人波を駆け抜ける。昔は大名ですら、駕籠の乗りうちは許されなかった。切りほどきで、
貸座敷という名目になって、吉原はその面目の大半をうしなったのだ。馬車を乗り入れるお大尽
も居る。
「だいぶ馬糞臭くなりましたよ」
 皮肉に嗤った高鶴という女の顔。それを思い浮かべて、剣心は遠い昔の京洛を思った。そこに
も高鶴のような女がいて、今の蒼紫に対するように、何くれと労を挺していた。………
 島原の幻は一瞬にして破られた。車夫の掛け声とともに、俥がひときわ豪壮な三階建ての前
に止まり、人々があちこちから、三々五々好奇のまなざしを投げている。剣心が見渡すと、政府
の高官らしき二人連れはいたけれど、恐れていた怪しい人影は見えなかった。大籬の禿らしく、
氷鶴はそれらを傲然と黙殺して俥を降りる。
「蒼紫様は!」
 転げるように、見世から男衆が飛び出してきた。氷鶴の鼻に皺が寄る。
「逃げんした」
 吐き落とすようにつぶやいて、素足をひらめかせて梯子段を登った。幅一間もありそうな、黒光り
する段を剣心も続く。
 登りきると、広い廊下に女郎や男衆がかたまっていた。どうしていいかわからず、白刃を持て
あつかうような濃い不安を滲ませて、とりまいた中に、
「兎さん。………お知り合いをお連れんしたよ、後生だから」
「拙者だ。月岡どの、緋村………」
「危のうおすよ。そこを離れて、兎さん、後生だから」
 窓框に足を掛けて、津南は今にもそこから飛びそうだった。蒼紫を探して、かくまわれていた
筆屋の二階からふらふらとさまよい出た格好で、単衣に解けかかった帯を長く尾のようにひい
ていた。一段と痩せが目立って、いよいよ青白んだようにみえる手足、肩に墨のようにもつれか
かる長い髪。振り向いたその目を見て、剣心は全てを了解した。狂ってはいなかった。ただの、
幼い怯えた子供の眼のいろだった。頼りなげに震えて、剣心を認めるといきなりぱっと輝いた。
「隊長!」
 いつのまにか後ろに、蒼紫が立っているのに剣心はようやく気づいた。
「来い」
 蒼紫が腕をさしのべる。津南は窓框から離れて、一散に追われる小鳥のようにしてまっすぐ
その腕の中に飛び込む。
「隊長……隊長…置いていかないで」
「分かっている。ここに居る」
「いい子にしていますから、一緒に連れていって下さい。置いていかないで下さい」
「誰も、お前を置いていくとは云っていない」
「連れていって下さい。一緒に居させて下さい」
 その次の言葉が、剣心の頬を凍りつかせた。
「江戸へ。………」
 しなやかな長身の蒼紫と、津南の背丈は頭ひとつほども違う。忍びと、絵描きの体躯も大人
と子供ほどにも違う。それがすがりつき、かきくどいて必死に訴えるさまは、奇妙に剣心の心を
揺すぶった。
「江戸へついたら、新政府の偉い方になられる。そうなってもどうか、どうかお傍に置いて下さ
い。いい子にしますから。……何でもしますから………」
「ここは、江戸だ」
「江戸」
「江戸だ。………これから、ずっと一緒にここで暮らすのだから。安心しろ」
「隊長」
「安心しろ。捨てたりはしない」
「隊長。………」
 津南が蒼紫の二重回しにくるまれて、抱き上げられ、おとなしく連れてゆかれるのを見送って、
剣心はそっときびすを返した。帰りかけると、廊下の端に氷鶴がしおれた風情で、揃えた指を
ついている。
「さっきは、無礼を申して………御免くだっし。後生でありんす」
「いいや」
 剣心の口に、知らずほのぼのとした笑みが浮かぶ。
「月岡どのも、いいところへかくまって呉れた、と思っている。四之森が居るようだが、他に女手
がいてくれるのは心強いよ、氷鶴どの」
「わちきなんぞは、まだまだ楼主に叱られんす」
「刀槍をとってはひとに後れはとらぬが、拙者らは、手綱をとってくれる者が要るよ。………そ
ちらの楼主どののように。この前、きちんと身もとを述べるべきだった。こんなふうに世話になる
のなら」
「いえ………蒼紫様のお知り合いでいなさんしたら、この鶴角楼には、それだけで賓客でありん
すから…大そう失礼しなました」
 磨きこんだ板張りの廊下につくほど、氷鶴は低く頭を下げた。
「四之森はこっちで暮らしているのか」
「いいえ………このごろは、庵にお篭りんして」
 怨ずるように、
「また以前のように、石ぼとけみたいに固まらしゃんすのかと。心配で、心配で………蒼紫様が」
「四之森が?」
「あのお方、本当に商売に向いていなさんしたか。………いくさも色恋も、要は嘘のやりとりでご
ざんしょう。それとも、色恋にだけ赤子の手をひねるようなのが、おさむらいだとでもおっせえすか」
 十二、三の少女の口から、色恋なんぞという言葉が出てくるのを、剣心はもうおかしいとは思わ
なかった。
「氷鶴どのは、武士のいくさが商売だと云われるのか」
「商売でなくって、人が殺せるならもっと悪うござんす。蒼紫様は、どうでもそれを商売だと思うが
厭で、あれこれあがきんしたが、いつになったら尻っ腰が座って下しゃんすのか。楼主はここを
譲って、売った株で蒼紫様が何かはじめんしたらと申していんすが、ここにこだわるのは、まだ政
府の消息が聞けるから。………少しでも、きな臭い匂いが嗅げるから」
「………………」
「修羅となるは止めたと云いんして、刀を捨てられもせず、泥をかぶることもなく。それだから、兎
さんのことも、ちょっと齧っておいて逃げ出すような、没義道な真似をしなさんす」
 剣心はさっきの光景を思い浮かべる。津南を抱えて去るとき、蒼紫は目だけで謝意を送って
よこしたが、そこには切羽詰ったような、不安定な翳があった。
 真面目さゆえに、まともに他人の傷と向き合ってしまうのだろう。それにしても………と剣心は、
怪しい胸騒ぎに襲われるのをどうしようもない。あの、津南の態度、安心しきって、というより蒼紫
の存在に飢えきって、すぐにでも死んでしまいそうな、しがみついて泣きながら、その飢えをどう
満たしていいのか分からずにまたも飢えているような。………
 そして蒼紫の眼。
「緋村様、どうか、とめて下さんせ」
 何を、とは剣心はもう訊かなかった。

第十一走者 しえ
 部屋へひきとると、蒼紫は抱いていた津南をそっと布団の上に下ろす。されるがままに横た
わり、津南は子供の笑みを浮かべて蒼紫を見た。上に覆いかぶさり、その唇を慣れた仕草で
蒼紫がふさぐ。舌を忍ばせると、津南はわれから男の首に腕を巻きつけて、溜め息を漏らした。
「………隊長……ね…」
 だが、甘えたような表情の奥に、わずかな怯えと怖れのかぎろいが浮かんでいる。しきりに仕
草でねだるのを、蒼紫は静かに振りきって身を起こした。
「もう、休め」
 打たれた犬のような哀しい驚きが、みるみる津南の眼に浮かんでくる。それを見ないで済むよ
う、顔を背けて立ち上がった。息をうちへ引く音はあとから聞こえた。
「………すみませ……隊…」
「いいんだ。違う」
「……俺……勘違いして…やっぱり…嫌…われ…」
「そうではない。休めと云っている。もういいから」
「…死んで……」
「そんな考えかたをするな」
「………ごめんなさ…迷惑…」
「黙れ!」
 自分でも驚くような乱暴さで、蒼紫は噛み付くようにその唇を奪った。しゃくり上げる、震える体
を自分の重みで押しつぶした。いつも、子供を抱いているのと変わりがなかった。蒼紫は不安に
なり、抱きつぶしてしまうのではないかと、かすかな寝息に手のひらを当てて確かめる。そんな夜
なのだ。いつも、悔恨に胸を噛まれ、己の不確かさに歯噛みしながら。
 少しずつ、うっすらと残る傷跡に唇をあてる。手首は枷の痕をつけて、痛々しい赤黒い傷がいま
もいましめのように見える。傲岸な、不遜なあの男のまなざし。本当に逃れられているのだろうか。
………
 その思いを打ち消すように、蒼紫は津南の体を仰向けにした。首にしがみつかせて、細心の注
意を払ってゆっくりと侵入していく。このかたちが、一番津南が泣いたりしなかった。うつぶせでした
時、津南は恐怖のあまり、半ば息が止まってしまったのだ。
 それが、あの男にされ続けてきたことなのに違いない、と蒼紫は暗い心で思った。
「……う…」
「痛いか」
「…いえ……平気…」
「止すか」
「厭……続けて下さ…早…く」
 きれぎれに、訴える口から嗚咽と苦鳴以外のものを、叫ばせてやりたいと心底願う。蒼紫は忍び
として、それができるわざをもっている。
 それをしないのは、相手が子供の心だからでも、体が弱っているからでもない。高みへ追い上げ
られ、果てへ向かってかすれた熱で呼ぶ声が、その口から出る名前が、自分ではないことが、分か
りすぎるほど分かっているそのことが、なぜこうも無視できないのか腹が立った。自分にも、そう思
わせる津南にも。
 蒼紫はふと身を起こし、津南の顔から、汗で張り付いた髪を除けてやる。腕の中で、足をひらいて
男を迎え入れながら、小さくのけぞって、いやいやをするように蒲団に横向きに顔を押しつける。蒼
紫の指にしたがい、髪が脇へ流れおちると、津南はかたく目を閉じて、拷問にさらされる人間のように
耐えている。
「終わった……?終わった……の…?」
 いわれのない罰を受ける、頑是ない子供の声だった。
「…早く…終わっ…て……」
 骨も折れよとばかりに抱きしめ、自らを楔に打ち込んで、蒼紫は突然襲ってきた哀しみを噛みころ
した。
 抱いた翌日、津南はひどい熱を出して歩きまわる。夜中に気がつくと、かたわらを抜け出して庭の
隅にひっそり座っている。そんな時、半纏を着せ掛けようとした蒼紫に、見上げて妙に澄んだ眼で
云うのだ。
「ご親切、ありがとうございます。………」
 どなたか存じませんが。蒼紫が激情に駆られ、寝床へ引っ張っていくと眼に普段の色が戻って、
甘えたり、恥じて泣きだしたりするのだった。元の津南に戻ることもあった。そんな時は、たいがい眼
をじっと見開いて横たわっている。不安と、諦念と、投げやりな怒りと。………
 蒼紫は乱暴に冷たい体を抱きしめた。津南はますます、見知らぬ子供でいる時が増えていく。
過去の九歳の少年ですらなく、<隊長>に仕込まれるまま、十年前のある日に突然、、終わってしまった
遊びの続き。本当の人形になったら、<隊長>が迎えに来てくれるとでも思っているのかもしれない。
津南をこんなにした男も、それを知っているのかもしれない。
「その日がきたら」
 蒼紫は抱え込んだ、津南の頭と乱れる髪に向かって呟いた。
「壊して遣る。人形になど、させるものか」





時折、本流のように流れ出る激情に駈られながら、蒼紫は克浩を抱きしめた。頻繁に彼の存在を確認
していないと、だんだん彼という存在が薄くなって、いつか消えていってしまいそうな気がする。克浩の
弱々しくすがり付いてくる腕や、見つめ返してくる眼を現実のものとして感じると、蒼紫はやっとほっと
することができた。'ああ、こいつは俺の腕の中にいるのだ。'と。

緋村は二人のことを知っていて何もいわない。蒼紫が克浩を抱きしめているのを見ると、何か少し悲し
気な、哀れむような眼で彼らを見つめるだけだった。だが、緋村はどちらを哀れんでいるのだろう?そし
て何を哀れんでいるというのだ?

蒼紫が克浩の側にいるとき、その蒼紫の愛情に満ちあふれた様子に緋村は微笑み、そして逃げる様
子に苦悩して眉を寄せる。緋村は蒼紫がなぜそうしなくてはいけないのかを理解している。蒼紫の愛
情が深いのと同じ強さで、蒼紫本人はそれに苦しむ。蒼紫は彼を慈しみ抱きしめたい。だが蒼紫がそ
うすれば、克浩は自分で自分の心を激しくかきむしる。

'何故そうなってしまうのだろう?'

克浩から離れ、蒼紫は苦悩する。そして克浩が錯乱しているという連絡を受けて舞い戻る。傍目には、
蒼紫が側にいることで克浩は平安を得たかのように見える。しかし、実のところそれは克浩の病根を、
眼に見えないところでその亀裂をさらに深くしていっているに過ぎない。蒼紫が側にいてもいなくても、
違うやり方で克浩は引き裂かれ、心から血を流してのたうつ。

蒼紫はもはやどうしてよいのかわからない。彼の隊長にすり替えられた自分の存在が彼をひどく追い
込んでゆく。彼は人間が他の人間を救ってやれるなどという考えは、ただの思い上がりだということを
知っている。だが彼は、そうする方がいいのだと知りつつ、克浩の前から完全に消えてしまうことなど
できない。そして彼は自分が彼を愛しているのか、それともそう思い込んでいるだけなのか、自分の
気持を推し量ることすらできない。その感情はあまりにも激しすぎて、蒼紫は炎で焼かれるように苦し
んだ。ただ、本当に彼は克浩を慈しんでいることは確かだった。自分勝手に、とても深く。

ー*ー

「申し訳ありません、蒼紫様。」
高鶴は蒼紫の前に手をついた。蒼紫が大きく眼を見開き、唇を引き締めてその前に立っている。高鶴
から、緊急の呼び出しを受けて駆け付けてきた蒼紫の前に立つなり、彼女は蒼紫の前に膝を屈した。
「月岡様が、行方不明でございます。」
彼にしては珍しく、蒼紫は意気込むようにして口を開く。
「そのときの状況を、詳しく話せ。」
高鶴が顔をあげて蒼紫を見る。やりきれないような、すまなそうな表情をしている。
「はい。いつもの通り、あの方は夕方、庭に出られました。何も変わった様子もなく、しばらくお一人で
佇んでおられました。」
高鶴はちょっとほんの少し黙ると続けた。
「いつのまにか庭にあの方がいないのを、郭の者が気が付きました。不審に思い、部屋を覗きましたが、
もぬけの殻です。他の者にも声をかけて、周りを探させましたがどこにもいません。門番の証言によると、
背の高い30代半ばほどの男が、それらしき人物をつれて大門を出ていったとのことでございます。行き
先は、杳として知れません。」
高鶴は唇をきつく引き締めた。彼女は、ただの郭の女主人ではない。まがりなりにも、元御庭番衆の
一部を担っていた人間なのだ。その彼女が、いとも簡単に見張りをさせていた、男一人に逃げられてし
まった。しかもそれはただの男ではなく、彼女の主人の大事な客人である。彼女はあんな状態の克浩
を心配するとともに、慚愧の念と屈辱に、心が締め付けられる思いだった。

蒼紫は仮面をつけたような表情で、彼女に引き続き郭内での情報を集めるように言い残すと、一人で
すばやく消えるようにそこを出ていった。高鶴は軽い身のこなしで立ち上がると、自分のやるべきことへ
と移った。

ー*ー

克浩を蒼紫が探し出すのに、一週間、かかった。緋村の協力があったにも関わらず、それだけの日数
がかかった。そこへ向かうとき、まだそこにいるのが克浩であると確証のなかった彼は、緋村に一応の
連絡だけすると一人でそこへ出かけた。郊外の家で、周りは竹の薮で囲まれている。音を立てず、彼
は竹が群生している中を軽やかに走った。そのなかで、彼は人の気配というものを全く感じなかった。
静かで、植物以外の生き物の音がしない。

さほど大きくはないが、瀟洒な家屋が竹林の奥に建っていた。それから少し離れて、小さな土蔵が建
っている。相変わらず周りに人の気配がしない。蒼紫は土蔵の入り口の鍵を針金一本で易々と解くと、
中へ入り込んだ。中は暗くてよく見えない。しかし開いている床の奥の隅に、何か白い物がじっとうず
くまっていた。蒼紫は眼を凝らした。白い浴衣を着せられた人間が一人、身動きせずに丸くなって横
たわっている。

「克浩・・・!」

蒼紫は叫ぶと彼の駆け寄った。克浩は眼を開けていた。だが蒼紫になんの反応も示さない。
「おい、どうしたんだ!大丈夫か?!」
蒼紫は跪き彼を抱き起こすと、手首で脈を取った。どうやら体が弱っている様子ではない。克浩を抱き
起こしたとき、重い金属音がじゃらじゃらと鳴った。彼の右足首に鉄の輪がはめられていて、鎖で壁か
ら飛び出している鉄輪につながれている。蒼紫は克浩を抱えたまま土蔵の戸を開けたと同じやり方で
克浩の足首の鉄輪をあけると、彼を揺さぶった。
「克浩!おい、しっかりしろ、大丈夫か!いったいどうしたっていうんだ!?」
克浩の視線がゆっくりと動き、蒼紫を見つめた。だが体はぐったりとしていて、力がはいっていない。
「俺がわかるか、克浩?」
「蒼紫・・・」
克浩はぼんやりと答えた。まるで人形のようだ、と蒼紫は思い、彼が隊長と蒼紫を呼ばなかったことに
気が付いた。
「逃げるぞ、克浩。立って歩けるか?」
「逃げる?」
克浩が小さいがしっかりとした声で聞き返した。
「何故・・・?」
「克浩!」
蒼紫は呆然として克浩の白い顔を見た。いったい、何をされたというのだ?だが蒼紫はとりあえずここ
から彼を連れ出すことが先決と思い、彼を抱えて土蔵を出ると、竹林の中を駆け出した。誰かが追っ
てくる気配はない。克浩は蒼紫に抱えられたまま、じっとおとなしくされるがままにしていた。

竹林を一歩抜けると、そこは別世界のようだった。人と人の作り出す喧騒に満ちあふれ、空気に人の
体温を感じさせるような、かすかな匂いが含まれている。蒼紫は克浩を自分の腕から下ろした。克浩
は自分の脚で立つと、自分の目の前に広がる世界を、目を見開いてじっと見つめた。白い浴衣姿の
克浩を、通行人達が無遠慮に見つめる。克浩は脅え、後ずさった。
「怖い。」
「克浩?」
彼の腕をつかもうとした蒼紫の手を、克浩はよけた。蒼紫は、それを怪訝そうに見つめる。克浩は、泣
き出しそうな顔をしている。
「嫌っ、ここは嫌だ!」
克浩は叫び、すばやく身を翻すと、もと来た道を走り出した。
「克浩!」
蒼紫は彼の名を叫ぶと、彼の跡を追った。いくらも行かぬうちに追い付き、彼の腕をつかむ。克浩は
振り向こうとせずに暴れた。
「いやだ、はなして!」
「克浩、どうしたっていうんだ?!」
「帰るんだ!放して・・・助けて、藤田さん!」
その名に、蒼紫は彼の腕を放した。克浩は自由にされたとたん、恐ろしいほどの早さで走り去ってい
った。蒼紫を見ようともしなかった。蒼紫は呆然として硬直したようにそこに佇んだまま、克浩が走り去
るのを見送ることしかできなかった。克浩は、一度も蒼紫を振り替えることなく真っ直ぐ進み、竹が群生
している中へと消えていった。あとに一人残された蒼紫の周りで、風に竹達がざわめく音を立てた。
'克、浩・・・'
蒼紫は彼の名を呟き、そして理解した。彼はけっして戻っては来ない。終わったのだ。すべて。

「藤田さん!藤田さん!」
斎藤が、家の前に立っていた。口元には不敵な笑みをかすかに浮かべ、泣きながら走ってくる克浩を
じっと見つめている。克浩は飛び付くように、彼に抱きついていった。斎藤がそれを受け止めると、子
供のように声を張り上げて泣き始める。はいていた草履の片方を、どこかで落としてきたらしく片足は
裸足だった。
「外に出たら、お仕置きだといった筈だ。」
斎藤は克浩を引き剥がし、その泣き顔を笑いながら見た。
「外は、怖い・・・」
克浩は落ち着きかけながら、やっとそれだけ言った。
「そうか。」
斎藤は克浩を抱えあげた。
「もう、お前に足枷をつける必要は無いな。お前は自分でここへ戻って来たんだから。」
克浩の透明な眼が斎藤を黙って見返す。
「湯浴みしろ、これから大久保卿が訪ねてくる。お前がたいそう、気に入ったそうだ。前回、彼とここで
やった事を覚えているな?」
「また、お人形さん遊びをするの・・・?」
「そうだ、お前は人形になるんだよ。なんでも、どんなことでも言うことをきく・・・わかったな?」
克浩の意思のない眼が斎藤からそらされ、ただ、はい、と答える。斎藤は満足そうにうなずいた。
「それでいい。お前に自分というものは必要無い。ただ言われたことに従え。」
克浩は、はいと答え、斎藤に運ばれながら目を閉じた。彼はただ、斎藤に自分を委ね、斎藤の支配
の元に自分の意思というものを放棄した。まるで一体の人形のように。今の彼は、精巧につくられたき
れいな人形のようだった。命令され、それがどんなものだろうと疑問を持たずに従う・・・それは昔、彼
の隊長が幼い彼に強制したことだった。

彼はもう、長いこと待っていた。彼という存在を支配し、すべてを強制する彼の隊長にとって変わって
くれる存在を。彼は、それが欲しかった。彼は支配され、隷属させられることを望んでいた。彼の隊長
の代わりにそうしてくれる存在が現れるのを、彼はずっと待っていた。

克浩の、待つという長い時は終わった。斎藤が彼を見つけ、絡め捕ってくれたのだから。



最終トラック 緋向子様