影が嗤っていた。声もなく。
 薄い、水のような闇の中にそれはうごめき、重なり合い、闇に慣れてきた克浩の眼に、
灰色のおぼろな目鼻立ちをとった。
 もやもやと、見知った顔だった。嗤いに歪んでいた。
「どうするか、な」
 忍び嗤いの咽喉声ふたつ、それに低くあわさった。ぼんやりと明かりが差している。影は
揺らぎ、次第に収斂して、壁に寄りかかるか腕組みをして立つか、思い思いの三人だった。
一人は大刀を突いていた。
「何を―――怖がる事があるんだ、え」
「あっはっは」
 毒々しい嗤いを浴びせ、残りの二人は頭を振り、灯影をさえぎりちらつかせた。薄墨を
流したような暗くしめった蒲団部屋、篭もるのは黴臭い、陰気な匂いだった。追い込まれ、
積んだ蒲団を背後の陣に、克浩は怯えてすくんでいた。
「そのざまは何だ」
「取って食うとでも」
 野次が、飛んだ。翳になり表情は見えない。気安だての横柄さと、強いて装う冗談の体
から、かすかな悪意に次第に変わった、細かな針を克浩は感じた。
 怖ろしい―――普段懇意とまでは行かぬでも、顔を合わせている大人が底に隠した、粗い
感情、ざらざらの生地がむきだしに、それがひたすら怖ろしくかなしく、小さな子供の抵抗
を奪った。すでに、打ちのめされている。うつむいて顫え、紙袋をかぶった猫の仔のように
後ずさりをくりかえし嗤われた。
「野良猫だな」
 中腰で、覗き込んでいた男がいきなり手を伸ばして来た。ひょいと、頤を掠めそうにする
のへ身を縮め、克浩はくたくたと恐怖のあまりうずくまった。
「見ろ。悪者あつかいだ」
 振り返って云った。
「親切が、通じないのさ。気位が高くていらっしゃる」
「餓鬼」
 横を向いて、一人が吐き捨てた。
「可愛げのかけらもない」
 横面を撲られたように克浩は感じた。わなわなと、顫えだし、足元を波にさらわれゆく
絶望が真黒く大きな羽をひろげた。気は―――強い方で、あった筈だ。考え深い、鋭敏な
十の子供にとり無残な仕打ちだった。涙が浮かんできた。
(隊長―――相楽隊長―――)
 呼びかけて、聞こえる筈もなくて、かなしい侘しさが胸を締めつけた。ひとに好かれぬ
自分であると、云い聞かせ噛み締めてきた彼は大声をあげる術を知らない。何ゆえに、と
問うていた。何ゆえこのような仕打ちを受けるのか。
「流石おさむらいだよ」
 答えであった。
「子供相手に大人げないが―――その上品づらだけは気に障る。何かといえばおどおどびく
びく、俺たちが毛虫かげじげじにでも見えるか知らんが」
「しかも強情で陰気で」
「左之助とは違うな。雪と、炭だ」
 てんでに云って、あざけり嗤った。酒の匂いが漂った。一人が近づき、しゃがんで微醺を
帯びた顔を突き出した。
「たしなみを、教えて遣ろうと云うんだ」
「おありがとうござい、と云ったらどうだ」
 まぜっかえした男が急に天井まで嗤いを響かせた。それをしおに、じりじりと囲みがせば
まった。足裏を刺す板敷きの、冬の冷たさが脳天まで突き抜けた。あるいは悪寒かも知れ
なかった。
(だれか、だれか)
 垢じんだ、夜具が重ねてあった。欠けた枕が転がっていた。乱雑にならべた破れ行燈、
それらが床の手燭の明かりに少しずつ浮き出して、昏く輪郭をにじませた。自身も男たち
も、模糊として夢のようだった。
「明かり寄越せ」
 応じて、手燭を拾い上げ、かざして男が進み出た。壁にもたれていた二人も、腕組みを
解き、ゆっくり近寄ってきた。
(たすけて)
 克浩は声もなく叫んでいた。




 夜中に、目を醒まして水を飲み、廊下へ一人で出て行った。隣で寝ている左之助を、二、
三度揺すぶってみたがはやばやとあきらめ、しんとした廊下を、手探りで、少し寂しい思い
だった。
「克、おしっこ」
 いつも起こされるのは自分の方で―――二人で、冷えた廊下を縺れあうように走る、
そのくせ用のない時の左之助は、いったん寝つけば頑として起きなかった。それが、克浩
にはさみしい。
 脇本陣の長い廊下を、克浩は襖に触れながら歩いた。枕元の水差しを、うっかり倒して
しまって、拭くものを貰おうと思ったのである。派手に零して、大の字に寝ている左之助
は、濡れないように端へ転がしておいた。それでも蒲団が水を吸った。怒られる、と克浩
はしょげて、なるたけ優しい隊士に来て欲しかった。
 ほうぼう覗いたが、部屋は空だった。大部屋に集まっているものと解し、明かりと喧騒を
たよりに見きわめをつけると案の定、居た。
「済みません。水を、こぼしました」
 襖から、首だけ突き込んで克浩は云った。
「あの、どなたか………」
 隊士がニ、三人振り返った。
「あの」
 返事はなかった。
 なんとはなしに、異様なものを感じて克浩は目を据えた。十畳敷きの、けばだった畳の
真ん中に行燈を御丁寧に二つ引き据え、ざっと十、五六人ばかりもそれを囲んで、ひしめ
いている。たった今まで、嗤ったり怒鳴ったり、放歌高吟といった体のが、一斉に静まり
返って、音もなかった。奇妙な静寂だった。
 どの眼も、克浩に注がれていた。何か戸惑ったような、気まずいような、後ろめたさを
ごまかすような、それでいてぎらぎらと熱気を含み、いいしれず粘っこく燃えている。一人
が表情をゆるめ、にやりと嗤い、その昏さに克浩は驚いた。
 手から手へ、紙束ががさがさ渡された。二つ折りの版画と見たは僻目か。行燈のもとへ
散らばっていたのを、隠すように集めた一瞬、極彩の、絵のようなものが鮮やかに浮かび
あがり、克浩の不審をいや増しにあおった。皆で回して見ていたらしい。
 嗤った隊士が、隣をつついて囁いた。何事か云い合い、云われた方はほくそえみ、頷い
て呼びかけた。
「幾つだ。十か。なら知っているだろう」
「は」
 訳もわからず、まごつく克浩に、隊士たちから嘆声ともつかぬどよめきが上がった。
「知らんのか」
「おい、本当か?」
「手入らずの越前か」
「馬鹿、当たり前だ」
 どっと嗤いくずれた。
「隊長のお膝に、抱かれてるねんねだ。知らんのだろうよ」
「教えて遣ろうか―――」
 げらげらと、野卑な嗤い声が耳を刺した。それは奔放を通りこして不羈ですらある。手を
取り、座敷の中央に引っ張り出され、右から左から野次が飛び、小突かれ嗤いを浴びせら
れ、ほとんど気違いのように浮かれ狂った中に、克浩は頭をふらつかせた。満座の嘲弄を
一身に受け、逃げも叶わず逆上した。
「は、―――花札を、やっているのでは、なかったんで」
「花札」
 座がわっと痙攣した。
「こいつはいい、本物だ」
「大した人形ぶりだよ」
「慰みには、違いない。知らんか。驚いた」
 やんやと喜び、騒ぎようは根太が抜けるかと思われた。酒が入っているから云うことに
際限がない。もはやいたたまれず、涙ぐんでうつむいた子供を、一人の隊士が立ち上がり
掴んで外へ押し出した。
「お人形の若様のご帰館だ。そら、お送り申し上げろ。おいちに、おいちに」
「下にィ、下に」
 肩を掴んで、傍若無人に押して行った。ふざけて調子を踏んでいる。調練で使う号令に
あわせ、時おりくるりと裏返し、手や足がぶつかり合うほど滅多やたらと振りまわされて、
克浩は涙も出なかった。あざけって、からかって、肩から伝わる乱暴さが小さな胸に突き
刺さるよう、惨めなかなしい道行きだった。隊士が二人、面白がってついてきた。
 暗い廊下に高笑いが響いた。我が身は官軍、本陣の、上隊士と別宿だからこその暴挙で
ある。昨日まで、農民だった。あるいはこっぱ武士だった。それが錦の御旗のもとに、不
遇の過去に凱旋するようなその勢いの晴れがましさ。沿道は土下座、諸藩はひれ伏す、
臆するものは何もない。………
 野放図におかしく練り歩き、一度曲がって階段の下まで繰り出した。宿のならいで蒲団
部屋がある。もとの座敷へ連れて行って呉れる、と思いきやいきなり口に蓋をされ、あっと
思ったときには体ごと引っ掴まれ埒もなかった。放り込んでおいて、隊士は嗤いながら戸
を閉めた。他は手を打って囃し立てた。
「おい、どうするんだ」
「ついでだから教えてやるのよ」
「よせよせ、泣くぞ」
「元服式よ。なあ若様?」
 蒲団の山の隅に追いつめ、しばらくためつすがめつしてのち二人がかりで転がした。死
に体で、それでも怖さに夢中であらがう体を四方から伸びた手が押さえつけ、四半時もし
ないうちに克浩は肩で息をして、ぐったりとなった。
 心の臓が、早鐘のように打っていた。恐怖と不信で、麻痺したように目を見開く克浩の、
上に乗りかかり隊士は一息入れ、おもちゃを触るように頬をつまんでみたり、首筋や耳を
いじりまわして嗤いあった。
「細いぜ。見るよりうんと華奢だ」
「折るなよ」
「承知」
 顎を掴んで、髪を払った。覗き込んで無遠慮にじろじろ眺めまわした。
「侍の子だってえが、いやに取り澄ました面してやがると思ったっけが。お化粧すりゃ芳
町の色子で通るぜ」
「寂しすぎやしないか」
「こんなのが、かえっていいのさ」
「相楽隊長も、案外―――」
「ばか」
 さすがに一人が渋い顔をした。
「この面がねえ、いいかねえ」
 不審に堪えぬ、といったように、もう一人が手を伸ばして乱暴に頬をこすった。
「眼ばかり大きくて、生白くて、てんで不景気だ」
「云うな。愛敬はないがほっぺたは滲粉細工だぜ、そら」
 しきりに滑らかな頬を嘆賞してやまない。両の手ではさまれ、ぐいと仰向けられて、開い
た口からようやく細い細い声が洩れた。
「………やめ―――て、たすけて…」
「へこたれるのも早いな、ふん」
「これからだ、馬鹿」
「なお…ら……さ………な…」
「呼んでるぞ」
 視線を受けて、直会史郎は苦笑した。彼一人は乱暴に加わらず、客分といった体で、腕
組みをして眺めている間中、子供の訴えるような眼に遭っては顔をそらしていた。
「止めるんじゃないだろう」
 親切なんだからな、と云い云いするのを聞いて克浩はついに涙をこぼした。これが――
――これが親切だろうか。冗談だろうか。平生真面目で、陽気な史郎の人間へ一縷の望み
をかけ、怯えと絶望の入り混じった哀願、しかし当の史郎は困ったような、曖昧な嗤いを
浮かべるきりだった。見ようによっては冷淡ともとれた。
 それが、克浩にはわからなかった。怖ろしかった。
「鹿沼さんが云っていたな。可哀い面だ、泣かしたくなる面だって」
「あの人がねえ」
 隊士がゆっくり、帯を解きにかかった。いいかげん焦れて、ゆるめたところで襟に手を
掛けた。
 死んだようになっていた体が、再び激しくあらがい、舌打ちひとつして、四本の手が上
から押えた。掌へ、細かな顫えが伝わってくるのが心地よい。小さな胸が破れんばかりに
波打っているのも獣性をそそる。身幅のうんと足りない、衣紋竹のような小さい肩を、着物
の上から掴んで隊士二人は瞠目した。
「見せろよ。見せてみろよ」
 肩が出た。腕があらわになった。ひとつ、大きく息を吸い込んで、陸にあがった魚のよう
に声もなくせわしく子供は喘いだ。かぼそく揺らぐ明かりをうつし、薄闇に、ぼんやりと
しかその裸形は見えない。だが白く、いやに白く、はっきりとしないだけ、なにかそこに
在る以上のものを隊士の心のうちに抱かせた。曰く、武家の奥向き、御殿女中、清らな
むすめ、公家の姫君、高級なおしろい、重たい絹服、金襴の褥、御簾のうち………
「白いな」
 それは、単に子供の体であった。だが闇から来る連想が、振り払っても打ち消しても、
彼らに後ろめたい、穏やかでない感情を纏わせた。昏い波立ちだった。いつしか誰も嗤わ
なくなり、閉めきった蒲団部屋の空気はじりじりとした熱気をはらんで、次第に重く切迫
してきた。無言のうちに争いが続き、子供の荒い息遣いと、必死に身を撥ねる鈍い音のみ
仄昏い辺りを震わした。
「怖がるな、な―――これを知らなきゃ男じゃないんだ」
 狼狽しきって、絞り出した声は虚ろに響いて、かえって隊士を慌てさせた。冗談なのだ
と云い聞かせ、気づくと渇いた唇を舐めていた。実際咽喉が痛かった。
「おい」
「……………」
「やめようぜ」
 二人の隊士は何とはなしに言葉を失い、妙にしんとした気持ちで手をゆるめた。なお
引っ込みがつかず、克浩の肩を掴んだ一人はにっちもさっちもいかない顔で、当惑して
相方を覗き込む。あの酔いは、騎虎の勢いはどこへいったか。紛らわすべき冗談は消えて
しまった。しらけて、空虚で気まずい、砂を噛むような味気なさが忍び込み、目の前に
突っ伏してかすかな嗚咽を洩らすのは痛々しい、哀れな子供だった。何か思いがけない
無惨さと、後ろめたさ、昏い思いに胸をかまれ、二人は悄然とうなだれた。
「やめだ、やめ」
 重い空気を断つように、史郎が大きく云って割って入った。救われた格好で隊士は身
じろぎ、もそもそと下がって、助け起こす史郎の背中を見守った。
「悪かったよ。………冗談が過ぎた」
 早口に云い、史郎は顔を見ないようにして克浩の衣紋をつくろった。帯を捜して、一人
がぼんやり手に持っているのに気づき、
「おい、着せてやれ」
「あ、ああ」
 ぎごちなく、頷くさまが気抜けしていた。その手から帯をひったくると、やや乱暴に史
郎が手早く巻きつける。動きに揺すぶられ、揺られして、うつむいた子供の眼から涙が
落ちた。
「悪かった」
 締め込んで貝の口にしてやりながら、史郎は呟いた。なにかいまさらのように身うちが
すさんで、ひどく無惨な思いがした。子供に対して、後ろめたい済まなさだけでなく、
彼は自分でも云い知れず、何かに怯えているのでもある。軋むような、不安だった。得体
の知れないおぼつかなさ。焦燥が、怯えをふくんで背筋をぞくりと這いのぼった。
 それはどこから来るのだろう。………
 ぼんやりと、史郎は背後の入り口を振り返った。四角い薄い光が流れて、さしこむ手燭の
明かりだった。
「何をしている」
 凛然たる声がした。                                      (続く)

ふる
おとがい
世情褥色彩
神野里美
よはなさけしとねのいろどり
もつ
びくん
こぼ
ひが
ふ き
けえけえ
こうと
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