緋向子


やめようと思っても、いつのまにか克明に日にちを数えてしまう。朝起きるとき、
夜の静寂に身をおくとき、何気ない日常の中でも。克浩はどうしてもそれらを頭
から完全に振り払うことができない。行灯にうつる自分の影が、そんな自分を嘲
るかのように揺らめいている。夜は更けている。訪ねてくるものはもう、あるま
い。

克浩は筆を置くと、外の空気を吸いにでた。まだほんの少し肌寒さは残っている
ものの、風もなく、ほとんど暖かいと言っていい夜だった。桜の木の蕾がかなり
膨らんできている。後何日かで花開くだろう。
' 12日目、か '
その日にちが彼の頭にまとわりつく。
' これでいいんだ、そうだろう? '
言葉とは裏腹に彼の目には切なさが宿っている。胸の奥に何かが淀み、わだかま
って感情の流れをせき止めた。それらを取り除きたいと願うものの、どうしてよ
いかわからない。克浩は桜の老木に右手をあてるとそれを見上げた。
' 俺は、後悔なんかしていない。 '

ー*ー

あのとき・・・そう、あのまだ寒さの厳しい真冬のさなかの夜、彼の瞳が暗い切
なさを宿す前だ。そのときの彼は、疼く部分に手が届かないような、もどかしい
感情をまだ知らなかった。色恋沙汰など、単純なものと信じ気楽に笑っているこ
とができた。過去に彼はいつだって理性で自分を押さえ、物事の終りをそのまま
事実として受け止めた。何故人々が、あらゆるものを犠牲にしてまでそれらを貫
こうとするか、理解することができなかった。そして内心、それらのことを見下
してさえいたのだ。彼は全く、何も知らなかったわけだ。後になって、彼はその
過去の自分を振り返り、その無垢さと傲慢さを懐かしく思うことになる。

恐ろしく静かな真夜中だった。書き物机の前に座り、筆を走らせていた克浩は、
人の気配に手を止めた。顔をあげて、戸口の方へ声をかける。
「誰か、そこにいるのか?」
答えはない。
' 気のせいか? '
・・・もしかしたら、左之かもしれない。金をいくらか借りたいものの、積もり
積もった金額にさすがにあの男も気がひけているのかもしれない。克浩はいつだ
って左之の借金には応じてきた。彼には左之に対する負い目があったからだ。克
浩に再会するまでの左之は、彼なりのやり方で過去にけりをつけて自分の人生を
生きていた。にもかかわらず、彼は過去の記憶のなかにのみ生きていた克浩に自
分を差し出そうとしたのだ。自分の新しい人生も、大事な友人も、すべて捨て去
って。
' 俺は、もう少しであいつを滅茶苦茶にするところだったんだ。 '
それはほとんど心中と言ってよかった。しかも、左之はすべて、それがどんなに
無謀で意味のないことか理解していながら克浩と行こうとしたのだ。ーそれにく
らべれば、彼が時折借りに来る端金などどうだというのだろう? それに借金の返
礼がわりのつもりか、彼は時々有意義な情報をもってくることもあった。一度だ
けだが、彼の舎弟を通して調べものをしてもらったこともある。ほんのたまにだ
が、博打に当たったと言っていくらか金を返しに来ることもあった。破天荒で、
根無し草の左之。しかし克浩は、彼が決して博打のための金は借りに来ないこと
を知っている。

克浩は立ち上がると戸口へ向かった。しかし、彼のなかの何者かが警告を発して
いた。
ー何かが、おかしい。
津南は足を止め、隠し場所から炸裂談を一つ懐に忍ばせると戸口に再度向かった。
戸を開けると、冷気が風とともに押し寄せてくる。克浩は反射的に手を顔にあて
ると、寒さに震えた。重石をしていなかった書き物机の上にあった紙が数枚、風
に飛ばされ床へと落ちた。

少し離れた暗闇のなかに、小さな灯がともる。その炎に、細い顔がうつしだされ
た。
背の高い痩せた男が、壁にもたれて煙草に火を付けている。まだ火のついた燐寸
を地面に投げ捨てると、その男は克浩に視線を向けた。克浩の部屋から洩れる灯
の方へ踏み出し、その姿を彼に見せた。
「斎藤・・・一。」
克浩は驚愕に目を大きく見開いた。緊張に胸の鼓動が高まる。斎藤は煙草の煙を
吐いた。その目にはなんの感情も見ることができない。
「俺に、何か用か?」
やっとの想いで克浩は言った。あの京都に旅立つ前の左之との戦いを見て、この
男の恐ろしさは充分承知している。そして彼がどういう立場の、何をやっている
男なのかも。克浩は驚き、少し脅えさえした。彼にはかなり官権に対して後ろ暗
いところがある。あの左之を巻き込んだ明治政府へのテロ活動や、今発行してい
る政府批判の出版物など。なんとか自分の動揺を表ににださまいとする。それは
成功していた。しかし、何故この男がここに?
「話がある。」
斎藤は言った。

ー左之のことか?

克浩の頭に一番先に浮かんだのは彼のことだった。そして自分が発行している明
治政府批判の新聞に頭をめぐらす。だが、何故この男が?
「入れよ。」
克浩はからだをどかすと、斎藤になかへはいるよう促した。斎藤は吸いかけの煙
草を道に放り投げると黙って部屋に入る。刀をはずし、床に腰を下ろす。津南は
戸を閉めると、黙ってそれに続いた。斎藤の前に腰を下ろす。斎藤は無表情だ。
「話とやらを聞こう。」
克浩は努めて冷静なふりを装った。ー危険だ、この男に弱みを見せてはいけない。
克浩のカンが、全力で警告を発していた。今の斎藤にはあのとき発せられていた
ような威圧感も危険な空気も微塵も感じられない。そのことが克浩には不気味だ
った。ー努めてそれらを押さえ、隠している。自分に対してそんなことをする必
要はない筈だ。何故なら俺はこいつの素顔を知っているのだから。あの、弥彦の
後をつけてきた斎藤と左之との戦いの後で・・・克浩はあのときのことを忘れた
ことはない。立ち去る前に斎藤が自分に対して向けた一瞥に克浩は凍り付いた様
に動けなくなった。にらみ付けられたわけでもないにも関わらず、克浩はあのほ
んの一瞬の視線に金縛りにされたのだ。心臓の鼓動が早まり、彼の手はまとわり
つくような汗をかいた。それはたかだか一瞬だったにも関わらず、克浩には一刻
にも匹敵するような重い時間だった。克浩は自分が追い詰められ、罠に掛かりか
けている動物のように興奮するのを感じた。皮肉な笑みが彼の顔に浮かび、その
金色の目がそらされそして彼が去っていったとき、克浩は心底ほっとしたのだっ
た。

斎藤は滑らかに指を制服のポケットに滑り込ませると、四つに折り畳まれた紙を
取り出し克浩に寄越した。克浩はそれを受取り、広げる。ー焦り、驚きを顔に出
すな。落ち着け。克浩は自分に言い聞かせる。この男が何を企んでいるかは知ら
ないが、取り乱せばこいつの思うつぼだ。克浩がそれを広げてみると斎藤は言っ
た。
「これを発行したのはお前か?」
たしかにそれは明治政府批判のため自分が発行している新聞だった。

' こいつは俺を投獄するために来たのか? '

「さあな、俺は絵師だ。新聞などしらん。」
克浩は力を振り絞って斎藤をにらみ付けた。気を抜くとこの男に飲まれてしまい
そうだった。斎藤は面白そうに、にやりと笑う。
「生憎だがな、こいつを印刷した連中は、自分の身柄の安全と引き替えにお前の
名を出した。」
「知らないと言っている。」
克浩は斎藤を真っ正面から見据えた。斎藤は徐々に彼がかぶっている仮面をかな
ぐり捨てている。その危険な匂いに、克浩は窒息し圧倒されそうだった。
「連中が寄越した情報のなかに、相楽左之助の名もあるんだがな。」
克浩の顔色が変わり、我を忘れて叫んだ。
「左之は関係ないだろう ! 」
「新聞など、お前は知らないのだろう?」
斎藤は忍び笑いを漏らす。それが克浩の理性を奪わせた。
「人をからかうのはいい加減にしろ、斎藤一 ! 」
克浩は身を乗り出した。斎藤の右手がすばやく彼の着物の胸元をつかんだ。軽く
動いているのにもかかわらず、恐ろしく強い力でつかんでいる。克浩の、日焼け
していない胸元がのぞき、行灯の淡い光に照らし出された。
「それに、だ。」
その手が胸元を大きく広げる。炸裂弾が、畳の上にゆっくりと転がった。斎藤は
克浩の顔を見据えたまま動かない。克浩は呆然と、炸裂弾を、見送った。
「明治政府転覆のテロ行為の疑いもある。」
斎藤が手を離した。克浩は呆然とし、下を向いて両手を床についた。斎藤は炸裂
弾を拾うと、目の高さに掲げて見せた。
「物騒なものをもっているじゃないか ? ただの絵師が、金坑でも掘りに行くのか
? 」
克浩の手が、震えた。
「戯言はもういい・・・なんのつもりだ ? 俺を投獄に来たのならさっさとすれば
いいだろう ?それとも警察は暇潰しができ
るほど暇なのか ? 」
斎藤の顔から揶揄するような笑みが消えた。無表情になる。
「俺は何も言っていないが。」
克浩は顔をあげて斎藤を見た。探るような目で斎藤を見る。いったいこいつは、
なんの目的で....
「お前次第でそんな目には会わずには済む。」
「俺次第だと ? この俺に裏取引でもさせるつもりか ? 真っ平ごめんだ。お前たち
に荷担するぐらいなら投獄される方がよっぽどましだ。」
克浩は一気に捲し立てた。斎藤はそれを面白そうに眺めている。
「まあ、そういきりたつな。俺は何も言ってないと言っているだろうが。」
「戯言はもうたくさんだと言った筈だ。」
克浩は斎藤をにらみ付けた。斎藤は表情を変えない。
「投獄された連中が、どういう目に会わされるか、知らないわけではないだろう。
あまり面白い体験ではないぞ。」
・・・たしかに、それは身震いするような事であるに違いない。克浩もそこで何
が行われるか、いろいろな噂を聞いていた。
「地元警察の末端の操作の矛先を変えることなど、俺にとってはたやすいことだ。」
いったい、この男は何が言いたいのだ ? 克浩は怪訝に思った。
「お前次第で、お前とあの喧嘩屋に警察が関知することなど無くなる。」
左之への言及に、克浩の肩が針で刺されでもしたかのように動いた。克浩は顔を
あげて斎藤を見た。口を固く結び、顔が強張っている。
「お前がそれをただでやる筈がない。」
「その通りだ。俺は慈善家でも、抜刀斎のようなお人好しでもない。」
「いったい、見返りに何を要求するつもりだ ? 」
「簡単なことだ。」
「簡単なことだと ? 」
克浩は怪訝そうに聞き返した。わからない。何故この男はこんなもったいぶった
言い回しをする ? いったい、何を企んでいる ? 何を取引の材料として持ち出すつ
もりなのだ ? 克浩は緊張して相手の出方を待った。斎藤の目が少し、細められる。
行灯の淡い光が、彼の顔に陰影をつけている。彼の表情が読めない。斎藤はゆっ
くりと動いた。彼の白い、しみひとつない手袋をはめた左手の指先が、克浩の右
側のフェイスラインにのばされた。ほんの少し乱れてかかっていた髪を後ろに避
けると、頬から顎の方にゆっくりと降りていく。克浩は目を大きく見開いて斎藤
を見つめながら、呆然としてされるがままになった。その指の触れていったあと
の感触は、それらが離れていった後でさえ痺れたように残った。斎藤の目には、
穏やかで満足気な色が浮かんでいる。獲物をその懐にすでに捕らえてしまった肉
食獣のような・・・もう自分の獲物が逃げられないと確信している獣の目だった。
斎藤の指先が喉から鎖骨に届いたとき、克浩は黙って目を閉じた。
「好きにしろ。」

ー*ー

' 隊長......'

克浩は床の上に横たわり、黙って天井を眺めている。その顔は恐ろしく無表情だ
った。自分の体躯にかかる男の体の重みとそいつの服に染み付いた煙草の匂いに、
彼は窒息しそうだった。そのなかに、かすかに血の匂いを感じるのは、自分の気
のせいなのだろうか ? 彼はすべての今肉体に受けている感覚を、自分の感情から
切り放そうとした。この男が踏み躙っているのは、肉体というより、彼の自尊心
だった。好きでもない相手に体を開くことは、彼にとってはたいした苦痛ではな
い。過去には感情抜きで、欲望だけを共有した相手もいる。男でも、女でも。し
かしこの男は力で彼を捩じ伏せ、彼を蹂躙している。克浩はそれが口惜しかった。
これは彼の意志ではなく、抵抗すら許されずそれにしたがっている。強姦された
ところでこんな屈辱を感じることはなかっただろう。彼の心は徐々に現実から遊
離し、過去の記憶のなかに漂った。

' 何故、俺は、今まであのときのことを忘れていたのだろう。 '

ずっと、その記憶を、どこかにしまい込んでいた。隊長は罪人のように縛り上げ
られ、罪人として処刑されようとしている。彼は静かに、自分の最後の時を待っ
ている。その目は閉じられ、自分の過酷な運命に逆らう気はないように見える。

' 隊長 、隊長 ! '

走って隊長の側に行きたいのに、何かが邪魔をして、幼い克浩は近寄っていくこ
とができない。そのもどかしさに、彼は全身の力をこめて絶叫する。

' 隊長 ! '

克浩の声に、隊長が目を開けてこちらを見た。いつもと変わらない優しい目だ。
かすかに、微笑んでいるようにすら見える。何かを言いかけるように、隊長の唇
が開いた。

' 隊長 ....... ! '

地面に、それが、転がった。克浩はそれを呆然と見ていた。すべてが、今見てい
るすべてが現実のものとは思えない。まるで夢のなかにいるようだった。それか
ら、しばらくの間の記憶が欠落している。気が付くと、記憶のなかで彼はひとり
だった。

彼は、泣くことすらできなかった。その巨大な喪失感に、彼の心はその一部が麻
痺してしまった。そうでなければ、彼は狂っていただろう。あまりにもひどい肉
体の損失をこうむった人物がしばしば痛みを感じないように、彼の心はその痛み
を自分から切り放した。そしてそれと引き替えに、彼は諸々の物も失うことにな
る。彼の頭は隊長が処刑されたときで時間が止まり、他人に対する興味も失った。
彼は誰も愛さなかった。自分自身をさえ慈しむことをやめてしまった。左之が現
れて彼の心をほぐしてくれるまでずっと。左之はそれを、自分を危険にさらして
まで行ったのだ。 ーもし、斎藤が左之の名前を出したりしなかったのなら、
克浩は脅迫に屈しなかったかも知れない。どんな理由にせよ、彼の隊長を死に追
い遣った明治政府に屈するぐらいなら、彼は処刑台の方を選んでいただろう。だ
が、左之を巻き込むとなると.....

あのとき、左之が自分を克浩と彼の赤報隊に向かって差し出したとき....克浩は麻
痺していた自分の感情の一部を取り戻してしまった。そしてそれは空白だった時
間の反動を伴って、左之に向かって流れ出した。もし必要なら、彼は左之のため
に死ぬことだってできたかも知れない。

' 隊長の頭が地面に転がって...... そうだ....隊長は、死んだ、んだ。'

男の体の動きに伴って、彼の頭も揺れている。黙って天井の一点を凝視している
彼の目から涙がこぼれ落ちた。

ー*ー

ー子供の声が遠くに聞こえる。何か話しながら、二人で笑い転げている声だ。

' ああ....左之と俺だ.... '

左之ほどでないにしろ、彼は笑う子供だった。隊長が処刑されるあの日までは。

' お前がいろいろなことを、ただ口にださない性格だということを私は知ってい
るよ。'

一度、隊長が自分を無理やり膝に抱き上げると、そういってくれたことを克浩は
思い出す。

' お前は器用だし、よく気が付く。とても役にたっている.... '

彼は、克浩が左之に抱いているコンプレックスを理解していたのだろうか ? もし
隊長がいなかったら、克浩は左之を妬んでいたかも知れない。克浩の持っている
美質は左之の持ち合わせている物のように、理解しやすいものではなかったから
だ。彼はしばしば誤解され、疎まれさえした。もし、彼と一緒にいたのが左之で
はなかったら、彼はそんなふうに一部の連中から快く思われないなどなかったか
も知れない。だが左之のあの気性は強烈すぎて、回りにいるものをかすませてし
まう。....時折、誰も見ていないところで、そうやって隊長は克浩を抱き上げた。
もう、彼をそうやって抱きしめるものはいない。

ー*ー

克浩は一人で夜具の上に横たわっている。顔になんとも言えない、違和感を伴っ
た感覚があった。すでにその痛みは引いている。しかし、たぶん、少し腫れるだ
ろう。右目は充血しているかもしれない。だれかに殴られるなど、久方ぶりのこ
とだった。ーもう、斎藤はでていってしまっていた。まだ空が暗いうちに彼は黙
って服装を整えると、何も言わずに静かにでていった。まるで何事もなかったよ
うな態度だった。克浩は横たわったまま、出ていく斎藤の方を見ることもしなか
った。顔は横向きにされ、目は大きく見開かれていたが、何も見てはいない。体
が動かない。動かせないのかもしれない。夜が明ける前に井戸水で顔を冷やそう
と思うのだが、起き上がる気力が湧いてこない。彼はうつぶせになったまま、夜
具の上に微動だにせずに横たわっていた。

' 斎藤は、俺がお気に召さなかったらしい。 '

克浩は自嘲的に呟いた。

' 期待に添えなくて悪かったな。 お前は期待していたんだろう。俺が泣き叫び、
やめてくれと懇願することを ? '

斎藤の前で克浩は自分で帯を解くと、自発的におとなしく横たわった。それは彼
にとっての、精一杯の抵抗だった。見苦しいまねなど、この男の前で死んでもし
たくない。

彼は、子供の頃にはすでにそういった欲望がどういうふうに高められるかを学ん
でいた。凌辱されている女たちが泣き叫び、抵抗するとその度合いにつれて攻め
立てている方は喜ぶ。ー彼は戦場でそれを知った。

それだけなら、殴られたりはしなかったかもしれない。だがあのとき....自分はい
ったいどんな目をして彼を見返したのだろう ? 斎藤が彼に伸し掛ったまま彼の
目を覗き込んだとき....斎藤は一瞬目を細めると、次の瞬間、平手が彼の頬に飛ん
できたのだ。痺れるような痛みが頬に走った。そして何度もそれは繰り返された。
彼の目には、何か単純ではない怒りがあった。突き上げてくる衝動に、どうして
よいかわからないようなもどかしさが。殴られながら、奇妙なものを、彼は感じ
取っていた。

' こいつは、もしかして苦しんでいるのか ? '

克浩は、その彼の暴力の下で、斎藤のやり場のない叫び声を聞いたような気がし
た。

ー*ー

うつぶせに部屋で独り横たわったまま、彼は微動だにできなかった。疲れさえ感
じなかった。何も感じない。うつるものを見てはいない目を見開き、ただ床の上
に横たわったまま、体が動かない。遠くで一番鶏が鳴いている。室内は行灯の光
で照らされているが、おそらく外は室内より明るいだろう。

' 寒い.... '

近所の連中が起き出し、生活の音が聞こえるようになってから、克浩はやっと眠
りに落ちた。

ー*ー

目を覚ましたのは、もう夕方近かった。見慣れた天井が目にうつり、暗くなりか
けた室内に違和感を感じる。何故こんな時間に目を覚ましたか理解できず、体に
残る気だるさがすべての感覚をぼんやりとさせた。徐々に、昨夜の記憶がよみが
えってくる。それが事実なのだと自覚するにつれ....克浩はその記憶のために呻
いた。激しい屈辱感の波が押し寄せてきて、彼の心を焼くように責めさいなんだ。
' 忘れろよ。 '
彼は呟いた。
' 忘れるのは、得意だろう。 '
彼は、過去にいくつかあった情事のことを思い出した。いつだって彼は終わった
ことを事実として受け入れ、過去のこととして扱うことができた。未練など持た
なかった。ー突然、違和感が彼の心を充たした。情事だと ? これはそんなものと
は、違う....

彼は、ぼんやりとそこに横たわっている。何もする気も起きず、そのままずっと。

ー*ー

「克浩、いるか?」
突然、いきおいよく戸が開けられた。克浩は、戸締まりさえしていなかったこと
に今更ながら気付いた。突然の来訪者に、克浩は電気が体に走ったように反応し
た。上半身を起し、うつむく。きっと、ひどい顔をしているに違いない。こんな
姿を見られたくはない。
「なあ、酒もらったんだよ、一緒に....」
左之だった。彼は時々、克浩の前で子供のような振る舞いをすることがある。昔
の子供だった頃の習慣がそうさせるのだろうか ? いきなり部屋に入ってくるとい
うこともそうだ。しまったと思ってももう遅い。部屋のなかは薄暗く、克浩の姿
はよく見えない筈だった。しかし左之はすぐにその不振さに気が付いた。
「おい、どうしたんだよ、こんな時間から床について。具合いでも悪いのか?」
そのまま戸を閉めるとずかずかと靴を脱いで上がってくる。
「克....? 」
克浩はとっさに腕で顔をおおった。掛け布団がずれて、彼が裸であるということ
が知れた。左之は、几帳面な彼がそんな格好で床についたりしないことを知って
いる。
「どうしたんだよ、何があった?!」
「さ....、の.....」
顔を見られたくなかった。たとえ殴られた痕がなくとも彼はそう感じただろう。
彼は自分を恥じていた。惨めに蹂躙され、見苦しい姿の自分。何があったか左之
に知られたくない。そしてどうしてよいかわからず、彼は左之に抱きついた。驚
きながらも、左之はそれをしっかりと受け止める。戸惑いながら、友人の名を呼
んだ。
「克浩....?」
そのまま子供のような嗚咽が洩れる。今まで耐えていたものが、せきを切って流
れ出した。彼の肩が小刻みに震え、熱いほどの涙が左之の肩を止めどもなく濡ら
した。左之は黙って彼の肩とウエストに手を回した。何があったかは知らない。
しかし今の彼はそうされたがっている。

ひとしきり泣いて、嵐のような慟哭がおさまると、克浩はゆっくりと左之から体
を離した。左之は優しくこの友人の乱れた髪を撫で付け、黙って立ち上がると灯
を付けに行く。すでに部屋は暗闇にみたされていた。
「やめてくれ、左之、灯をつけないでくれ。」
「こう、暗くちゃ、お前の手当てもできねえよ。」
左之は恐ろしく優しい声で囁くようにいうと灯をつけた。その灯の眩しさに、克
浩は顔を覆う。その声とは裏腹に、左之の顔は怒りに燃えていた。
「左之、お願いだ。」
左之は勝手知ったる部屋で薬を取り出した。克浩のところへ戻ってきて彼の方へ
かがみ込む。
「どれ、見せてみな。」
左之は彼の顎に手をかけると優しく自分の方へ向かせた。彼は、おとなしくそれ
にしたがう。薬を指ですくいとると、それを彼の顔の傷跡に撫でるように塗った。
普段の彼からは想像もできない優しい手つきだった。
「これで、大丈夫だ。恵の奴がいい薬の調合法を知っているというから、明日も
らってきてやるよ。」
そして立ち上がると、湯飲みを二つ持ってきて、自分が下げてきた酒をついで克
浩に渡した。
「飲めよ。」
彼は黙ってそれを受取り、渡されたそれを半分ほど飲んだ。左之も自分の湯飲み
にそれをつぐと、一気に飲み干す。
「少し、落ち着いたか?」
「すまない、左之。」
克浩は左之を見ることができない。そのうち萎れた姿に、左之はさらに怒りをま
した。
「なにが、あった?」
左之は怒りを剥き出しにしていった。大事な友人をこんな目に会わせた何者かへ
のやり場のない怒りだった。
「お前をこんな目に会わせたのはいったい誰だ。」
「違うんだ、左之。これはなんでもないんだ。ただの喧嘩なんだよ。」
「嘘をつけ!」
「お願いだ、左之....たのむ....俺は....」
克浩は縋り付くような目で左之を見ると、押し黙った。何があったか、この様子
を見れば見当はつく。左之は無理には聞く出すまいと思った。こいつの性格は昔
からよく知っている。話したくないことをその口から引き出すのは不可能だ。そ
れに、いくら友人と言えど、知られたくないことが起ったことくらい想像はつく。
彼が話さないことに左之は傷付いたりしなかった。そういう天性の明るさを彼は
持っている。
「無理にはきかねえ。だが、俺の手が必要なときは言ってくれ。俺はいつでもお
前の力になってやる。」
克浩は黙ってうなずいた。彼が側にいてくれるということが、克浩には嬉しかっ
た。

次の朝、克浩は目を覚ましたとき、彼の布団に彼と一緒に丸まっている左之を見
て微笑んだ。のんきにいびきをかいて熟睡している。彼は、日溜りの匂いがした。

ー*ー

それから、たまに顔を出す程度だった左之の足が前より少し頻繁になった。一日
おきぐらいに、ひょいと顔を出しては、半刻ほど話し込んで帰る。飯、たかりに
きたぜ,という時もあれば、酒など下げてくることもあった。もっともたいてい
それでは足りなくて、残りは克浩が買ってくることになるのだが。ーしかし、左
之はあの夜のことには触れようとしない。それに関係したことも避けているよう
に見える。克が自分から話し始めるのを待っているのだろう。克浩は、この友人
の心遣いに感謝した。

しばらくして、徐々に、あのときのことを、生々しい衝撃を伴わずに見つめるこ
とができるようになってきた。忘れよう、と思った。だが左之には話せない。も
し左之がこのことを知ったらあいつのことだ、斎藤のところへ直談判に出かけて
いくだろう。そんなことをさせてはいけない。あいつは、あの男にかなわない。
それはあいつ自身さえも認めているではないか。これで事が済むなら、このまま
にしておきたい。克浩は、左之があの男のことを話すとき、口では悪口雑言で罵
りながら半ば称賛に似た気持を覗かせることを思い出した。左之が、この事を知
ったら、どれだけ傷付くことだろう。あいつが事実を知ったところで、俺が癒さ
れるわけではない。野良犬にでも噛まれたと思えばいいのだ。それが一番いい。

左之のことを思い出すと、自然に気持が慰められた。彼がいてくれることに、克
浩は感謝した。神か、仏か、何かはわからないがそんなことはどうでもいい。彼
と再び巡り合わせてくれたものに。













そろそろ冬の寒さの厳しさも緩んできていた。頻繁に運ばれていた左之の足も克
浩のところから徐々に遠ざかり、すべては元に戻りつつある。いや、完全にもと
に戻ることはないだろう。左之は克浩に対してすべてを忘れたふりをしているが、
それが単なる仮面であることを彼は知っている。あの左之が克浩の手当てをして
一緒に眠った夜以来、左之はどんなに夜遅くなり、したたかに酔っぱらっていよ
うとも、彼の部屋に泊っていくのを断りたがった。どうしても泊っていく羽目に
なったときは、左之は彼の夏用の夜具を引っ張り出してきてそれに寝たのである。

' 左之が俺と同衾するのを嫌がっている。 '

克浩はショックを受けた。それ以前に、左之が彼の部屋に泊っていくことがある
と、寒い夜など喜んで彼の布団に潜り込んできたものだ。そこには欲望の色合い
は全くなかった。子供だった頃と同様、子犬みたいに彼は克浩に擦り寄ってきた
ものだ。
' あったけえなあ。 '
そういって左之が克浩の体のどこかに顔を埋めるとき、彼は左之の日向のような
体臭を感じながらなんとも言えない暖かい気持になったものだ。自分が持てなか
ったもの、欠けていた何か、自分の心のなかにあった虚ろな空虚さが暖かくて柔
らかい光でみたされていくようで、克浩はそうして眠りにつくのが好きだった。

' 何故、こんなことになってしまったんだろう。'

彼は自分が凌辱された惨めな小娘のような存在で、お前は汚されたと宣告された
ように感じた。だから左之は俺をああやって避けるのだ。最近の奴は、俺に触れ
ることさえ避けているではないか。

ー*ー

様々な事柄に悩まされながらも、克浩はなんとか以前の調子を取り戻しつつあっ
た。時々、斎藤との事が夢ではなかったかという錯覚に捕らわれることがある。
彼はそれが単なる自分の願望であると知っているが、その空想に彼は慰めを見い
だしていた。

その夜、自分の部屋に一人で書き物机に向かっていた克浩は、かぎの掛かってい
ない自分の部屋の戸口が開けられる音に振り向いて、その口を開きかけたまま凍
り付いて動けなくなった。

' 斎藤、一 '

「久しぶりだな。」
そういって彼はあの特有な皮肉っぽい笑いを浮かべて見せた。斎藤は戸を静かに
閉めると、手慣れた手つきで鍵を掛けた。克浩は、恐慌に駈られた。狼狽して、
手を背後について後ろずさる。ー彼は、不意をつかれた。もう斎藤は来ないもの
と思っていたのだ。斎藤はしなやかな身のこなしで、一瞬のうちに克浩に近づい
た。立ち上がって逃げようとした克浩を、斎藤は彼の右手をつかんで床に引き摺
り倒した。
「やめてくれ、はなせ、俺が抵抗するつもりがないのは知っているだろう! 」
斎藤は何もいわない。彼を仰向けに自分の体の下に組み敷くと、腿に膝をかけて
体重をのせ、体の動きがきかないようにする。
「お願いだ、抵抗しないと言っているだろう。」
克浩は、訴えるように斎藤を見上げた。彼は何も言わない。斎藤の手が克浩の頬
にとんだ。そんなに強い力ではない。しかし彼を黙らせるに充分な力を持ってい
た。克浩はあきらめてなされるがままになった。

突然、誰かが戸をたたいた。
「おい、克。」
外から響いたその声に、克浩は痙攣するほどのショックを受けた。ー左之だ。例
の一夜以来、左之は必ず克浩に声をかけてから彼の部屋の戸を開けるようになっ
ていた。克浩は彼の声に動けなくなった。斎藤は手を止めない。まるで何も聞こ
えなかったかのように、自分の作業に熱中している。
「おい克、いるんだろ? 開けろよ、俺だ。」
行灯の灯はついている。居留守を使うことはできない。
「斎藤、お願いだ、放せ、左之が....」
克浩は小声で囁いた。斎藤の顔に、揶揄するような笑みが浮かぶ。

' この男、この状況を楽しんでいる....? '

克浩は恐怖に駈られた。左之のことだ、何か異変を感じたら、戸を壊してでも入
ってこようとするかもしれない。彼だけには、こんな痴態を見られたくない。そ
んなことになるなら死んだ方がましだ。斎藤が彼のなかへ乱暴に入り込んできた
とき、彼は自分のうめき声を殺すことができなかった。
「どうした ? 何かあったのか ? おい ! 」
左之の心配そうな声が響く。彼が戸を開けようとする音が聞こえた。克浩の顔は
横へ向けられ、視線が戸口に釘付けとなる。斎藤は他のことは全く気にかけない
様子で、自分の楽しみに熱中している。
「見られたくないんだったら、追い返せ。」
斎藤が耳元で囁く。仕事の報告でもしているような、そんな冷静な声だ。
「左之 ! 」
彼はやっとのことで友人の名を呼んだ。
「ああ、克浩、いったいどうしたんだ ? 何かあったのか ? 」
左之の不審そうな声が響く。
「左之、済まない、今日のところは帰ってくれ。お願いだ。」
声が少し、震えている。
「克浩....? 」
「後で連絡する。わかってくれ、左之。この埋め合わせはするから....」
「いったい何やってんだよ ? 病気にでもなったのか ? 」
「違う....違うんだ。野暮は言わないでくれ、わかるだろう ? 」
とりあえず、後のことは後で考えればいい。左之を追い返す方が先だ。克浩は自
分の声を殺すために、自分の唇を血がにじむほど噛みしめた。左之は黙っていた
が、しばらくして離れていく気配がした。
「思ったより、あっさりと引き上げたじゃないか。」
斎藤が克浩の顎を片手でつかむと、無理やり正面を向かせた。そのからかうよう
な口調に、克浩は激昂した。
「斎藤....お前.... ! 」
「あの坊やに見られるかもしれないと思うのがそんなに良かったか。」
斎藤は、声を立てて笑った。克浩は、斎藤の顔に平手を飛ばす。だがその手は難
なく直前でつかまれてしまった。強く握り締められ、克浩はその苦痛に顔を歪ま
せた。

' 誰が、お前なんか.... '

だが、すべての言葉は喉元で止まり、飲み下された。

反論、できなかった。

ー*ー

乱れた服装のまま夜具の上にぼんやりと座り込み、でていく斎藤の後ろ姿を眺め
た。斎藤は振り返りもしない。前回同様、服装を整えると、何事もなかったよう
な顔をしてただでていくだけだ。何も言わない。なんのそぶりも見せない。克浩
が目に入っているのかどうかも疑わしくなるような態度で帰っていく。斎藤がい
なくなると、彼の顔に笑みが浮かんだ。楽しそうな笑みではない。何か娼婦が自
暴自棄に笑っているような奇妙な笑い方だ。それに笑い声が加わる。こらえてい
るような声が、哄笑に変わった。自分でも何がおかしいのかわからない。ーその
実、彼は泣いていた。

彼は筆をとると、憑かれたように何かを描き始めた。その描いている行為以外、
何も目に入っていない。もし傍から見ている者があれば、彼が気が違ったと思っ
たかも知れない。

できあがると、彼は満足そうに微笑んだ。その顔は、子供か気違いのように見え
る。恐ろしく機嫌の良さそうな、それでいてそう思うには何か違和感がありすぎ
るような、そんな奇妙な顔だった。

ー*ー

左之は、克浩が無垢なままだったのだとなぜか勝手に思い込んでいた。男も女も
知らないと。人間嫌いな彼は、あまり人付き合いというものをしない。左之が知
ってる限り、女が訪ねてきてる様子もない。遊郭の内部に彼が詳しいのは、芸姑
の生き写しにしばしば行くためだと彼は左之に説明した。でも彼は女を買う話は
全くしない。
左之がいつ彼の部屋を訪ねてきても、彼は部屋にいて何か書いていた。いつだっ
て彼は左之を歓迎した。左之が勝手に部屋に入っていくと、彼は万年筆か筆を置
き、微笑んで左之の名を呼んだものだった。昔かけがえのない時間を共有した、
大事な友人だった。すさんだ気持が慰められたのは左之だって同じことだったの
だ。剣心が彼の心を開かせて、なだめたことは確かだが、彼に向かって子供みた
いな振る舞いをするわけには行かない。寒いと行って彼の布団に潜り込んだり、
酔っぱらってふざけて抱きついていくことなどできない。左之はもう子供ではな
いのだから。それに左之が剣心の人切り時代を知らないように、剣心も昔の左之
を知らない。ある部分、彼は剣心へよりも克浩へ心を開いていたかもしれない。
彼は時折、克浩に対して屈託のない子供のように振る舞った。あの日までは。ー
あの日以来....克浩を見る度、誰かが彼を自由にしたのだと、そのことが彼の頭を
離れない。彼をまともに見るのが辛いことさえある。左之は色事も恋路も別に全
く疎いわけではない。だがそれが克浩に考えが及ぶと、しどろもどろな何も知ら
ない少女のようになってしまう。左之にとって彼は肉親のようなものだったのか
もしれない。そうだとすると、今の彼は年上の異姓の身内のように感じられてい
るのかもしれなかった。彼の口元や喉から胸にかけて目が行く時や、体に纏い付
く着物から体躯の線が想像できる時、嫌でも何が行われたかを思い出す。左之は
彼に触れることができなくなった。彼はそれが怖かった。だが何が怖いというの
だろう?

あの日以来、左之は克浩には隠して誰が彼にあんな暴力を振るったのか、それを
調べようとはした。だがわからない。誰も浮かび上がってこない。だが、そいつ
は顔見知りだろうという推測には絶対の自信があった。そうでなければ、何故あ
んな下手な嘘をつかなくてはならないのだ?彼は何かを隠している。俺にさえ言
えない何か。その相手を見つけ出したら、たたきのめしてやるつもりだった。二
度とそんなことができなくなるほど後悔させてやろうと思った。....そうすれば、
俺達は元に戻れるのだろうか?再び彼が取り戻した、憂いのある表情を取り除く
ことができるのだろうか?また以前のように、屈託無く笑いながら彼の肩を抱く
ことができるのか?....そんなことにはならないとわかっている。左之は、痛いほ
どにそれがわかっている。砕けた陶器は、もう二度と元に戻すことはできない。

そしてこの日、彼の部屋に誰かがいるのを左之は知った。衣ずれの音と圧し殺さ
れた声が、嫌でもなかで何が行われているかを物語っていた。女ではない。もし
そうなら、克浩はあんなおかしな態度をとらない。

' こいつか....! '

左之は確信した。克浩の制止にいったん引き上げ、その男がでてくるのを待った。
できることなら、戸をぶっ壊してでも乱入していき、そしてあいつを救い出して
やりかった。しかし克浩のあの何かを隠している様が左之を押し止めた。何かが
裏にある。そしてその何かがわからないうちは下手なことができない。

彼の部屋からでてきたのは斎藤だった。

左之は、その場から動くことができなかった。指一本動かすことができない。目
を見開いたままその場に立ち尽くしていた。斎藤が立ち去る前に、隠れている左
之の方をちらと見たような気がした。どのくらい時間がたったのかはわからない。
左之は我に返ると、恐ろしいほどの驚愕に襲われた。なぜ、どうしてだ?!何故あ
の男が....

深い痛みが、彼の心をえぐった。斎藤一。彼に生きるための指針を与えてくれた
男だった。剣心は彼の10年の空白を打ち破りはしたが、彼の新しい生き方を示
唆していくようなものを持たなかった。彼は剣心を敬愛してはしているものの、
その生き方は彼の手本とはならなかった。そんななかで手探りで何かを追い求め
ていた彼は、斎藤に出会ったのだ。あの男が持つ、何か深く底知れないもの、一
級品の人間のみが持つ、剣心とはまた形の違う厳しい姿勢が、彼の魂を揺り動か
した。左之はあの男を越えてみせると誓った。口先では罵りながらも、あの強さ
と強固な信念に、心からの敬意を払っていた。それなのに....

嵐のような驚愕が過ぎ去ると、左之を支配したのは怒りだった。

ー*ー

左之は克浩の部屋の戸をしばらくにらみ付けると、怒りを圧し殺した声で彼に声
をかけた。
「克浩、俺だ、入るぞ.」
返事は、ない。何も物音が聞こえず、しん、としている。
「克浩!」
何かあったのか?!彼は叫ぶようにして克浩の名前を呼ぶと乱暴に戸を引き開けた。
克浩は、背中を向けて書き物机の前にうずくまっている。のろのろと、左之の方
へ振り向いた。
「ああ、左之....」
虚ろな目だった。ちゃんと物を見ているかも疑わしく思えるような....動きに力が
なかった。左之は後ろ手に戸を閉めると、彼へと飛んでいった。靴が土間へと放
り出される。彼の肩を両手でつかんで揺さぶった。
「おい、克浩、大丈夫か?!」
克浩は左之を見上げた。生気のない目だが、ちゃんと彼を見ている。左之の目が、
彼の後ろの机の上の物を捕らえた。絵だ。彼はこれを描いていたのか?克浩がそ
れに気付くと。彼の目に色が戻った。手を伸ばして隠そうとする。だが、左之の
動きの方が早かった。左之はそれを引ったくった。
「返せ ! 」
克浩はそれを取り返そうとしたが、左之は立ち上がってそれを避けた。その絵を
一瞥してから、彼を呆然と見下ろす。
「克浩.... 」
その絵は、斎藤の顔をした鬼が、克浩を食らっている姿だった。彼は黒い悪鬼の
腕のなかでなすすべもなく貪られるにまかせている。墨一色で描かれた絵で、そ
の色味の無さが逆に凄惨な匂いを醸し出している。左之は確信した。何が起って
いるかはわからないが、こいつは自分の意志であの男に身をまかせているのでは
ない。斎藤は克浩を追い詰め、ずたずたにしようとしている.....克浩は、黙っ
て彼を見つめている左之の視線に耐えられなくなった。自分の見られたくない内
部が、すべて彼にさらけ出されているような気がした。
「俺をそんなふうに見るな、左之、見ないでくれ、お願いだ。」
「お前、あの男に無理強いされてんだろ。何でだよ、なんで俺に相談しない ! 何
があったっていうんだよ ! 」
「俺は、お前にだけはこんなことを知られたくなかった。忘れようとしたんだ。
だがお前はあれ以来、俺に距離を置いて近づいてこない。俺に触れようともしな
い。俺が汚れてると思ってるんだ。俺を病気持ちの淫売と同じだとでも思ってる
んだ。」
「克浩 ! 」
左之は驚いた表情で、彼の左腕をつかもうとした。だが彼は痙攣したように反応
すると、身を引いてその手を逃れた。
「俺に触るな ! 」
彼は口を真っ直ぐに引き締めて、震えながら拒むように左之を見ていたが、やが
て机の上に突っ伏した。
「俺を....ほっといてくれ.... 」
克浩の、肩が震えていた。左之はしばらく呆然としてそこにたたずんでいたが、
やがて黙って背中を向けた。
「済まない....、克.... 」
左之は背中を向けたままそういうと、外へ走り出していった。
克浩ははっとして顔をあげると、振り向いて彼の名をさけんだ。
「左之 ! 」
だが彼の動きは恐ろしくすばやい。その声は左之には届かなかった。克浩は開け
放たれたままの戸口にたたずむと、彼の名を呟いた。

' 俺は、そんなつもりじゃ、なかった。'

俺は、馬鹿だ、と、克浩は思った。

ー*ー

克浩が独りで自責の念に苦しんでいる頃、左之は斎藤の勤務先である警察署の前
にいた。克浩はこの友人の思い込みの激しさを良くわかっていなかった。彼にと
っては斎藤こそ諸悪の根源(?!)であり、克浩が思い込んだように、彼は克浩を色
眼鏡でなぞ見ていなかったし、彼の昏い欲望など眼中になかった。彼は無意識に
それを無視していたに違いない。克浩にも欲望が備わったひとりの人間だという
事がきちんと認識できていたかどうかも疑わしい。左之の怒りは、すべて斎藤に
向けられていた。彼は克浩が自分を拒んだのは、蹂躙されていることを知られた
事で自尊心を傷つけられたのとそれに対する羞恥だと思っていた。
'さて、どうしたものかな。 '
左之は警察署の建物を見上げて呟いた。正面から面会を申し込んだところで、あ
の男が俺にすんなり会うとは思えない。そもそも今、こんな時間にあの男がここ
にいるかどうかもわからない。まともに頭が働いているならいないと考えるのが
普通だろう。だんだん頭が冷静になり、もしかして自分がとんでもなく無益で馬
鹿げたことをしているのではないかと思えてきたとき、その当人が姿を現した。
黒ずくめの長身の男。左之がそいつを見間違えることはない。

' 下手な尾行だ。俺が気が付くのを期待しているのか? '
斎藤は苦笑した。彼はわざと長いこと左之を引っ張り回した挙げ句、いつしびれ
をきらすかと待ち構えてみたのだが、いっこうに近づいてくる気配がないのにう
んざりし、こっちから止まってやることにした。
' 少し付き合ってやるか。 '
斎藤は角を曲がると、立ち止まり屏に凭れかかると煙草に火を付けながら追跡者
を待った。憮然としていたそいつは、寛いだ様子の斎藤を見ても表情を変えなか
った。
「人の散歩に付き合う趣味でもあるのか? 」
「ずいぶんな時間に散歩する趣味があるんだな。 」
斎藤はにやりと笑った。左之は両手をジャケットのポケットに突っ込んだまま、
むっつりとして斎藤をにらんだ。
「最近の警察は暇らしいな。 」
「なんのことだ。」
斎藤はたばこの煙を吐いた。それは左之の顔を少し掠めたが、彼は眉一つ動かさ
なかった。
「市井の奴を脅したりしているらしいじゃないか。 」
「ほお、そんな奴もいるのか。こまったものだな。 」
「しらばっくれるんじゃねえ ! 」
左之は叫んだ。
「いったい、お前、克に何しやがった?! 知らねえとは言わせねえぞ。」
左之はすさまじい目で斎藤をにらみ付けた。斎藤は、少し、忍び笑いを漏らした。
「いったい、何がおかしい?!」
「いや、お前が言っているのは、月岡克浩のことか?」
「他に、誰がいるんだよ?」
「いったい、お前は何が言いたいんだ?」
「あいつから手をひけ、二度とその顔をあいつの前にだすんじゃねえ。」
「なんの権利があって、お前はそんなことを言いにきたんだ?」
「お前があいつを脅しているのを俺が知らないと思っているのか?」
「脅す?どうやってだ?」左之は黙った。克から直接話を聞いていない以上、下手
なはったりは使えない。知らないため、何かを言えば、斎藤が知らない克につい
ての情報を渡してしまうことにもなりかねない。
「いい加減にしろ。」
左之は、凄みのある声で言った。斎藤はうんざりしたように彼を見た。
「いい加減にするのは、お前のほうじゃないのか?」
斎藤は煙草を地面に投げ捨てた。真面目な表情になる
「当人から、お前は何かを聞いたのか?」
左之は黙っている。斎藤は少し間をおくと続けた。
「怖いんだろう、あいつが。」
「俺があいつを怖い、だと?」
「そうだ。お前の知らないあいつを見せられるのも怖ければ、友情ごっこが続け
られなくなるのが怖いんだよ。自分の本心を知られるのもそうだろう。あいつは
お前に興味を持っていない事を知っているから、お前は本心を隠して友人の顔を
して近づき、その実どうしようもなく自分を持て余しているんだ。お前は大した
役者だよ。あいつでさえ、そんなことには気が付いていない。それとも、お前本
人でさえそれがわかっていないのか?」
左之は呆然として口を開きかけたが、何も言うことはできなかった。
「そういうことだ。子供はとっとと帰るんだな。自分が欲しいものさえ把握でき
ないのはただのガキだ。」
斎藤はきびすを返した。左之は、石のように動くことができなかった。斎藤が見
えなくなった後も、そのままずっと、佇んでいた。

ー*ー

' 違う....違う、俺はそんなんじゃねえ....! '

体のなかに、淀んだ疲労感が澱のように沈んでいた。持っていた杯の中身をあお
るようにして飲む。郭の一室で、彼はひたすら酒を体に流し込んでいた。

「どうしました、今日は。」
相方が酒をつぎながら聞いてくる。少し前に馴染みとなった。あれはいつだった
か、冷やかしのつもりで郭の顔見世をぶらぶら歩いていた彼は、この妓に目をと
めたのだ。あまり上等ではない場所で、左之に嬌声をあげる他の妓とは少し離れ
て、ひっそりと座っていた。そのもとから白い肌を除けば、取り立てて人目を引
く妓ではない。ただの気まぐれだった。そのおとなしい性分に似合わない気位の
高そうな勝ち気な瞳が、彼女の元の身分を物語っていた。たぶん、維新後に掃い
て捨てるほどあるわけありの経緯でここに流れてきたのだろう。
「お前の身の上話を、してくれないか?」
「私の?」
左之を見つめていた妓がふっと視線をそらす。何かを思い出したのか、ほんの少
し、一瞬だけ悲しそうな顔をした。
「聞いて、面白い話じゃございません。」
「話したく、ないのか?」
彼女は静かに微笑んだままなにも答えない。
「済まないな。誰にだって、話したくないことぐらいあるさ。聞いて悪かっ
た。」
「何か、話してみたいことでもあるのですか?」
左之ははっとしたように、彼女を見た。間をほんの少し置いて、答える。
「いや....ないさ、面白い話など、別にない。」
左之は、笑った。

妓を腕に抱きながら、左之が持ち出してきた克浩の絵が脳裏を掠めた。それはま
だ、左之の上着のポケットに入ったままになっている。
' お前は自分の本心を知られるのが怖いんだ。 '
斎藤の言葉が頭に浮かんでくる。
' 黙れよ ! '
' おのれ自身を持て余し.... '
' 黙れ ! '
' お前の知らないあいつを知るのが.... '
陶酔した表情の妓を見下ろすと、その顔は、あの絵のなかの克浩になっていた。
絵のなかの彼は、鬼に食らわれながら、その顔が恍惚としていて....
左之は、動けなくなった。その不審な様子に、妓が声をかける。
「どうしたの?」
左之は、ゆらりと立ち上がり、恐ろしいほどの速さで部屋を飛び出していった。
妓が、不安そうにそれを見送った。

ー*ー

左之は、どこをどう走ったものか、川の土手にきている。草の上に座り込むと、
呆然とした。自分が何を考えているのか、いまだに信じられない。
'あいつは....あの白い肌も柔らかそうな軽い髪も....線が細い中での気位の高そう
な瞳も....時折見せる、寂し気な表情も....すべて俺に思い出させるから....だから、
俺は...'

' だから、眼をとめた。顔見世で、女を買う気など、なかったのに。だから、
俺は、あいつのところへ通い、馴染みとなって.... '

「ちくしょう ! 」
左之は叫ぶと、地面を殴り、眼を固く閉じて呻き声をあげた。慟哭のように聞こ
える。苦しさが胸のなかにわだかまり、物理的な質量があるかのように左之を圧
迫する。

' 克浩、お前の側で眠りたい....昔、隊長の側にいた頃のように....こんな思いに苦
しめられることなく....あの、お互いガキだった頃のように....なあ、克浩、俺はお
前の傍に、居たかったんだよ。でも、お前に必要なものは、そんなものじゃ、ないん
だな。'

夜が明けてきていた。やがて眩しい朝の日差しが、両足を抱え込んで座り、じっと
している左之を照らし出した。完全に辺りが明るくなっても、左之はそこから動け
なかった。

' 俺は、斎藤よりも、強く、なりてえ。'

左之は、力なく呟いた。克浩の絵を取り出し、それをぼんやりと眺めた。そのなかの
克浩が彼の胸を痛ませた。

' 克浩.... '

彼は心のなかで克浩の名前を呼んだ。心臓が押しつぶされるような苦しみに、思
わずその絵を握りつぶした。彼はそれを細かく引き裂くと、川に流した。それら
が流れて見えなくなる前に、左之は立ち上がり、そこを去っていった。少しうつ
むいてはいたものの、彼は後ろを振り返ったりはしなかった。

ー*ー

克浩を訪れていた左之の足が、ぱったりと、止まった。自分を心配してくれた左
之に、あんなひどいことをいったんだ、無理もない、と、克浩は思った。実はそ
れが全く違う理由にあることを彼は知らない。左之の長屋に謝りに行こうか、と
も思った。しかし、どうしても足が向かない。左之がどこに住んでいるかはもち
ろん知っている。克浩ははじめて、あれだけ左之と頻繁に会っておきながら、自
分自身は左之の方へ一度も足を向けたことがなかったのに気が付いた。
' 愛想をつかされたのかもしれないな。'
春ももう近づいて寒さも大分和らいできている。にもかかわらず、克浩は寒いと
思った。体の中から、寒さが湧き出てくるようだった。

ー*ー

夜更けに、克浩の部屋の戸を叩くものがあった。無言である。
'誰だろう。'
不用心にも、彼は誰何せずにそちらへ飛んでいくと急いで鍵を開けた。ー彼は、
誰かを待っているのだ。そんな自分に気が付くと彼は苦笑した。戸を開けると、
憮然とした面持ちの左之が外に立っていた。上着のポケットに両手を突っ込み、
酒気を帯びているらしい顔は少し赤い。
「左之 ! 」
彼は微笑んだ。左之に部屋へはいるよう促し、戸を閉める。
「久しぶりだな。どうしていた?」
彼は嬉々として、酒を出そうと棚に向かった。その克浩の左腕を、後ろから左之
がつかんだ。優しいつかみ方だったが、しっかりとした有無を言わせぬような力
がこもっていた。左之は無言だった。
「 左之 ? 」
克浩がいぶかしげに彼の名を呼んだ。左之は克浩の腕をつかんだままで自分の方
へ彼を向かせた。
「 克浩.... 」
左之が彼を抱き寄せたとき、彼は左之がふざけているのかと思った。左之が酔う
と、よくそういうことがあったからだ。彼はよく克浩に抱きついたものだった。
彼はいつも、上機嫌で子供みたいにふざけながらそういうことをやったものだ。
ーだが、いつもとは何かが違う。彼が克浩の顔を両手でつかんで口づけたとき、
克浩は呆然として抵抗もしなかった。信じられなかった。左之が、こんなことを、
何故、?左之が彼を放して真っ直ぐに見る。左之の眼にふざけた色はない。真剣
な、思い詰めた瞳をしている。驚きに彼は何も言えなかった。左之が彼を抱えあ
げて、壊れ物でも扱うかのように畳の上に横たわらせると、彼は我に帰った。
「なんのつもりだ、左之、放せ ! ふざけるのもたいがいにしろ ! 」
彼がふざけてなどいないのは百も承知だ。これは彼の最後の申し出だった。今な
らまだ間に合う。すべて酒の上での冗談にしてくれ、お願いだ、左之。彼は一瞬、
克浩の顔を眺めた。
「俺はふざけてなんていねえよ。」
克浩は、自分の願いが撥ね付けられたのを知った。彼は本気で気を変えるつもり
などない。克浩は逃れようと、上半身を起しかけた。左之がそれを制して左手で
彼の肩を押さえ込んだ。腕力で彼に敵う克浩ではない。
「やめてくれ、お願いだ。」
左之はなにも答えない。彼の体躯が自分の上に被さってくると、克浩は恐慌に駈
られた。体重で押さえ込まれただけで、克浩はもう逃げることができない。今度
は荒々しく口づけられて、彼の舌が克浩の唇を割って入ってくる。彼の手が克浩
の着物を割って胸に差し入れられたとき、左之が跳ね起きるようにして体を起し
た。膝をつき、信じられないと言うような顔をして克浩を見下ろしている。
「さ....の...」
克浩は身を起した。手が震えている。左之の唇の端から、血が一筋流れ出た。克
浩の口腔にも、左之のなまあたたかい血の味が広がった。彼が噛んで傷付けた、
左之の血の味だった

「お前は、そんなに、俺が嫌なのか....」
その左之の力のない虚ろな言葉に克浩は狼狽した。俺は....俺はなんて事を....
「違う、違うんだ左之....! 」
克浩は縋り付くような目で彼を見ながら叫んだ。しかし左之は克浩の言葉には眼
もくれず、身をひるがえして恐ろしいほどの速さで走り去った。克浩はただ黙っ
てそこに座り込み、それを切ない顔で見送る事しかできなかった。彼は左之を追
い掛けたりは、しなかった。

ー*ー

克浩は、じっと横になって、天井を眺めていた。左之を精神的にも、肉体的にも
傷付けた。大事なものを、傷付けたという自責の念にかられてはいるものの、彼
を拒否したことへの後悔の念は沸き上がってこなかった。あのとき、彼はああす
るしかなかった。左之は彼にとって愛情の対象ではあっても、そういう相手では
ない。そんなことは考えられなかった。

斎藤一。
今の克浩は、もう自分の昏い欲望に眼を背けたりしない。もし左之がいたなら、
彼はいまだに自分を偽っていたかも知れない。だが左之は去っていってしまった。
彼の一番失いたくなかったものは無くなってしまった。自分でそれを選択したこ
とに彼は自己嫌悪に陥り半ば自暴自棄になりながらも、もう自分自身を抑えるこ
とをやめてしまった。ーあのとき、左之と彼との戦いの後、克浩を彼は視線で絡
め捕った。もう、逃げられないことを、克浩は本能で悟った。彼は克浩を追い詰
め、捕らえた。今や獲物は望んで檻の中にいて補食されるのを待っている。彼が
はじめて克浩に触れたとき、いったいどんなふうに感じたか、自分自身にさえ
正確に説明することができない。ただ彼は待っていた。ずっとそれを待ち望んで
いた。あの男に愛情など感じない。彼がどうなろうと、克浩は気にも掛けないに
違いない。それでも伸ばされる手が欲しいのは、左之ではなくて斎藤なのだ。斎
藤に嫌悪感さえ感じながら、その一方で彼が来るのを望んでいる。彼は自分を淫
売だと思った。いや、淫売ですらない。金のために欲望を受け止めるというのは
どんなに純粋な行為だろう。克浩はそう思い直して自嘲した。

ー*ー

斎藤が克浩の部屋へ再びその姿を現したとき、克浩は黙って彼を見つめた。何も
言わない。笑いかけもしない。ただ黙って座って彼を見ている。彼が来るのを待
っていた。斎藤はそれを見て、何か考えているように眼を細めた。

斎藤が彼をつかんで引き寄せたとき、彼は陶酔したような眼差しをしていた。甘
い囁きも、うっとりするような愛撫も彼には必要がない。斎藤がそこにいるだけ
でいい。斎藤が彼をつかんだ部位が、痺れるような甘い感覚を彼にもたらしてい
る。斎藤の存在が彼の欲望を呼び覚まし、その先への期待へと誘う。こんなこと
は、斎藤がはじめてだった。彼はいつだって自分から進んで誰かと関係を持った
ことなどなく、相手に流されるかたちで何人かの相手と臥所を共にしてきたのだ。
それらを特に面白いとも思わなかった。特定の相手に対して執着も未練も持たな
かった。過去のどの相手も、他と同じその他大勢でしかなかった。誰とやって
もやり方が違うと言うだけで、すべては同じだと感じていた。

斎藤は煙草に火を付けた。きちんとした身支度をせずに、裸体に自分の制服のジ
ャケットだけを肩にかけている。克浩は寝そべったままぼんやりと斎藤を眺めた。
心地好い疲労感が彼の躯に広がっている。彼は斎藤に好意さえ持っているよう
な錯覚さえ起しそうになった。

斎藤は煙草に火を付けると、傍らのうつぶせになっている克浩を見た。
「お前のあの坊やだがな。」
左之のことか?彼の名前に克浩は緊張した。体を動かせない。
「このまえ俺がここにきた後で、俺に直談判しにきたぞ。」
「直談判....?」
克浩はいぶかしんだ.左之がいったい、こいつに何を....?
「お前に二度と近づくなだと。ずいぶんなご執心ぶりじゃないか。」
克浩は身を起した。顔が青ざめている。
「お前、左之に一体何を吹き込んだ?!」
「あの坊や、お前をどうにかしたくって、うずうずしていた。俺への嫉妬で気も
狂わんばかりだったな。」
「な...に....?! 」
「それを自分で認めたがらないから、指摘して教えてやったのさ。自分自身を偽
って、友情ごっこを続けるのは楽しいのか、ってな。」
「お前が、左之をたきつけたのか?!」
「たきつけた....? あの坊や、お前のところへ来る度胸があったのか。」
これは疑問でも質問ではない。彼はすべてわかった上で言っている。彼のそのふ
ざけた内容の言葉に、克浩は怒りで唇を緊張させた。こいつが左之を追い詰め
て....斎藤は皮肉な笑みを浮かべてはいたが、揶揄する口調はない。淡々とただ事
実を述べている。それでも克浩に理性を失わせるのに充分だった。

「あの坊やはよかったか?」

彼は我を失った。体が先に行動した。何も考えてはいなかった。傍らの斎藤の刀
を手にしようと、克浩は体を踊らせた。しかし、斎藤の右手が難なく彼の刀をと
ろうとした右手首をつかみ、畳に押し付ける。斎藤はわらっていた。
「なんのつもりだ?俺を殺したいのか?」
彼は克浩の背中に膝をかけた。彼の体重で床に押し付ける。克浩は動くことがで
きない。
「お前は知っていたんだろう、あの坊やが裏で何を隠しているか。」
斎藤のその言葉に克浩は体を硬直させた。彼の中で、何かがはじけた。隠し、ど
こかに押し込み、ない振りをしてきたその何かが、せきをきって流れ出てくる。
ああ、こいつの言う通りだ、俺は知っていた。知ってて知らない振りをしていた
んだ....俺は知りたくなかった。あのまま、こいつの言う友情ごっことやらを、ず
っと続けていたかった....済まない、左之、俺はどこまで身勝手な馬鹿だったんだ
ろう。苦しんだのか、お前 ? その挙げ句に俺はお前を傷付けた。すべては俺の
愚かさが招いたことだった....俺は、お前にどうやったらこれを償える?どうした
らいいんだ?教えてくれ、左之。
しかし斎藤、お前は....俺はお前は許さない。お前は俺達を....
「あの坊やは、どうやるのが好きなんだ?」
斎藤は克浩の押さえ付けた右手の甲に煙草の火を押し付けた。恐怖を伴った痛み
に、克浩は声を上げる。
' あ...ああ... '
なんとか声を圧し殺す。斎藤は手を離した。体を克浩からどかす。彼は自分の手
を抑えて体を丸めた。斎藤は、彼を仰向けに押さえ付けた。克浩はかすかに震え
ながら斎藤を見上げた。恐怖だけで震えているのではない。自分の内部をさらけ
出された屈辱に彼は震えた。だが、彼はもうただのか弱い獲物ではなかった。
「俺は、もう、自分をお前の自由などにさせる気はない。」
「ほお。」
斎藤は、彼を見下ろしながらわらった。克浩は彼をにらみ付けた。
「俺を、投獄するというなら、勝手にしろ。どうとでもするがいい。だが、もう、
お前に好きにはさせない。」
「お前は、自分で立場を選択できると思っているのか?」
「ああ、できるさ。お前が俺に触れる気なら、俺は自害する。それともいっそ、
お前が俺を斬り殺すか?」
斎藤はさすがに少し驚いた顔を見せた。だが、彼の頭と体は恐ろしく速く反応し
た。彼はさっさと何かを決断すると、克浩にろくに抵抗させる間を与えずに次の
行動にうつった。彼の口に何かが押し込まれ、取り出せないよう猿轡がかまされ
た。彼の抵抗もむなしくうつぶせにされ、両手は後ろ手に押さえ付けられ、縛り
上げられた。克浩は呻いた。舌を噛みきることすらできない。顔を上げることが
できないので、斎藤が何をしようとしているのか見ることもできない。斎藤は正
しい、と彼は思った。俺には自害を選択するだけの力すらなかった....。

斎藤の手が彼の背中に触れる。彼は斎藤が何をしようとしているのか悟った。斎
藤は、彼の言葉が正しいことを証明するつもりなのだろう。克浩は、彼自身がど
う思おうと、斎藤を自分の意志で拒否などさせてはもらえない。ーこの男は、俺
から大事なものをすべて剥ぎ取って持っていってしまった。克浩は、斎藤の体の
下で思った。左之も、俺の自尊心でさえ。俺自身でさえ知らないでいた俺の隠れ
た欲望を暴き出し、それを俺に見せつけた。

斎藤の性急さと乱暴さに、克浩は猿轡のままくぐもったような呻き声を上げた。
斎藤は、身内から沸き上がる得たいの知れない衝動に、彼をひどく攻め立てた。
それは、暴力だった。斎藤自身でさえ快楽を感じているのかどうか疑わしかった。
感癪持の子供が、想いの通りにならないものを、どうしていいかわからずに叩き
つぶしてしまう様に似ていた。

斎藤は、果てることができなかった。克浩から離れると、黙って彼を見下ろした。
そこにはいつもの皮肉も冷笑もない。慈しむような、かすかに悲しい目で彼を見
つめている。

斎藤は、彼になされた猿轡をそっと解いた。優しい手つきだった。この男でもこ
んなふうに他人をいたわれるのかと驚くような手の動きだった。

「克浩.... 」

斎藤は、彼の名を呼んだ。'お前'ではなく。こんなことははじめてだった。そし
てその声には嘲笑もいつもの冷酷さもなかった。穏やかな声だった。だが、克浩
は微動だにしない。まるで斎藤の声が聞こえていないかのように見える。

斎藤の手が彼の髪に触れた。横を向いている彼の顔にかかっていた髪がゆっくり
と退けられる。その指はこめかみから顎に向けて静かになぞられた。克浩は、眼
を見開いたまま反応しない。斎藤は、もう一回彼の名を呼んだ。最初と同じく優
しそうな声で。いつもの他人を欺くための仮面の優しさではなく、彼の本心だっ
た。唇が軽く彼の頬に押し付けられた。一瞬、間を置いて静かに離れる。斎藤は
彼の縛めを解いた。手首が赤くなっている。斎藤はそれをそっと撫ぜた。

ー*ー

それから二週間後、克浩は夜更けに一人で自分の部屋に座っている。左之も斎藤
も、あれから姿を見せない。

あの後、克浩は斎藤を拒否した。彼は自分の欲望を振り切って斎藤を拒んだのだ
った。彼を振り切るという、身を焼くような苦痛に彼は耐えた。ああなってさえ、
彼の全身が斎藤を欲していた。あの男が欲しかった。たとえどんな目にあわされ
ようと....だが斎藤はやりすぎてしまった。彼らしくもなく判断を謝り、克浩の触
れるべきではなかった部分までえぐりとってしまった。だが克浩を追い込んだの
は斎藤だが、そこまで斎藤を追い込んだのも克浩だった。彼の精神を支配してい
るのが左之だという事が、斎藤に自制心を失わせた。彼を知っているものが聞い
たら耳を疑うかも知れない。だが、時として人はどこかで、理解しがたい状態に
なることがある。あのときの彼は、十代の少年と何ら変わらなかった。もちろん
彼は他人と精神的にも肉体的にも関わることについて、何も知らないわけではな
い。彼は今までもう何人だったか覚えていないほどの相手と臥所を共にした。名
前さえ覚えていない相手も多いが、その中の何人とは様々な感情や駆け引きを経
験してきた。その段階で彼は相手に自分の感情を渡してしまわないすべさえ学ん
できたのだ。ーだが、あのとき、彼が克浩をひどく殴った夜....克浩は、自分でも
わかっていない。あのとき、斎藤が彼を殴ったのは彼の反抗的な目付きのためだ
けではなかった。克浩は無意識に左之の名前を呼んだのだ。克浩は交わりのなか
で左之を思い浮かべていたわけではない。ただ彼は助けを求めて何かに縋り付こ
うとしただけだった。だが斎藤はそれに激昂し、押さえのきかない感情にまかせ
て克浩をたたきのめした。そのつぶやきをきいた時点では、彼は自分を抑えるこ
とができた。だがその後の彼の視線を受けて....斎藤は狂ったような嫉妬に駈られ
たのだった。それから斎藤は我に返ると自分自身に愕然とした。克浩の部屋をで
ていったあとで、二度と彼のところへは行くまいとさえ思ったのだ。だが彼はそ
の誓いを破り克浩を不器用に望み、左之を彼から引き剥がし、そしてその結果が
これだった。斎藤は、望みすぎた。克浩の気持の中にいる左之の存在が彼を狂わ
してしまった。力を加減できずにすべてを壊し、逃すまいとして、彼を握りつぶ
してしまった。

克浩は、顔を上げて戸口を、見つめた。だれかの気配がする。何かの照明が一瞬、
戸の障子を照し、曖昧な形の人型がそこに浮かび上がった。

' ! '

克浩はいきおいよく立ち上がり、戸口へ向かって飛び出した。

戸を開けた瞬間、暖かさをはらんだ強風が桜の花びら達と共にいきおいよく吹き
込み、克浩はとっさに目を覆った。何枚かその花びらが、風を離れて彼の髪にま
とわりつく。

彼がふたたび目を開けるとそこに人影はなく、暗闇だけが濃い霧のように流れて
いる。

' 俺は、愛していたんだ。 '

でも、誰を? そして、何を?

花の匂いを運ぶ風以外、何の姿も其処にはなかった。















翳日向