日記とは別に、腹立たしいことなど。

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2001年10月7日(土) こんな「半額」に意味はあるのか?
NTTドコモの最近のCM。
妻「半額なんだって」
友人「何が?」
夫「家の電話から掛けたときの通話料が他社の携帯の半額なんだよ」

一瞬、意味が分からなかった。聞き間違いかなぁ、とも思ったが、何度も聞いているうちに、どうやら上記のように言っているみたい。

これって、ものすごくナンセンスなCMだと思う。つまり、家の電話(据え置き電話)からNTTドコモの携帯電話に電話したときの据え置き電話の通話料が、ツーカーやJ-Phonの携帯電話に電話した時の通話料に対して半額、ってことだよな。違うのかな、そう言う風にしか取りようがないんだけど。

だとすると、携帯電話自身の通話料(や、基本料金)についてはまったく関係ないことになる。これでユーザーを納得させようとか、新規に取り込もうとか考えているのだったら、NTTドコモは徹底的に腐りきっている。馬鹿にするのもいい加減にしろ、と言いたい。そんなことやる前に、携帯電話の通話料や基本料金を安くする方が先だろう。

結局NTTグループ内の抱き合わせ・談合みたいに思えて仕方がない。ユーザーはもっとNTTドコモに対して要望すべきだ。こんな親方日の丸体制の会社をいつまでも甘やかしていていいのか?

ユーザーを馬鹿にしているとしか思えないこんなCMを平然と流すNTTドコモに対して、ユーザーであるあなたは何とも思いませんか?


 
2001年10月4日(木) 暴走族ってなんでいるんだろう?
今日届いたメルマガから。

「広島県警は3日、暴走族特別取締本部の発足に合わせ、暴走族へのメッセージ『今暴走族に入っている君たちへ』を発表した。

『県警は、今日から特別体制をとって、君たちと向かい合わなければならなくなった。君らもよく知っているように、県警は、暴走や泥棒をした君らの仲間をたくさん逮捕してきたが、暴走しているときは、君らがけがをしないように慎重にやってきた。君らはそれにつけ込んで、パトカーを傷つける、物は投げつけるなどしたい放題。これを見た県民が怒るのもあたりまえだろう。』

『君らは、毎月、暴力団組員に金を払っているが、暴力団に守られてまで君らは走りたいのか。よく聞いてくれよ。族に入っていてはだめだ、とりかえしのつかないことになりかねないぞ。族にいるかぎり、暴力団組員やリーダーの命令にはどんなことでもしたがわなければならない。族をぬけると言い出せないでいると、あっという間に目のつりあがった一級の犯罪予備軍になるのだ。暴走族が、君らを傷つけ、一生を失わせるのだ。』

『残念だが、警察も全力を尽くして対応せざるを得ない。そのときには、君らはつまらない抵抗をしてはいけない。大けがをしかねない。今すぐに、族を出よう。われわれが力になろう。われわれは君らと争いたくないし、何より君らに幸せな一生を送ってもらいたいと思っているのだから。』などと訴えている」

なかなか真摯な内容だと思う。広島県警は、暴走族の取り締まりに対して、今までのやり方から一歩踏み込んで厳しく臨むことを決めたらしいのだが、このメッセージはその決意の現れなのだろう。

しかし、悲しいかな、このメッセージの真意は暴走族には届かないと思う。そもそも、暴走族がこのメッセージを読むかということが疑問だが、読んだとしても、軽く鼻であしらわれるのが関の山だろう。元々暴走族という人種はそういうものだ。人の言うことなどに聞く耳を持たない。それが彼らの存在意義なのだ。

それがいかに馬鹿げたことだということを彼らに早く気づいてもらいたい。


 
2001年9月9日(日) 携帯電話依存症?
夜、タバコが切れそうだったので、近くの自動販売機までタバコを買いに行った。そこで見かけた光景。

T字路の交差点があるのだが、その時信号はIの方が青だった。当然、この状態では、下から来る車が「進め」だ。一台の車が下から来て、右に折れようとしたその時、―の右の方から自転車に乗った女の人が信号を突っ切ってきた。車は急ブレーキ。でも、その女の子は何の悪びれる素振りも見せず、そのまま赤信号を渡って行ってしまった。手には携帯電話。そう、電話しながらの運転。

別に、その行為自体は悪いことではないと思うが、その行為に夢中になって信号無視をし、結果、事故を起こしそうになったことの自覚がないことが許し難い。運転手に謝るとか、ブレーキを掛けるとかの行為があっていいのではないか?
たまたま車の方が除けてくれたから良かったものの、あまりにも危機的な意識がなさすぎ。こういう風景を見ると、「携帯依存の女の子が多い」という良く聞くコラムもあながち嘘ではないな、と思う。もちろん、これだけのことですべてがそうだと括ってはいけないことは認識しているのだが…。


 
2001年8月31日(金) ナンバーカバーは必要ない。
ナンバーカバーに関すること、その2。

少し前から、高速道路の渋滞を緩和するために施行されたNシステム。料金所をほとんど止まることなく通り過ぎても、その車を特定でき、料金も後払いで精算できるというもの。ナンバープレートを赤外線で感知し、撮影するものらしい。これには、警察も絡んでいて、車による凶悪事件を解決するための糸口としても使われている。
そのことは、まったく反対ではない。むしろ、賛成と言っても良い。

ところが、近頃このNシステムから逃れようとする動きがあって、その最たるものが「ナンバーカバー」。主目的はオービスなどによる赤外線の写真に写らないように特殊なカバーをナンバープレートにつけるというもの。曰く、「プライバシーの保護だ」。

もちろん、プライバシーの保護は大切だ。でも、車で走っている状態を誰にも知られたくない、その自分のいる場所は秘密にしたい、という、そこまでのプライバシーを守る意義を見いだせない。言い換えれば、別に自分が今どこを車で走っているか、それを知られてもまったく困らない。公表されら困る、というような状況だったとしても、それが犯罪に関係ないのであれば警察に知られても構わない。大抵の車を運転する人はそう思うのではないだろうか。

やましいことをしていると実感している人、あるいは、スピード違反で捕まるのが割に合わないと思っている人が、このナンバーカバーを付けて抵抗しているとしか思えない。普段から意識してスピード違反を重ね、捕まらなければいいや、と思っている人は沢山いる。そう言う人は、捕まらないように、ナンバープレートを折り曲げたり、オービス検知用の無線装置をつけたり。結局は、自分の罪を棚に上げ、それを逃れることばかり考えている。

スピード違反の摘出を逃れるためにナンバーカバーを付けて、それで「プライバシーの保護」と叫んでいるのであれば、それは本末転倒と言うものだ。


 
2001年8月29日(水) 駐車違反を棚に上げるな
稲垣吾郎の逮捕について、あるテレビレポーターがこんなコメントを喋ったそうだ。「ちゃんと駐車違反の罰金を払っていれば良かったのに」。

おいおい、違うだろう。駐車違反だって法律違反だ。それを言うなら、「ちゃんと駐車場のあるところに停めればよかったのに」だ。


 
2001年8月27日(月) ナンバーカバー法政化
オービス逃れのナンバーカバーが法律で規制されることが決まった。
当然である。そもそも、オービスを逃れるために、カバーをかけて写らないようにしようという、その魂胆が情けない。というか、本末転倒だろう。
スピードを出し過ぎてオービスに捕まり、その証拠の写真を突き付けられて御用となってしまったら、まぁ、証拠もあることだし、自覚もあることだから、取りあえず行政に従いましょう、でも、その証拠の写真にナンバーが写っていず、車両を特定できないのであれば、それは、証拠とならず、捕まることもないのでは?、というのがナンバーカバーを付けるユーザーの大まかな理由だろう。
セコイ、セコ過ぎる。自分で法規を犯したことを認識しながら、それが証拠として確証できなければ逃れられるかも知れない、という、その確信犯的行動に無性に腹が立つ。
それならば、カバーもつけず、堂々とスピード違反をくり返し、オービスにも写ることを潔よしとしてそれを貫き通す方がよっぽど男らしいと思うのだ。

若者よ、なぜそんなに安易に目先を誤魔化してお茶を濁そうとする方向に走ってしまうのか?


 
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