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岬一郎の抵抗(全3巻):半村良:集英社文庫 20010603


あらすじ
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岬一郎は東京・下町に住むごく普通のサラリーマンだが、彼の体内では不思議な力が成長していた。一方、町内では犬や猫が連続死する異常事態が発生。公害とみた町内有志は都庁に陳情、岬も同道する。ところが、のらりくらりと応対する環境整備局課長が、有志たちの前で突然死した。そして第二の突然死が……。
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このあらすじは、いわばプロローグ。物語は、これから意外な方向に進んで行く。
岬一郎の体内に育った力は、やがて強大な超能力としてその力を発揮して行く。それは、人々に恩恵を与え、国民の英雄のような存在になっていく。決して超能力を悪用することはせず、また、自分のために使うことも封じて、ひたすら他の人々のために尽くそうとする岬一郎。しかし、そんな彼の力を脅威と感じるものが現れる。国家という存在だ。
国は、岬一郎を恐れる。もし、彼がその力をフルに使えば、国は根底から覆る。また、外国の出方も気になるところ。かくして、国が下した決断とは? また、岬一郎はそれをどう受けるのか?

何ともやりきれない内容だ。岬一郎は、結局キリストと同じ運命を辿るのか。彼の出現は早すぎたのか。
最後の野口の叫びを理解できた国の要人はいなかったのだろうか。

なお、この作品は日本SF大賞をとったそうだ。個人的には、下町SF大賞をあげたい。


 
種まく子供たち:佐藤律子 編:ポプラ社 20010528
あらすじ
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小児ガンという体験をとおし、人間の生き方を考える。
病気とともに生きた7人の手記をもとに、生と死、人間の絆、人間の尊厳、家族、医療のあり方などを考える。すべての人の胸を打つノンフィクション。
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小児ガンを体験して元気になった3人と亡くなった4人、計7人の手記を元にしたノンフィクション。それぞれの手記は子ども本人が書いた原稿が3。本人と家族の合作手記が2。家族が書いたものが2。当事者の気持ちがよく反映された体験談集となっている。

『種まく子供たち』というのは、小児ガンと戦う子供たちが、日々困難と向き合いながら生きている姿が、世の中に、元気の種、勇気の種、思いやりの種、生きることを考える種をまきつづけることができますように。そんな願いをこめて付けられたタイトル。

ことさら悲観的になっているわけでもなく、どちらかと言うと、勇気付けられる手記がほとんど。病気になることによって、却って自分のことがわかってくる、家族の絆が深まる。生きる意義を見出す、優しい人間になれる。「病気になってよかった」「今はガンになった自分が好きです」とまで言いきれるその大らかな気持ちに打ち震えた。

子供を持つ親なら誰でもが当事者になりうるというこの事実を真摯に受け止め、健康な今だからこそ、読んで勇気をもらいたい作品だ。


 
スティンガー(上・下):ロバート・R・マキャモン:扶桑社ミステリー 20010527

あらすじ
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テキサスのさびれた鉱山の町インフェルノの郊外に空から巨大な黒いピラミッド状の物体が落下した。その異様な物体は紫の光を発し、町を外部から遮断する。内部から出現したのは"スティンガー"(刺あるもの)――この町に逃げ込んだ逃亡者"ダウフィン"を追って現れた第二のエイリアンだった。"スティンガー"は、人間そっくりの分身をあやつり、"ダウフィン"の引き渡しを迫る。対決か、降伏か。閉鎖空間に展開する二十四時間の人間ドラマ!
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ダウフィンは、いってみれば友好的な異星人。かたや、スティンガーは情け容赦ない殺戮者。何しろ、人間のことを「虫けら」と言ってはばからず、片っ端から殺して回る。その描写は、さながら映画の「遊星からの物体X」「エイリアン」のよう。クーンツの『ファントム』を彷彿とさせる展開だ。

ダウフィンが人間の身体に憑依して、言葉を覚える過程が面白い。口語というのは伝えづらいものなのだなぁ、と発見。かたや、スティンガーはアッと言う間に言葉を覚え、その憑依した人の性格までも模倣する。この違いは何だ?

冒頭の、アル中の親父と不良グループのリーダーである息子のやり取りが泣かせる。父親はそんなチンピラな息子に腹を立て、まっとうに生きろと諭す。息子は息子で、アル中でだらしのない父親に嫌気をさす。お互いいがみ合っているが、憎み合っているわけでもない。この微妙なバランスを描いた手彫りのネクタイハンガーの話はなかなかいい。
この話があって、クライマックスの絆を深めるシーンが生きる。「おれも……愛してるぞ」この言葉に目頭が熱くなった。この辺はキングの人間模様を見る思い。

エンターテインメントとしては良好。一気に読ませてくれる。コディとミランダの恋模様をもう少し書いて欲しかったなぁ。


 
ハイペリオンの没落:ダン・シモンズ:早川書房 20010504
あらすじ
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連邦の首星、タウ・ケティ・センターの上空に色鮮やかな光条をいく筋も描いて、FORCEの無敵艦隊が出撃してゆく。宇宙の蛮族アウスターとの闘いの火蓋がついに切られたのだ。
艦隊が転位する先は辺境惑星ハイペリオン。時が逆行する遺跡<時間の墓標>を擁し、殺戮者シュライクが跋扈するこの星は、いまや、連邦全体の命運を分ける対アウスター戦の重要な拠点として全連邦の注目を集めていた。
人類の同盟者たるAI群<テクノコア>もまた、持てる予測能力を駆使して対アウスター戦に参与、その助言を受けて連邦政府は無謀なまでの軍力をハイペリオンにさしむける。
一方、アウスターに制されるまえに<時間の墓標>の謎を解明すべく、連邦政府の要請を受けて最後の巡礼がこの遺跡を訪れていた。それぞれの運命に翻弄される巡礼たちの眼前で、いよいよ<時間の墓標>が開き、すべての謎が解明される時が近づいていた……!
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とにかく難解。壮大なスケールだというのは分かるが、その繋がりを理解できないままクライマックスへ突入、といった感じ。
読み続ける気力があったのは、レイチェルの行方が気になったから。クライマックスの、父親であるソル・ワイントラウブとレイチェルの話はさすがに感動の一語。もう、涙モノだ。

あとがきで訳者が書いていたが、この物語は、科学的宇宙観と宗教的/神話的宇宙観の融合という、キリスト教文化の読者が馴染む物語ではないかと思う。故に、その文化に馴染みのない人にとっては、かなり難解でうち解けにくい内容だ。

しかし、この壮大なドラマはさすがに最高の宇宙叙事詩と言えるだろう。いろいろな人物の背景・役割・繋がり・宿命などを考えると、もう、頭がクラクラするのだ。これぞSF!


 
凍てついた夜:リンダ・ラ・プラント:ハヤカワ・ミステリ文庫 20010422
あらすじ
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酒を飲めば、すべて忘れられた。捜査中に少年を誤殺したことへの罪悪感も、それが元で警察を馘になったことも、愛する家族を失ったことさえ……ロス市警の元警部補ロレインは、酒に溺れ、街をさまよい、ついには売春婦に身を落とす。が、六年後、連続殺人事件に巻き込まれたことから、彼女は人生をやり直すことを誓う――どん底まで落ちた元女性警部補の、自己再生を賭けた捨て身の闘い。心を熱く揺さぶるハードボイルド。
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この物語は、ロレインがアル中からいかに立ち直るか、を描いた小説だ。ミステリとしての要素は薄い。実際、事件の猟奇性や、犯人の特定などはそれほど真新しいものでもなく、意外性にも乏しい。
ロレインがとにかく最初ボロボロ。こんな女を主人公にしていいのか、と思うくらい。その、とことん堕ちたヒロインが、どうやって再生していくか、という成長記録のような小説だ。だからといって、面白くなかったというわけではない。むしろ、アル中に身をやつす人間の行動はどんなものなのか、自分はそこまで行ってないぞ、という安心感みたいな、対岸の火事のような構えで余裕を持って読んでいた。でも、身につまされる話ではある。

今回は、アル中から立ち直るまでの話であったが、このシリーズは何作か書かれているらしいので、次回作からの展開の方が楽しみだ。というのも、エピローグがジワジワとした味わいで、まだ途中という思いを残しているのだ。

「なお、本書はミシェル・ファイファー主演で映画化も決定している」とのことだが、本当か? おかげで、ロレインをミシェル・ファイファーと同視してしまって、困ったモンだ。


 
マークスの山:高村薫:早川書房 20010415
あらすじ
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昭和51年南アルプスで播かれた犯罪の種は16年後、東京で連続殺人として開花した――精神に〈暗い山〉を抱える殺人者マークスが跳ぶ。元組員、高級官僚、そしてまた……謎の凶器で惨殺される被害者。バラバラの被害者を結ぶ糸は? マークスが握る秘密とは? 捜査妨害の圧力に抗しながら、冷血の殺人者を追いつめる警視庁捜査一課七係合田刑事らの活躍を圧倒的にリアルに描き切る本格的警察小説の誕生!
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殺人者マークスと16年前の事件の関係者との結びつきが弱い。何か、個人的に繋がりがあるのかと思って読み進めたが、そういうことではないらしい。マークスの異常な性格に依るところが多いが、その部分を取ってみると、なかなか興味深い。これが16年前ともっと密接に関わってくるともっと面白かったと思うのだが。

合田刑事らの描写が殺伐としていてぶっきらぼう。何か、ちぎっては投げ、ちぎっては投げの言葉のやり取りは、心が荒んでいるのではないか、などと感じた。実際の刑事はそんなものなのだろうか。

山の描写は面白い。できればもっとこの部分を書き込んで欲しかった。


 
恐竜クライシス:ハリー・アダム・ナイト:創元推理文庫 20010404
あらすじ
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うちのニワトリ小屋を荒らしてるやつがいる! ショットガンを手に飛び込んだ農夫の前に、そいつが立ちはだかった。巨大な爬虫類のような頭部、鋭い鉤爪のついた前肢、太く長い尻尾。デイノニクス、はるか太古に滅びたはずの恐竜。やがて、次々に現れた恐竜たちはイギリスの片田舎の町を襲いはじめた……彼らは、いったいどこから? 正真正銘、恐竜パニック小説の決定版!
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あらすじを読むと、ある小説・映画を真っ先に思い出すだろう。そう、マイクル・クライトンの『ジュラシック・パーク』(ハヤカワ文庫)。但し、この小説は『ジュラシック〜』の二番煎じではなく、こちらの方が『ジュラシック〜』よりも数年前に発表された小説だそうだ。
『ジュラシック〜』は、映画でそのCGによる恐竜のリアリティに度肝を抜かれ、かつ、うっとりとしたものだが、原作はかなりニュアンスが異なり、科学的な検証にかなりのページが割かれていた。もちろん、その内容も十分面白かったのだが、単純なパニック小説として読むとちょっと物足りなさが残っていたのも事実。

それに対し、この『恐竜〜』は徹底している。科学的な部分もあるにはあるが、あまり説得力がない。でも、それで十分だ。こちらの主流はあくまで恐竜が、街を、人を、動物を襲いまくる、という徹底したパニック的な要素に重点を置いた、超娯楽大作だからだ。その描写は遙かに『ジュラシック〜』を凌ぐ。恐竜が追いかけてくるシーンは鳥肌が立つほど怖い。

この小説があまりヒットしなかったのは、ひとえに不運だとしか言いようがない。あまりにも暴力的すぎて、残酷なシーンが多いからだろうか。でも、本来の恐竜なんてそんなものだろう。人間なんて、単なる餌でしかないだろうし。

ただ、主人公が「動物園」に潜り込む手段というのが姑息だなぁ。ありふれてる。


 
灰夜―新宿鮫7―:大沢在昌:カッパノベルス 20010329
あらすじ
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冷たい闇の底、目覚めた檻の中で、鮫島の孤独な戦いが始まった――。自殺した同僚・宮本の故郷での7回忌で、宮本の旧友・古山と会った新宿署の刑事・鮫島に、麻薬取締官・寺澤の接触が。ある特殊な覚醒剤密輸ルートの件で古山を捜査中だという。深夜、寺澤の連絡を待つ鮫島に突然の襲撃、拉致監禁。不気味な巨漢の脅迫の後、解放された鮫島。だが代わりに古山が監禁され、寺澤も行方不明に。理不尽な暴力で圧倒する凶悪な敵、警察すら頼れぬ見知らぬ街、底知れぬ力の影が交錯する最悪の状況下、鮫島の熱い怒りが弾ける。男の誇りと友情を濃密に鮮烈に描く超人気シリーズ第7弾!
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今回の舞台は新宿にあらず。作者は明確にはしていないが、鹿児島が舞台であることは明らか。しかも、主要な登場人物は鮫島以外登場しない。晶が少し鮫島の回想で出てくるくらい。そういった展開なので、さながら新宿鮫シリーズの外伝と言った趣だ。

作者が「タフな物語」と書いているが、確かに今回の鮫はタフだ。正味3日間(2日間?)という短い期間でさまざまな困難に立ち向かっていく。逆に、展開がスリリングな分、鮫島やその周辺の人たちの想いといったものが犠牲になった気がする。『風化水脈』でハードボイルドに目覚めた鮫島を一旦原点に戻した、とも取れる。

ストーリーは相変わらず複雑。というか、人々の繋がりに無理があるようだ。なぜこいつはこのようなことをするのか、という理由が弱い。読んでいて、理解できない。多分そこまで書き切れていないからこれくらいの長さになったのだろう。逆に、もっと踏み込んで書けば、冗長な物語になったかも知れないし。スピーディでスリリングな展開とは裏腹に、ヒューマンな部分を犠牲にした、といったところか。

ふと考えると、同じ作者の『走らなあかん、夜明けまで』と似ている。ハードボイルドかソフトボイルドかの違いくらいかも。


 
ドラゴンの眼(上・下):スティーヴン・キング:アーティストハウス 20010324

あらすじ
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――むかしむかし、何千年とつづくデレインという王国にふたりの王子が生まれました。父のローランドはかつてドラゴンを矢で射たおしたことのある勇敢な王様でしたが、ちょっと頭のまわらない人でした。母のサーシャは美しいだけでなく、心やさしい賢明なお妃でした。兄の王子はピーター、弟の王子はトマスという名前です。ところが、この幸せな王国には邪悪な魔術師のフラッグがおり、王の側近となって、いつか王国を転覆してやるぞとたくらんでいました。まず狙われたのはお妃でした。フラッグはいずれ王様もかたづけ、王子を意のままにあやつるつもりなのです。さあ、かしこいピーターとぼんくらなトマスの運命は? 王子はいかにして高さ九十メートルもある針の塔から脱出し、魔術師にたちむかうのでしょうか。そして「ドラゴンの眼」の意味するものは?……
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キング初の子供向けファンタジーとか。愛娘ナオミに捧げられたものを若干手直しして出版されたものらしい。物語中にもナオミという少女が登場するし、この物語が書かれていた時に、ピーター・ストラウブとの合作『タリスマン』も書かれており、そのストラウブの息子、ベンも登場する。また、主人公の王子の名前もピーターだ。あと、ローランドとか、フラッグもキングファンには馴染み深いもの。

ストーリー自体はごく正統派のファンタジー。お城、王国、魔術、ドラゴンといった道具立てがいかにも子供に受けそうな要素だ。そんな中、やはりキングだな、と思わせる部分もある。登場する人物の深層心理の描写など。悪意、憎悪、そういったものから生まれる情念の描写はキングならでは。この辺は子供にはちょっとキツイんじゃないか?

針の塔に幽閉される王子がその脱出を企てるシーンは、『刑務所のリタ・ヘイワース』の手口を思い出した。そんな長い忍耐を果たして耐えられるものだろうか? でも、トリックはいかにも子供向けらしく楽しい。

中盤から後半にかけて、王子の親友ベンとナオミ、それからハスキー犬フリスキーの活躍に心躍る。昔観た映画「グーニーズ」の冒険活劇を彷彿とさせる展開で、ハラハラドキドキ、ちょっとした恋もあって、微笑ましい。

悪の存在、フラッグはここでも健在。こいつはいったい幾つだ?


 
だれも知らない小さな国:佐藤さとる:講談社 青い鳥文庫 20010320
あらすじ
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こぼしさまの話が伝わる小山は、ぼくのたいせつにしている、ひみつの場所だった。ある夏の日、ぼくはとうとう見た――小川を流れていく赤い運動ぐつの中で、小指ほどしかない小さな人たちが、ぼくに向かって、かわいい手をふっているのを!
日本ではじめての本格的ファンタジーの傑作。
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やがて「ぼく」は、このこぼしさま=コロボックルと仲良くなり、その小山にコロボックルの小国を作ろうと決意する。しかし、その頃、その小山を崩して道路を造ろうとする計画が持ち上がる…。

ストーリーは、「ぼく」とコロボックルの交流、「ぼく」ともう一人のおとな「おちび先生」との出会い〜淡い恋をメインに、豊かな自然を背景にして進む。
道路建造計画を阻止するために用いた策というのが他愛もないことだが、そんなことは大した問題じゃない。ただ、自然破壊という問題を、当時(昭和34年)のころから抱えていたのだということには、いろいろ考えさせられるが。

コロボックルの愛らしさはなかなかのもの。こんな小人と仲良くなりたいものだ。それから、「おちび先生」との淡い恋も見物。

小学高学年くらいからが対象らしい。できれば、自然が大好きな子供に読んでもらいたい。


 
四千万歩の男(全五巻):井上ひさし:講談社文庫 20010317




あらすじ
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忠敬は下総佐原村の婿養子先、伊能家の財をふやし五十歳で隠居。念願の天文学を学び、千八百年五十六歳から十六年、糞もよけない"二歩で一間"の歩みで日本を歩き尽くし、実測の日本地図を完成させた。この間の歩数、四千万歩…。定年後なお充実した人生を生きた忠敬の愚直な一歩一歩を描く歴史大作。
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長い。とにかく長い。しかし、この五巻で終わったわけではない。というよりも、ここから本当の旅が始まったといっても過言ではない。
第一巻は、江戸から青森の三厩まで。第二巻は、蝦夷地測量。襟裳岬の手前まで。第三巻は、その帰路を現したもの。第四巻は、江戸に戻ってから再出発まで。第五巻は、伊豆測量の旅。そして、これから、いよいよ沿岸に沿っての旅が始まる…、というところで終わった。
ここまでで、全体の7分の1らしい。ということは、六百万歩足らずしか歩いていないということだ。この先はどうなるのか、はたして作者は書き続ける意欲があるのか?

今回の五巻では、蝦夷地測量の旅が面白い。未開の地、蝦夷地はどんなところなのか、また、アイヌ人はどんなひとなのか、伊能忠敬とともに楽しんで冒険させてもらった。また、時代背景をあしらって、この時代の武士に憤慨したり。結局、時代は繰り返しているのだなぁ、と感じる。

井上ひさしについて驚くのは、この測量の旅をこれほどイマジネーション豊かに発展させるその想像力のすごさ。恐らく測量日誌がこのストーリーの骨子となっているだろうが、この日誌というのがあまりにもそっけない。「何月何日。晴れ。どこそこまで何里。どこそこに止宿」こんな日誌が延々と続くのに、これに時代背景を絡ませ、また、腑に落ちないところは勝手に創造し、ドラマティックに読ませる力量はさすがである。

この後の、旅立ちの物語は書き継がれるのだろうか? もし、出るのであれば、第二の人生を迎える60歳(定年)を越えてから読んでみたい。


 
無敵のハンディキャップ:北島行徳:文春文庫 20010122
あらすじ
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「どうじょうの、はくしゅは、いらないのですね」安易な思考停止を排すべく、障害者対健常者のマッチメイクをも試みるプロレス団体「ドッグレッグス」。酒乱、女装癖、ソープランド通い…。情けなくてだらしなくて自分勝手で、けれど愛すべき等身大の障害者群像を描いた第20回講談社ノンフィクション賞受賞作。
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面白かった、いや、面白いといっていいものかどうか…。とにかく、魅力的な本であることには間違いない。障害者をここまでストレートに書くと、いっそ清々しいくらいだ。そこには変な同情も憐憫もとまどいもない。あるのは日常としての事実。

しかし、それにしても、障害者にプロレスをやらせるという発想はすごい。しかも、同情的な拍手を求めているわけではなく、あくまで本気。真剣勝負でプロレスをやっている。
さらにエスカレートして、健常者対障害者なんて試合もある。さらにすごいのは、重度の障害で立つこともできない者同士でプロレスをやらせてしまう。普通は、ここまでやると悪趣味で、反吐が出そうなものだが、やっている者達は真剣なんである。書いてる作者もなんのてらいも感じさせない。なんともすごいノンフィクションだ。

恐らく、作者もこの本を読んで感動して欲しいとか、障害者に対して偏見を無くして欲しいとか、本気で考えているわけではないのではないか? ストレート一本槍。可笑しかったら笑え、哀しかったら泣け、くらいの気持ちで書いたような感じだ。障害者も健常者と同じ人間なんだ、という気負いもない。それらをストレートに現した文体がこの内容にとても合っていると思う。

この作者のスタンスが文章に表れていて、それが小気味よい。そのおかげでジメジメした内容にならず、この物語を楽しめる。その文体は、かなりそっけない。しかし、伝わるものがある。この作者はこれが初出か? だとしたら、多分文才があると思う。ちょっと気になる作者だ。続編をぜひ読みたい。


 
人狼の四季:スティーヴン・キング:学研M文庫 20010120
あらすじ
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1年を通じて毎月必ず1度は巡り来る"満月"。その満月の夜に繰り返される惨劇の謎。真実を知った車椅子の少年マーティに迫る殺戮者の魔手。メイン州の小さな町ターカーズ・ミルズを血に染めて恐怖の四季が巡り来る…。
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1月から12月までの短いセンテンスを繋げた中編。当初は暦物語として、各月の短い話にバーニ・ライトスンのイラストをつけたものにしようとしたものが、行き詰まり、結局中編小説になったものらしい。
そのせいか、1月から6月までは散文的でつまらないが、7月以降はストーリー的なものになり、キングらしくなる。
あっと言う間に読める作品だが、却って特に面白いと感じるものでもない。ただ、パラパラとめくって、イラストを楽しんだりする分にはいいかも知れない。
むしろ、訳者(風間賢二)あとがきが、いろいろエピソードが書かれていて面白い。


 
天才伝説 横山やすし:小林信彦:文春文庫 20010120
あらすじ
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1996年1月21日、深夜のラジオが横山やすしの死を伝えた。それを聞いて著者は数年前にかかってきた彼からの電話を思い出す…。80年に芸術祭優秀賞を受賞、漫才ブームの頂点に立った<漫才道>の求道者、横山やすし。一方で不祥事が絶えず、謹慎を繰り返すやっさん。自暴自棄の中で自滅した彼の芸と人を描く。
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作者は『唐獅子株式会社』の著者だということは知っていた。しかし、その映画化にあたり、横山やすしが主役を演じていたとは知らなかった。そんなことから、著者と横山やすしの繋がりが語られていく。あまり懐古的な内容でないのがいい。

漫才ブームの頃も、花王名人劇場に出ていた頃も、その後の『久米宏のTVスクランブル』に出ていた頃も、知っている。勿論、晩年の彼も知っている。
何故、彼のことがこんなに好きだったのか、今もって判らない。ただ、憧れみたいなものはあった。横山やすしみたいに正直に生きてみたいという気持ちもあった。でも、しょせんそれは単なる偶像だということが判る。彼は弱い人間だった。精一杯虚勢を張ることが美学と信じていた。でも、だからこそ、そんな彼のキャラクターが好きだ。

確かに破滅型ではなく、自滅型だったと思う。でも、そうやって彼は短い人生を駆け抜けた。自分もずっと思い続けると思う、「むかし、横山やすしという漫才の天才がいた」と。


 
消えた少年たち:オースン・スコット・カード:早川書房 20010118
あらすじ
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フレッチャー一家は、インディアナのヴィゴアからノースカロライナのストゥベンへと、新天地を求めて引っ越してきた。だが、フレッチャー家の三人の子供のなかで、長男のスティーヴィはこの引っ越しにいちばんショックを受けていた。もともとひとりで遊ぶのが好きな子供だったが、その孤独癖はだんだんひどくなっていく。やがて、そんなスティーヴィに何人かの友達ができたようだ。だが、彼の話には腑に落ちないところがあった。だれそれと遊んだといって帰ってくるのだが、家の外で見かけるスティーヴィはいつもひとりだったのだ。その繊細さゆえに、学校でも友達ができず、空想の友達をつくったのか? そのころから、フレッチャー一家のまわりでは、奇妙な出来事がつぎつぎにおこりはじめた…。
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作者自身がモルモン教徒だとか。フレッチャー一家の長ステップも、その妻ディアンヌもモルモン教徒である。教会での洗礼の儀式など、馴染みのない人間にとってはまるで別世界のできごとでリアリティがない。また、その軋轢(思想の違い)や、仕事での衝突、夫婦喧嘩、親子喧嘩など、読んでいても面白くない。唯一味付けとして、スティーヴィの空想の友達と連続少年失踪事件がどう絡んでくるのか、それくらいしか読み続ける意義を見いだせなかった。

とにかくくどい!
いささか過保護に過ぎる(と感じる)子どもたちへの忠告。家のドア(や鍵)を開けたまま外に出てしまったことに異様なまでの恐怖心を感じる風潮。宗教的なことから被害妄想にかたまった人々の奇矯な行動、言動。ステップの、人の意見を頭からまともに聞こうとしない不遜な態度(これは後で誤解だと判明するが)。これらは、モルモン教徒だから、という十把一絡げで括っていいものなのか? わからない。

しかし、しかしである。それらはクライマックスの感動の前には吹っ飛ぶ。とにかく、最後に泣ける。犯人は誰なのか、などということは大したテーマではなく(でもビックリ)、家族愛に泣かされる。スティーヴィの告白に瞠目。読みながらページが涙でにじんだ。しかも、全てが解決するのがクリスマス・イブ。話の持って行き方がうまい。

表紙のイラストの少年たち、プロローグの「ぼうず」の話、大量発生する虫たち。これらの伏線が読み終わった後になるほどね、と思わせるが、ミステリ的な興奮ではない。むしろそれは付加価値。とにかく、スティーヴィの心優しさが身に染みる。

クリスマス・イブに起こった「奇跡」に心揺さぶられる、そんな物語だ。


 
心では重すぎる:大沢在昌:文藝春秋 20010108
あらすじ
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佐久間公は、ある人物から、かつて一世を風靡し、大ベストセラーとなった漫画家の行方を捜してほしいという依頼を受ける。また、自身が勤める薬物依存者の施設である「セイル・オフ」に最近入所してきた少年の更生のため、独自の調査も行う。やがて、調査を行っているうちに、ある女子高生と出会う。その女子高生は特異な個性を持っており、佐久間公は、その女子高生を憎むようになる…。
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私立探偵、佐久間公シリーズの6冊目。単行本で755ページ、とても長い話だが、あれよあれよと言う間に読み終わった。途中、相関関係を追うのに必死になるほど話がこんがらがるが、とても心に残るハードボイルドだ。

舞台は渋谷。若者が携帯電話を片手に彷徨し、また、喫茶店でもテーブルには携帯電話が人数の数だけ置いてある、そんな街が舞台。独自の主張を持っている、渋谷に集まる若者。その若者の心を理解しようと努める佐久間公。しかし、そこには深い隔たりがあった。この隔たりを埋めることはできないのか? 佐久間公はあがき続ける。

渋谷が舞台ということが大きなポイント。大沢在昌は、『新宿鮫』シリーズで新宿を、他の作品で六本木などを舞台に物語を書いているが、この若者の街、渋谷では人々とどのように接したらいいのだろう。

結局、現代の若者の事は大人には理解できないのか、それは歩み寄ることができない深い溝なのか、あるいは、佐久間公のようにとことん突き詰めて行けば、ひょっとして接点は見いだせるのか、そんなことを考えさせる物語だ。


 
ザ・スタンド(上・下):スティーヴン・キング:文藝春秋 20010104

あらすじ
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世界の終わりは、一台の車がガソリンスタンドによろよろとさ迷いこんできたことから始まった。ある軍事施設で事故が発生、超悪性のインフルエンザ、スーパーフルーが漏出してしまったのだ。厳重な警備をかいくぐり脱出してきた一兵士の一家の乗ったこの車から、スーパーフルーは瞬く間に全米に広まった。ほとんどの人は死に絶えた。しかし、なぜか免疫を持って生き残った者たちもいた。生者を求めて旅をつづけるそんな人々がうなされる毎夜の夢、それはネブラスカのトウモロコシ畑でギターを弾く黒人の老女の夢だった。夢の不思議な力に導かれ、老女のもとを目指す人々に忍び寄る黒い影。実は闇の男もこの絶好の機会に世界を征服せんと、心に病みを持つ者どもを集めていたのであった。
ついに正体を現した「光」と「闇」、「善」と「悪」の戦いの行方は・・・?
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長大な物語だが、不思議と読み終わった瞬間はそれを感じなかった。もっと読みたい、もっと読み続けたい、という欲求が残った。
物語は3部構成。第一部は、生き残った人々が夢に導かれ、マザー・アバゲイルの元へ、或いはランドル・フラッグの元へ。第二部は、それぞれの場所に集まった人々が集結し、次第に結束を深めていく。そして、第三部は戦い、そして帰還。そしてエピローグへ…。

第一部はお馴染みキングの、登場人物のエピソードを交えた、言ってみればキャラクター紹介。ここで数え切れない人物が登場するが、意外と戸惑うことは少なかった。『IT』では導入部のあちこち話が飛ぶ展開に戸惑ったものだが、『ザ・スタンド』ではそれほどでもない。スチュー、ニック、ラリー等のバックグラウンド、旅の行程が物語に深みを増す。
第二部は、それぞれ集った人達が友情・愛情・憎しみ・嫉妬など、世界が破滅する前と同じ事を繰り返していることが何となく滑稽だ。人々は戸惑いながらも共同生活を始めるが、次第に綻びが生じ始める。それは、「闇の男」ランドル・フラッグの陥穽によるものだ。善の方に位置する、マザー・アバゲイルとその同志たち。一方、悪のランドル・フラッグ。どちらも統率がとれているが、力はランドル・フラッグの方が強大だ。
そして、第三部。いよいよ善と悪の戦いが始まる。ロングクライマックスといっていい。これも、第一部、第二部があったればこそ。そうつくづく感じる。4人の男が西へ向かう。目指す先は西へ、ラスヴェガスへ。果たして4人の運命は? ランドル・フラッグを倒すことはできるのか?

一大叙事詩と言っていい。第一部から第三部まで、見事に繋がっている。だから、第三部のロングクライマックスが生きている。個人的には、或る人物の死が痛い。それもあっけない死。それがかなりの数に及ぶ。これは辛い。

不覚にも涙ぐんでしまった箇所が2箇所。いずれも知的障害のあるトム・カレンに絡んだ場面。一つはトムを送り出すシーン。もう一つは、トムがある事実を認めるシーン。涙無くては読めない。

第三部後半の、生き残った人達が一路東へ、ボールダーを目指すストーリーが感動的。

アメリカ人はこの『ザ・スタンド』をキングの最高傑作として認めている人が多いという。個人的には、『IT』の方が好きだが、この物語もこれから先長年心に残る物語として記憶するだろう。


 
  不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か:米原万里:新潮文庫 20001216
ロシア語の同時通訳で有名な米原万里女史のエッセイ。
同時通訳の難しさ、易しさ、面白さなど、小気味よい切り口の文体で綴っている。
通訳というと、あまりその存在を普段から意識したことはない。どちらかというと、黒子的な存在で、却って目立ってはいけない存在ではないだろうか?
この本は、そういった日陰的存在の通訳業を、とても魅力ある職業として読ませてくれる。

似たような職業に、翻訳があるが、こちらは海外物の小説などを読む関係上、結構昔から意識していた職業だし、実は憧れていた職業でもある。その翻訳業と通訳業の似ている点、異なる点も興味深く読めた。
何と言っても、いろいろな失敗談が笑えるが、当人達にしてみれば、笑い話ではすまないだろう。異国間の文化・風習の違いをまざまざと見せつけられ、それをうまく表現することの難しさを、これほどユーモラスに、しかも興味深く綴っている点が素晴らしい。

「駄洒落は転換可能か」「罵り言葉考」「方言まで訳すか、訛りまで訳すか」等々、とても興味深い視点から書かれているのが新鮮だ。特に罵り言葉に関する異国間の相似点を綴ったエピソードが面白い!
シモネタも結構出てきて、微苦笑することしきり。国は違えど考えることは同じだなぁ、などと妙なところで感心してしまった。

同時通訳の大変さも分かるが、それでも、この本を読んだことにより、これからのニュースなどの通訳者を見る目が変わったのは確かだ。


 
李歐:高村薫:講談社文庫 20001120
あらすじ
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惚れたって言えよ――。美貌の殺し屋は言った。その名は李歐。平凡なアルバイト学生だった吉田一彰は、その日、運命に出会った。ともに二十二歳。しかし、二人が見た大陸の夢は遠く厳しく、十五年の月日が二つの魂をひきさいた。
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面白い。なかなかハードな内容で好みだ。予感はしていたが。
本書は『わが手に拳銃を』を下敷きに新たに書き下ろしたものだそうだ。『わが手に〜』も、それ以外の高村薫の小説もまだ読んだことはなく、この『李歐』が初の高村作品だった訳だが、予想していた通りの濃密な小説である。ピーンと張り詰めた弦か氷のような文体が気に入った。

しかし、最初は戸惑った。一彰の無感動というか無機質な性格(決して平凡ではない)に戸惑い、男を捜しているといって、それが第8の男までいて、いったい何の話だろうと戸惑った。しかし、それも第1章のみ。第2章からは息をも継がせぬほどに面白い。のめり込む。

それにしても、なんと壮大な物語だろう。6歳から30代後半までの、平凡な男の半生にしては、あまりにも数奇だ。これほどまでに李歐が魅力的に描かれていて、かつ、男が男に惚れるということが、こんなにも美しく、妖しく、また羨ましいことなのか。
友情でもない、一彰と李歐の関係が妬ましい、羨ましい。さしずめ李歐は、天野喜孝描くところのイシュトヴァーンがイメージに合う。

全編に漂う桜の花の描写が美しい。関西弁も、中国語も耳に心地いい。


 
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