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ナイトホークス(上・下):マイクル・コナリー:扶桑社ミステリー文庫 20000531

あらすじ
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ブラック・エコー。地下に張り巡るトンネルの暗闇の中、湿った空虚さの中にこだまする自分の息を兵士たちはこう呼んだ……パイプの中で死体で発見された、かつての戦友メドーズ。未だヴェトナム戦争の悪夢に悩まされ、眠れぬ夜を過ごす刑事ボッシュにとっては、20年前の悪夢が蘇る。事故死の処理に割り切れなさを感じ捜査を強行したボッシュ。だが、意外にもFBIが介入。メドーズは、未解決の銀行強盗事件の有力容疑者だった。孤独でタフな刑事の孤立無援の捜査と、哀しく意外な真相をクールに描く長編ハードボイルド。
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これはハードボイルドではない。少なくとも私にはそう感じられた。どちらかと言えば、一般的な(広義の)ミステリーの範疇に入るだろう。
主人公のハリー・ボッシュは頑固で一匹狼的なところがあり、その点ではハードボイルド的要素はあるが、それよりもストーリーの謎解きの部分の方に重点を置いているように感じられた。
実際、上巻の途中から、まさかこの人が犯人ではないだろうな、という嫌な予感めいたものが働き、その疑心暗鬼に怯えながら読み続けたようなもので、ボッシュの台詞やその機微に浸れなかったというのが本音だ。(嫌な予感は的中してしまい、さらに憂鬱になった)
エレノア・ウィッシュというヒロインが登場するが、彼女がFBI特別捜査官ということで、何かにつけクラリス・スターリングと比較してしまったのはやむを得まい。「羊たちの沈黙」の中でのスターリングとウィッシュを比較すれば、圧倒的にスターリングの方が魅力的だ。
このハリー・ボッシュものはシリーズ化されていて、この後も数冊翻訳されているが、今のところ次回作は見送りとしたい。


 
奪取(上・下):真保裕一:講談社文庫 20000520

あらすじ
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一千二百六十万円。友人の雅人がヤクザの街金にはめられて作った借金を返すため、大胆な偽札造りを二人で実行しようとする道郎・22歳。パソコンや機械に詳しい彼ならではのアイデアで、大金入手まであと一歩と迫ったが……。
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傑作。文句なしに面白い。ここまで痛快な作品は久しぶりだ。
真保裕一は、「ホワイトアウト」「奇跡の人」と読んできたが、個人的にはこの「奪取」が一番気に入った。

上のあらすじは、物語全体の中では、ホンの序章的な部分でしかなく、これだけの話だったら、大して面白くはない。主人公は、まず、銀行の両替機を狙い、紙幣識別機を欺く偽札を作る。それは、機械を騙せばいいだけなので、人が見ればすぐに偽物だと分かるもの。この発想はユニークで、パソコンだけで偽札を作ってしまい、見事機械を騙し、1千万円以上の金を騙し取ってしまう。しかし、この方法を使えるのは1回限り。しかも、騙し取る金額にはどうしても制限が出てしまう。
そこで、主人公は、次に、誰が見ても本物と見間違う、しかも機械さえも本物と感知する偽札を作ることにする。
ここまでくれば、それはもう偽札とは言えなくなってしまう。かくして、主人公と、個性的で愉快な仲間たちが、悪戦苦闘しながら徐々に完璧な偽札作りに没頭する。完璧な偽札を作ること、そこに壮大なロマンを感じてしまった。
クライマックスは、手に汗握る展開。とても途中で止めることができなくなること請け合い。また、ラストも、登場人物の性格が現れていて爽快である。但し、エピローグは余計。

この小説は、コン・ゲームとしても優れているし、サスペンス、ロマンどれを取っても一級の娯楽品だ。楽しい小説が読みたいという人には、文句なしにお勧め。


 
リプレイ:ケン・グリムウッド:新潮文庫 20000512
あらすじ
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1988年10月18日、午後1時6分、中年の放送ジャーナリスト、ジェフ・ウィンストンは会社のオフィスで心臓発作を起こし、胸を掻きむしって息絶える。ところが、次の瞬間に母校の学生寮の一室で目覚める。25年昔の世界。大学一年生の若い肉体。精神だけは今後25年間に起こるはずの物事を覚えている…。こうしてジェフの人生のリプレイ―つまり再生、再演―が始まる。
(以上、解説より)
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前半は、ジェフの失敗の繰り返し。
もしも生まれ変わったらこういうことをしたいという、誰でもが考えることを行ない、成功もするが、失敗の方が痛手が大きい。その失敗を恐れて、3度目のリプレイでは別の道を選ぶが、やはり虚しいだけである。この調子で、延々とリプレイを繰り返すだけかと思われたが、4度目のリプレイである女性と出会う。
この女性と出会った事により、彼のリプレイは意味のあるものになり、物語は俄然面白くなる。特に、この女性と知り合った後のリプレイでの再会は、胸を打つ感動だ。しかし、それは、愛するものとの再会の喜びと共に、また別れがあることを知っているだけに、哀しく切ない。
この後半部は、「ハイペリオン」の「学者の物語」に通ずる哀しさがある。やがて、ジェフは、このリプレイがいつか終ってしまう事を知る。それが分かっているだけに、再会と別れがなおさら辛い。しかも、その再会には微妙なズレが生じてくる。
その無情さは、読んでいるこちらの胸を締め付ける。そんな小説だった。

なお、ラストは爽やかと感じた。
また、エピローグも効いている。リプレイはリプレイされる。


 
百年戦争(上・下):井上ひさし:講談社文庫 20000507

あらすじ
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ネコに変身してしまった小学生清くんが飛び込んだのは、銀座ネコvs築地ネズミの大戦争の真っ只中だった。清くんは三毛のオスとしてネコ軍団を率いることとなり、同級生秋子くんも加わって大騒動。どうやらネズミ軍団の長も同級生の変身した姿らしい。彼らの変身劇には世界的陰謀が隠されていて事態は急変!
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久々の井上ひさしである。中学生か高校生の時に、姉から借りた「モッキンポット氏の後始末」から始まり、「ドン松五郎の生活」「吉里吉里人」と読んできたが、それ以来かも知れない。
相変わらずの脱線はご愛敬としても、やはり面白い。純粋に、何も考えなくても楽しめる作品だ。
前半は、あらすじの通り、ネコに変身してしまった清くんの冒険物語である。ネコになった気分で、気ままな冒険が待っている。それは、時にシリアスになりそうで、実はならない。そのボーっとしたところもネコらしくて良い。
ところが、後半に入り、事態は一変する。神様・仏様・悪魔・宇宙人が入り乱れ、もう清くんは大変。しかし、少年の純粋な気持ちから、真実は導かれ、大団円を迎える。
しかし、それにしても、独特の世界観というか人生観、果ては、結局は人間への警鐘をユーモアの中にさりげなく盛り込む術はさすがだなと感じる。
物語としては、ご都合主義かも知れないが、もともと楽しむために選んだ本だ。井上ひさしは楽しい小説を読ませるにははずれはないと思っている。


 
少年H(上・下):妹尾河童:講談社文庫 20000504

「この戦争はなんなんや?」少年Hが抱いた疑問は、戦後50年以上経た今でもそっくりそのまま残る。
この物語は、昭和10年代から20年代の、まさに太平洋戦争のまっただ中に、小学生から中学生へと成長していく少年Hの、少年の目から見た戦争の記録だ。特に取り立てて悲壮感を煽るでもなく、子供が素直に感じた戦争のありのままが綴られている。その中で、少年Hは冷静に戦争の意義・意味について疑問を抱く。その時代は日本全国がひとかたまりになって間違った方向へ突っ走っていたのではないかと改めて感じた。
「天皇陛下のために」「神国日本を守るために」「国体を守るために」、国民はそれら虚名の元に訳も分からず戦争にかり出され、尊い命を失っていった。しかし、それも無駄死にとはならず、立派に本懐を遂げたとして尊ばれた。
国民は戦局についてほとんど知らされず、ただ軍隊の命令通りに働き、それに疑問を抱いたとしても、それは国賊・非国民と呼ばれるため、何も出来ず、ただ言われた通りにするしかなかった。
読んでみて改めて思ったのは、武力で圧倒的に劣る日本がなぜ勝ち目のない戦争を続けたのか?ということだ。それは、恐らく国としても感じていたことだろう、このまま続けても勝てないだろうと言うことは。それでも続けざるを得なかったのは、「国体をまもるため」という言葉が示す通り、「国の体裁を守るため」すなわちメンツを守るために、止めるに止められない状況に陥っていたのではないだろうか?
少年Hは、この不自由な時代にも関わらず、強くしたたかに生きる。その姿は、どの時代にも共通する素直な子供そのものだ。
ふと著者略歴を見ると、妹尾河童氏は昭和5年生まれである。自分の両親とほぼ同年代だ。両親も少年Hのような考えを持ってあの時代を生きたのだろうか?

 
ハンニバル(上・下):トマス・ハリス:新潮文庫 20000424

あらすじ
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ハンニバルはイタリアにいた!
かつてクラリス・スターリングが追っていたパッファロウ・ビル逮捕から7年。クラリスはFBIの特別捜査官になっていたが、ある事件が元で窮地に立たされてしまう。そこにハンニバルから手紙が…。
一方、そのハンニバルに昔生きたまま筆舌に尽くしがたい仕打ちを受けたメイスン・ヴァージャーも、ハンニバルの行方を突き止め、復讐の手を伸ばすのだった。
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こんな終わり方を想像できただろうか?
ハンニバルは最後まで崇高なままでいて欲しかったというのは、彼に対する思い入れが深いからか?それほどまでに引きつけられるキャラクターであるハンニバルは、もはや英雄と言ってもいい。殺人鬼なのだが、彼の所業にはある種の美しさが感じられる。それに対して、メイスン・ヴァージャーのやり口と言ったら対極的で、それは作者の意図するところだろうが、反吐が出そうだ。
今回はハンニバルの人間的な面が覗かれて、思わず苦笑させられた部分もあった。特に飛行機内でのワンシーン。笑わせられたが、これは本当にハンニバルか?
クラリスも、今回も魅力的。ただ、やはり結末は疑問。二人の関係はそんな世俗的なものではないと思っていたのだが。
しかし、それにしても面白い。特にイタリアのフィレンツェを舞台にした第二部は出色。

これは、いうまでもなく、ハンニバルの小説。


 
静寂の叫び(上・下):ジェフリー・ディーヴァー:ハヤカワミステリ文庫 20000417

あらすじ
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聾学校の生徒と教員を乗せたスクールバスが、三人の脱獄囚に乗っ取られた。彼らは、廃屋同然の食肉加工場に生徒達を監禁してたてこもる。FBI危機管理チームのポターは、万全の体制で犯人側と人質解放交渉に臨むが、無惨にも生徒の一人が凶弾に倒れてしまう。一方、工場内では教育実習生のメラニーが生徒たちを救うために独力で反撃に出るが…。
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ハッキリ言って、上巻はつまらない。ポター始め、FBIと犯人の交渉があまり緊迫感を感じなかった。要は、FBI側が犯人を何とかまるめこみ、時間の引き延ばしをしているだけで、解決の糸口が見えないのだ。また、メラニーは、決して勇敢な女性ではなく、怯えて犯人から馬鹿にされる始末。故に、上巻を読み終えるまで時間が掛かってしまった。
しかし、下巻(後半)は一転、面白い。下巻に突入したらアッと言う間に読み終えてしまった。次第に疲労の色が濃くなっていく犯人とポター、メラニー。その中での駆け引き。また、周りの人たちの思惑。読み進むうちに緊迫感が増してくる感覚はなかなかのもの。
そして、最後の100ページ。なぜ、100ページを残しここで終わるのか納得がいかなかったが、最後の100ページのどんでん返しは息をも継がせない。

前半苦しんだが、その分後半にこんなエンターテインメントが潜んでいようとは。我慢した甲斐があった。


 
ヘッド・ダウン:スティーヴン・キング:文藝春秋 20000402
短編集「ナイトメアズ&ドリームスケープス」の2冊目。

「自宅出産」
マディーは自分では何も決断できないほどの奥ゆかしい女。しかし、良き伴侶を得、妊娠までした。だが、その夫も船で難破し、帰らぬ人となった。その頃、世界は突然一変した。ゾンビが現れたのだ。やがてゾンビは人々を襲い始めた。
ゾンビが現れるくだりにはびっくり。突然話が変わる。そして、お約束通り、マディーの死んだ夫も...。この話が自宅出産をすると「決断した」マディーとどう関わりがあるのか最後まで不明。

「雨期きたる」
ある若い夫婦がメイン州ウィローにたどり着いた。避暑が目的だったが、その町はものすごく暑かった。湿気が異常に高い。やがて二人はその町に住む老人と出会い、忠告を受ける。「今日は7年に一度の雨期の日だ。空からヒキガエルが降ってくる。それもどしゃ降りだ。悪いことは言わないから、今晩は別の町へ避難した方がいい」。
ナンセンスな話だ。空からヒキガエルが降ってくる? しかしキングはただの与太話では終わらせない。このヒキガエルどもの怖さといったら...。夜が明けてからのエピローグがホラーだ。

「かわいい子馬」
老人とその孫の会話。時間とは「かわいい子馬」だと。時間に対する概念?
さっぱり解らない。何を言いたいのか理解できなかった。これは物語か、哲学か?

「電話はどこから...?」
 脚本形式。ある家に電話かかかってきた。助けて、という救助を乞う電話。受けたケティは、その電話の相手の声がどうも聞き覚えがあるような気がしたが、どうしても思い出せなかった。
脚本なので雰囲気がイマイチ伝わらない。これはキングのお遊びか?話はタイムパラドックスもの。面白くない。

「十時の人々」
嫌煙社会が進むアメリカ。喫煙愛好者はオフィスでの喫煙ができず、午前十時になるとどこからともなく公園に集まって煙草を吸うようになっていた。ピアズンは自分も含め、これらの人々を「十時の人々」と呼んでいた。ある日、いつものように煙草を吸っていると、信じられない光景を目にした。自分の上司がとんでもない化け物に変身していたのだ。
ホラー&ハードボイルドとでも言おうか。発想が面白い。喫煙愛好家にしか見えない化け物は、顔が蝙蝠のようなグロテスクな容貌で、日常生活に侵略して来ているのだが、嫌煙者には見えないというもの。映画で似たようなプロット(サングラスを掛けると怪物が見える?)を扱ったものがあったが、タイトルを失念。最後は蝙蝠人狩り。

「クラウチ・エンド」
イギリスはロンドン。「クラウチ・エンド」という街に入り込んだあるアメリカ人夫婦のうち、夫の方が行方不明になった。どうやら地下に消えたらしい...。
不気味な街、「クラウチ・エンド」。顔の半分がひしゃげた猫、指が鉤爪のように曲がった少年。クトゥルー神話に関係がありそう。NYARLAHOTEPとは、あの怪物のことではないか?

「メイプル・ストリートの家」
「ブラッドベリ」家では、ある何かが成長していた。それの正体に気づいた長男は、ある計画を実行する。
愉快。継父をこらしめようとする展開は、アメリカのアニメのよう。ただし、このいたずら(?)はとんでもないブラックユーモアだが。

「第五の男」
銀行の現金輸送車を襲撃し、大金を手にした四人組。そのうちの一人が仲間の裏切りで殺されたが、その友人だった男が銀行強盗の事を知り、残りの三人を殺して大金を横取りしようとする。
ストーリー通りの話。さして真新しくもないし、感情移入するわけでもない。強いて挙げれば、銃撃戦に若干の緊迫感があったくらいか。

「ワトスン博士の事件」
ホームズではなく、ワトスンが解決する密室殺人事件。
からくりも種明かしもさっぱり分からず。というよりも集中して読めず。

「アムニー最後の事件」
私立探偵アムニーの元にある男が訪ねてきた。仕事の依頼ではないらしい。やがてこの男は信じられないようなことを話し始める。
キング版SFといったところか。この男は未来から来たと言う。短編にしてはちょっと長め。つまらなかったので、読み終わるのに一苦労。そろそろ短編も飽きてきた証拠?

「ヘッド・ダウン」
あるリトル・リーグの地区予選の模様を書いたドキュメント(?)。特に、メイン州のチャンピオンシップをめぐる戦いは、ドラマティックだったようだ。
キングには珍しいノンフィクション物。しかも野球を題材にしたドキュメンタリーだ。しかし、特に優れたスポーツノンフィクションだとは思わない。文体が過去形ではなく現在形。

「ブルックリンの八月」
わずか2ページの物語。ある球場での日常的なひとコマ。「ヘッド・ダウン」と対をなす。
コメントのしようがない。

この巻では「雨期きたる」「十時の人々」「クラウチ・エンド」が面白かった。
二巻を通し、さまざまなキングに出会える。モダンホラー・正統な(?)ホラー・ゴシックホラー・アクション物・ハードボイルド・ミステリ・スポーツノンフィクション等々。個人的には気に入らない作品もあったが。
また、二冊を読んで、短編ばかり続くと最後の方は短編に食傷ぎみになり、少し飽きてきたことは否めない。


 
奇跡の人:真保裕一:新潮文庫 20000318
あらすじ
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31歳の相馬克巳は、交通事故で一度は脳死判定をされかかりながら命をとりとめ、他の入院患者から「奇跡の人」と呼ばれている。しかし彼は事故以前の記憶を全く失っていた。8年間のリハビリ生活を終えて退院し、亡き母の残した家にひとり帰った克巳は、消えた過去を探す旅へと出る。そこで待ち受けていたのは残酷な事実だったのだが...。
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解説の北上次郎が「絶品」と絶賛している。だが私はそう感じられない。
真保作品は、他に「ホワイトアウト」しか読んでいないが、この「奇跡の人」よりも「ホワイトアウト」の方が個人的には好きだ。その理由。前半は良いのだが、後半、元恋人を執拗に追い続ける。その姿は惨めで未練がましく、苛立ちさえ感じる。これではストーカーだ。なぜ、それほどまでに執着するのか理解できない。
前半は素晴らしい。特に母親の愛情には涙さえ出てきそうだ。この展開で後半どのように進むのか期待していただけに、かなり気持ちを殺がれたことは否めない。
主人公が成長していく過程は「アルジャーノンに花束を」のチャーリーを、元恋人との再会は「デッド・ゾーン」のジョン・スミスを思いだした。

繰り返すが、後半の主人公の言動にはついていけない。


 
ボーン・コレクター:ジェフリー・ディーヴァー:文藝春秋 20000314
あらすじ
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アメリア・サックスは、ニューヨーク市警警邏課勤務最後の夜、通報により異常な死体を発見する。警察は、かつての名鑑識で名を馳せたリンカーン・ライムに捜査の協力を依頼する。サックスは、第一発見者という理由で捜査班に加えられることになる。ライムとサックスは、この犯人「ボーン・コレクター」の正体を突き止め、捕まえることができるのか?
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リンカーン・ライムは、警官殺し事件の犠牲で四肢麻痺患者となってしまったが、頭脳は明晰、しかし態度はあくまで横柄。「おのれ、よくも騙したな、ライム」と歯噛みしたくなるシーンが読んでいる途中で出てくる。
最初から非常に読みやすく、すんなり入り込める。キャラクター設定が明確。介護士のトムがいい味を出している。ライムといいコンビ。ポンポン専門用語が出てくるが、会話のテンポがいいので小気味いい。サックスとライムは(特にサックスが)、互いに反発し合うが、やがて名コンビになって行く。まるで恋人同士のよう。この、サックスとライムの交流がこの本の中で一番の見所。あとは、ライムの鑑識に関する博学ぶりと、スピーディでテキパキとした指示が爽快。犯人が誰か、ということはさして重要ではない。

#だから、帯の惹起文「骨の折れる音に耳を澄ますボーン・コレクター。すぐには殺さない。」は、猟奇的な内容を煽っているようで気に入らない。

ライムも、横柄だが憎めないナイス・ガイ。あの、強靭な精神力はどこから出てくるのか?

ラストの爽やかさはなかなかのもの。「用語解説」も映画のエンディングのクレジットを見るようで、余韻が心地いい。

一つ疑問に思ったこと。なぜライムは、現場に残った遺留品が犯人のメッセージだと最初から気づいていたのか?つまり、一見、自然な流れによるライムと犯人の巧妙な知恵比べという展開に見えて、実は最初から仕組まれた設定であるという感じは否めない。と感じるのは考え過ぎか?あるいは、どこかに見落としがあったか?

最後に、ライムは白人だと思う。


 
羊たちの沈黙:トマス・ハリス:新潮文庫 20000305
あらすじ
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若い女性を殺してはその皮膚を剥ぎとる連続殺人犯"バッファロウ・ビル"。FBIは懸命に犯人を追うが、捜査は完全に手詰まりになっていた。事態を打開すべく新たに任命されたのが女性訓練士スターリング。彼女は、九人の患者を殺害して収監されている元精神病医レクター博士の示唆をもとに、見えざる殺人犯の影に迫るが...。不気味な猟奇殺人事件を描く出色のハード・サスペンス。
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とあるが、この小説はレクター博士の強烈なキャラクターで読ませる小説だ。九人を殺した殺人鬼であるにもかかわらず、紳士的な態度、高い知性。「レッド・ドラゴン」が、グレアムの犯人追跡劇と犯人の深層に迫っているのに対し、今回は彼が堂々主役だ。特に、クラリスとの息詰まる会見、レクター博士の脱走シーンは、背筋に鳥肌が立つくらいの緊迫感で、グイグイ読ませる。
「レッド・ドラゴン」は追う側、追われる側共に魅力的に書かれていて、全体的なバランスは素晴らしいが、この「羊たちの沈黙」は、レクター博士のキャラクターが際だっている分、犯人はかすんでいる。しかし、読ませる小説としては、こちらの方が個人的には好きだ。
4月には、いよいよこの続編「ハンニバル」が出版される。レクター博士がどのように活躍するのか、今から楽しみだ。
ただ、この小説の訳で気になった点。固有名詞を日本語のカタカナで表記する部分で馴染めない訳があった。ハニバル、クローフォド、キャザリン、パッケジ・ツアー、テイブル、ミスタ等々。個人的な感覚だが。
あと、クラリスがときどき<ちくしょう>と罵る部分が映画にはなく面白い。映画の脚本は原作にほぼ忠実に沿っているが、クラリスと犯人の対決シーン、ラストシーンは、映画ならではで気に入っている。


 
撃つ薔薇:大沢在昌:カッパノベルス 20000229
あらすじ
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西暦2023年、東京は多国籍化・複雑化した組織犯罪が凶悪を極める灼熱の坩堝だった。警視庁は対策の切り札に潜入捜査専門の特殊班を新設。厳選された捜査員の中でも、最も危険なのが「涼子」だ。自分の過去を拒み、美貌を拒む彼女の捜査ぶりは、苛烈で非情だ。その過酷さ故二年に限定された勤務期間での、彼女への最終任務の指令は、謎の麻薬組織への長期潜入だった。巧妙に潜入した彼女を待つ、組織内での殺人、対立組織との激しい抗争。さらに狡猾な罠が彼女を狙う!敵は、味方は、組織のボスの正体は?そして絶望的な状況の彼女を救う愛の行方は!?迫力と哀切の長編ハードボイルド傑作!!
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大沢在昌らしいハードボイルド。しかも硬質の。新宿鮫シリーズに通ずる冷ややかさを感じると思ったら、案の定...、これは読んでのお楽しみ。
主人公涼子は、篠原とおるの「0課の女」を連想させるような冷徹な女。氷のような感情しか持ちあわせていないような役付けで、最初は「なんだ、この女、可愛くない」と感じ、好きになれなかった。
が、読み進むうち、内に秘めた熱い感情に触れ、次第にある人物とオーバーラップし、入り込みやすくなった。この辺も大沢在昌の得意なところだろう。
本来の目的(潜入捜査で麻薬組織の実態を暴き壊滅させる)よりも、組織内のスパイを懸命に探すことによって、涼子がその組織を救おうといているような錯覚に陥る。この辺は目的がはっきりせず、少し曖昧な感じ。
この潜入捜査には既に先行してもう一人の捜査員が潜入していたが、捜査員同士はお互い相手を知らない。この先行する捜査員は誰か、ということを知ることがこの物語での重要な意味を持っているので、これ以上は話すわけには行かない。ハードボイルドたる所以であるとだけ言っておこう。


 
スメル男:原田宗典:講談社文庫 20000224
MLの課題本。

「ぼく」はある日突然何の匂いも感じなくなってしまった。医者に診てもらうと、どうやら精神的なことが原因らしい。思い当たるとすれば、数ヶ月前に母が交通事故で亡くなった時のショックくらいしかない。やがて、「ぼく」は匂いのない生活がこれほど生きていく上で張り合いのないものだということを知り、厭世的になり、毎日を無為に過ごすようになる。そんなことが数年続いていた平凡な「ぼく」に、ある日異変が起こる。あることがきっかけで、突然自分の身体から異臭が発せられるようになったのだ!自分には知覚できないこの異変に「ぼく」は途方に暮れてしまう...。

筒井康隆風ドタバタナンセンスSFを期待していたが、しっかりと節度の守られた青春小説となっていた。文中の出来事で、実際に起こった事件や事故、またある小説のプロットなども連想する場面が沢山あったのには、正直驚いた。東京都内を原因不明の異臭が漂うという新聞の報道は地下鉄サリン事件、天才中学生を連れ去るという設定はバトル・ロワイアル、すわ原発事故か、という報道は茨城の臨界事故など。
細菌兵器とか人体実験といったシリアスな設定や、全ての現象に対してきちんとした原因が語られるのは良くできていると思うが、個人的にはもっと破綻したストーリーの方が楽しめたと感じる。出だしが突拍子もないものだっただけに、途中から”まとめ”に入った印象だ。オリジナル版の方はどうだったのか?


 
いかしたバンドのいる街で:スティーヴン・キング:文藝春秋 20000220
久々のキング。短編集である。

「ドランのキャデラック」
ドランというハリウッドスターの、あるスキャンダルを目撃した主人公の妻が、そのスキャンダルを警察に通報したことによりドランに殺されてしまう。その事件は立証されず、ドランは今まで通りの生活を送る。この事実を知った主人公が、ドランに復讐する話。
冒頭としてはこれ以上ない話。主人公の狂気ぶりがすさまじい。しかし、主人公も哀れな人間であることには変わりない。残虐な事件も実はこのような背景があると知ると、加害者も被害者であったことを知る。まさにキングらしい作品。クライマックスは鳥肌が立ち、後ろを振り返ることができなくなる。

「争いが終るとき」
 西暦200*年、人類は終末に向かって突き進んでいた。人々は些細なことで殺し合い、国と国は無益な戦争を繰り返していた。そんな中、百年に一人の天才といわれる主人公の弟は、この人類を救うべくある計画を極秘裏に実行する。果たして彼は救世主となれるのか、はたまたマッドサイエンティストで終わるのか?
ストーリーは主人公の手記という形で始まり、この主人公の天才の弟が計画し、実行したことを記録している。奇想天外な水の発見とその散布方法。実験は成功したかに見えたが...。フジテレビの「世にも奇妙な物語」でドラマにしたら面白いかも知れない。

「幼子よ、われに来たれ」
 ミス・シドリーは小学校の教師。黒板に向かっていても眼鏡の内側に映る後ろの情景で生徒を監視し、授業に無関心な生徒を叱責していた。が、ある日、そこに映った生徒の顔が何物かに変化した...。
小編。ありきたりなホラーだが怖い。生徒がにやにやしながらじっとミス・シドリーの顔を見返す描写も堪らなく怖い。ミス・シドリーの狂気がそう見せているのか、あるいは、本当なのか?ラストもホラーらしくていい。恐怖は続く。

「ナイト・フライヤー」
 セスナ機に乗ってあちこち飛び回り、人を襲い続ける吸血鬼の話。前半は、ウラを取るため取材を続ける記者の形跡を辿るが、相手が吸血鬼と判り、そのセスナ機を突き止め、クライマックスで吸血鬼と対面する。
細かい演出が効いている。写真や鏡に映らない吸血鬼、声だけの脅し。なお、この作品は新潮文庫より刊行されているアンソロジー「ナイト・フライヤー」で発表済みのもの。

「ポプシー」
シェリダンはカード賭博で身を持ち崩す男。借金で首が回らず、とうとう子供を誘拐し、トルコ人に売って借金の形にする始末。ある日、何人目かに誘拐した男の子は、こう言った。「ポプシーがみつかんない、ポプシーに会いたい!」
首尾良くその子を誘拐したと思ったのだが、ポプシーの正体を知ったときはすでに遅かった。ポプシーって何者なんだという不安な恐怖が残る。

「丘の上の屋敷」
 メイン州キャッスルロック。丘の上に立つ屋敷には変わった夫婦が住んでいた。中でも、夫人の方はうす気味悪がられていたが、いつしかその夫婦も亡くなり、その家が空き家になって十数年が経っていた。
キングではお馴染みのキャッスルロックである。老人が集まって四方山話をする場所があり、空き家に新しい住人が入るらしいという噂から、いつしかその家に住んでいた夫婦のことに話が及んだ。ある一人の老人の忌まわしい思い出が甦る。やはりこの町は呪われているのか?

「チャタリー・ティース」
チャタリー・ティース。それはぜんまい仕掛けで動く歯のおもちゃ。ホーガンはある店でそのおもちゃを発見し、無性に欲しくなった。店主に尋ねると、ぜんまいが壊れているからただであげると言われ、ありがたくいただいた。故障個所は簡単に直せるからと。そのあと、ホーガンは同じ店にいた若者をヒッチハイクで拾い、隣町まで乗せていくことにした。
このヒッチハイクの若者が突然強盗に豹変したあたりから展開が見えてきた。チャタリー・ティースが動き出すのではないかと。案の定...。映画「チャイルド・プレイ」のチャッキーが頭に浮かんだ。

「献辞」
 マーサの息子ピートは作家としてデビューし、処女作を書き上げた。マーサはその本がベストセラーになると確信していた。それはピートの父親がそうだったからという理由だった。
あまり趣味の良い話ではない。なぜ「彼」がピートの父親として選ばれたのか納得行かない。マーサの行動も奇怪だ。

「動く指」
バスルームの洗面台から指が出て動いている!なぜ妻には見えないんだ?俺は気が狂ってしまったのか?
怖い。主人公に見えている指は本物か?本当に主人公は気が触れたのか?狂気と現実の狭間で、何が本当に起こっているのか分からなくなる。洗面台の排水口をのぞくのが怖い。指が出てきたらどうしよう。

「スニーカー」
ミュージックスタジオの入っているそのビルの、3階のトイレの個室からスニーカーがのぞいているのを見かけた。随分古くなったそのスニーカーを履いた男は、テルがそのトイレに入るたびにいた。次第に群がる蠅の死骸。全く人の気配を感じさせないその個室。
アメリカ版「トイレの花子さん」といったところか。ストーリーよりも、アメリカの古き良きロック全盛時代へのノスタルジーが印象に残る。ブルース・スプリングスティーンの「ボーン・イン・ザ・USA」が聴きたくなった。なお、この作品はハヤカワ文庫版「スニーカー」と同作品。

「いかしたバンドのいる街で」
メアリーとクラークは休暇を取って車で旅行していた。ある町へ行こうとして、混んでいる幹線道路を避け、地図にも載っていないような近道を通ることにしたが、途中道に迷ってしまった。それが間違いだった。
「スニーカー」からロックの流れを引き継いだような作品。「トワイライト・ゾーン」に出てきそうな話だ。とにかくキングらしい、恐怖に引きつった笑いが出てきそうな、背筋がゾクゾクする話。こんな事はあり得ない、だが、ひょっとしたら...。いくらプレスリーでも、こんな形では会いたくない。


 
カラーパープル:アリス・ウォーカー:集英社文庫 20000210
主人公、セリー。20才。アメリカ南部(アトランタ?)の貧しい家に産まれ、14才の時、実の父親に犯される(後に義父と判明)。2度の妊娠・出産で子供が産めない身体になる。父親の計略でミスター**の元に嫁がされる。体のいいお払い箱である。仲のよかった妹(ネッティー)と生き別れになり、消息不明となるも手紙を発見、アフリカで暮らしていることを知る。ミスター**が隠していたのだ。その手紙は、妹ネッティーの姉セリーに対する愛情に溢れ、叶わないかもしれない再会を信じ続ける手紙だった。また、死んだと思っていた二人の子供が、ネッティーの元で元気に暮らしていることを知る。セリーは、ネッティーの手紙を読み、今まで神に対して語ってきた言葉を、より現実的な妹への手紙を書くことにより、いつか二人が再会できること、また、自分の子供との再会を願うようになる。やがて、セリーはミスター**の家を出て、メンフィスに移り住む。そこでズボンの仕立てを行ない、生計の目処が立つ。義父の死によって家・土地・財産を相続する。いつしか時が経ち、あとはネッティーと子供たちが帰ってくるのを待つのみだったが、ある悲しい知らせがセリーの元に届く...。

実の父親(と思っていた男)に犯され、二人の子供まで出産するという衝撃的な出だし。これにより、セリーは男を愛せなくなってしまう。その代わり、愛するものとの絆は深い。
また、黒人社会の生活レベルと白人のそれとの違いを黒人の側から描いていて、大変興味深い。黒人の不遇・逞しさに一喜一憂。
妹のネッティーとの手紙のやり取りという形態をとっているが、実際は自分の手紙に対する相手の返事が来ているわけではなく、相手が読んでくれているという確証もない。この頼りなさが実にもどかしい。しかも、セリーはある衝撃的な知らせを受けてしまう。それは確かめようのないことだ。しかしセリーはその事実を認めず、ひたすらネッティーたちが帰ってくることを信じ、待ち続ける。
セリーは最初、神への語りかけという形で思いを綴っていたのが、途中からネッティーへの手紙を書くという手法に変わる。が、自分が信じ続けたことにより願いが叶い、そのことを神への感謝の気持ちを込めて、神に語りかける最後はひたすら感動的。

最後に翻訳者(柳沢由実子)のあとがきより抜粋。
「『カラーパープル』は、踏み台になった側の人間、ウォーカーの言葉で言えば、”大事なことは知らなくてもいいとされてきた人間たち”が、アリス・ウォーカーという媒体を得て、自分の体験を語った記録とも言える。
(中略)
黒人の魂が語った言葉は、アメリカのもう一つの真実である。私たちが知っているアメリカは、白人によって語られるアメリカでしかなかった。アメリカの独立宣言も、経済的繁栄も、アメリカの白人たちのものだった。そして自由も平等も繁栄も、白人たちが先に立って享受してきた。同じ時代を黒人たちはどう生きたのか、この本はそれを黒人の側から語っている。」


 
さらば国分寺書店のオババ:椎名誠:新潮文庫 20000203
椎名誠のデビュー作。同居生活の話も少し。

1.JR(旧国鉄)職員に憤っているのである。
車内の検札(キセルチェック)に、やましいところがないながらも「ビクッ」としてしまう自分に腹を立てつつ、その腹いせに余計な憶測までしてしまう。乗り越し運賃の行方についての考察は、本当にあってもおかしくないと想像できて楽しい。その他、無粋な車内放送、駅構内の案内放送、「業務連絡」にもオコッている。「ビリビリッビャーッ」という笛の表現、「業務連絡」の暗号疑惑には笑った。

2.「本官」及び国分寺書店のオババに憤っているのである。
交番でひまそうにしている「本官」に、ひまなのは平和なのだと納得しつつも何故かイキドオッてしまう。余計な詮索をしてしまう。古本を買い取ってもらおうと国分寺書店に持って行くが、オババに無視されスゴスゴと引き下がってしまう自分にも腹を立てる。

3.マスコミ関係の人に憤っているのである。
あるパーティー会場にて、前座ヘビー級との息詰まる「うに寿司」争奪戦。マスコミ関係の人が突然いなくなっても自分は全然困らないこと、それよりも制服関係の人がいなくなると困ったことになると気づいてしまう。

4.国分寺書店がなくなってしまったのである。
無くなってみると、オババはあれで日本の正しい本屋さんだったのだなあ、と気づく。正しい本屋さんのありかたみたいなことが書かれてあったが、納得する部分多し。オババへのオマージュ。

「オラオラ、どうしてくれるんだあ!」的なノリで、やっぱり楽しい。いちいちどうでもいいことなのだが、息抜きには持ってこい。「うに寿司」争奪戦にまつわる、正しい寿司の食べ方に抱腹絶倒。デビューからこのノリだったのだと確認できたのが収穫。

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