066「戦功なければ精進料理」



板垣信方(?―1548)


駿河守。名は信形とも。甲斐武田家の親族衆。武田信虎、晴信に家老として仕え、のち信州諏訪郡を領す。若い頃の晴信の行状についてしばしば諫言するなどの硬骨漢ぶりを示した。信虎追放事件では飫富虎昌とともに主導的役割を果たし、その身柄を駿河今川氏のもとへ送り届けた。以後、晴信の信州経略に従い、天文十四年(1545)、高遠城を攻略。天文十五年十月、笛吹峠で上杉憲政の軍を破る。天文十七年二月十四日、上田原合戦で村上義清に敗れ戦死した。「武田二十四将」のひとりに数えられ、『甲陽軍鑑』によれば山本勘助を晴信に推挙したという。


◆「三駿河」とは誰のことをさすかご存じだろうか。武田家の板垣駿河守信方、上杉家の宇佐美駿河守定満(定行)、毛利家の吉川駿河守元春の三人である。今回はそのひとり、板垣信方がテーマである。

◆板垣、とくると「板垣死すとも自由は死せず」の板垣退助を連想してしまうが、彼は信方の子孫なんだそうだ。もちろん家伝というものはあてにはならないが。ちなみに筆者はさらに相原コージの「板垣死すとも自由はプー」(『コージ苑』所収)を連想してしまう。板垣退助が遭難時に「い、板垣死すとも」とまで言いかけて、力んだあまり放屁をしてしまう四コママンガ。無論、かの名言は「板垣死すとも自由はプー」と新聞に載ってしまう。

◆板垣信方は武田二十四将の中に必ずといっていいほど入ってくる人物だが、武田信玄治世の初期に戦死してしまうため、その活躍時期は意外に短い。まさに暴君信虎を追放し、新しい主君の信濃攻略が緒についたところで戦死する。それも信州の実力者村上義清とのだいじな一戦で敗れてしまう。常勝武田軍団の初黒星でもあった。まるで信玄の家督継承で信方の使命は終わっていたかのように思えるあっけなさだ。

◆その最期もあまり誉められたものではない。信方は病気療養中の信玄にかわって武田軍団を指揮、天文十五年十月に信州へ侵入を図った関東管領山内上杉憲政の軍勢を迎撃して破った。その際、床机に腰掛けて勝鬨をおこなった。これを信方の驕りである、と史書は記している。そして、二年後、上田原の合戦でも緒戦で村上義清勢を追い散らし、首実検・勝鬨を行っていた最中に敵勢の急襲に遭い、あえなく戦死したのであった。

◆ところで、信方は家臣を大層かわいがり、その人柄を慕って組下には山本勘介などの他国者が多かったといわれる。信方は、部下が戦功をあげると褒美として赤椀一膳を与えた。さらに二度三度と手柄をたてた者には、その場数に応じて膳の数を増やしてやったという。逆に手柄のない者には、黒椀で精進料理をふるまったというから、兵士たちも奮起したであろう。

◆さて、大勝を得て、得意満面で諏訪郡へ帰陣した信方を息子が出迎えた。

信方「なんじゃ、その扇の文句は」
息子「あ、これはこの間、お屋形さまがいらして、書いていただいたのです」
信方「ふうん。どれどれ」

手にとってみると、
「誰もみよ、満つればやがて欠く月の、十六夜ふ穴や、人の世の中」
とあった。

◆かつて信方は和歌に耽溺する信玄を叱責したことがあった。まだこんな和歌を詠んでいるのか、と信方は心中失望した。が、どうやら信方が軍代の身で許可なく勝鬨式を行い、あまつさえ甲斐府中へ戻らずに諏訪郡にひっこんで、例の赤椀・黒椀の論功行賞を行ったことが信玄の不興を買ったらしい、と思った。

◆信玄としてみれば、陣頭で勝鬨のあと首実検や論功行賞を行う軽々しい板垣信方の振る舞いを諌めたつもりであった。笛吹峠の合戦では敵の上杉勢に名うての戦巧者長野信濃守の姿がなかったからである。緒戦で勝利しても、後詰に長野が出てくれば気が抜けないと考えてのことであった。

◆信玄の危惧はやがて現実のものとなった。二年後の上田原の合戦で同じく勝鬨をあげ、首実検をしている最中に村上軍の急襲を受けて討死してしまったのである。息子の弥次郎信憲が跡を継いだが、彼も扇の歌の心を理解してはいなかったらしい。酒色に耽り、たびたび合戦でもミスをおかしたので、とうとう押し込めに遭って殺されてしまった。

◆「板垣死すとも・・・」ときても、後を続けようがない顛末である。




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