064「西国下向饗応始末」



小槻伊治(?―1551)


正四位上。時元の男。綾小路大宮家の家職である太政官弁官局の官務を掌握し、諸国大名の任官に少なからぬ影響を持った。同職の壬生家と激しく官務職を争ったが、庇護者である細川高国が敗亡すると立場が弱まり、後奈良天皇の勧告によって和解した。以後、官務職は綾小路大宮・壬生両家の迭立となった。一女が大内義隆側室になった関係で山口へ下向。天文二十年(1551)、陶隆房の乱に遭い殺害された。


◆小槻伊治は困っていた。現在は政敵の壬生小槻家は羽振りがいいらしい。が、庇護者である細川高国が滅亡してからというもの、こちらは慢性的な食い詰め状態。

◆おまけに壬生家が官務職をつとめている間はヒマで仕方がない。ヒマだけならばよいが、手元も不如意。どこかにいい金づるは転がっていないかなあ、と考えていたところ、娘・おさいの嫁ぎ先のことを思い出した。もっとも伊治のような貧乏公卿には「日本二大将」の一、大内氏とは身分不釣合いということで、広橋兼秀の養女として義隆の側室となったのであった。ただし、兼秀の本当の娘である広徳院も大内義隆に嫁いでいるから、まあ、付録のようなもの。

◆ところが、自分の娘のおさいが一番先に義隆の子を身籠った。これで名門万里小路家出身の正室貞子を蹴落として、義隆の寵愛を一心に集めているのだ。兼秀の娘も今や逆におさいの付録と化した。メールでこのことを知った伊治は大はしゃぎ。

伊治「でかした、おさい。わしは果報者じゃあ」

天文十四年(1545)、伊治、九州の大名相良氏の宮内少輔任官の口宣案を届けるために西国へ下向。もっともそれは名目だけで、実態は大内家をはじめ西国諸大名にタカるのが目的。京都のみやげは公卿たちのサイン入り色紙と宇治茶だけというのだからセコイ。

◆伊治は「任務」を放り出して、三ヶ月あまりも山口に滞留。娘や孫の顔も見たし、アルバイトで小金もたまった。そろそろ九州へ行くか、と重い腰をあげる。何しろ、懐には相良氏への最大のみやげ「宮内少輔任官の口宣案」がある。田舎侍、恐るるに足らず。

伊治「どーんと、こいッ。これを渡すも渡さぬも相手の出方次第じゃ。ホッホッホッ」

ちなみに本来、勅命は口頭で伝えられた(口宣)が、これを文書化したものが「口宣案」である。これを運ぶ伊治はすなわち「勅使」である。これの接待はのちの江戸時代の浅野内匠の例にもあるように並大抵のことではなかったらしい。

◆一方、伊治が去って大内家中はホッと一息。毎日が酒池肉林ではいくら大金持ちの大内家でもたまったものではない。ハデ好きの義隆と伊治は気が合ったが、権威をかさに着る伊治の大内家中での評判は最悪だった。大内家から相良家へはこんな申し送り事項が。

「伊治どのは、大上戸である。ただし大盃ではなく小さな盃で何杯も呑むほうが好きである。また、何よりもご馳走が大事だ。そして、京都へのお礼はフンパツするように」

◆「勅使、九州入り」の報は瞬く間にひろまり、有馬、菊地などの諸家も伊治を招いてそれぞれおもてなし。こうしてあちこちで「歓迎・小槻伊治先生」の垂れ幕の出迎えを受けながらようやく相良氏の本拠地肥後へ入った。ここでも九州の地酒をたらふく飲んだ伊治は「相良家に石見銀山を斡旋しよう」などとホラを吹いておみやげをタンマリもらって九州から戻ってきた。もちろん、石見銀山を相良家に斡旋したような事実はない。

◆こんなわけで、味をしめた伊治はその後もヒマを見つけては山口へ下向。なんてたって義隆の後嗣のおじいちゃんである。遠慮というものがない。宴会好きの義隆とも意気投合して連日連夜のドンチャン騒ぎ・・・

◆ところが、この頃、大内家中には不穏な空気が漂っていた。大内義隆と重臣陶隆房との確執である。天文二十年、陶隆房が挙兵。これによって山口を追われた義隆はわずかな供を連れて逃亡。九月一日、大寧寺で自害した。この騒動に出くわした伊治。政治上のことはちっともわからない。いや、わからないのではなく、大内家の人間のほとんどは伊治のことを嫌っていたから、親切心で知らせてやる者がいなかったのだろう。

伊治「謀反など聞いておらぬぞよ。タイム、タイム。わしはタイム。バリアー、エンガチョ」

わけのわからないことを喚いている間に、陶方の武士に斬り殺されてしまった。

◆綾小路大宮家の小槻氏はこの時に断絶。以後、幕末まで壬生家が官務職を独占することになった。




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