063「千葉に原、原に高城両酒井」



原胤信(1587―1623)


吉丸、佐五右衛門、主水。千葉家の家臣原胤義の嫡男。徳川家康が関東に入国するとこれに仕え、小姓から鉄砲頭に出世し、千五百石を給される。慶長五年(1600)、大坂でキリシタン信徒となり洗礼名ジョアンという。幕府の禁教令により逐電して岩槻に潜伏したが、捕らえられて追放。のち再び江戸に潜伏し、布教活動を行ったため、捕縛されて火あぶりの刑に処せられた。


◆江戸幕府がキリシタン禁教令を発したのは、大坂の陣直前のこと。徳川氏としては信徒数七十五万ともいわれる勢力が大坂の豊臣秀頼に与することにでもなれば、一大事である。高山右近、内藤如安など著名なキリシタン武将たちもこの時期にマニラなど国外へ追放されている。

◆徳川のお膝元である江戸でも例外ではなく、慶長十七年(1612)、鉄砲頭ジョアン原胤信も棄教を拒み、出奔。しかし国外追放には従わず、武州岩槻に潜んで布教活動に従事した。このため、ついに捕縛されて額に十字の烙印をおされ、両手の拇指、両足の腿筋を切断されて追い放たれた。

◆それでも屈しない胤信は、ふたたび江戸に舞い戻り、布教活動に尽力したが、元和九年(1623)十月十三日に捕らえられ、今度は宣教師アンデリら信徒とともに焼き殺されてしまった。三十七歳であったという。

◆この原胤信がまだ吉丸という少年であった頃。伏見城へ主君徳川家康の供をしていた時のことであるというから、ひょっとしたら関ケ原前夜の一時期であったかもしれない。腰のものを持って家康につき従っている吉丸の前にひざまずいた小さな影があった。忘れもしない、幼馴染の金ちゃんである。金ちゃんは酒井家の出身で、吉丸の原家に従って鎌倉以来の名門千葉家を助けた家筋だった。しかし、天正十八年(1590)の小田原攻めにより、北条方に味方していた原氏は、いちはやく徳川家に従っていた酒井氏に頼って没落を免れたのである。世が世なれば吉丸の腰のものを持って金ちゃんがつき従っていたかもしれない。

◆吉丸は自分の足元に草鞋がきちんと揃えられておかれているのに気づいた。吉丸が素足で供奉していたので、金ちゃんこと酒井金三郎が自分の履いていた草鞋をぬいで与えたのである。おそらく徳川家における地位は、先に恭順した酒井家のほうが上であったろう。これに頼って露命をつないだ原家の吉丸は草鞋もなかったというのだから・・・

◆この光景を眺めていた家康は、「おお、あの言葉は本当だったのだな」と感慨深気につぶやいた。

◆千葉家というのは、その家臣もひっくるめて不思議な大名家(と呼ぶのも憚られる小さな存在)で、実はその家臣である下総臼井城の原氏でもっているのようなものだった。主人を凌ぐほどのその原氏にしてからが、組下の下総小金城主の高城氏、上総土岐城主および上総東金城主の両酒井氏のほうが動員力や所領はずっと多いのである。自分の草鞋を脱いで吉丸に与えた金三郎は、上総東金を領した酒井伯耆守の子孫である。ちっぽけな千葉家はこの家臣たちに担がれている状態なのだ。そこで、
「千葉に原、原に高城両酒井」
と世に称されている。家康はそのことを思い出したのである。主君を凌ぐほどの有名な家臣をたとえた話は「三成に過ぎたる者」と言われた島左近、「家康に過ぎたる者」といわれた本多忠勝、「上杉は直江山城でもつ」と言われた直江兼続などいくらでもある。彼らの価値は実はきらびやかな才知ではなく、主人より目立っても決しておろそかにしない分をわきまえたところにあるのだろう、と思う。

◆二少年はともに家康のお褒めにあずかり、とくに旧臣時代の心持を忘れなかった酒井金三郎には五百石を加増したという。昔の関係が逆転することもある人生、なかなかこういう心ばえを保持することは難しいものだ。

◆ふたりの少年、金三郎と吉丸のかつての千葉家臣同士のきずなは、それを褒め称えている家康ならずとも微笑ましく思われる。やがて冒頭に述べたような過酷な運命が待ち構えているとは微塵も感じさせない、心なごむエピソードではある。

◆もう一方の酒井金三郎政成はその後、どうなったか。『寛政重修諸家譜』によれば、家康に仕えて千石を給されたが、のち故ありて家絶ゆ、とある。原胤信の出奔・捕縛・処刑が関係しているのではないか、と気にかかるところだが、史料には何も記されていない。




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