part2:片野城へのみち

恐れていたことが起きた。バスに乗りそこなった・・・。
ちょうど表通りに出た時、客を乗せた車影が停留所を過ぎるところだった。疲労感とともに時刻表を見ると、30分は優に待つ。停留所の数を地図で確認すると7つあった。しかし「片野城前」などという停車所があるわけではない。7つ目の停車所「片野下宿」から城までは当然徒歩である。悩んだあげく、歩くことに決めた。土浦―笠間線をテクテク歩く。この「テクシー」が必ず入るため、あまり一緒に行こうという人がいないのだ。ほんの3〜4kmなのに(注:この日はすでに柿岡で2〜3km歩いている。また、このあと真壁で2kmほど歩くことになる)。

片野の集落は柿岡以上に寂しかった。道路工事をしている作業員をのぞけば、人が少ない。商店街などというものもないし、夜になれば本当に真っ暗闇になるんだろうな、と考えた。
片野城の正確な位置はわからない。柿岡の書店でみた詳細な市内地図に「根小屋」というあたりに「片野城址」と表記があった、それだけが頼りである。地図は4000円ぐらいするので買わなかった。瞬時に頭に焼き付けることにしたのだ。
幸い片野の集落から山の方角に向かって一本道が伸びていた。行けばなんとかなるだろう。

恋瀬川を渡り、とりあえず片野城の本丸の際にあたると思われる道路に出た。ぐるりと半周していくと、北側のほうに狭いながらも登り道がある。
勾配をのぼりきると、本丸の山のふちにあたる部分に、堀のようなものがあるのに気づいた。正確には堀というよりは池に近い。水は凍っている。背後は急勾配に竹が密生していて、どうやら片野城の土塁になっているらしい。城には蓮池とか、馬洗い池だとか水をためておく場所がある。これもそれに当たるのではないか、と思った。

この池(堀)の正体については、のちに判明することになる。

片野城へのアタック、登ってから失敗したことに気づいた。畑の向こうに明らかに土塁らしきものが見えたため、農作業する人が使用しているらしい小道から山へ入ったのだが、ものすごい急勾配。子供の時以来、こんなことしたことないのだが、木の枝をつかんで、よじ登った。
本丸と思われる敷地は畑になっていた。本丸と二の丸(と思われる)の連結部分がくびれていて細くなっているのも観察できる。
畑の周囲にはもちろん石碑や太田資正の墓らしきものはなかった。そのまま本丸と二の丸を分つ道路に出た。おー、あった。あった。「片野城址」という石柱が本丸っぽい郭内への入口に建てられている。反対側には八郷町が建てた案内板がある。わたしは裏側から入ってきたことになる。こちらから入ってくれば全然楽だったのだ。どっと疲れた。ちょうどカブで登ってきたおじさんが驚いたようにわたしのほうを見、「何かあるのか」というふうに背後の片野城本丸のほうへ訝しそうな視線を送ったまま通過していった。

八郷町指定片野城址
指定年月日 昭和四十七年四月十九日
所在地   八郷町大字根小屋
 この城は、文永年間(一二六四〜一二七四)の頃、小田氏の一族八代将監が小田城の北の守の砦として片岡から移り、佐久山に築いたと伝えられる。
 その後、佐久山の北にあたるこの一画は永禄九年(一五六六)ごろ、武蔵国岩槻から来て佐竹義重に預けられた太田三楽斎資正が築いたといわれる。太田三楽はここにきてから三〜四年、佐竹からの招きに応じて、柿岡城の梶原政景と協力、小田氏を国外に追ってのあとも三男資武とともに片野城にいたが、天正十九年(一五九一)の秋、六九歳で病死した。その後、石塚城(常北町)の石塚源一郎義国が城主となったが、やがて徳川の世となり、慶長七年(一六〇三)に佐竹氏と共に秋田に遷り、次の領主羽柴壱岐守(滝川氏)が城を廃されるまで四代に及んでここにいた。
うーん。慶長七年は一六〇二年なのだが、こういう案内板はけっこう間違いも多いからな。
しかし・・・かんじんの三楽の墓がないではないか・・・。

城郭を突っ切る形で舗装道路が走っており、道の反対側の部分へ行ってみた。社のような建物が見えるので、前へまわりこんだら、「七代神社」とある。

七代神社
祭神七代天神。天正年間、片野城主太田三楽斎資正が久慈郡天神林(常陸太田市)から分祀したという。また一説によれば、佐竹の家臣石塚源一郎が遷したともいわれる。

うーむ。これは後者の説のほうが正しいような気がするな。太田資正と久慈郡との繋がりは考えられない。石塚氏は太田資正没後、梶原政景が陸奥磐城に転封となったのと入れ替わるように常陸北部から移ってきた。その時に七代神社もいっしょに移転したのではないか。

町指定無形民俗文化財
七代天神社十二神楽(代々神楽)
文永年間(一二六四年〜一二七五年)小田城の北の砦として、八代将監公が此の地に片野城を築き城主となった。その後、永禄年間(一五五八年〜一五七〇年)になって、太田持資(道灌)の四世の孫に当る武将太田美濃守資正公(三楽斎)が片野城主となった。世は戦国時代、当城の守護神として、久慈郡佐竹郷天神林鎮座の七代天神を迎祀し、十二神楽を奉納したことが始まりと伝えられている。
毎年旧暦二月八日・八月十五日(十五夜)・十一月八日の三回奉納された。変化に富む舞の気品と「ジャカモコ・ジャン」と奏でる音色に、見る人、聞き入る人々の心を引き付けながら、四百数十年間の歴史と伝統を引き継いできた。
この舞は種類が十二座に分かれるので「十二神楽」と呼ばれ、代々此の地に生まれた長男に引き継がれることから「代々神楽」とも呼ばれている。また、奏でるリズムから「根小屋のジャカモコジャン」の愛称も高かった。
しかし、現在では十一月三日の当地域の祭礼日に、この十二神楽が奉納されるだけになってしまった。

「巫女の舞」少女二名
第一座「槍の舞」猿田彦
第二座「長刀の舞」右大臣
第三座「剣の舞」左大臣
第四座「豆撒きの舞」思金命
第五座「神酒の舞」
第六座「田耕の舞」狐
第七座「種まきの舞」翁
第八座「鬼追い出しの舞」矢大臣
第九座「餅まきの舞」赤鬼と青鬼
第十座「鯛つりの舞」恵比寿とおかめ
第十一座「岩剥しの舞」手力男命 天鈿女命 天照大神
第十二座「羯鼓の舞」

しかし、結局、境内には太田資正の墓はなかった。森の中に墓所があって、ちょっと期待したんだけどねえ・・・。

par3「出現!第3の三楽斎」