毛利氏、安芸吉田に下向─南北朝時代─


安芸吉田荘へはじめて下向したのは、毛利時親が最初である。
時親は、父経光より吉田荘一千貫のほかに、越後国佐橋荘のうちで南条二千貫、別に六波羅評定衆としての在京料・河内国加賀田郷二百貫などの所領を持っていた。時親が在京中していることが多く、その一族も多くは越後に在国しており、安芸吉田はあまり顧みられなかった。この間、時親が大江匡房以来の大江流軍学を楠正成に伝授したという伝説が残っている。おそらく、時親の在京料として給された河内国内に楠氏の本拠地があったために創られたものであろう。
やがて、鎌倉幕府が滅亡し、足利尊氏によって六波羅を逐われた時親は奈良にひきこもった。
しかし、尊氏が御醍醐天皇方と袂を分かつや、時親は曾孫師親(元春)を名代として参陣させた。そして、自らは延元元年七月に吉田荘へ下向するのである。

*南北朝時代と毛利氏
承久の乱の折と同様、毛利一族はここでも南北両朝に分かれて争うこととなる。すなわち、
 北朝・・・・・・・毛利時親とその曾孫元春。
 南朝方・・・・・・時親の子貞親、孫親衡(元春父)、元春の弟正時、直元。
と、父子四代が敵味方に分かれてしまう結果となった。のち、足利直冬が南朝に降服し、中国において室町幕府に叛旗を翻すと、親衡、正時、直元はこれに投じる。元春は、父と弟を討つべく石見へ進攻するのである。

承久の乱は、西国における東国武士団の勢力伸張を押し進める画期的な事件であった。芸備地方にも関東から多くの氏族が移住した。が、すでに鎌倉初期に勢力を張っていた和智、山内首藤、山県、長井(福原)などの諸家、さらに承久の乱直後に入部した熊谷、武田、香川、小早川、吉川などの諸氏に対し、毛利氏の入部はもっとも遅かった。
このことは、毛利氏台頭の上で、独立志向の強い国人衆の掌握に苦心する要因ともなった。
毛利元春は十三歳で元服し、当初、高師泰の偏諱を受け師親と名乗った。吉田郡山にあった曾祖父時親が没すると、元春は十九歳で家督を相続し、「郡山殿」と呼ばれるようになった。
一族を敵に回してただ一人勝者となった毛利元春は、九州探題今川貞世にしたがって、鎮西へ下向する。
一方、敵対関係となった父親衡は、九州の南朝方勢力、周防の大内弘世などと結んで、九州出陣中の元春の領地へ侵攻した。
元春の留守を守っていたのは、孫光房である。光房の父広房は元中二年(1386)に、安芸西条の合戦で戦死を遂げていた。広房が戦死した時、その室は懐妊しており、やがて光房が生まれ、祖父元春の庇護のもとで成長する。
光房は元春なき後も四度の九州遠征を行い、彼の地で陣没している。

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