赤松氏

村上源氏
四職家・播磨・摂津・美作・備前・加賀守護
家紋は二引両、二引両に左三つ巴など。

◆赤松氏の出自

村上源氏の末裔

天永二年(1111)に播磨佐用郡に流された村上源氏・源季房を祖とする。その四代の末裔家範が赤松村の地頭代官となり赤松氏を称したのがはじまりである。しかし、家範の孫円心入道則村以前は確実なことはわかっていない。

悪党・円心の活躍

赤松家歴代の中で、もっとも著名なのは、赤松則村(円心)である。時に後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の動きに応じて、則村は大塔宮護良親王に接近。佐用郡赤松城に義兵を募り、一千余騎を集めた。
元弘三年(1333)三月十二日、幕府の討伐軍を破った赤松軍は一気に京都市街へ雪崩れ込むが、六波羅探題の猛攻に遭い敗退。山崎に陣を布いた則村は夜襲・兵糧攻めに持ち込む。この六波羅支援に上洛したのが名越高家と足利高氏(尊氏)であった。しかし、名越高家は乱軍の中に討死。討っ手は則村の配下佐用範家といわれる。高氏は丹波の所領へ退き、天皇方へ寝返った。これにより六波羅探題は壊滅し、五月二十二日には鎌倉幕府も滅亡してしまう。

円心、足利尊氏に接近

まさに勲功第一といえる赤松則村であったが、与えられたのは播磨国守護職だけ。土壇場で寝返り、勝者の列に連なった足利尊氏が鎮守府将軍・武蔵・上野守護を拝領したのとは大違いであった。さらにほどなく、則村は播磨守護職を解かれてしまう。失意の帰国であった。
後醍醐天皇の建武親政は早くも破綻を見せ、不満をつのらせる御家人たちは足利尊氏の下に結集。建武三年(1336)四月、いったんは西国へ敗走した尊氏であったが、九州で兵を養い、瀬戸内海を東上、奇跡的な巻き返しを図る。しかも、北朝方の上皇・天皇を擁している。則村はこれに合流、新田義貞を白旗城に釘付けにした。湊川に楠木正成を破った足利尊氏は北朝(持明院統)の皇位を回復、室町幕府を開く。赤松則村も播磨守護職に復した。

嘉吉の変・赤松家の断絶

則村が観応元年(1350)、京都で没した後、赤松家は三男則祐が継いだ。この頃には播磨守護のほか、侍所所司・摂津・美作・備前の守護職を与えられており、隆盛を迎えていた。
しかし、嘉吉元年(1441)、結城合戦の戦勝祝いであったはずの将軍家の赤松家御成りは一転、惨劇の場と化してしまう。宴の最中、門を閉じた赤松勢が乱入、六代将軍足利義教、細川持春、大内持世らを討ち果たした。当主満祐は剣先に貫いた義教の首を掲げて帰国。間もなく満祐とその一族は、赤松討伐のために押し寄せた山名持豊(宗全)の軍に包囲され、自害した。


◆赤松氏略系図

(嘉吉の変まで)

則村(円心)─┬─範資──光範
              │
              ├─貞範
              │
              ├─則祐┬─義則┬─満祐──教康
              │      │      │
              └─氏範│      └─義雅──時勝──政則
                      │
                      ├─満則──満政──満直
                      │
                      └─義祐──持家──元家
(赤松家再興から断絶まで)
政則==義村┬─晴政──義祐──則房──則英
            │
            └─村秀──政秀──広通


◆戦国期赤松氏・歴代当主

赤松政則康正元(1455)―明応五(1496)
次郎法師丸、兵部少輔、左京大夫、播磨・備前・美作守護、侍所所司、従三位。嘉吉三年(1443)、南朝の残党に盗まれた神璽を赤松家の遺臣が奪回した功により、赤松宗家の家督相続が許された。一方、仇敵山名氏(嘉吉変後の赤松氏討伐の総大将)との抗争は続けられ、長享二年(1488)、ようやく播磨の支配を確立した。将軍家の信任も厚い赤松中興の英主である。法号松泉院無等性雲。
赤松義村文明四(1472)―大永元(1521)
道祖松丸、兵部少輔、播磨・備前・美作守護。赤松の支流七条氏の出身。赤松政則に嗣子がなかったため、婿養子となり宗家を相続し、播磨置塩城に拠った。しかし、領内の実権は老臣浦上氏に握られ、次第に主家を凌ぐ勢いを見せていた。義村は守護代となった浦上村宗を攻めたが、敗退。間もなくに村宗によって室津に幽閉され、殺害された。法名祥光院了堂性因。
赤松晴政永正十(1513)―?(?)
才松丸、左京大夫、政村。義村の嫡男。播磨・備前・美作守護。享禄四年(1531)、細川高国・三好元長らとともに、浦上村宗を討伐、父の復仇を果たした。
赤松義祐?(?)―天正四(1576)
次郎、兵部少輔、出羽守、上総介、左京大夫。晴政の子。織田信長と好を通じ、勢力回復を図ったが、永禄十二年(1569)、守護代浦上宗景と戦って敗れ、没落した。
赤松則房?(?)―慶長三(1598)
次郎、従四位下、上総介。義祐の子。天正十一年(1583)、豊臣秀吉に従属し、置塩城一万石を安堵された。四国征伐の功により、天正十三年、阿波板野郡住吉に一万石を与えられる。
赤松則英?(?)―慶長五(1600)
上総介。則房の子。阿波板野郡住吉一万石を領す。関ヶ原の戦いで西軍に属し、佐和山城の守備についていたが、敗れて京都戒光寺で自害した。

◆赤松一族の「コイツがスゴイ!」

●藤原惺窩が絶賛。文人大名赤松広通

赤松広通(斎村政広)は、系図でいえば、赤松晴政の弟村秀の孫。播州竜野を居城とした赤松氏庶流。豊臣政権下では但馬竹田城主となっていた。関ヶ原合戦で西軍に与し、敗戦後、鳥取で自害した。これにより、守護赤松氏の血統は絶えることになる。徳川家康や直江兼続も私淑したという儒学者藤原惺窩が、好学の武将としては、「上杉謙信、直江兼続、高坂昌信、小早川隆景、赤松広通ら数えるほどに過ぎない」という言葉を残している。錚々たる面々を見てもわかるとおり、惺窩の視点はいわゆる「文弱の徒」には向けられていない。戦塵にあって文武両道を心がける者として、前掲の武将たちを列挙したのである。

◆赤松氏・関連資料

『赤松記』得平定阿・著赤松一族の得平因幡入道定阿が記したとされる、赤松家の興亡記。一巻。天正十六年成立。赤松氏の家系から書きおこし、鎌倉時代から嘉吉の乱にいたるまでの動向を詳細に記したもの。『群書類従』21合戦部に収録されているほか、勉誠社からも活字本が刊行されている。
『赤松再興記』著者不詳嘉吉の乱後の赤松氏の動向を記した記録。一巻。天文八年頃成立。赤松則尚の再挙失敗、神璽の奪回、赤松家再興、応仁の乱、赤松晴政による浦上村宗討伐までを記述している。村宗討伐は天文八年のことであるから、事件直後間もない記録である。『群書類従』合戦部に収録されている。
『赤松円心・満祐』高坂好・著吉川弘文館の人物叢書のうちの1冊。赤松氏について知るには、好適で、しかも入手しやすい資料である。