小石川後楽園
|
水戸徳川家に寛永4年(1625)将軍家から小石川の邸地を下賜され中屋敷とし、初代藩主徳川頼房が大徳寺左兵衛に命じて作園、二代光圀の時に完成した。回遊式築山泉水庭園、クマザザの築山を築き、滝を落とし、大井川の景を縮し、明の朱舜水が参画し円月橋、西湖の堤など中国の風物も取り入れられている。また、後楽園は小石川台地という起伏に富む地形を活かして、かつ厳しい儒教の影響を受けて作園されており、明るい六義園と好対照をなしています。 |
根津神社
|
宝永3年(1706)五代将軍綱吉が養嗣子に甲府宰相綱豊を決めたときに、甲府宰相の上屋敷(現在地)に社殿を新築した。新築工事は老中が担当し天下普請として行われ、本殿、弊殿、透塀、唐門、楼門等現在に残っています。 |
赤門
|
加賀前田家の御守門、文政10年(1827)11代将軍家斉の溶姫が前田斉泰に嫁入りしたときに建てられた。切妻作りの薬医門で左右に唐破風の番所を置き、朱塗りの所から赤門と呼ばれた。 |
小石川植物園 |
五代将軍綱吉の館林藩主時代の別邸があったが、当時の遺構は日本庭園のみである。また、八代将軍吉宗の時代に薬園となり、享保7年(1722)には地内に小石川養生所が設けられ、貧困者に治療の他、衣類に至るまで配布した。また、日本本庭園脇には旧東京医学校本館が移築されている。 |
護国寺
|
元禄10年(1697)幕府によって観音堂を建立、これが本堂で、五代将軍綱吉、桂昌院の崇敬厚く寺領も2,500石を与えられ、江戸屈指の大寺として栄えた。月光殿は園城寺(大津市)の客殿を移したもので、桃山時代の書院建築の代表的なものである。 |
新江戸川公園
|
ローム層の台地の湧き水を利用した池泉回遊式庭園、肥後熊本藩細川家の抱え屋敷(百姓地を買い入れ屋敷とする)、明治15年(1882)以降は細川公爵邸、北側は細川護立氏の収集した美術品を展示している永青文庫がある。
|
六義園
|
柳沢吉保が元禄8年(1695)、5代将軍徳川綱吉より拝領し7年余にわたる工事で完成。大芝生地に、巨大な中島石組みを施し、築山にクマザサの大刈込みを用い、滝を落とすなど、吉保自らが中国の詩経大序にある六義になぞらえて作園、88境を数える。明治になり岩崎弥太郎の別邸となり修復した。
|
吉祥寺
|
太田道灌が江戸城築城の折り桔梗門の外の井戸から「吉祥」と刻銘した金印を得て、和田倉門の所に吉祥庵を設けたことに始まる。明暦の大火(1657)で現在地に移転した。曹洞宗江戸4ヶ寺の1つとして堂宇も壮麗を極めたが戦災により、山門、経蔵を残して焼失した。 |
目赤不動
|
江戸五色不動は、江戸を守るために将軍家によって置かれたものであり、青・白・赤・黒・黄の五色が、その順に、東・西・南・北・中央を表しています。実際に不動尊の目が五色をしているのではなく、密教で重んじられた青・白・赤・黒・黄の五色を不動明王にあてはめたものである。五色不動が完成したのは三代将軍家光の時代と言われています。 |
湯島天神
|
文和4年(1355)湯島の住民によって霊夢により菅原道真公を祀った事により始まる。学問の神様として受験に御利益がある。また、江戸三富と言われ谷中天王寺、目黒不動と共に幕府公認の富くじ興行を行っていた。 |
神田神社
|
天平2年(730)創建、徳川家康の江戸城拡張、続いて神田川開削工事のために元和2年(1616)江戸城の鬼門の守護として現在地に遷座され、歴代将軍の崇敬厚く神田祭りは天下祭りと呼ばれた。門前には甘酒などを売る江戸の老舗がある。 |
胸突坂
|
文京区は坂の町と言え、江戸時代の景観を今に伝えています。目白通りから蕉雨園と永青文庫の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」とも言われる。坂が険しく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよく付けた名前です。 |
西教寺表門
|
徳川家の重臣、酒井雅楽頭の屋敷から明治7年(1874)に移築された、複雑な寸法体型を持ち近世初頭の標準から外れる独自の特色を多く持ち、構成に独特の品格を持っている。瓦葺きから銅板棒葺きに変わっている。 |