御殿

江戸時代初期、鷹狩りの為の休憩所・街道筋の宿泊施設としての将軍家は御殿を造りました。今でも「御殿」があった場所は地名として残り、多くの所には社が残っています。

小菅御殿跡 御殿跡 葛西 小杉
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  • 【鷹狩り】小菅御殿 葛飾区小菅
      江戸時代の初めは、関東郡代伊那忠治の18,000坪の下屋敷がありました。元文元年(1736)徳川吉宗命により御殿を設け、葛西方面の鷹狩りの為の休息所として利用されました。徳川家重も度々訪れたが1742年に焼失以後、御成はほとんどなく、御膳所に格下げされ1794年に取り払われた。その後、小菅籾蔵が置かれ、明治維新後は小菅県の役所が置かれました。当時を偲ぶ灯籠が正門脇にあります。

  • 【鷹狩り】井の頭公園 武蔵野市御殿山
      江戸府内から五里以内に将軍家の鷹場が設けられていて、吉祥寺周辺も鷹場に含まれていました。鷹狩り好きだった家光は、井の頭池の西側に鷹狩りのための御殿を設けさせ、これが御殿山の地名として残っています。御殿廃止された後は官林となり樹木が繁生していた。また、周辺には将軍家の御膳所として使われた寺社が多く残っています。

  • 【鷹狩り】青戸御殿 葛飾区青戸7丁目御殿山公園
      葛西城址を江戸時代に入り青戸御殿として再興され、家康、秀忠、家光三代にわたり鷹狩りなどの休息所として使用されました。明暦3年(1657)の大火のため、江戸城が焼けたために建築資材として取り壊され、以後再興されることは無かった。 この辺りの地古くから水田地帯で、葛西三郎清重が伊勢神宮に寄進し、葛西御厨と呼ばれていました。

  • 中山御立場跡
      江戸時代、東中野小学校の付近には、将軍のお立場がありました。幕府が指定した御鷹場のひとつで鷹狩りをした所です。旗本の中山主馬の屋敷があったので、中山御立場と呼ばれていました。  武蔵名勝図絵や中野村絵図、堀江家文書などの古文書に記録があります。この高台の南西に御立場、東より(東中野小学校のあたり)に屋敷がありました。  堀江家文書によると、宝暦13年(1763年)3月、十代将軍家治は、早朝、半蔵門を出発し、四ッ谷、淀橋を渡り青梅街道から御囲跡御立場に着き、雉狩り。青梅街道にもどり雑司谷道を通り、上落合の泰雲寺で食事を済ませ、中山御立場で再び雉狩り。その後、小滝橋を渡り、高田馬場、神楽坂から田安門へ帰城しています。  なお、中野へは、徳川家光、吉宗、家斉等が鷹狩りに来たことが、前記の堀江家文書に記されています。
      所在地  東中野5−27−8

  • 御茶屋御殿跡:千葉市若葉区御殿町
      東金御成街道、船橋東金間の中間地点につくられた徳川家康の御殿跡。現在、周囲には空堀と土塁の跡が残っている。
     

  • 鴻巣御殿【中仙道】
      家康がたびたび鷹狩りに訪れ、文禄2年(1593)には鴻巣御殿(結城御殿)が建てらた。関東18檀林の名刹勝願寺の本堂奥あたりには結城御殿といわれる将軍専用の建物が建っていた。結城御殿のいわれは家康の次男秀康の居城であった結城城から、建物を移築したからである。近くには将軍の来訪に由来する御成橋や御成河岸といった地名も残っております。

  • 浦和御殿【中仙道】:常磐公園周辺
      御殿としては早期のもので、慶長16年(1611)頃には廃止されました。その後、御林となり幕府直営の林として管理されました。

  • 【日光街道】勝専寺(赤門寺):足立区千住2−11
      勝専寺は、二代将軍秀忠公御鷹狩の節御休息所に相成候。例にて家光公慶安改元子年境内へ御仮御殿造営ありき。同二丑年四月家綱公日光御社参御環御の砌、勝専寺中御仮御殿へ入御被為成候、おりから荒川洪水にて渡船の便をうしない、二夜三日御逗留あらせられ候せつ、神前草厳の器財は云うもさらなり、提燈御幕等にいたるまでことごとく御紋附御奉納有え、其外御屏風御手道具までも被下置、且また境内附百姓地までも御用地に相成候分は拝領地に相成り、猶亦寛文十一亥年御殿御営これあり候ところに、延宝庚八甲年大風雨のため悉く破壊し、其砌御取崩に相成り、後また安永五年御社参のせつは本堂客殿を御本陣に被為成、御勅使をはじめ雲上地下御役人方御内拝あらせられ

  • 【東海道・送迎】御殿山 品川区北品川
      慶長から元和(1596〜1624)の間まで、海を望む風光明媚な高台に御殿が造られ、将軍の参観送迎をしていた。寛文(1661〜73)の頃に和歌山吉野より桜を移植して名所となった。

  • 白金御殿(麻布御殿)
      徳川綱吉公の時代、元禄10年に白金御殿が竣工され、御殿の造営に伴って古川の川幅拡張、掘り下げの改修工事も芝新堀から四の橋区間で行われました。造営で建材を運び込んだ時、その労働に従事していた人々を1番組から十番組までに分け、一ノ橋のところを受け持ったのが十番組だったということで、麻布十番と呼ぶようになったという。
       また、御殿の建った一帯は幕府の「御花畑」があった。御花畑は江戸城二ノ丸、北ノ丸を経てこの地に移転したが、その後寛永年間ころに麻布薬園となり幕府が薬草の栽培に乗り出した。麻布御殿建設と共に小石川に移転した。三田上水の2支流に,1つは万治年間(1658〜60)に細川越中守が三田台町の私邸に導水した細川上水,他は元禄11年(1698)白金御殿(麻布御殿)の造営に際し,白金村で分水し,元禄15年(1702)同御殿の焼失まで使われていた.

  • 【東海道・神奈川宿】神奈川御殿
      神奈川宿は、慶長六年(1601年)に宿場として正式に成立しました。その後、東海道を往復する将軍の宿泊施設として、近世初頭、神奈川町の御殿町に神奈川御殿として造営されました。成立の時期は慶長15年(1610年)とも元和8年(1622年)ともいわれていますが、明確ではありません。御殿の周りには空掘と土手が張りめぐらされ、御殿番の屋敷や神奈川陣屋が置かれていました。神奈川御殿の造営の際、成仏寺の敷地や百姓たちから耕地を召し上げたそうです。

  • 【東海道・藤沢宿】藤沢御殿 藤沢市藤沢一丁目
      江戸時代の始め、藤沢宿には本陣が無く、慶長元年ころ藤沢公民館の北よりの所に約6,000坪の広さを持った御殿が建てられました。家康、秀忠、家光が宿泊し、元和2年(1682)廃止されています。いまも、御殿橋、陣屋小路などの地名を残しています。

  • 【中原街道】
      中原街道は江戸の虎ノ門を起点として平塚の中原で東海道とつながります。徳川家康が初めて江戸に入った天正18年、まだ東海道は整備されておらず、家康は平塚からほぼ直線で江戸に向かうこの道を通りました。将軍は東海道が整備されるまで、小杉御殿、中原御殿を鷹狩りや、休息に利用しました。東海道が整備されると御殿は移築されましたが、中原街道は沿道の農産物の運搬に欠かすことが出来ない大切な道として多くの人々に利用されました。

  • 【中原街道】小杉御殿 川崎市中原区小杉御殿町
      二代将軍秀忠が小杉御殿を建てたのは、慶長13(1608)年で、正式な御殿となったのは、寛永17(1640)年です。主殿は中原街道、蔵屋敷は多摩川(今の等々力緑地)に面していた。総面積1万2000坪という広大な敷地に、表・裏御門をはじめ主殿・蔵屋敷・御賄屋敷・御殿番屋敷などが建立ち並んでいた。しかし、東海道が整備される万治3年(1660)に撤去されました。西明寺の門前に記念碑があり、主殿と蔵屋敷があった場所には社が祭られています。

  • 【中原街道】中原御殿 【平塚宿】平塚市中原小学校周辺
      平塚市中原小学校周辺は、江戸時代に徳川家康が鷹狩りをするために御殿を造営しました。別名、雲雀御殿と言い、家康が江戸と駿府の往来に宿泊しました。今でもその名残りに「御殿」という地名が残っています。  家康は中原御殿造営にあたり代官頭伊奈忠次に命じて松苗を植栽させたのが中原御林であり、代官江川氏により管理された。御林は16ケ所で市域の砂丘上に植栽された。

  • 静岡県御殿場市
      元和元年(1615)沼津代官・長野九左衛門が徳川幕府の命令を受け、徳川家康が駿府と江戸を往復する際の宿泊所としての御殿を造営した。場所は御殿場高校の周辺で、東西50間、南北45間、2250坪で、周囲を土塁で囲み、竹林や竹で編んだ垣根を配し、屋敷内に小川(水路)を通し、石橋を架け、御殿は茅葺き屋根に松の柱などを使った建物だったことが知られている。この御殿も、家康が1616年に死去したため、家康自身一度も使うことなく、貞享3年(1686)に解体された。
       御殿の建てられたこの地は、御殿造営に伴い商人や職人が移住し、幕府の手により町作りが行われ御殿新町となり宿場町が形成された。御殿があった所から御殿場と称されるようになり、現在の御殿場市に発展した。

  • 【鷹狩り】府中御殿 東京都府中市大国魂神社内(東照宮現存)
      天正18年(1590)豊臣秀吉は家康を関東に移封し、奥州平定のため会津に向かいました。家康はその帰りに会わせるために、府中御殿を造営し、8月秀吉が会津から凱旋すると御殿で饗応しています。家康と秀忠はたびたび此の御殿を訪れ、鷹狩や川狩に行っています。その後、幕府を開き駿府に引退したましたが、関東に下るときは府中御殿を中心に放鷹をしています。家康が関東に。元和3年(1617)3月、家康公の神棺が久能山から日光へ遷座され、3月21日に府中御殿に宿泊し、元和4年に東照宮を創建する。御殿は正保3年(1646)府中の大火で焼失し、再建されることは有りませんでした。

  • 【鷹狩り】練馬御殿:練馬区北町小学校
      第5代将軍になる前、徳川右馬頭綱吉が鷹狩りに訪れ、その御殿が下練馬村にあった。

  • 今市市:如来寺
      第3代将軍家光が宿泊するための御殿が境内に建てられました。

  • 東金御殿 千葉県立東金高校

  • 御茶屋御殿 千葉市若葉区御殿町

  • 船橋御殿 船橋本町4丁目の東照宮あたり

  • 【中仙道】能登川の伊庭御殿、野洲の永原御殿、柏原御殿(御茶屋御殿)

  • 【東海道】小田原宿
      小田原城本丸に将軍の御成御殿がありました。元禄16年(1703)の大地震で倒壊、以後再建されませんでした。

  • 【東海道】水口御殿
      元和9年(1623)家光の上洛の際に御殿を建立され、66年の間 将軍の宿泊施設として利用されました。御殿は 間口42間、奥行38間でした。

  • 【熱海】
      家光公は湯治の御殿を造った、家綱公の時代から、江戸城に献上させる御汲湯をはじめ、吉宗公の頃は最盛期で8年間に3,600樽以上もの温泉が献上された。

  • 【東海道】三島御殿
      三島宿は慶長6年(1601年)東海道の宿駅となって以来、宿の中央には将軍上洛の際に本陣とした三島御殿や鷹狩のための鷹部屋などの施設も整えられました。

  • 瑞穂と水鳥の地
      鷹狩りは刈穂の後、池や小川に水鳥の渡ってくる時期に行われました。葛西地方には広大な水田、小川、平坦な土地のために鷹狩りには最適の地でした。そのために歴代の将軍、家康、秀忠、家光、吉宗、家重、家治がたびたび訪れています。

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2002/01/05