江戸歴史散歩第11回オフ会コース解説
- 六本木の由来【門前町から発展】
- その昔、緑深い武蔵野の東南に年月を経た六本の松が聳えていました、その松はどこからでも見ることができ、いつしか人々は、この土地を六本木と呼ぶようになりました。寛永年間、徳川2代将軍秀忠夫人の荼毘地煙下を下賜され、仏寺五院が創立し、その門前に商家が集い、大名屋敷立ち並ぶようになりました。何度となく、道路が拡張され、六本木、三河台地区は高級住宅街として発展しました。《六本木交差点記念碑》
- 市三坂(いちみざか)
- 明治20年代に開かれた坂。名主の名がついた市兵衛町と松平三河守忠直邸のあつた三河台町との間で両頭文字をとった。
六本木3丁目〜4丁目の間
- 松平三河守忠直
- 参議松平三河守忠直は、家康の次男越前宰相秀康の子であり家康の孫にあたる。2代将軍秀忠の三女勝姫の婿である。12歳から29歳まで越前67万石を領していた。
大阪夏の陣では、真田勢と正面から死闘を繰り返し、大坂夏の陣では真田幸村以下3千余りの首を斬り、大阪城に1番乗りした。しかし、家康からも秀忠からも恩賞の沙汰がないのを不服とし、次第に酒色におぼれ所業も荒々しくなって忠直御乱行の噂がたった。側室の一国御前とともに、血に塗られた殺人者として有名になり、勝姫は江戸に帰った。
元和9年(1623)、忠直29歳は越前北の庄より豊後萩原に配流され、剃髪し一泊と称した。忠直が配流生活を送った、豊後国萩原(大分市萩原)いまなお「一伯公」「一伯さん」と、号で呼ばれて親しまれ、菓子や民謡の題材ともなっています。大分では信仰生活をおくり、領民と交わるなど、「乱行」とは程遠い姿があった。
- 六本木ヒルズ【忠臣蔵 乃木将軍】
- 江戸時代、六本木ヒルズがある場所は毛利家支藩長州府中藩の屋敷でした。元禄赤穂事件の時に、岡島八十右衛門以下10名赤穂浪士が切腹した場所です。また、乃木希典が嘉永2年(1849)藩邸で生まれ、現在の毛利庭園と呼ばれている池のほとりの井戸で産湯につかりました。
- 檜町公園【長州藩毛利氏下屋敷】
- 長州藩毛利氏の麻布龍土拝領下屋敷で敷地は3万坪余りで、今の赤坂9丁目1・2及び7番先の地域であった。高台(防衛庁庁舎)に御殿を構え、その庭は「清水園」と呼ばれ、庭園越しに江戸の街並みが一望できた名園の一つでした。また、邸内には檜が多かったことから「檜屋敷」と称され、檜町という地名の由来になった。元治元年(1864)の長州藩追討の時に幕府により破壊され、今は池に面影を偲ぶのみです。
- 乃木神社
- 旧乃木邸跡。乃木将軍御夫妻が自刃されてから、乃木邸内小社に、御夫妻の英霊を奉安し、大正12年鎮座祭を斎行した。戦災により本殿以下社殿が焼失したが、全国崇敬者の熱意により、昭和37年復興した。
- 高橋是清記念公園【政治家】
- 高橋是清翁の本邸跡。近代日本の政治家。高橋是清は松方正義とともに戦前の「2大財政家」と呼ばれ、「ダルマ」の愛称で親しまれたが、昭和11岡田内閣の蔵相在職時、2・26事件において、陸軍青年将校により私邸で暗殺される。
- 円通寺
- 日蓮聖人御みずから魂を入れた木像三体を安置している江戸三祖師のひとつ、圓通寺は江戸時代から「願い事がかなう寺」として信仰を集め、また「時の鐘」を託された7ヵ寺の一つです。
- TBSの敷地【2・26事件 近衛歩兵第三連隊】
- 広島藩42万6千石松平安芸守の中屋敷跡、明治になり跡地は陸軍裁判所と監獄でした。その後、近衛歩兵第三連隊兵舎になり、昭和11年2月26日の未明、前夜からの雪の中で陸軍の一部決起将校が近衛師団の近衛歩兵第三連隊(TBS)、第一師団の歩兵第一連隊(旧防衛庁)、歩兵第三連隊(東大生産技術研究所)の1,483名の将兵を使いク−デタ−を起こします。総理官邸、赤坂の高橋是清蔵相私邸、四谷の斎藤実内大臣私邸、荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸、麹町の鈴木貫太郎侍従長官邸、静岡県湯河原の牧野伸顕前内大臣を次々に襲撃、警視庁、陸軍省、陸軍大臣官邸、参謀本部を占拠します。その後、「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅(ほうちょく)命令が下され、この時点で決起将校たちの「昭和維新」の夢は完全に断たれます。事件後軍法会議が特設され、首謀者17名は死刑、69名が有罪となっています。
近衛歩兵第三連隊兵舎跡は現在TBSになっており、近衛歩兵第三連隊記念碑がありまが、昔の面影はありません。
- 報土寺
- 報土寺は、慶長19年(1614)赤坂一ツ木に創建、安永9年(1780)三分坂下の現在地に移転してきました。江戸時代後期の力士雷電為右衛門の墓があり、坂に面した築地塀は200年前に作られたものです。
- 種徳寺(小田原北条の菩提寺)
- 早雲寺は秀吉により焼かれ灰燼に帰しましたが、末寺院は早い時期に、再興されました。文禄2年(1593)早雲寺第11世希叟は家康の帰依を受け、江戸神田に10,000坪の土地を拝領し広徳寺を再興し、その後神田に移転し、「びっくり下谷の広徳寺」と言われる大寺院になりました。文禄3、早雲寺9世準叟は小笠原播磨守室種徳殿の後援により、北条氏康の弟為昌の菩提寺本光寺を江戸麹町に移転して、寺名を種徳寺に改めました。
- 氷川神社【忠臣蔵 吉宗公】
- 天暦5年(951)、赤坂一ツ木に創建、紀州藩の産土神の所以により、享保15年(1730)、吉宗公が老中水野和泉守に命じて、現社殿を造営する。
赤坂2丁目の南部坂から、信濃松代藩下屋敷跡のアメリカ大使館官舎沿いにしばらく行くと、都心とは思えない、静寂な鎮守の森があります。ここも、江戸の風景が残るところです。
- 勝海舟邸跡【赤坂6−10−39】
- 勝海舟が36歳の安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ場所です。ここに住み始めた翌年、咸臨丸船長としてアメリカに渡航し、日本の船として初めて太平洋横断を成功させました。また、文久2年(1862)、坂本龍馬らが海舟を刺殺しようとして訪れたのもこの場所です。
- 南部坂【忠臣蔵】
- 浅野内匠頭切腹の後に夫人瑶泉院は、生家である備後三次藩浅野土佐守下屋敷(現在の赤坂氷川神社)引き取られました。討ち入りの前日に、大石内蔵助は瑶泉院に暇乞いにおもむきましたが、吉良方に計画の漏れることを恐れ、討ち入りのことを告げずに去ります。瑶泉院が見送った南部坂が講談や歌舞伎で有名な坂で、”嘆く瑶泉院、苦しむ内蔵助”で、「南部坂 雪の別れ」の場面です。
- 江戸見坂
- 江戸の中心街の大半を展望することが出来たために名づけられた坂である。
- 霊南坂
- 慶長年間に高輪の東禅寺が嶺南庵として此処にあった。嶺南和尚は家康の軍学師範でもあった、寛永13年(1636)に幕府の用地になり高輪に移り、東禅寺と改称した。いつしか嶺が霊とり霊南坂と名づけられてという。霊南坂教会で山口百恵が挙式を挙げたことでも有名になりました。
- 虎ノ門金刀比羅神社【丸亀藩屋敷神】
- 創祀は万治3年(1660)丸亀藩主京極高和が讃岐金刀比羅大神を邸内に勧請した。以来、毎月10日市民に邸内を開き、参拝を許しています。御神徳は海上安全、商売繁盛。また御祭神は運を開く神様とも言われ元日から初こんぴらの1月10日までに限り開運の御守を授与している。
- 大使館
- 赤坂、六本木、青山には大使館が多く、大規模な敷地の多くは武家地に由来して今す。アメリカ大使館官舎は松代藩真田家跡から三井本家屋敷になり財閥解体により接収されたものです。アメリカ大使館は牛久藩跡、カナダ大使館、スペイン大使館、スウェーデン大使館は高級旗本屋敷跡です。
- 今井古城跡【港区赤坂5】
- 今井古城は、今井四郎兼平(1152〜84)の城跡、江戸時代は広島藩浅野の中屋敷に使われ、明治になって近衛第三連隊が置かれた場所としてある。現在のTBSの場所です。
- 西久保古城跡【港区虎ノ門4】
- ホテルオークラ・スエーデン大使館付近にあったらしい、熊谷直実の城跡があったという。「城山ヒルズ」など城山を付けているものが多くあります。
- 三河台
- 天和(1681〜84)頃、松平三河守の屋敷があった。