徳川家崇敬社
- 日枝神社
【産土神:3代家光、4代家綱、5代綱吉、6代家宣、7代家継、10代家治、11代家斉、12代家慶、13代家定】
- 平安末に江戸氏の館に祀られ、太田道灌は江戸城の守護神と信仰した。将軍家は産土神、家光公は一般市民の参拝の便を企てるため紅葉山より隼町付近に遷座し朱印地を六百石に加増、家綱公は明暦3年(1657)振袖火事で社殿が炎上し、万治2年(1659)に溜池に臨む、福知山藩主松平主殿頭忠房邸に遷座、権現造りの社殿を造営しました。
江戸時代は将軍世嗣、諸大名等の社参は絶えることなく、毎年正月・六月には必ず使いを遣わして幣を奉り、国家事ある時には必ず祈祷を修し、絶大な力と規模を持つ江戸第一の大社だった。維新後は皇居(皇城)鎮護の神と信仰されている。歴代将軍の朱印状が、6代家宣7代家継及び15代慶喜のそれを除いて、12通現存し社蔵きれている。
古くかは「日吉山王社」「日吉山王大権現社」「江戸山王大権現」「麹町山王」ひろく「山王社」と称されていました。
日枝神社にあった金剛力士像は万治2年(1659)4代将軍家綱が寄進したものですが、明治元年に堀之内やくよけ祖師妙法寺に移されました。
御祭神:大山咋神(おおやまくいのかみ)、比叡山の地主神で、天台密教の護法神、農業の守護神、酒造・醸造の神。
千代田区永田町2−10−5
- 六所神社【産土神:初代家康公】
- 岡崎城で竹千代(徳川家康)が誕生した際に産土神。松平初代親氏が六所大明神を当地に移し、国家安全、子孫繁栄を祈願したといわれています。5万石以上の大名だけが許されたという石段を上がると極彩色の楼門、その奥に社殿が目に飛び込んできます。華麗な彫刻・彩色が印象的でいずれも江戸時代のものです。
家康公の産土神とし崇敬が厚く、社殿は国の重要文化財に指定されています
岡崎市明大寺町耳取44
- 五社神社・諏訪神社【産土神:2代秀忠公】
- 両社ともに秀忠公の産土神として崇敬され、絢爛豪華な社殿は国宝建造物としてその偉容を誇ってきましたが、昭和20年戦禍により悉く灰燼に帰してしまいました。昭和35年には両社合祀され、現社殿は昭和57年に再建されました。浜松市民の心の拠所として篤い信仰を集めています。
御祭神 五社神社:太玉命、武雷命、斎主命、天児屋根命、姫大神
御祭神 諏訪神社:建御名方命、八坂刀売命、事代主命
浜松市利町302−5
- 根津神社【産土神:6代家宣公】
- 甲府宰相綱重公の屋敷で6代将軍となる綱豊(家宣)が生まれた地。家宣公は根津神社が産土神となります。その後、幕制をもって祭礼を定め、正徳4年江戸全町より山車を出し、俗に天下祭と呼ばれる壮大な祭礼を執行した。現存する神輿三基は、この時家宣公が奉納したものです。山王祭、神田祭とあわせ江戸の三大祭と言われた。しかし吉宗公が将軍に就任すると,規模の小さな祭と変わりました。
現在の社殿は宝永2年、根津神社に綱重公の屋敷地を献納、世に天下普請と言われる大造営を行い、千駄木の旧社地より遷座した。当時の権現造りの社殿、唐門、透塀、楼門、透塀等の建物が全て現存し、江戸時代の代表的な建築として、国の重要文化財に指定されています。
御祭神:須佐之男命・大山咋命・誉田別命・大国主命・菅原道真公
文京区根津1−28−9
- 岡の宮(刺田比古神社 さすたひこ)【産土神:8代吉宗公】
- 吉宗公は貞享元年(1684)和歌山吹上御用屋敷で2代藩主光貞の4男として生まれました。吉宗公生誕の際、健康に育てる、ならわしで一旦捨て子し拾わせる儀式があり、役目を命じられたのが岡の宮の神官であった。その後、吉宗公は産土神として、神領や事物の寄進し崇敬しました。戦災で焼失しましたが、再建され和歌山市吹上地区の産土神として崇敬されています。
御祭神:大伴佐氏比古命,大伴道臣命
和歌山市片岡町2−9
- 氷川神社【産土神:紀伊家 9代家重公、14代家茂】
- 家重公は正徳元年(1711)に赤坂の紀州藩邸で生まれていますので、氷川神社が産土神です。氷川神社は天暦5年(951)、武州豊島郡人次ケ原俗称古呂故ケ岡(赤坂4丁目一ツ木台地)に創建それ、江戸時代は紀州藩の産土神として崇敬されていました。享保15年(1730)には、吉宗公が老中岡崎城主水野和泉守忠之に命じて、忠臣蔵浅野内匠頭夫人遙泉院実家だった現地に、現社殿を造営しました。享保15年4月28日将軍の直拝により社領5,000坪を下渡され、以後、8代より14代までの将軍朱印状が収められています。
御祭神:盞嗚命(すさのおのみこと):奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと):大己貴命(おおなむちのみこと)
港区赤坂6−10−12
- 白山神社【綱吉公】
- 天暦2年(948)に加賀一の宮白山神社を武蔵国豊島郡本郷元町に奉勧請したのが始まりで、明暦元年(1655)に白山御殿造営のために、現在地に移転。白山御殿の屋敷神で、綱吉公と生母の桂昌院の信仰が厚く、たびたび将軍家の参拝がありました。
御祭神:菊理姫命(くくりひめ命)・伊弉諾命・伊弉冉命
文京区白山5−31−26
- 芝増上寺の山内寺院として由緒をもち、子院・別当・別院・学寮などから発展した寺院は、徳川家との関連が多くあります。
- 南の御霊屋:台徳院殿御霊屋 崇源院殿霊牌所
- 北の御霊屋:慎徳院殿御霊屋 昭徳院殿・静寛院和宮御霊屋 有章院殿御霊屋 惇信院殿家重公墓
- 大眼院 別当【台徳院殿】
- 妙定院 霊牌所【惇信院殿 浚明院殿】
- 妙定院は宝暦13年(1763)、惇信院殿家重公の御中陰の尊牌(白木の位牌)をお守りするため、寺社建立厳禁の当時に、官許により家重公の霊牌所として創建された。その後、浚明院殿家治公の尊牌も安置されました。
港区芝公園4−9−8
- 真乗院 別当【文昭院殿 慎徳院殿】
- 正徳2年(1721)文昭院殿家宣公逝去、真乗院を建立し増上寺北の御霊屋の別当職となる。嘉永6年、慎徳院殿家慶公逝去、相殿とる。
港区芝公園2
- 岳蓮社(廃寺) 霊牌所【綱吉公の長男徳松、浄徳院殿母お伝の方、他】
- 綱吉公の長男徳松が、天和3年閨5月28日、西の丸で逝去、5才、法号を浄徳院殿霊岳崇心大童子という。元文3年(1738)6月9日、浄徳院殿母お伝の方(通称五の丸さま)逝去、浄徳院殿と岳蓮社に相殿となった。寛政5年(1873)家斉長男竹千代逝去、文化11年(1814)家慶長男竹千代逝去、他を相殿とし、合祀、位牌を安置する。
港区芝公園3
- 松蓮社 別当【霊仙院殿 尾州家斉朝室淑子】
- 尾張宰相光友が建立、霊仙院殿の別当職寺院である。霊仙院殿は家光公長女千代姫。文化14年(1817)尾州家斉朝室淑子(清湛院)の方逝去され、増上寺に埋葬された。清湛院が家斉将軍の長女であったからである。淑子の方は法号を清湛院純誉貞心栴了大姉という。
港区芝公園3
- 善長寺 別当【明信院殿】
- 紀伊中納言綱教が山内西部弁天池の西岸宝珠院の隣地に建立した、明信院殿霊屋別当職寺院である。明信院殿は綱吉公長女鶴姫で、貞享2年紀州家中納言綱教へ嫁ぎ宝永元年(1704)逝去。
港区芝公園3
- 最勝院 別当【崇源院殿、天英院殿、天親院殿】
- 秀忠公室浅井氏崇源院殿の別当寺院として建立された。崇源院殿は、若い時代から深い浄土宗の帰依者であった。後年、六代将軍家宣妻、天英院は近衛基煕公の姫、嘉永元年には、家定公妻、天親院鷹司関自政通公姫逝去、他が相殿となった。
港区芝公園2
- 通元院 別当【清揚院殿】
- 清揚院殿霊屋の別当職寺院である。清揚院殿とは甲府宰相綱重公のことで、家宣公の父、家光公の三男です。延宝6年(1878)逝去。増上寺境内に御霊屋の水盤舎が残っています。
港区芝公園2
- 諏訪神社【祈願所】
- 尾張の徳川家の祖である徳川義直公が、信濃国の諏訪神を勧請し、現在の諏訪神社と改称致しました。日本第一大軍神として武家の守護神としても尊ばれた。後水尾天皇が御神体を寄附しました。寛永年中(1624〜44)将軍徳川家光公が造営し、続いて家綱公が当時近隣地域は鷹狩りの名所だったので鷹を奉納した。これより老鳥は代々奉納することになった。また、鷹狩りの絵馬が数多く奉納されるようになり、今でも多数の貴重な絵馬が神社に保存されております。明和年中(1764〜72)家治公が鷹狩りの節に参詣されて、当社の御祭神を御城庭へ遷祭の上意があり、依って紅葉山、吹上両御庭へ遷祭しました。その後、営繕の儀は全て徳川家に於て奉仕せられました。天保6年(1835)に社務所より出火し、神庫、未社に至るまで、悉く焼失しました。
御祭神:大国主命(おおくにぬしのみこと):事代主命(ことしろぬしのみこと):建御名方命(たけみなかたのみこと)
新宿区高田馬場1−2
※信濃国一之宮諏訪大社の祭神
建御名方神(たけみなかたのかみ)と妃の神八坂刀売神(やさかとめのかみ)
- 穴八幡神社【祈願所】
- 慶安2年(1649)に諸堂が完成し、江戸城の北の鎮護として将軍家の祈願所となった。この年、のちの四代将軍徳川家綱公が参詣し、能舞台がつくられた。穴八幡神社の流鏑馬は享保13年(1728)吉宗公が世嗣(家重)の疱瘡平癒祈願のため奉納したのに始まり、以来、若君誕生の祝いや厄除けに高田馬場で流鏑馬が奉納された。
御祭神:応神天皇:仲哀天皇:神功天皇
新宿区西早稲田2−1−11
- 王子稲荷神社【祈願所】
- 将軍家の祈願所と定められて栄えました。代々の将軍の崇敬は、極めて篤く、家光公は、寛永11年に、社殿を造営し、次いで綱吉公は元禄16年に、家治公は天明2年に、それぞれ、修繕を寄進されましたが更に、家斉公は文政5年(1822)に、社殿を新規再建きれました。八棟造り極彩色の華麗な社殿は、江戸文化の最高潮、文化文政時代の粋を伝え、当時の稲荷信仰の隆昌か偲ばれます。然し、惜しいことに、戦災によって本殿など大破しました。
御祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ):宇気母智之神(うけもちのかみ):和久産巣日神(わくむすびのかみ)
北区岸町1−12−26
- 蔵前神社【祈願所】
- 綱吉公が元禄6年(1693)に、山城国の石清水八幡官を勧請。以来、江戸城鬼門の祈願所の一社として篤く尊祟せられ、御朱印社領二百石を寄進せられた。神仏習合思想によることもあり、一般には「蔵前八幡」、または、「蔵前の八幡さま」と呼ばれた。
御祭神:応神天皇(おうじんてんのう)他
台東区蔵前3
- 護国寺【祈願所】
- 創建は天和元年(1681)、綱吉公が、その生母、桂昌院の発頓により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜い、堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、号を神齢山悉地院護国寺と称し、寺領300石を賜ったことに始まる。翌年、堂宇は完成した。
創建より以前、桂昌院が綱吉公と共に群馬県館林城においでのとき、亮賢僧正の徳をしたい厚く帰依されていたが、綱吉公が将軍職を嗣ぐことになり、桂昌院もその生母として江戸城三の丸に移られた。この頃より、亮賢僧正も祈祷の命を奉じて江戸城を訪れ、幕府の信仰を受けること益々厚く、天和3年(1683)桂昌院は初めて参詣した。綱吉公は桂昌院の参詣にしばしば同行され、護国寺界隈は当寺の隆盛と共に賑わい、寺領も2,700石と加増されるなど、境内も様々な建造物が甍を併べた大殿宇となった。
文京区大塚5−40−1
- 浅草寺、浅草神社【祈願所】
- 明治初年、神仏分離令が出るまで、浅草寺と浅草神社は一体でした。推古天皇36年(628)宮古川(今の隅田川)で投網漁をしていた檜前浜成、竹成兄弟が、1寸8分の聖観音黄金像を引き上げ土師直中知が像を迎え私邸に寺として安置したのが浅草寺の起こりです。大化元年(645)、諸国巡錫中の勝海が堂宇を建立し、本尊を安置し、秘仏と定めてから今日まで秘仏を目拝したものはいないと言います。徳川家康入府後は寺領500石を受け、幕府の祈願所となった。重要文化財に指定されている浅草神社社殿は、慶安2年(1649)、家光公により建立され、主座神三柱と、後に徳川家康公と大国主の命の二柱が合祀されている。昭和20年戦災により二天門、伝法院を残して諸堂宇を焼失、昭和33年本堂、49年には五重塔を再建した。
天正18年(1590)4月徳川家康、浅草寺を祈願所に定め、寺領500石を寄進す。
元和 4年(1618)4月徳川秀忠、浅草寺山内に東照宮廟を建立す。
寛永12年(1635)この頃伝法院庭園なる。小堀遠州作と伝う。
寛永19年(1642)浅草東照宮は焼失しました。再建はされず江戸城内の紅葉山へ移された。
慶安 2年(1649)12月徳川家光、本堂等を再建。
台東区浅草2−3−1
- 神田神社
- 天平二年の創建と伝えられ、今の大手町にあった。平将門公の首塚が百歩の地にあり、延慶二年に将門公の霊を相殿に祀り、神田明神と名付けられる。元和二年現在地へ遷座し、江戸城の艮鬼門の守護神として歴代将軍の尊崇厚く江戸総鎮守となる。
御祭神:大己貴命(おおなむちのみこと):少彦名命(すくなひこなのみこと):平将門命(たいらのまさかどのみこと)
千代田区外神田2−16−2
- 筑波山神社【祈願所】
- 徳川家康が江戸城守護の霊山として祈願所と定めた。重要文化財に指定されている吉宗銘の太刀は、将軍家光の寄進によるものです。境内には、日枝神社、春日神社、厳島神社、それに参道の中央に架かる神橋等、家光公寄進の諸社殿が立ち並び、偉観を放っています。
御祭神:筑波男ノ神(いざなぎ)、筑波女ノ神(いざなみ)
茨城県つくば市筑波
- 宇佐神宮
- 宇佐神宮は全国4万社余りの八幡宮の総本宮です。八幡信仰は、応神天皇の御聖徳を八幡神として称え奉るとともに、仏教文化と、我が国固有の神道を融合したものとも考えられ、宇佐神宮の神事、祭会や建造物、宝物などにそのうるわしい姿を遺しています。
御祭神:本殿に応神天皇、相殿に神功皇后
大分県宇佐市南宇佐
- 鶴岡八幡宮
- 御本殿は文政11年(1828)、江戸幕府十一代将軍徳川家斉公の造営で代表的な江戸建築です。また、二代将軍徳川秀忠公が修造した若宮とあわせ国の重要文化財に指定されております。天正18年(1590)小田原城開城し、秀吉公は直ちに家康公に当宮の修理造営を命じる。家康公は、文禄元年(1592)の若宮修理後さらに八幡宮全体の造替を計画したが、その志は秀忠公に受継がれ、寛永元年(1624)上下両宮の正遷宮が行われたのである(寛永の御造営)。江戸幕府の威信をかけた面目一新の造替であり、日光東照宮とも通ずる壮観が形成されたのである。
御祭神:応神天皇(誉田別尊/ほんだわけのみこと)他
鎌倉市雪ノ下2−1−31
- 石清水八幡宮
- 現在の社殿は、徳川三代将軍家光公によって寛永11年(1639)に造営されました。桧皮葺きの本殿は前後二棟から成る“八幡造り”という建築様式で、その前には幣殿・舞殿・楼門と続き、周囲を180mに及ぶ回廊が囲んでいます。本殿をはじめ建物すべてが丹漆塗りで、随所に当時の名匠による極彩色の彫刻が刻まれている実に壮麗な社殿で、国の重要文化財に指定されています。
御祭神:応神天皇:比淘蜷_様(ひめおおかみさま):神功皇后様(じんぐうこうごうさま)
京都府八幡市八幡高坊30
- 産土神
- 産土神とはその土地に宿る神様で、五穀豊穣や土地に住む人の安全を司る神様です。その土地に産まれた人間を産まれてから死ぬまで見守り、守護する神さまです。氏神様はご先祖をお祀りする神様です。古い農村ではそれぞれ同じ神社にお祀りされて「鎮守様」と言われることも多いです。鎮守様はその土地の守護神であります。
- 御成
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御成は、三代徳川家光の時代に、大御所秀忠の御成とともに特に多かった。将軍の御成を迎えるのは最高の名誉であったから、大名側の饗応は善美をつくし、続いて茶湯・猿楽などが催された。客殿などが新築されることも多かったが、注目されるのは、各大名邸ともに金銀をちりばめ、精巧な彫刻をほどこした絢爛豪華な御成門を造営した。
- 神
- 大己貴命は大国主命ともいわれ「だいこく様」と親しまれ。
少彦名命は関東北部海岸地方では海より来訪される神「えびす様」としての信仰が古くから伝わっています。
- 八幡神
- 八幡神は八幡大菩薩とも言われ、源氏の氏神として信仰されてきたことで、後の武家社会の中で広く浸透していきました。