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大名、旗本が将軍家から屋敷を拝領すると、国元より御分社を勧請し、屋敷の一隅、特に鬼門(東北隅)に邸内社を設けた。藩邸内にあった社ですが、18世紀後半から、江戸庶民に開放されるようり、藩邸がなくなっても崇敬され、地方の有名な神社が東京にはいくつも残っています。 小さな稲荷社が多いけれど、小まめに調べると、それぞれに特色ある由来があります。地図に神社があると、通りから路地に入り、訪ねたくなります。 |
安永3年(1774)、能勢筑前守頼直の江戸屋敷に妙見堂を建立して、摂津ノ国妙見山より妙見尊像を分祀したものです。江戸時代より大阪能勢妙見山の全国唯一の別院として有名で、魔よけの御守として「能勢の黒札」の鴎大善神もあります。江戸末期幕臣勝小吉が愛息麟太郎のちの海舟の開運勝利を水垢離をとって祈願した場所でもあります。
高松城を築城し、城下町の建設に着手したのは、豊臣秀吉より讃岐国を与えられた生駒親正 (1526〜1603)である。この社は慶長年間に高松藩17万3千石の生駒家二代藩主一正が拝領した竹町中屋敷に領国の讃岐象頭山・金比羅大権現から勧請をしました。東京に金比羅神社はいくつか有りますが最古の神社です。生駒一正の後、正俊、高俊と続き、高俊の時代に生駒騒動が発生し、改易され、出羽国由利郡矢島1万石へ減転封されました。生駒家やがて8千石の交替寄合となりましたが、社は産土神として残りました。
創建は万治3年(1660)丸亀藩主京極高和が讃岐金刀比羅大神を邸内に勧請した。以来、毎月10日市民に邸内を開き、参拝を許しています。
《深川のこんぴらさん》文政2年、板橋市左衛門の邸内祠として祀られたのにはじまり、明治23年には神田和泉町にあったものを、深川古石場町に移転、深川のこんぴらさん」として親しまれていました。しかし、昭和20年、戦災にあい建造物を焼失。讃岐高松藩の邸内社として奉斎されていた水道橋金刀比羅神社とを合わせ祀った。《讃岐高松藩の邸内社》寛政5年(1793)高松藩松平公の上屋敷に讃岐金刀比羅大神を勧請され、祭礼日には社が開放されて、江戸庶民の崇敬を集めました。戦後間もなく、松平頼明氏の屋敷跡地を金刀比羅宮に寄進し、社殿は昭和39年に完成し、現在は金刀比羅宮東京分院となっています。丸金紋も金刀比羅宮本宮と同じものです。