東照宮縁起
 江戸幕府の初代将軍徳川家康を神として祀る東照宮はどの様に建立されたのでしょうか。
元和2年(1616)4月家康は側近の本田正純、南光坊天海、金地院崇伝を駿府城内の病床に召し、 「我れ死後は遺骸を久能山に納め、葬儀は江戸増上寺で営み、位牌は三河大樹寺に立て起き、一周忌を過ぎてから下野日光に小さき堂を建て勧請し、関八州の鎮守にせよ」と遺言した。同月17日、家康は75年の波瀾に満ちた生涯を終えた。
 日光では貫主天海、造営奉行藤堂高虎らが廟地造営を行っていた。家康の神号は天海の主張した山王一実神道の「大権現」となり、久能山神廟に後水尾天皇より「東照大権現」の神号が勅賜されました。  久能山から川越喜多院を経て、改葬された家康の霊柩は神社を移す、日光正遷宮の式に当たり、東照大権現号が追号され、正一位の神位を宣命されました。かくして、天海の説く山王一実神道によって、日光山には薬師如来を本地仏とする神仏習合の東照社が成立しました。
 元和9年(1623)、家光が三代将軍となると、大権現の加護を諭す天海の教えの中で、家光は日光社参拝も九回を数え、寛永13年(1636)、今日見る絢爛豪華な日光東照宮大改修を完成させました。
 正保2年(1645)、後光明天皇から宮号が宣下されて東照社は東照宮となり、その信仰は幕藩体制の精神的よりどころとなりました。
 東照宮は将軍にとっては祖廟であり、御三家をはじめとする親藩や幕臣などにあっては、徳川家への忠誠心の発露・具現として欠かせないものとなりました。
 まず、二代将軍秀忠が江戸城内紅葉山に内廟(元和4年)を分祀し、遠い日光山への代参所とし、三代将軍家光は二の丸(寛永14年)にも勧請する。御三家の名古屋東照宮(元和5年)、水戸東照宮(元和7年)、和歌山東照宮(元和七年)の他、上野寛永寺境内など、家康と関係の深い社寺内に勧請されました。
 東京芝東照宮、東京上野東照宮、久能山東照宮、水戸東照宮、仙台東照宮、埼玉【仙波東照宮、忍東照宮、大宮東照宮、秩父東照宮】など徳川家康を祭神とする神社の数は500社を越えています。

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