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明治の講談について

稲生家の怪異譚は絵巻にとどまらず、講談や祭文語りとしても取り上げられていたらしい。講談については当時速記本が作られており、そのなかに稲生家の怪異譚を扱っているものが数種確認されている。

寄席における怪談は文政年間に人気が出てきた。初代林屋正蔵は怪談噺の祖と呼ばれており、この頃大仕掛けの怪談噺で評判になった。同時期に四世鶴屋南北も『東海道四谷怪談』などで活躍しており、この時期から怪談が庶民の間に娯楽として根づいていったのだろう。

こうした流れを受けて、明治期にも怪談は各地で演じられていた。それと同時に速記本も数多く出版されている。

明治二二年には『怪談稲生武勇傳』が刊行されている。また、明治三一年に講談十種の一冊として刊行された『妖怪退治 稲生平太郎』は錦城齋貞玉の講談を今村次郎が速記したものである。

この二冊には、幾つかの挿絵が重複して使用されている。二作に共通した特徴としては比熊山が大熊山となっている点、物語が親の世代から語り始められ、平太郎誕生の場面がある点があげられる。

前者は平田本等にも見られる怪異が数多く登場し、権八(権八郎と書かれている箇所もある)の角力の弟子磯の上亂獅字の名、大熊山や二筋川の説明は柏本、平田本にも見える。平太郎誕生の場面など独自の部分も見えるが、『怪談稲生武勇傳』は大体において柏本ないし平田本の翻案と見てよいだろう。ただし、物語の最後に、「江戸霞ヶ関の上屋敷へ平太郎来たりしことありて人々伝へ聞しがまゝ拙き筆に書く」とあるので屋代本のような聞書を粉本としている可能性もある。

七月六日に稲生の屋敷の周りに集まった村人たちに対して見物禁止の御触書が出されるが、ここで御触書の文面を紹介しており、これは『三好実録物語』、平田本、柏本にも見られないもので創作の可能性が強い。また、最後の場面で山本は平太郎に小槌を渡さずに「蒼生心經術」という巻物を渡す。これは何か出典がありそうだが、よく分からない。

後者は非常に独自の展開を見せている。まず、平太郎の誕生のみならず、その後の幼年時代についても詳しく描写されている。権八郎のもとに来た大海という角力取りを投げ飛ばすところなど、巧みに平太郎の人物造形がなされている。

その後も、稲生家の怪異譚の諸本と重なるような怪異は登場せず、最終的には全ての元凶が山本五郎左衛門ではなく大猫で、平太郎がこれを退治してハッピーエンドとなるもので、稲生家の怪異譚の設定を借りた全く別物の物語というべき内容である。

妖怪を退治してしまうという筋書きは、他には見られないものである。しかし、説話としては退治する方が自然であって、むしろ退治しないのは不自然なのである。つまり稲生家の怪異譚には妖怪を退治しない、ないしは出来ない何らかの理由があるはずなのである。ここに稲生家の怪異譚の特殊性が現れている。

この特殊性を払拭しようとしたのが『妖怪退治 稲生平太郎』なのだ。しかし、それは結末の変更によって、逆にありふれた話になってしまったことを意味している。この作品は他の怪異譚と組み合わせて作られたという可能性も考えられる。

また、江戸川乱歩が明智小五郎のモデルとしたことでも知られる大阪の人気講釈師神田伯龍にも、稲生家の怪異譚を題材とした速記本が存在するのであるが、これは未見であり詳しいことは分からない。

明治期は出版事情に大きな変化が生じた時期でもある。講談の速記本が多数出版される一方で、「活版印刷の普及とともに京伝・馬琴・三馬・種彦・春水らの諸作が陸続と復刻され、絵草紙屋の店頭に並び、再び読まれるように」(須永朝彦『日本幻想文学史』1993年、白水社、p.188)なるなど、江戸期の文芸復興の動きがあった。

こうした状況の中で、明治三九年に東京の合名會社近事畫報社から月刊誌「通俗小説文庫」が刊行された。これは「<実録>と呼ばれるジャンルで、主として写本で流布したものが多く含まれて」(高木元『江戸読本の研究―一九世紀小説様式攷―』1995年、ぺりかん社)おり、創刊号の總目次に「稲生武勇傳」の書名が見える。しかし、五号で終刊となり、「稲生武勇傳」は刊行されずじまいだった。江戸期に「稲生武勇傳」という名の写本があったことが伺えるばかりである。前述の「怪談稲生武勇傳」を考えれば、これは「稲生物怪録」の別名として知られたものであったのだろう。

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