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文芸にみる稲生家の怪異譚

稲生家の怪異譚はその後、さまざまな作家によって文芸作品のモチーフとして取り上げられている。

泉鏡花『草迷宮』
田中貢太郎「魔王物語」
巖谷小波『平太郎化物日記』
稲垣足穂『懐しの七月』『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』『稲生家=化物コンクール』
折口信夫「稲生物怪録」
荒俣宏『帝都幻談』

 泉鏡花『草迷宮』

『草迷宮』は稲生家の怪異譚の設定を使っているわけではなく、モチーフを採り入れているに過ぎない。ただし、鏡花は幼少の頃から母親が泉家へ嫁ぐ際に持ってきた草双子を読んでいたという。稲生家の怪異譚のような話には、むしろよく親しんでいたのだったに違いない。鏡花は折口信夫「鏡花との一夕」によると複数の写本類を目にしていたらしく(1)、平田本以外との比較も必要であるように思われる。しかし、主人公の語る怪異に限定すると、そのほとんどが平田本に見られるものであり、平田本以外を参照した形跡は見つからなかった。

物語の設定について、まず特徴的なことは地理の変更である。広島の三好から当時鏡花の住んでいた逗子へと舞台を移している。稲生家の怪異譚においては山が重要な意味をなしているとおもわれるので、これは大きな変更であるといえよう。すなわち、山人と里人の間の交渉の問題である。

三好は製鉄の盛んな土地であり、比熊山にもタタラ場があった。そこには言うまでもなく製鉄に携わる山人が住んでいたのである。これら山人が妖怪のイメージ源となった可能性は十分あり得る。

出雲との関係も見逃せない。『近世風聞・耳の垢』のように、山本五郎左衛門は出雲国五郎左衛門と呼ばれる場合もあるのである。古代から三好は出雲と吉備を結ぶ交通の要衝で、当然ながら密接な交流があった。

ところが、『草迷宮』は稲生家の怪異譚が持つこれらの重要な側面を排除してしまったのだ。それかあらぬか、山との関連を最も感じさせるイッポンダタラの如き大入道は『草迷宮』には登場しない。その代わりに、『草迷宮』には鏡花作品によく見られる水のイメージが強調されている。鏡花は水のイメージを求めて、海のそばの逗子という場所を選んだのだろうか。

ところで、三好について考えてみると、この土地は三つの川が合流する地点であり、時期によってはものすごく深い霧が出ることでもよく知られている。それが稲生家の怪異譚にはそれほど大きく影響していないようであるが、けっして水のイメージと無関係とはいいがたい。鏡花は稲生家の怪異譚からそうした水のイメージを敏感に感じとっていたのかもしれない。

また、稲生家の怪異譚には全く感じられない女の存在が『草迷宮』では非常に重要な位置を占めている。無論、鏡花という作家はそもそも女のイメージに対してきわめて強い執着を持っており、女を抜きにして鏡花を語ることは出来ない。特に幼くして亡くした母親への思慕は鏡花の創作の動機のひとつと言ってもいいものである。

ここで、稲生家の怪異譚について考えてみると、主人公の平太郎は既に両親を亡くしており、鏡花の母親喪失の感情と重なってくるところがある。

稲生家の怪異譚はイニシエーションの物語であるとの指摘があるが、要するに平太郎はまだ子どもなのである。これから大人になろうとする存在ではあるものの、完全に子どもの世界に属しているのだ。だから化物が出てきたところでさほど驚いたりはしない。むしろ子どもにとっては妖怪の方が親しみを感じる存在なのである。対して、平太郎があれほど蚯蚓に嫌悪感を抱くのは大人には考えにくいことであろう。しかし、子どもであればごくふつうの反応なのである。

フロイトは無気味なものを次のように定義している。

無気味なものは、実は新奇なものでもなければ見知らぬものでもなくて、心的生活に古くからなじみのあるなにものかであり、それが抑圧の過程を通じて精神生活から疎外されてしまったものだからだ

この消息は先程の平太郎の両親喪失による心的不安へと関係してくるだろう。すなわちなじみのあるものである両親の喪失という心的抑圧が、無気味なものたる妖怪を出現させたのである。ここから母親を喪失した鏡花までの距離は幾ばくもない。

主人公の明もまた亡き母を求めて秋谷屋敷へと至り、そこにいつまでもとどまろうとする。つまり「迷宮体験によって象徴される、大人になりたくないという願望」が『草迷宮』には描かれているのである。

ことほどさように、鏡花は稲生家の怪異譚に隠された水のイメージや幼児期退行願望を巧みに作品へと取り込んでいったのである。前にも述べたとおり、『草迷宮』は稲生家の怪異譚以外にも幾つかの作品を採り入れているが、やはり稲生家の怪異譚が作品において一番大きな部分をなしていることは疑いようもないことである。





 田中貢太郎「魔王物語」

「魔王物語」は貢太郎の最初期の怪談集である『怪談』に収録されている。これは大正八年に刊行されたものである。初出は明らかではないが、貢太郎自身が怪談の第一作と称する「魚の妖・虫の怪」の発表されたのが大正七年のことであるから、「魔王物語」が書かれた時期は大正七年から八年にかけての間ということになるだろう。

内容に目を向けると、まず目に付くのが七月二日に稲生家を訪れる竹内傳吉、横井孫作、森川一平である。この三人の名は、平田本にも見られないもので、『怪談稲生武勇伝』にのみ見出せる。また、七月六日の見物差し止めの御触書も『怪談稲生武勇伝』にほぼ同じ文面が見える。さらに、最後に小槌ではなくて「蒼生心経術」という巻物を渡す点、この後山本が奥州へ向かうという点など、細かい内容もほぼ一致することから、貢太郎が粉本としたのは『怪談稲生武勇伝』と見て差し支えないだろう。貢太郎がなぜ『怪談稲生武勇伝』を粉本としたのかはわからない。しかしながら、他の諸本を見た形跡が見られないということは、この時期には講談の速記本のようなものが稲生家の怪異譚を知るのに最も適したものであったと言えるだろう。

初期の貢太郎の怪談は、「近世の怪異小説や奇談随筆における怪談語りのスタイルをそのまま継承」しつつ、「作者の専売特許というべき”情話”調の、親しみやすく物語性豊かな語り口」(5)で書かれている。また「魔王物語」が収録されている『怪談』には、他に『老媼茶話』『想山著聞奇集』を粉本としたものもある。

「魔王物語」は貢太郎独特の飾らない淡々とした文体で、創作と言うよりも再話に近い作品であることが伺える。





巖谷小波『平太郎化物日記』

巖谷小波は自ら創刊した雑誌「少年世界」の、大正一四年八月号から翌一五年二月号まで七回にわたって『平太郎化物日記』を連載した。連載当時は表題の前に「稲生怪談」という文字があった。ということはつまり、小波はこの物語をお伽噺というよりも怪談として描こうとしていたのである。

小波のお伽噺はそもそも「語り」の要素が非常に強いものだ。その傾向を決定づけたのは幼少時の体験によると思われる。

明治一三(一八八〇)年、小波十一歳の時に、ドイツへ留学していた兄立太郎からフランツ・オットーの『メルヘン集』が送られてきた。これは西洋の伝説などを再話した、子供向けの読み物である。本書を一読後、小波はすっかりその虜になってしまったという。彼が民話に対して興味を持つようになったのはこの時がはじめてだった。

その後、小波は十二歳の時塩谷時敏の私塾に入塾した。

ただ、この間に、塾のそばの、今は国電の秋葉原駅の構内になっているところが、その頃は、文字通り秋葉原の遊園地のようになっていて、そこに小屋掛けがよく出来て、祭文語りが沢山出た。今の浪花節の類である。季雄はそこへよく通って、岩見重太郎伝とか塚原卜伝といった語りをくい入るように聴いた。(6)

こうした体験が後に小波の「口演童話」へと繋がっていったことは疑いようがない。明治期の講談事情を考えると、この時に稲生の怪異譚を知った可能性も考えられる。

さらに、季雄巖谷小波十六歳の頃のことである。父一六は仕事で家を空けることが多かった。

一六の書斎を占領し、父の蔵書や、兄の書棚の本などを引っぱり出して、読みあさり、悦に入っていた。一六の蔵書の中には、漢籍の他に、「西洋事情」「輿地誌略」「剪燈新話」「八笑人」「七偏人」その他、馬琴の本、浄瑠璃の本などがあった。(7)

以上のように、一六の蔵書には読本の類が数多くあったことが伺える。つまり、この中に稲生家の怪異譚の写本類があった可能性もないわけではない。もしあったとすればそれは柏本だったろう。後の全国口演旅行の際に広島で情報を集めたとも考えられるが、それならば『三好実録物語』についての情報に出合わないはずはない。だが、後に述べるが内容面から見てその可能性は低いのである。

ともあれ、このような体験が小波を日本、さらには東洋の伝承文学へと向かわせる契機となったのだろう。

因みに、巖谷小波と泉鏡花は同じ硯友社の門人であった。鏡花の処女作『冠彌左衛門』は、新聞に発表されたときには「漣山人閲/泉鏡花著」と小波の名が並んでいた。この二人の間に稲生家の怪異譚について何らかのやり取りがあったかどうかは残念ながらわからないが、『遠野物語』にも強い興味を寄せた鏡花が、小波に稲生家の怪異譚のことを話した可能性は十分にある。

内容に関していうならば、『平太郎化物日記』は柏本の忠実な再話である。一六の蔵書に柏本があったならば、間違いなくそれが粉本であると考えられるのだが、それは確認できなかった。

両者の相違点は無いに等しいのであるが、特徴的なのは文章が一人称になっている点である。平太郎自身が書いた『三好実録物語』は無論一人称なのだが、これは刊本となってはおらず、さらに『平太郎化物日記』で扱われている怪異に『三好実録物語』からの影響が見られない点からも小波が見た可能性はほとんどない。一人称にすることは小波自身の考え出したものであろう。

また、柏本における十三日の出来事が『平太郎化物日記』では第十三日と第十四日に分かれている。このため、以後の出来事は全て一日ずつずれていき、最終的に三十一日の物語となっている。柏本は旧暦であるから、三十日までしかない。小波は新暦に合わせて変更したのだろうか。そのためにちょっとした矛盾が生じている。第二十九日を見ると「お三日(一日、十五日、二十八日)」とあるが、これは柏本の「佳日」を説明したもので、当然柏本では二十八日の項に書かれているものだが、小波はそこまで考慮していなかったのか不自然な描写となってしまっている。

小波のお伽噺に対する批判としては、侵略的ナショナリズムが随所に見受けられることがあげられている。確かにそうした面がないわけではないが、『平太郎化物日記』に関して言えば、平太郎の勇敢さが強調されている程度で、侵略的ナショナリズムを感じさせるものは特にない。

それよりもむしろ、小波の進取性をこそ評価すべきであろう。
同時代の作家たちの強烈な個性を持つ文体から見れば、没個性的なものに映じたかも知れないが、児童相手の文体としては、平明達意の好見本であった。いまでこそ珍しくもないが、児童文学が成立していない当時としては、たいへん得難い資質だったと言えよう。(8)

小波が現在の児童文学の基礎を築いたのであり、我々が口承文学へ触れることのできる土台をなしたのである。

他に柏本ではある登場人物のセリフに「少々の不思議は、手づまなどを見る気になりて居れば、却て不思議もなかるべし」とあるのが「化物も見世物だと思えば、結構面白いに相違ない」とされているところに、種村季弘の指摘する小波の見世物嗜好が伺える(9)。

小波は稲生の怪異譚に創作を加えることはしなかった。その必要がないほどに、稲生家の怪異譚は小波にとって魅力的なものであったのだ。ただ、当初は怪談と銘打っておきながらも、書いているうちに自らの嗜好が先行してしまい、最終的にはむしろ楽しい物語になってしまったのではないだろうか。最後にある「あゝ、山ン本五郎左衛門さん、閑があつたら又遊びにおいで! さよなら」という一節は小波のオリジナルであるが、山ン本はもはや撃退すべき敵ではなくなってしまっている。ここには明治的ナショナリズムなど微塵も感じられない。

小波はさらに東洋の口碑伝承をまとめあげた『大語圏』の編集も企画している。しかしながら、そのさなかに小波はこの世を去る。『大語園』を完成させたのは弟子の木村小舟と息子の巖谷栄二であった。この中に収められた「平太郎と化物」が稲生の怪異譚を扱ったものだが、どちらが書いたのかは判然としない。しかし多くは栄二の書いたものであったらしい。

『大語園』は、「口碑説話の集成であると同時に、「婦女童蒙」にも一読ただちに理解し得るように<再話>のかたちで世に問う」(10)ことを目指したものである。

「平太郎と化物」は小波の『平太郎化物日記』のダイジェスト版ではなく、井上円了の『妖怪学講義』を粉本としていると考えられる。『平太郎化物日記』と食い違う点があるわけではないが、引用文献の名が『妖怪学講義』「平太郎と化物」ともに「稻亭物怪録」であり、文中の日数が朔日、六日、七日、晦日である点と登場する怪異が完全に一致するからだ。決定的なのは、怪異の起こった年を「寛永二年」としている点である。前述したように、これは『妖怪学講義』にも見られるミスである。

独創を感じさせるような文章もなく、「平太郎と化物」はほとんど『妖怪学講義』の口語訳と言っても構わないものである。『大語園』は創作ではないし、小波の死後急ピッチで作業が行われたというから、それほど多くの資料を調べられたわけでもないだろう。これは仕方のないところだ。





稲垣足穂『懐しの七月』『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』『稲生家=化物コンクール』

稲垣足穂が稲生家の怪異譚の存在を知ったのは、昭和初期に父親が知人から借りてきた「稲生夜話」という写本で、次に昭和二三年七月に巖谷小波の『平太郎化物日記』、さらに平田篤胤全集の一巻に収められた『稲生物怪録』を見たことが分かっている(11)。

足穂は、『懐かしの七月−−別名「世は山本五郎左衛門と名乗る」』『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』『稲生家=化物コンクール』と三回にわたって稲生家の怪異を採り上げている(12)。これらは前書き、後書きに変化が見られるものの、稲生家の怪異譚の部分においては大きな異同はなく、後に書かれた方が記述が簡略化されている程度である。また『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』は、カタカナで書かれているが、これは雑誌掲載時に「僕の怪奇映画」と副題があることからもわかるように、足穂は映画を意識していて、フィルムの両側にある四角い穴のイメージを反映させたものである。

内容は小槌や産土神を登場させていることもあり、平田本の影響が濃厚である。だが、平田本以外からの影響が見て取れる箇所が二つある。

足穂の三作品はいずれも一人称で書かれているが、これは明らかに巖谷小波の『平太郎化物日記』の影響であろう。小波と同じように、活字化されていない『三好実録物語』を足穂が目にすることはなかったはずだ。しかし、この一人称という形式は『平太郎化物日記』の単純な模倣というわけではない。

むしろ彼が”未成熟”の方向へ向かって悠々と突き進んでいったということを表しているように思えるのだ。「世界」を敵対的なものとして見るのではなく、いわば我が物として自分の延長の中に見ること、稲垣足穂がその晩年にとらええた「世界」とは、そうしたものであったと思う。(13)

足穂もまた、鏡花と同様の幼児期退行願望を稲生家の怪異譚の中に見出したと言っていいだろう。それはまた、山ン本五郎左衛門が去った後の平太郎の発言にも現れている。

すなわち、『懐かしの七月』と『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』とに見える、「山ン本さん、気が向いたら又おいで!」「山ン本サン、気ガ向イタラ又オ出デ!」である。これは『平太郎化物日記』における「あゝ、山ン本五郎左衛門さん、閑があつたら又遊びにおいで!」と完全に対応する。

三島由紀夫はこのセリフをあげて、「独特のアンチ・クライマックスを書き加えて、素朴な怪異譚を哲学的な愛の物語に変え」(14)たと絶賛している。

しかし、これは『平太郎化物日記』の完全な引用なのである。とするならば、三島は巖谷小波をこそ評価しなければならないであろう。しかし、足穂は前二作の後書きの中において「一体、愛の経験は、あとではそれがなくては堪えられなくなるという欠点を持っている」と書いており、より意識的だったことが分かる。また、足穂はこの物語の同性愛的傾向もほのめかしている。お伽噺として書かれた『平太郎化物日記』には、さすがにそうした意図は感じられない。

折口信夫「稲生物怪録」

折口信夫の「稲生物怪録」は「昭和23年11月、国学院大学の神道の先輩、田中義能、佐伯有義、山本信哉の三博士追悼祭に奉納した芝居の脚本」(15)である。冒頭に「稲生物怪録 平田篤胤著」と書かれた本が登場することからも分かるように、平田本を下敷きにしている。

登場する怪異は全部で十五種。そのうち平田本に依っていると思われるものは十二種。平田本に見られない三種は、河童の怪、百程の玉の怪、化物の饗宴の怪である。

ラストシーンは少々変更があり、神野悪五郎も登場して、山本五郎左衛門は包みをおいていく。中身は「古事記」で、笑いが起こるとある。鎌田東二によれば、これは「折口が山ン本たちのモノノケを神的存在として見ていることを示している」(16)という。

また、山本が平太郎に武太夫を名乗るようにいう場面では、「その「本性」を顕す「本名」を神々や導師から授けられてはじめて完成する」イニシエーションであるという。これらの変更は折口ならではの解釈と言っていいだろう。





荒俣宏『帝都幻談』

週刊文春での連載を終えたが、まだ単行本は出ていない。

新帝都物語との関係も

(1)『泉鏡花全集』第三巻「月報」第一四号(一九四一年、岩波書店)の「泉鏡花蔵書目録」には木版本の「稲亭物怪」が見えるが、これがどの系統の本なのかはわからない。
 (2)S・フロイト「無気味なもの」E・T・A・ホフマン、S・フロイト『砂男 無気味なもの』(種村季弘訳、一九九五年、河出文庫)所収
 (3)「ランプの廻転」『澁澤龍彦全集』第一四巻所収、一九九四年、河出書房新社  (4)東雅夫「”大正の雨月”たらんとして」(田中貢太郎『日本怪談大全』第二巻解説、一九九五年、国書刊行会)四四五頁
 (5)巖谷大四『波の跫音』年、新潮社、二一頁
 (6)巖谷大四前掲書、二四頁
 (7)紀田順一郎『名著の伝記』(一九八八年、東京堂出版)一七二頁
 (8)種村季弘「逆立ち宇宙の喜怒哀楽」『夢の舌』所収、一九七九年、北宋社
 (9)紀田順一郎前掲書、一八三頁
 (10)高橋康雄「動くオブジェと平太郎少年と山ン本氏と」(稲垣足穂『稲生家=化物コンクール』解説、一九九〇年、人間と歴史社)一八一頁
 (11)雑誌初出時などを含めればさらに多くのヴァリアントが存在するものと思われる。また、高橋康雄の前掲論文によれば「荒譚」(「新芸トップ」昭和二四年二月号)にも短いながら稲生の怪異譚について触れている箇所があるという。
 (12)川村湊「スラップスティック・ファンタジー」(「ユリイカ」一九八七年一月号)
 (13)三島由紀夫『小説とは何か』一九七二年、新潮社
 (14)折口信夫『折口信夫全集』二八巻解題(一九九七年、中央公論社)
 (15)鎌田東二「モノノケ・タルホトピア」『翁童論 子どもと老人の精神史』(一九八八年、新曜社)所収、三二六頁

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