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■人権・平和・民主主義と、人間の正しい生き方について考える格言
私が授業などでよく紹介する格言をまとめてみました。
私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを発言する自由を、私は命をかけても守る。
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たいへん有名な言葉で、フランスの啓蒙思想家・ヴォルテール(1694〜1778)の言葉と言われることもありますが、真相は違うようです。しかしそれはともかく、「表現の自由」とはこういうことである、ということが非常にわかりやすく語られている名言ですね。 |
ナチが共産主義者を襲ったとき
自分はやや不安になった。
けれども結局自分は共産主義者でなかったので、
何もしなかった。
それからナチは社会主義者を攻撃した。
自分の不安はやや増大した。
けれども依然として自分は社会主義者ではなかった。
そこでやはり何もしなかった。
それから学校が、新聞が、ユダヤ教徒が、
というふうにつぎつぎと攻撃の手が加わり、
そのたびに自分の不安は増したが、
なおも何事も行わなかった。
さてそれからナチは教会を攻撃した。
そうして自分はまさに教会の人間であった。
そこで自分は何事かをした。
しかし、そのときにはすでに手遅れであった。
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これも最近しばしば引用される有名な詩ですが、もとは反ナチ抵抗の牧師・マルティン=ニーメラー(1892〜1984)の言葉です。自分とは直接関係のないところで起きた事件でも、その延長上に何が起こりうるかをよく考え、早めに行動すること(=抗議することを含めて)が大切だという、歴史の重要な教訓が語られています。しかし現在の多くの日本人には、このような「政治に対する洞察力」がまだまだ足りないのではないでしょうか。私たちはもっと批判精神を磨く必要があると思います。 |
本を焼く者は、ついには人間を焼くようになる。
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ドイツの詩人ハイネ(1797〜1856)が1823年に記した言葉です。1933年にナチ政権は、ベルリンなどドイツの各地で、ナチ政権が「反ナチス的」とみなして発禁処分とした書物を、町の中央の広場に積み上げて焼き払う(焚書する)という野蛮な儀式を行いました。そのとき焼かれた本の中にハイネの書物もあったのです。ハイネが焼かれる本の中で予言していたとおり、その後ナチ政権は、ユダヤ人らをガス室で虐殺し焼却するという蛮行を行いました。ハイネのこの言葉も、表現の自由を抑圧する権力は根本的に誤っている、ということを警告したものと言えるでしょう。 |
愚か者の勇気は野蛮なだけであり、勇気のない賢さは屁にもならない。
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ドイツの児童文学者エーリッヒ・ケストナー(1899〜1974)の言葉です。ケストナーの著作も、1933年のナチによる焚書事件で焼かれました。ケストナーはそのような危険な状態にあってもなおドイツにとどまり、2度も逮捕されるなど弾圧を受けましたが、それでもナチに屈することがありませんでした。「愚か者の勇気」とはナチの威勢のことであり、「勇気のない賢さ」とはナチの野蛮さが分かっていながら黙っていた人々のことでしょう。間違った政治に直面したら黙っていてはいけない、きちんと勇気をもって抗議の声をあげていくことが大切だ、ということを思い知らされます。ニーメラーの詩にも通じる教訓がこめられていますね。 |
生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために。
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弁護士・社会運動家の布施辰治(1880〜1953)の言葉です。布施辰治は、弁護士として労働争議や治安維持法違反事件、朝鮮人や台湾人らに対する民族差別事件などで積極的に弁護活動にかかわり、また社会運動家として普通選挙運動などにも活躍した熱血漢です。そのため政府から弾圧を受けて2度も獄につながれ、弁護士資格を剥奪されたこともありました。しかし植民地時代の朝鮮半島で独立運動家の弁護に貢献したことが評価されて、2004年に韓国政府から「建国勲章」を受けたことにより、日本でも再評価が進んでいます。 |
法に勝っても、天に勝つことはできない。
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多数の冤罪事件と闘い、被害者救済に生涯をささげた弁護士・正木ひろし(1896〜1975)の言葉です。もともとは「非理法権天」という江戸時代の儒教思想に基づく言葉――無理は道理に劣り、道理は法に劣り、法は権力に劣り、権力は天に劣る、という意味――を基礎にしたものですが、正木ひろしは、無実の者に罪を押し着せる権力の横暴に向かって、「たとえ司法権力が法廷で勝つことができても、真実を知る天に勝つことはできないぞ!」という怒りの声を発したのです。裁判の公正を考える上で、参考にしたい言葉です。 |
職業に貴賎なし、ただ卑しき人あるのみ。(リンカーン)
英雄とは、自分のできることをした人だ。(ロマン・ロラン)
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1つ目はアメリカ大統領・リンカーン(1809〜1865)の言葉、2つ目はフランスの作家・ロマンロラン(1866〜1944)の言葉です。就職するにしても進学するにしても、各人が自分の仕事・課題をみつけ、責任をもってそれを行ない、人々に喜んでもらえるようにすることが、私たち全員にとって大切な行動規範(倫理)ではないでしょうか。その意味では、職業や学業に貴賎はありません。本当に卑しむべきことは、職権を利用して私腹を肥やしたり、名誉の地位を金であがなったり、手段をわきまえず利潤を追求したり、大言壮語をして自分の仕事・課題の実行を怠けたりすることです。 |
逝いて還らぬ教え児よ
私の手は血まみれだ
君を縊ったその綱の
端を私も持っていた
しかも人の子の師の名において
嗚呼!
「お互いにだまされていた」の言訳が
なんでできよう
懺愧 悔恨 懺悔を重ねても
それがなんの償いになろう
逝った君はもう還らない
今ぞ私は汚濁の手をすすぎ
涙をはらって君の墓標に誓う
「繰り返さぬぞ絶対に!」
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高知県の教員・竹本源治の「戦死せる教え児よ」という題の詩です。教職員組合のスローガンにもなっている「教え子を再び戦場に送るな」という言葉とも関連があります。教員が時代の趨勢に流されて、間違った政治に加担することがあってはならない、という教訓だと私は思います。教員として常に肝に銘じておきたい詩(言葉)です。 |
2007/3/18
2014/5/25 一部修正
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