5、本宿用水(新井堰)



天野康景の判物
本宿高田家所蔵
 本宿用水(新井堰)は、長泉町下土狩地籍の黄瀬川鮎壺の滝上流に設けられた堰を取水口として、ここから旧国道246号線に沿って、地下を掘り抜き約500mに渡り、素掘りの隧道が南下している。この隧道は協和発酵株式会社富士工場の敷地内で開渠となり、本宿地域の灌漑用水として利用され、今なお本宿の町内を潤している。



 黄瀬川は、浸食により岸と川面との高低差が大きいため川水を取水するのが難しく、江戸時代初期まで灌漑用水として利用されたものは、本宿新井堰とその上流にある牧堰のみであった。

 本宿用水は興国寺城主であった天野康景が慶長8年3月15日に許可したもので、牧堰は本宿用水より1年前に沼津領15か村のために沼津城主大久保忠佐によって許可されている。両領主とも徳川家康によって慶長6年に同時に任命された初代の領主であり、ともに家康腹心の武将として天下安定に向けた農村支配に意欲を注いだ時代であった。

 本宿の土地は富士山の火山灰堆積土壌や黄瀬川氾濫による砂礫土壌のため、水持ちが悪く作物の増産は見込めなかった。そのため灌漑用水は本宿村の長年にわたる悲願であり、天野康景に願って隣村の下土狩村を通して黄瀬川の水を取水することに成功したことは村中の大きな喜びであったと察する。天野康景の許可した判物にはには、「本宿村の領地より10石を管理費用として付けるので堰の番にあたる者は手落ちの無いように末永く管理するように」と記されている。

 本宿新井堰は、友野与右衛門等による深良(箱根)用水の掘り抜き穴より、隧道の長さは半分以下であるものの、実に64年も前に本宿村内の人手のみで施工されている。
深良用水の掘り抜き穴は、本宿の新井堰の工法を手本としたと伝えられている。
 その後、地震等の天災で崩壊が数多く発生したが、その都度本宿村の人々を総動員し改修を繰り返してきた。