☆ ☆ 日高市の歴史 ☆ ☆

日高市高麗石器時代住居跡 (日高市大字台79-1)
【昭和26年12月26日指定】
この住居跡は、縄文時代中期のもので、昭和4年に発掘調査された。当時としては、このような竪穴式住居跡の発掘調査例は全国的に見ても数少なく、県内では初めてのものであり、その後の考古学発展の先駆けとなったことで知られている。この住居跡は、時代の異なる二軒が一部重複しているものである。どちらも円形で、直径が約6メートルほどの大きさである。それぞれ、中央によりやや北側に寄ったところに石で囲まれた炉跡があり、南側の石がこいの炉の中には、 大土器が一体埋蔵されていた。又、周囲には柱を立てたと考えられる小さな穴が十数個めぐっている。2軒の住居跡からは、多数の縄文土器をはじめ、耳飾などの土製品、打製、 製石斧、石器、くぼみ石、石 、石 など製品も  されている。
昭和56年3月春
埼玉県教育委員会
日高市教育委員会

日高市は、埼玉県南西部に位置し、関東平野と秩父山地の境界にあり、山あり川(高麗川)ありの自然豊かな街です。
大勢の人が、ハイキング・バーベキュウなどで自然とのふれあいを楽しんでいます。
アクセスは、西武秩父線の高麗(こま)・JR八高線/JR川越線の高麗川(こまがわ)です。
車では、国道299号線、県道川越日高線です。高麗川の川原はガーデンパーティー会場に!!

高麗(こま)郷土の歴史

現在の埼玉県(北武蔵)に渡来人が移住してきた確かな記録は、 壬生吉志 (みぶのきし)の入植が6世紀末頃にありますが、本格的な移住は7世紀の後半、朝鮮半島で百済・高句麗が滅びたことによって始まりました。

年表
666年 天智5年 百済人2千余人を東国に移し、3年間官食を支給する。高句麗国王は飛鳥の宮廷に使者を送る。その中に二位若光なる人物がいた。
668年 天智7年 唐・新羅の連合軍により、高句麗も滅亡し、亡命者が多く日本に渡ってくる。 若光 も帰国することなく日本に移住。
684年 天武13年 百済人23人を武蔵に移す。
687年 持統元年 高句麗人56人を常陸に移す。
687年
〜4年
持統元年 新羅人を下野・武蔵に数十人の単位で随時移す
716年 霊亀2年 従五位下高麗若光、高句麗王族のひとりとして王姓をあたえられる。朝廷は甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野など七カ国の高句麗人(高句麗からの渡来人)、1799人を武蔵国に移し、高麗郡(こまぐん)を置きました。

高麗神社(こまじんじゃ)は、これら高句麗人の統率者 若光(じゃくこう)を祀る歴史ある神社です。聖天院(しょうでんいん)は、若光とともに渡来した僧勝楽(しょうらく)の冥福を祈って創建された寺で、若光の墓があります。

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