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思ったこと2005


30/XII: 別置
今使ってるアサヒネットはいちばん安い料金コースで、月315円、ダイヤルアップで電話料込み1時間まで、というもの。というのも、ネット接続は家に付いてるLANでやってるので、プロバイダは単にメルアドとホームページ保持の為でしかない。こういうのって、変えるの面倒だしね。来年度はおそらく、引っ越ししてアサヒネットで接続するようになるから、でも家じゃそれほどはやらなそうだから、以前と同じダイヤルアップ電話代込み月8時間まで1500円コースにすると思う。他のプロバイダと比較してないからわかんないけど、安くはないだろうね。
その基本料に、ウイルスチェック月200円(高いね)付けて月500円のはずが、ここんとこ毎月1000円の請求が来るのでよく調べたら、ホームページ容量が規定の10Mを超えていたのである。そんなに容量あるのかよ、と思ったら、なんか写真ボンボン載っけたら容量増えちゃったんだよね。文章で10Mも書けないよ。それにしても、金払ってる会員なのににホームページ容量が10Mってのは、ちょっと小さい。
そこで一部データを別のところに置いたんだけど、無料だと広告が入るとはいえ、ヤフー(ジオシティーズ)で50M、自分が使ってる忍者ツールズで100M、Livedoorでは200Mである(ただしLivedoorは現在新規登録停止中、ここはこんなもんでしょう)。よくまぁこんな大容量をタダで他人に貸してくれるね。僕がX68000用に買ったHDDは200Mで7万くらいしたよ。
広告がとても気になるという程素晴らしいデザインのホームページでも無いので、これで十分なんだよね。なんとか接続さえできる環境なら、メールアドレスもホームページもブログも全部無料のでいいんじゃないだろうか。無料だから不安定とも限らないし。
ネットなんてテレビと一緒で、進歩するほどあって当たり前のものになって、お金もかからなくなるのが正当だと思うんだけど。もちろん、ケーブルテレビとかネットゲームとか、そういう状況下でいかに付加価値付けて金払わせるかに必死なんだろうけどさ。


27/XI: 『安心のファシズム−支配されたがる人びと−』斉藤貴男/岩波新書
イラク人質事件、自動改札機、携帯電話、監視カメラなどの話から、現代日本の右傾化、政府による国民の画一化と管理・統制に対し批判・警告する。

イラク人質事件については、ボランティア活動家の高遠菜穂子、フリーカメラマンの郡山総一郎、フリー(ライ)ターの今井紀明らが拉致られた際、家族が自衛隊撤退を要求したことから、政府内でも自作自演説が流れ、世論は「自己責任」をキーワードに人質らが悪いという方向に流れた。この人質バッシングは一つの差別であると著者は批判する。本にも書いてある通り、確かに従軍ジャーナリストの一方的な視点では全体が見えないため、従軍でないジャーナリストによる情報も重要で、それがちょっと失敗したらみんなで叩くというのは2ちゃんの煽りレベルの思考である。あと、家族が外国で殺されそうになってるのに、それを見殺しにしてもいいから国益を優先してほしいと考えるのは、第二次大戦中の日本以外では極右の人だけでしょう。もちろん、日本人が拉致られれば日本政府は無視できず、結果的に多くの人に迷惑をかけるんだけれども。
自動改札機については、鉄道会社がコスト削減とタダ乗り防止のために、つまり自分らの利益のために、障害者などにとっては不自由な自動改札機の通過を強要しているという。あと、自分の動きを機械に制御されるから生理的に自動改札機が嫌いという人もいるという。この話については、著者の論拠は薄い。個人的には、ヨーロッパのような解放系の交通機関、つまり勝手に切符を買って勝手に乗る、車掌が来たら切符を見せ、持ってない人は罰金、という方がすっきりしてるし便利とは思う。ただ日本の場合、人が多すぎて車掌が検札しきれない、電車に乗らない人が駅のホームまで入り込むとなると犯罪が増えそう、切符を買う際のミスに対しても罰金が取られる、といった不利益もある。
携帯電話は常に自分の位置を電話会社に知られ、メールその他の情報のやりとりはもとより、さらに高機能化により財布代わりにもなる。ケータイに依存しすぎるのは危険であり、プライバシーを侵害されやすいという。これについても、著者の批判はありがちな「技術に置いてかれたジジイ」といった感じで、嫌なら使わなければいいだけだ。多くの人がケータイを使っているのは、それによる便利というものが確実に存在し、少々の不利益の可能性があってもそれを上回っているからで、それは批判できない。ただ、こういう不利益の可能性もあるよ、と知らせる意味はあるかもしれない。
町中で監視カメラが急増しているらしい。監視カメラを防犯カメラという人畜無害な言い方に替え、犯罪抑制効果もはっきりせず、誰が見るかわからないのに設置するのはプライバシーの侵害であるという。確かに警察としては、そういう簡単に得られて制限のない情報ソースはなるたけ利用したいだろうが、やはり将来的には、明らかなある犯罪の捜査材料として以外は使わない、というような、情報使用制限があった方がよい。
最後はアメリカ帝国主義とそれに追従する日本、ブッシュ・小泉語録とその批判といった俗な話、西荻窪の公衆便所に反戦の落書きをしたら建造物損壊容疑で逮捕・起訴され懲役1年2ヶ月・執行猶予3年になっちゃったといった事件を通じ、思想・言論統制への危惧。反政府勢力に優しかったら政府は成り立たず、何かするまでは指をくわえてみてるってわけにもいかないから体制側はそれっぽい奴をマークするだろうし、ある程度の嫌がらせないし攻撃もするだろう。おそらく、こんな事件は以前から連続的にあったのだと思う、だがまだあったのか、という感じ。もちろん、これをよしとすれば恐怖政治を認める事になるので、いわゆる「官憲の横暴を許さない」左というのは必要ではあるのだが。

著者は普通のジャーナリストなのか、それとも左翼活動家なのかは知らないが、全体を通じ無理してでも政府・体制派・大企業は悪、庶民は無邪気な善という方向に持っていこうとするのが鼻についた。いろいろ批判してるけど実際のところ、普通に暮らしてる一般市民にはいずれも実害なくむしろ便利なわけで、今後もっと自由が無くなったら嫌だから、今から政府・社会の動向に注意しよう、という警告程度の意味はある。だけどそうしても、やっぱり多くの日本人は、自由が少々無くなってもいいからあまり深く考えず楽に暮らしたいだけなのであり、そうでない少数派には暮らしにくくなる。そしてそれには共感を持つ。


29/X: 『文化の否定性』青木保/中央公論社における、絶対主義と相対主義
相対主義と反相対主義を通じて文化の流れを概観し、人類の進歩に必要な文化がコミュニケーションに負の要素として働く事を指摘、相互理解のためには文化を忘れる事も必要という一応の結論に至る。
相対主義と絶対主義というのは結構根本的で身近な概念で、相対主義というのは価値の普遍妥当性の否定ということ。つまり、ある人にとって正しい事が、他の人にとっても正しいとは限らないということ。ようはスマップの「世界に一つだけの花」。普遍的価値に基づくナンバーワンよりも、オンリーワンという独自の価値観を説いた。このような考え方は近代から現代にかけて発展し、現在では世界中で一般的な考え方となっている。常識というか、当たり前の事のようだ。これに対し、まず絶対主義というのは、絶対的な真理や価値基準があるという考え方、また専制君主による政治形態の事も指すらしい。昔は相対主義なんて無かったというのは素人考えでも納得できる。王やカトリック教会が絶対的に正しいとされ、力で支配する。その否定として相対主義が出てきたが、さらにそれに対し反相対主義というのが出てきた。例えばこの本では、日米貿易摩擦に際し、日本は特殊でいろいろの事情があるから、なんて言ってもアメリカは納得しないという事を挙げている。日本が相対主義を訴えても、アメリカは反相対主義で聞き入れない。これは80年代までの話だが、いまでも事情は変わらない。現在はアメリカがあまりに強大でアメリカ絶対主義というような具合で、それに対し一部のイスラム原理主義は目に見える形で反抗している。イスラムという絶対主義は、アメリカ一強という絶対主義とは相容れないだろう。
相対主義が正しいか絶対主義が正しいかという話に結論は無い。直観的に考えると、絶対的真理・価値基準というものはあるかもしれないが、もしかしたらそれは神の領域で、人間には認識できないかもしれない。ただ、全てを一つの基準にあてはめて考えるのが正しくないという事は感覚的にも理解しやすい。
オカルトにおいては、日月神示は
「平等とか公平とか申すのは悪魔のワナであるぞ、天地をよくみよ、人民の申す如き平等も公平もないであろうがな、一寸のびる草もあれば一尺のびる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの。」
と、一元的評価(絶対主義)を否定している。
ただ、絶対的真理を求めるのは人の性である。それがあるかどうかはわからないが。

相対主義は少なくとも部分的には正しいが、それが全てではない。それを言っているのが反相対主義で、相対主義をニヒリズム、倫理的白痴、美的盲目、無責任、価値逃亡者などと批判している。
さらに相対主義によりもたらされる自由は自分勝手、利己主義、無秩序をも許容する可能性がある。ケロロ軍曹も前述の「世界に一つだけの花」を挙げ、その点を指摘している(「ケロロ軍曹」8巻、p.161)。
全ての価値判断は相対主義と絶対主義という両極の間にある。相対主義に近づきすぎるな、という警告が反相対主義。それらは単なる度合いであり、物事の正否とは関係無い。そして人間の価値判断には必ず感情、言い換えれば心が入り、純粋に理論的な価値判断などというものは無い。逆に言えばそれが人間的である、ということだろう。ユングは、自然科学における絶対的な法則すら心の所産にすぎないとしている。

その他の内容
・日本は世界でも数少ない単一民族国家であるが、今後は価値観の多様化に伴い文化多元主義国家へ向かうべきである。
・日本はアジアと西欧、北と南、そして異文化を柔軟に受け入れ消化するがそのままの異文化を受け入れる事はない、などの意味で中間社会であるが、今後はより国際化すべきである。
・第三世界では中間層、つまり政治的理念を持たずそこそこインテリでただ普通に暮らしたいだけの人が虐殺されたりする。カンボジアのポルポトはその一例であり、リゾート地のバリ島ですら、そういう事があった。そういう人たちの不安に同情する。


28/IX:『メイク・マネー!−私は米国投資銀行のトレーダーだった』末永 徹/文藝春秋
東大法学部在学中に国家公務員上級試験に合格するも卒業と同時にソロモン・ブラザーズ・アジア証券会社に入社、10年ばかりトレーダーとして稼ぎまくり現在は都内で悠々自適の独身生活を送る著者の、ソロモン時代の回想録。自分は文系とか株とかって全然わからないのだが、たぶんやっぱり日本の超エリートなんだろうな。で頭が良くて株がらみの金儲けもうまかったと。この本は、その場その場の臨場感はそこそこあるが、全体としての流れとか、言いたいことはわかりにくい。が、気になるところを抜粋してみる。

p.47〜48
<<<(明神茂氏は)取引が思うようにいかないと、手にした受話器を投げつけるから、気を付けるようにと教えられた。何十万円もするモニターを三台壊しているという。(中略) 物事を正確に判断しようとする時には、一番邪魔になるのが、抑圧された心理状態である。ことさら粗暴に振舞う必要はもちろんないが、天真爛漫としていなければ、正しい判断は絶対にできない。>>>
これはどうだろう?僕はおそらく希望する生き方としてはその正反対に位置しているので、これは誤りだと思う。能力があれば権力が手に入るから好き放題できる。能力があるから、その好き放題が正しいという。偉くなると、誰でもこう思うんだけどね。と思っている間は、僕は偉くならない気がする。

p.113
<<<(中略)こういう教育によって、個人が特定の集団にふさわしいメンバーになる過程を社会学の用語で「社会化」と言うのだと教えられた。カルト教団や軍隊がいい例であるが、社会一般と異質な集団であるほど、新しいメンバーに対する強烈な社会化を必要とする。私はソロモン・ブラザーズに社会化されているのだ、と彼女は言った。>>>
と自分で言ってるように、金儲け至上主義の投資銀行に入り、金を稼ぐのが唯一の正義であり、それさえすれば何しても良いという考えを持つようになったのではないか。もちろん、金儲け至上主義というのはどの会社でも同じようなものだろうが、商品というよりも金券というような、ほぼ金そのものを扱う会社(銀行・証券会社)というのは、やはり特殊である。

p.150
<<<ヘンリー・フォードは、靴磨きの少年が株の話をするのを聞いて、手持ちの株を処分し、一九二九年の暴落の難を逃れたと伝えられる。面白い話である。しかし、靴磨きの少年に触発されて株に手を出し、大儲けした男もきっとどこかにいたであろう。>>>
後半の例は稀な勝者だろう。日本のバブル期には、小金持ち以上の多くが浮かれて土地やゴルフ会員権などの実体のない価格に投資し、スった。そういう人たちを身近に見てきた。こういうのは残念ながら同情の余地がない。もっとも、”実体のない価格”というのは主観でしかない。実際にバブルを利用して売り抜けた人にとっては、実体のある金が残ったわけで。

p.191
<<<彼が右から左に動かしているワラントを発行した企業の工場では、彼と同じくらいの年の工員が、彼の十分の一の給料で大勢働いているのである。そして、ワラントの大量発行を支えたのは、つまるところ、そういう工員の高い生産性が築き上げた日本企業の成長神話なのだ。
そんなことは、世の中にいくらもある不公平のひとつに過ぎないことかもしれない。しかし、ワラント付社債を発行して集めた資金をスッてしまった経営者は、株主に対してのみならず、自分の工場で働く若者に少しは申し訳なく思うべきではあろう。>>>

著者は億単位の金を動かすような仕事をしていたわけで、そんな彼がどっかの工場の下っ端の工員の事を考えていたという事が、実に意外であった。そして後半の、経営に失敗した無責任経営者に対する叱責には同意する。

p.250〜251
<<<それまでは、ある広さの農地を持って、分をわきまえてさえいれば、生涯、それに応じた収入に頼って安心して暮らすことができた。植民地貿易による急激な経済成長は、それに乗り遅れた者の農業収入の価値を相対的に低下させる。
(中略)欲に目が眩んで、とよく言われるが、欲に目が眩んだくらいで全財産を賭に注ぎ込む人はやたらにいないであろう。人間から冷静な判断力を奪うのは、多くの場合、恐怖心であって欲ではない。(中略)
八〇年代までのアメリカでは、名のある大学を出て、IBMのような立派な会社に勤めれば、生涯、安心して暮らせたのである。大競争時代の到来と情報通信技術の革新は、アメリカ人から分をわきまえてそこそこの生活に甘んじる自由を奪ってしまった。富の集中がかつてない規模で進行し、人々は、働きづめに働いた上に株で大儲けして少数の成功者になるか、哀れに落ちぶれるかの選択を迫られている。少なくとも、そういう焦燥に駆られている。>>>

技術は人の生活を物質的に豊かにしたが、労働時間は増えているという話もある。昔もアメリカはこんなに落ち着いた時代があったのか。日本も勝ち組負け組なんつって、分をわきまえたそこそこの生活(=中流)というのが難しくなりつつあるようだけど、そういうのを望むのは共産主義の理想的労働者なんだろうか。やっぱり資本主義って、誰の言葉だか知らないが富める者はより富み、貧しい者はより貧しくなるという風になっちゃうみたいで。まぁそれでも共産圏のそれよりはマシだが。


7/IX: 理屈と本能
自分としばらく話すと、もしくは自分のこういう文章を読んでいると、こいつはなんて理屈っぽいんだと思うかもしれないが、それでも以前よりは理屈っぽくなくなったと思う。以前の自分が頼っていた理屈というものは、後から思えば実に偏ったものであって、正当性・説得力に乏しいが、もしかしたら現在も後から考えればそうかもしれない。現在は理屈というものがやや頼りない、もしくは場合によっては理屈に依存しすぎるのは危険かなとも思う。
理屈が正しければ正しいとは言えないし、理屈が間違ってても間違っているとは言えない。前者は、屁理屈なんて言われるが、この屁理屈という言葉は「屁」と「屈」という字が似ているから発生したのではないだろうか。関係無いが。後者については、稚拙な理屈だと説明できる範囲が小さいから、そればかりに頼っていてはいけない、より自然を観察せよという事になる。
結局またこういう話か、と思うかもしれないが、理屈は科学であり本能はオカルトである。科学は理屈で正しくなくてはならず、というか現象を説明するような理屈を作る事そのものである。本能とは、まぁ感覚などと言い換えてもいいが、理屈無しに現象を直接入力する事である。オカルトでも、霊界の仕組みを理論的に説明する、などというのがあるが、ああいったものはその手の人にとっても非常にうさんくさい。本能が嘘っぽさを感じるというか。やっぱりオカルトと理屈は相容れないものである。本能はオカルトであり、感覚ゆえ非常に曖昧で誤りやすいが、優秀であれば理屈の進歩を待つまでもなくその先にたどり着く事ができ、確実な遠回り、必要な無駄などというものが要らない。そしておそらく、科学や理屈がどこまで行っても、例えば「虫の知らせで乗るべき飛行機をキャンセルしたらその飛行機が落ちた」という事は説明できないし、その現象を起こす事はできない。その人にとっては、本能しかその人を救うものは無かったわけである。
理屈に偏り過ぎると、おそらく本能が衰え感覚が鈍る。それが嫌だから、理屈好きだがそれに頼り過ぎないようにしている。理屈は民主主義と同じで最低の一歩手前の方法ではあるが、かといって自分は感覚だけで生きてうまくいくような優秀な本能も無いので、やはり凡人は理屈と感覚のバランスを、理屈か感覚で保っていくのがいいんじゃないかと思う。どこまで行っても確かなもののない説明だが。


2/IX: 声優の歌
オタクの音楽といえばアニソン、さらには声優のCD。自分でも聴いてたくせに、そういうのはオタクだけのためのアニメ派生商品でしかなく、音楽的価値は無いと思っていた。が、最近はそうでもないかなと思う。
価値のある音楽、いい音楽って何だろう?たぶん、多くの人が長年良いと思うもの、という事で大きくは外れていまい。音楽の質というのは、その価値の一部でしかない。質の高い音楽というのは、歌がうまい、演奏がうまいということで、内容は関係無い。どんなにうまい演奏でも、つまらない曲というのはある。逆に「荒削りだが魅力を感じる」っていうのもよくある(特に新人漫画賞のコメントで)。そういう意味では、声優の歌というのは基本的に質が低い、ようは歌が下手。当然だろう、声だけの役者であって、歌手じゃないんだから。では何が良いかというと、やはり声が特色である。声の種類はとにかく豊富で、自分の好みの声がある。アニオタだからそう思うのだろうが、では例えば全ての歌手が男だったら?どんなにみんな歌がうまくても、なんか嫌な世界だ。だから、声優の歌というのは、声のvariationとしての存在意義はある。さらに、本職は役者なので感情が十分入った、いやむしろ過剰演出というほどの歌い方を楽しむ事ができる。歌がうまいということは、機械的に音の高さや強さを調節するということではなく、感情のこもった歌い方というのも含み、本職の歌手はもちろんそれを行うわけだが、声優の歌はその本職の歌手がしないような、えげつないほどの演出さえ辞さない。そして下手であるからこそ、より個性が発揮される。これはもう、コクというかクセというか、例えば発酵食品に対する嗜好に近いものがある。
だから、声優のCDというのはオペラのCDと同じようなものだと思っている。違いは、ただ後者の方が比較にならないほどうまいというだけだ。歌の内容なんて、好きとか嫌いとか、悲しいとか嬉しいとか、どっちもそんなもんだろう。


8/V: 佐川急便
以前あったこと。珍しく近所の駅前のさびれた喫茶店に入ると、隣で佐川急便の運転手と思われる2人組が定食を食べていた。1人がごはんのおかわりを希望。おばちゃんが「少なめにしときます?」と言うと彼は「いや、普通でいいです」と言った。
普通でいいです。おかしい。彼は遠慮しているわけではない。おそらくで肉体労働でおなかが空くのだろう、そしてタダのおかわりだから喰えるだけ喰おうというハラかもしれない。
僕がちょっといじわるなおばちゃんだったら「そんな無理して食べなくていいですよ、少なめにしときますから」なんて言っちゃうかもしれない。2杯目までしっかり山盛りのごはんを食べようとするのが意地汚いと思われるのは嫌だが、しかし食べたい。そんなジレンマから思わず出た「普通でいいです」。遠慮する姿勢だが実は全くしてない。
百歩譲って、そんなに気を遣って量を調節しようとしなくても、ただ普通に盛って出しさえすればいいんだよ、という意図なんだろうか。でもたぶん、そうじゃない。

ここで見えてくるのは、遠慮しても十分なものを受け取りたいと期待する甘え。こんな話を思い出す。京都人に仕事を依頼したら断られたので引き下がった。後で聞くところによると、相手はいたく不快に思ったらしい。実は相手は断ってもさらにお願いに来るのを期待していたという。1回くらいで引き下がってはダメで、あちらは3回くらいお願いされてようやく引き受けるくらいなのが控えめという美徳である、と考えているという。やはり最も日本的なのは京都なのかもしれない、良くも悪くも。

こんな時自分も「普通でいいです」と言ってしまいそうだが、「普通に盛ってください」と堂々と言えるような人になりたい。

追伸
帰り、彼らは840円の定食2人前で1160円を払って出ようとしていた。どういう計算だろうか。計算は全てe-コレクトの機械に任せてしまっているから?
追伸2
e-コレクトのキャンペーンイメージキャラクターは加藤ローサ(2005年4月現在)。なぜ?


5/V: やる気なし
どうも、ここんとこやる気がない。
というか、やる事がない。やる事無いならこれでもやっとくか、という内容というのは、実に退屈でやる気を無くすものである。だからやる気が無いのも自分で納得している。
自分は、子供の頃はもっとアクティブな人だったような気がするが、生きるにつれ、相対的にみて自分は特別優れているわけでも劣っているわけでもなく、がんばっても中間層から脱出が困難だし(全くがんばらないと、中間層からの脱落は容易)あまり興味の無い事にがんばるというのは楽しくなし、必要もない事に気づいてしまうと、次第に「そこそこ」に生きるようになったような気がする。

日本人は気軽かつ無責任に「がんばれ」と言う事はよく指摘されているが、がんばるという事はその結果を期待しているわけで、そういうがんばり至上主義の上昇志向はだんだん古くさい考えになってゆくのではないかと思う。例えば、やりたい事を好きなだけやるのは、がんばるとは違う気がする。「頑張る」というと忍耐・努力といった、どちらかというと心地よくない、マイナス要素が見え隠れする必要があり、楽しむ事はがんばるとは言わない。すると、これまた日本人らしく、そういったマイナス要素を伴った行為こそがプラス要素を生み出すのではないか、良薬は口に苦くなくてはならない、のような思想によるがんばり礼賛と、楽しむ事やがんばらない事は、どちらかというと良くない、後ろめたいとする考え方が見えてくる。人生を楽しむ、なんていうとどこか自分勝手で責任を果たしてないのではないかと思われがちである(最近はそうでもないけど)。こういう考え方はおそらく日本独特のもので、いやもしかしたらアジアにはあるかもしれないが少なくとも欧米にはない。日本でもやがて廃れるだろう。個人的には、他人に迷惑をかけない限りはやりたい事を好きないいだけやるのは普通もしくはどちらかというと良いこと、生きる目的の一つであると思う。

と、がんばることは無条件に良いこと的な考え方を否定して今のがんばらない自分を正当化しといてみる。

実際僕は素直に、今からすると古い教育を施されているため、どうもとまどってしまう。ともかく上の人間というのを見つけ、そこにくっついて命令通りに動くのが正しく安心できる事と思ってしまう。指示待ち人間てわけ。教育のせいにしているが、もしかしたらそんな性根なのかもしれない、残念ながら。そういう人は、自分がやりたい事をやれと言われると困る。安心できない。やりたい事なんて実に希薄だったりする。やりたい事をやっている人はそれだけ精神的にも充実して、本来以上の能力を発揮し成功するだろう。嫌々やってうまくいくというのは難しい。つまり、やりたい事がないということは、何の能力も発揮できないということで、これを才能が無いという。これはヤバい。そう気づいた頃から「そこそこ」になってきたのかもしれない。だから自然な流れだと思う。

日本的な古い考え方のようなものを批判したが、実はこういうのはここ100年未満のものなのかもしれない。特に昭和初期から大戦まで考え方というのは、日本の歴史の中でも特殊なもので、それが現在まで尾を引いているようだ。宮本常一「忘れられた日本人」を読むと、その前までの頃の日本人というのは、むしろ実に大らかだったとわかる。


24/IV: クロワッサンの食べ方
クロワッサンを知らない人はいないだろう。でもしょっちゅうは食べないかもしれない。僕はクロワッサンが好きだ。でも実際は月1回も食べない。年数回といったところだろうか。それはうまいクロワッサンを入手するのはそう容易でないことと、他のパンと比較して割高だからだ。
クロワッサンとはフランス語で三日月を意味する。17世紀のウィーンで生まれてフランスに渡った。当時は単なる菓子パンだったようだが、現在のスタイルになったのは20世紀になってからのことで、案外歴史は浅い。
何の変哲もない普通の街のパン屋のクロワッサンはまずい。当然である。おそらく日本ほど、まずいパン屋の多い国はないだろう。欧米、特にヨーロッパではそこらへんの街のパン屋のパンで十分うまい。日本では、最高とは思わないが神戸屋が、よくあるわりにはうまい。全部とは言わないが、少なくともクロワッサンは正しく作っていると思われる。
クロワッサンは、バターを生地に練り込むのみならず、折り込んでから焼いてある。そのため細かい層構造になっている。ひどいパン屋になると、中に層構造がなく食パンのようなクロワッサンを作る。これは詐欺である。クロワッサンでないパンを、クロワッサンと偽っている。よく見ればわかるが、外見は似せてあるので注意が必要だ。正当なクロワッサンであれば、パリッとした表面で、しっかりふくらんでいる。へなっとして湿っているようなのはダメだ。
クロワッサンはジャムで食べるのが基本である。本当の焼きたて以外であれば、家で適度に焼いて食べる。焼き加減は、折り込んであるバターが溶けてじゅうじゅう音を立ててくる程度が良い。固体のままのバターではうまみを十分に味わえず、焼きすぎて焦げるようなのもよくない。自分の家のオーブンとその店のクロワッサンの相性を何度も試し、一番良い焼き方を研究する必要がある。
クロワッサンサンドも悪くはない。ただ主役がパンではなくハムやチーズになってしまうため、そして焼きたての熱いのを切って具を挟むのは容易でないし具との温度差の問題もあることからやむをえず冷めたパンを使うため、本来的なクロワッサンの食べ方ではないと考える。それでもうまいが。
ほとんどのパンがそうであるように、クロワッサンも外サックリ中しっとり、さらに言えばややモッチリが正しい食感である。焼きたてが最もうまいのは、このパンにおける外部と内部の水分含有量の差が保たれているからである。時間が経つにつれ、水分は均一な分布となり味も落ちる。買ってきてから適度に焼く事により、この水分含有量の勾配を作り出す事ができる。クロワッサンの場合は、バター層があるため焼きたての良い食感を再現しやすい。ただし、やはりうまいのは翌朝までであろう。
正当な食べ方は、端をつまんで引き抜く。そうすると、端および中のしっとり部分と、表面のサクサク部分が切り離される。しっとり部分は層構造が密で、しっとりモチモチしている中心部は層構造がはっきりしないくらいでいい。そしてジャムを付けて食べる。これでしっとりとサックリの両方を楽しめる。バターロールや食パンはバターもしくはマーガリンを付けた後にジャムを付けるのがうまい食べ方であるが、十分バターの含まれているクロワッサンにそれは不要だ。
言うまでもない事だが、焼かないクロワッサンや、ジャムを付けない食べ方というのは正当ではない。これはクロワッサンを知らない者もしくは関心のない者の食べ方であり、クロワッサンを買う資格がない。
このように味わえば、うまいクロワッサンに対し、菓子パンでもないのに1個100円以上するのは高い、と考える事もないだろう。


14/IV: 考えなくてもいいこと
「いんちき」心理学研究所
http://www.chironoworks.com/ragnarok/psychology/
面白いね、3月で終わっちゃったけど。去年読んだ「反社会学講座」と同じような視点でいろいろな問題を取り扱い世間の常識を否定、というほど難しくない軽い読み物。動物は純粋か、二酸化炭素で地球温暖化が起こっているのか、とかいろいろ。

関係無いけど最近の事で言えば、中国やら韓国を嫌いになるのは容易だが、ほとんどの中国人や韓国人が日本を悪い国と思ってるわけじゃない。そういう国では国策として日本叩きをしていて、そういう教育をしているからそういう人が多いけど、そういう人たちの人間性までは否定できないと思いたい。その上で反撃するならしてもいいんじゃないかな。


17/III: ジンケン
全然興味は無いのだが、たまに目に付く人権問題云々。こういう話があった
http://members.at.infoseek.co.jp/trotzdem/chikushi.htm
別に筑紫とかどうでもいいのだが、「被差別者」を隠れ蓑に叩かれない立場にいて言いがかりを付けてくる部落・同和利権にたかる人たちは良くないね。この話で言うなら、屠殺場っていうのはどうしたって汚くて残酷なのだよ。できればやりたくない類の仕事なわけ。これは否定できない。全芝浦屠場労組と全横浜屠場労組っていう人たちは、それをバカにされたように取ったのか、もしくは本当に頭弱くて曲解して叩いてるんだろうけど、自分たちがやってる仕事が汚くて残酷だって誰より思ってるんだろうね。だから指摘されると怒っちゃう。でも当然だが、そうして加工された食肉を食べる人がいるからそういう施設と仕事があるわけで、誰もが意識はしてないが、ほとんどの人は毎日動物の死体の(主に)筋肉を食べてるわけで、そうするには誰かがそういう仕事をしなくてはならない。そういう事を理解してれば、屠殺場って言われたって何とも思わないはず。田舎者が田舎者と言われて怒るのも同じ。田舎を恥ずかしく思ってるから、第一に自分が田舎を否定してるから指摘されると怒る。

http://blog.livedoor.jp/monster_00/
こんな事もあるらしい。以前、何の義理があるのか黒人差別反対運動して「ちびくろサンボ」を抹殺したバカ日本人がいたが(復刊らしいが)、言葉狩りもそうだけど、そうやって表現潰しても意味ない事がわかんないのかな。黒人蔑視は良くないが、例えば僕個人が黒人を嫌う事は誰も否定できない(嫌いじゃないけど)。心の中までは支配できないからね。その心から出てきた表現だったら、明らかに差別を煽動する意図で出てきたものじゃない限り否定できない。といっても、曲解する人は後を絶たないだろうが。意味ある表現は、人畜無害でない事もある。
ジャングルくろべぇもだっこちゃんもいいじゃん。あとカルピスのマークはやっぱりコレじゃなくっちゃ。参考HP
http://www.asahi-net.or.jp/~wz9k-ybn/
ともかく、人権問題とやらに興味を持っている人には注意。安っぽい正義振り回して満足するような人にはなりたくないね。


12/III: ケロロ軍曹
またずいぶん間が空いて、そろそろ春なのかもしれない。
が自分はこんな所まで来ても「ケロロ軍曹」とか見てる、DVD買って。なんとも面白い。久しぶりにアニメに熱中している。小児・ファミリー向けアニメなのだが、原作はちょっとオタクっぽいお兄さん向けだし、ネタ的にも30歳程度(のアニメファン)じゃないとわかんないだろうな〜というものが多い。確かに、30過ぎて何やってんだろうと思うが、面白いと思う事があるのは良い。これが無かったら、自分は何をして時間を過ごしていただろう?いずれアニメも全部見てマンガも読み切ってしまうのだが。本でも読むか。


29/I: 生きる意味
以前からよく、自分は何をしているのだろう?生きている意味があるのだろうか、と思う。朝、目を覚まし、今日は何をしようかと考えるが何も思い浮かばないとき、夜、ビールを飲みながら、今日は何をしたっけなと思い出そうとするが特に何もない普通の日だったとき。
生きている意味なんて、オカルト的解釈をしない限り個人個人の思いこみで後付けのものだから、考える必要ない事かもしれない。でもそれだと釈然としないので、生きる意味・目的を探すために生きるのだ、という解釈もある。都合のいい考え方だ。自殺防止にもなる。だがその意味探し・目的探し、故・香田証生風に言えば「自分探し」を、現在の自分はしているだろうか。ただ平凡な日常を送っているだけで、人生の残り時間を無駄に消費しているだけで、意味無いんじゃないかと思うと、残念な気持ちになる。

#ところで、香田「証生」、生きる証という名も象徴的だ。

では、生きている意味探しというのは具体的にどういう事だろうか。わからない。少なくとも、単純に人生論について考える事だけではないだろう。逆に言えば、平凡で何の変化もない日々というのは、おそらく生きている意味探しには貢献してないと思われる。変化や発見のある毎日だったら、きっとそこから多くを感じ、考え、何かを学んでいるのだろう。
よって人生の無駄でない時間というのは、変化や発見が多く、それに加え、何かに熱中したり楽しいと思う時である。何かに熱中したり楽しいと思っていれば、意味云々する前にそれを続けたいという意志があるので、それを阻む理由はない。 これはずいぶん広い定義だと思う。例えばゲームの類は楽しくても時間の浪費ではないかと。だが現在の自分は、ひとに迷惑をかけない限り、どんな事でもともかく楽しければ続ければいいと思う。おそらく、その人にとってそれが必要なくなれば、楽しいとも思わなくなるだろうと直観的に思う。
残念ながら現在の自分には、熱中する事も楽しい事もあまり無いわけで。


8/I: ビデオかDVDか
最近久しぶりにテレビアニメを見る。5〜6年ぶりだろうか。いい歳して、と思うかもしれないが、ゴールデンにタレ流されている三流芸人によるつまらないバラエティでも見るよりはマシだろう。しかし多くの人にとって、バラエティやドラマやニュース風番組こそが普通に大人が見る番組であって、アニメはそうではない。普通に生活していてテレビをつけると流れているのはそういう番組で、アニメの多くは朝や深夜にやっているからだ。
そこで録画する必要があるわけだが、ビデオにしようかDVDレコーダーにしようか迷う。いやまったくどっちでも良いのだが、ここでビデオとDVDを比較すると、実はDVDの方がデータの安全性は信用できない。自分でDVDレコーダーからDVD-Rに録った事はないが、パソコンで焼いたDVD-Rの失敗率というのは初期のCD-R並みだろう。現在のCD-Rは焼き失敗や相性問題などほとんど無いと思われるが、DVD-Rは格安メディアのずさんな品質や、メーカー品でも相性が悪いとうまくいかない、そして何よりメディアの価格がまだまだ高いなど問題がある。それに+やら-やら、RWやらRAMやらフォーマットが乱立して互換性も悪い。
以前誰かが言ってたが、昔に比べて記録メディアに記録できるデータ量は増えているが、データの安全性は逆に下がっているというのは本当かもしれない。例えば石版や壁画は何千年も残るが、紙はもっと脆弱で、おそらくフロッピーディスクなど磁気メディアはさらに弱い。なんとなく捨てなかったPC-88のフロッピーなどほとんど死んでいる! それに大量記録メディアほど複雑な再生装置が必要で、例えば何十年も保存するようなデータは再生装置が常に供給される必要があるから記録メディアには迷うだろう。記録できるDVDは直射日光には弱いというし、傷にも弱いし、もしかしたら数年後には新メディアが登場してすっかり廃れてメディアも再生記録装置も売ってないかもしれない。その点、おそらくビデオの方がより一般的なため、再生装置が入手不能になる可能性は低いと思われる。βでなければ。ビデオテープがカビないようにだけ、気を付ければいい。そういうわけで、永久保存したいと思う録画はビデオの方が良いかもしれない。実際の画質は最高のビデオデッキを使えばDVDと大差無いかもしれないけど、データ圧縮してないという点は精神衛生上よい。
ただ歳を取ったせいか、それほど大切に思う映像というのが無い。どんなに良いと思ってもその気持ちを数年も維持できない。後で見たくなったら、大抵は市販ソフトになってるから買えばいい。録画して1回見たらもう見ないから、長期保存する必要がない。画質にもこだわらない。そういう場合、DVDレコーダーの操作性は快適である。つまらない大人になってきているような気もするが。


2/I: テレビ批判
日記というのも面倒なもので、たまに強く思った事を書いたりすると数ヶ月あいてたりするが年が変わったのでやや更新する。
ここしばらくテレビなんてほとんど見てないが、いや正確に言うとアニメのみ見ているのだが、それはさておき、その時々は面白い事を期待してテレビ番組を見るが、実際面白かったと思うのは時間にして数%だろうか。それに芸能人のあーだこーだなんて知らない方が時間の無駄にならなくて良い。詳しくは知らないが芸能界というものはとても閉鎖的でその場限りの利益追求に終始しているように見える。芸能人のプライベートの傲慢やら事務所とのゴタゴタなんていう話を聞くに、こんな人たちやそれが作ったモノは無価値のように思える。かといって、したい事やすべき事というのも無いのだが。


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