「農村は都市を包囲する」

農業の現場から見えてきたもの

 

自給組合準備室・森本 (4/15)

 


 就農してから、早十二年程が過ぎようとしている。私がUターンして農業を継ごうとしていた時期の思いと、現在の意識との間にも、それなりの変化が生じてきているので、今回は、その点を中心にまとめてみたいと思う。

 Uターンしたての時期は、福岡正信氏のクローバー草生米麦栽培に興味を抱き、親の反対を押し切ってその栽培方法を始めた。最初の三〜四年間は失敗の連続で、母親の愚痴と回りの人達の冷ややかな視線との中で、何とかこの栽培方法を確立させようと歯を食いしばって頑張ってきた。

 友人との情報交換を重ねる内、四年目ごろからやっと何とか一般の圃場と同程度の収量を上げられるまでになったが、それと同時に、この栽培方法は、福岡氏が述べているような「無為自然」とは程遠いものだということも分かるようになった。

 すなわち、この栽培方法が成功するには、籾や麦が発芽し成長してゆくために、徹底的に管理しながら、その条件を作り出していかねばならない。少しでもクローバーが繁茂したり、他の始末の悪い雑草がはびこるなら、省力どころか大変な手間暇が必要になってくる。

 そのことが分かってきたので、今では福岡式米麦栽培は、あくまでも参考にするだけに止め、私の圃場の条件と輪作体系に合わせ、その栽培方法を応用するようにしている。

 

 ところで、本来、栽培技術と思想とは区別して扱われなければならない。しかし、余りにも教祖的気質が強くなると、『その「無為自然」思想が会得できていないからこそ、この自然農法もできないのだ』という話にもなってしまうのだろう。だが、兵家であれ、儒家であれ、墨家であれ、いかなる思想を持とうとも、皆平等に共有できるものが技術というものなのだと思うのだ。私自身は、福岡氏の信者ではないので、過大評価も、また過小評価もすることなく、現実的に対応してきたと思う。

 

 農業を始めてから数年間は、完全無農薬・有機栽培に拘り続けてきたが、スイートコーンの場合、まとまった数を出荷するようになると、どうしても農薬が必要になってきた。それまでは、蛾の幼虫がスイートコーンの中に入る前に、手で駆除するようにしていたが、それではザルで水を掬うようなもので、大量の規格外品を出していた。仕方がないので、スイートコーンの場合は必要最低限一回だけ農薬を使うことにしている。

 以上のような経過もあってか、現在の心境としては、完全無農薬・有機栽培に必要以上に拘り続ける必要もないし、また、自らその程度の狭い世界に閉じこもっていてはいけない、と思うようにもなった。

 以前だったら、農薬・化学肥料を使うのは悪であり、そういう生産者を多少なりとも非難していたが、最近では、生産者同士が農薬を使ったか否か等のレベルで反目し合ったり、差別化をはかることに汲々としているとしたら、それこそ日本農業の危機だと思うようになってきている。

 

 最近、有機農産物ブームが大首都圏を中心に広まっているようで、大手流通業者が続々と参入している。有機栽培農産物の認証制度と関連して流通業者としては、有機栽培生産者を掘り起こし、その生産物・加工品をそれぞれのルートにのせようというわけ。

 当然企業活動だから、外国産の安価なものや、欧米のオーガニック認証団体の認証を受けた輸入有機栽培生産物も当然扱い、利潤を追求する。その一環として、国内でも、既存の有機栽培農家やグループを発掘し、その生産物を扱い出しているわけだが、今後、農地法の改正に伴い、企業自身が資本を投下して、株式会社形態で自ら生産活動を開始するようになれば、家族経営体なり小規模なグループは、真っ先に切り捨ての対象になりかねないだろう。

 このような企業活動から見えてくるのは、資本による農村社会の再編成であり、それがはたして地域住民にとって良いことなのか否かの判断は保留することにして、少なくとも今後、地域住民の主体性が大きく問われるようになることは必至だろう。資本による一定の保護なり、おこぼれさえ頂けるなら、自らの自治権や尊厳を譲り渡してしまう地域も多く出てくるのではないか。

 

 ところで農村は、権力が発生したときから、その時々の権力によって常に支配され、従属を余儀なくされてきた。確かに時代によって、その支配の強弱に差はあったが、いかなる時代にあっても、権力装置・体制を維持していくためには、食糧生産基盤としての農村の支配が必要だったわけだ。そしてそのことは、現代のように、地域・国家レベルからグローバルなレベルでの支配秩序に移行する時にもあてはまるはず。

 資本のグローバルな活動により、第三世界からの食糧の収奪を強めながら、一方、日本国内の生産基盤を切り捨てていく方向も、当然その世界支配秩序のなかに予定されているわけで、そのための自由貿易でありWTOであり規制緩和でもあるのだ。

 

 以上のことを踏まえて、生産者は、有機栽培か否かといったレベルで反目し合って、人と人とのつながりを自ら断ち切ってしまったり、また差別化に汲々となっているだけでは、自らの展望そのものを見出せないままになってしまうだろう。それぞれの農法や立場を主張し合いながらも、さまざまな点で有機的に繋がりあっていくことが今必要ではないのか。

 既存の権力体制に支配されることなく、また企業・大消費地におもねることもなく、それぞれが自立した人間として立つためにも、地域単位で生産者・消費者が協働して、それぞれ強固な生活・文化圏を築き上げていかねばならない。そして、それら各地域の地域協働社会が繋がり合って、国内の、更には全世界の、大企業・大消費地を包囲していかなければならない。

 

 「百姓に一体何ができるか」といった言葉を、私自身何度も耳にしたが、この「農村は都市を包囲する」型の革命が成就されない限りは、根本的な問題はなんら解決されないままだろう。もし労働者革命が首都圏を中心にして成就されたとしても、新しい権力体制の下では、農村なり人民が再び隷属状態に投げこまれることはない、と断言することは決してできないはずだ。権力をもって権力に代える式の革命では、新たな支配関係を作り出すだけなのだ。そしてそのことは、既に歴史が幾度となく証明している。

 個々の人間革命と、それぞれの地域に根差した協働社会作り、そして、それらの緩やかな連合による代替世界作りでない限り、来世紀には希望の光を見出せないままだろう。そして巨大な権力装置のなかで、ただ家畜のような生が私たちに保証されるようになるだけだ、と推論するのは少し行き過ぎだろうか。

 

 理想ばかり言い立てていても何も動かない。その理想を実現するためにこそ、この現実を直視し、その中から第一歩を踏み出していかねばならない。そのためにも、生産者や消費者だけでなく、資本の論理の中でしのぎを削って競争している企業の中にも同志を求め、新しい代替社会創出のためにも、緩やかに繋がっていかねばならないと思う。資本の論理に流されながらも、その矛盾を身を持って感じ取っているのも、その企業活動に携わっている人たちのはずなのだから。

 

 以上、現場から私なりに見えてきたことをまとめてみました。

 

おわり 

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