「私有財産」の起源とその発展

 

 

 

 我々は、何故全世界に渡って現代のような地獄図が描き出されることになったのか、その根源をまず確認しておかねばならない。

 その為ここでは、「私有財産」の起源を求めつつ、その罪悪の根源を探ることにする。そして次に、それから「私有財産」が歴史上どのように展開して来ることになるかを原理論的に示すことにしよう。

 ところで、何故「私有財産」という概念が生じて来るのかに関しては、その根拠を、単に発現されて来る現象にではなく、それを発現させる何らかの力に求めてゆかねばならないであろ。

 その統一力の詳しい分析は、私の『虚空を掴む』を参照してもらうとして、ここではまず第一に、その統一力が何の様にして「私有財産」を発現させるようになるのかを、その統一力の段階的な構造に従って見てゆくことにする。

 ところで、ここで「私有財産」という言葉を使う場合、その概念内容として、単に不動産・動産・貨幣などの物だけでなく、有用なものとして規定される一切のものもまた、欲求の対象となり、その概念内容に含まれるとすべきである。

 

  一、始原の風景

 

 最初に無機物界において。

 その世界に属する魂においては、直接的な物質的欲求が働き、先ず、己れを物質として結実させ、次に、その物質を維持し、或は増大させようとする。

 ここでは、物質の状態そのものが欲求の対象となっている。

 次に植物界において。

 有機体を養い・成長させようとする生存的欲求が働き、繁殖に必要な場所(土地・日光・水・他のものとの共存関係など)が欲求の対象となり、確保されることになる。

 そして動物界において。

 生存的欲求の他に性的欲求が強く発現され出す。その為前者においては、己れの生存に必要な場所(縄張としての土地・他のものとの共存関係)が欲求の対象となり、その縄張の中に食物としての植物なり動物なりが確保されることになる。又・ある者は簡単な住まいを持つに至る。

 後者においては、種族の維持・繁栄の為に配偶者が欲求の対象となる。

 然しその場合でも、目的が達成されてしまえば、その結合関係は消滅し、たとえ共同生活につながれるとしても、それは子の生存的欲求を満たす為の協働関係で、物質的欲求に基づく所有関係とは異なると言わねばならない。

 そして、子が充分己れの生存的欲求を自身で満たすことが出来るようになれば、その子は親の元から解き放たれることになる。そしてそれ以降は、生存的又は性的欲求の下で、親子・兄弟・姉妹であろうとも、敵同士になる事態も生じて来るのである。

 又、群をなす動物では、生存及び種族の維持をなす為の協同関係が組織化され、その群を統率する主導者が現れて来る。

 そしてそのような場合、彼がたとえタイラントのような振舞を示すことがあるとしても、それは、その群を統率し、その生存及び種族の維持を満たしめる為に必要なことなのであり、人間界でのような、物質的欲求に囚われたものでは決してないと言わねばならない。

 即ちここでは、個々の動物の幸・不幸が問題となるのではなく、常に群の生存及び種族の維持が前面に出て来るのである。

 そして人間界において。

 人間も下位に立つもの(動物)と同じく、生存的及び性的欲求に基づき土地・家屋・動産を持ち、自然を利用し、そして婚姻・家族・共同体などの事実上の関係を形作る。

 然しながら、生産力の向上につれ、そして反省内で様々な意欲の対象を認めることから、物質的欲求が強く発現し出して来ることになる。

 そしてその場合、その欲求の下で求められる対象は、前述の生存的・性的欲求のみに基づいて求められるものとは全くその性質を異にしたものとなる。

 即ち。その物質的欲求の下で奴隷として規定され、常に鎖の環の中につながれてしまうことになるのである。

 

 そこでまず、生産力が低く、共同体の生存的欲求を満たすのに精一杯であるような状況では、共同体の生存と維持が当面の最重要な課題となり、個人或は家族の意欲に先立つ。 

 従って、共同体の意志を体現する個人(又は複数)の主導の下に、共同体の構成員は互いに助け合いながら生活せねばならず、時には、共同体の存続の為に、個人の不運は当然忍ばねばならなくなるのである。

 この段階では、個人、或は家族の物質的欲求に基づく「私有財産」の所有はほとんど認められず、祖先の遺骨などの、主観的な価値を持たされた動産のみに限られることであろう。その他のものはすべて、共同体の生存的及び性的欲求に基づき共有となる。

 即ち、個々の生存的欲求を満たす為に必要な植物や動物を共同で採集・狩猟して共有し、又、それに必要な道具も共同体で共有する。

 又、定住する場合でも、土地は共有され、住居の回りでもほとんど独占的使用権は認められない。山林原野及び漁場は共同の入会地となる。

 家屋は、そこで住まう家族が使用することになるが、それは、家族内で建てられた場合であれ、共同体の助けを借りた場合であれ、個人(即ち共同体)の生存的欲求に基づくものであり、個人の物質的欲求に基づいて「私有財産」として規定されるようなことは決してない。

 次に、共同体の維持の為に性的欲求が発現され、子孫を残そうとすることになるが、その場合、配偶者としての対象の範囲が極限定されているような状況では、たとえ親・子・兄・弟・姉・妹であろうとも、その対象とならざるを得なくなる。

 又、共同体の維持が前面に出ている限り、その生まれて来る赤子の父親が一体誰であるのかは、さほど問題とはなり得ないであろう。そこでは母親が直接その子供を育て、回りの者達がそれを助けることになる。

 このようにして、共同体を担う新しい世代を育んでゆくことになり、その中で、共同体の意志を体現し共同体を統率し得る器量の若者が、主導者となって共同体を導くことになるのである。

 日常的な生活では女達の労働量が多いが、狩猟などでは、男達の労働が貴重なものとなる。このように、男女の本性に従ってそれぞれの役割が分担され、共に助け合って生活を営む。

 老いて一線を退いている者は、共同体の生存的欲求が満たされている限りは、回りの者達の情によって生活を続けることが出来るのであるが、然し、その欲求が満たされていない状況においては、赤子と同様に一番最初に口減らしの対象とならざるを得ない。

 又、生存的・性的欲求に基づき、他の共同体を侵略してその動産・不動産・そして女を奪うこともなされるであろう、然し、それも当面の欲求が満たされるなら止み、物質的欲求に基づく果てしのない略奪に向かうことは未だないと言わねばならない。

 

  二、物質的欲求に基づく「私有財産」の登場

 

 ところで、共同体の生産力が向上して来ると、共同体の持つ生存・維持の欲求は満たされたまま背後に退き、今度は個人や血縁集団の物質的欲求が前面に押し出されて来ることになる。

 即ち、今まで個人や家族が物質的欲求を持つことがあっても、それは、共同体の存続という至上命令の下で発現されることが抑えられていたのであるが、その生存・維持が充分に成されるほどにまでなると、今度はその余力が、個人の内の強欲な者において、物質的欲求となって発現され出すことになるのである。

 ここにおいて、己れの意欲の下で一切の物を所有し、一切の関係を隷属化し、一切の働きを利用して、一切のものを有用なものとして支配しようとする動きが生じて来るのである。

 そしてその意欲こそが国家を発現させる実質的なカとなるのである。

 従って、国家が如何なる内容を持たされて発現して来るかは、その国家を支配する者(層)の物質的欲求によって規定されると言わねばならない。

 その場合、知識の伝達によって技術が進歩して生産力が向上し、その為入口が増加して地域間の交通が頻繁になるにつれ、その国家の現象の仕方も様々に異なって来ることになるであろう。

 そして特に、その物質的欲求の下で、抽象化された有用物としての貨幣を飽くことなく追い求め出すことによって、現在我々が直面している国家が現出して来ることになるのである。

 これらの諸国家によって、私有制であれ、又は国有制であれ、一切のものが有用性の規定の中で支配され、奴隷とされてしまうであろう。

 

 まず、農業・畜養の為に定住が進み、生産力が向上すると、血縁集団同士の間に貧富の差が生じてくる。

 それは、技術の発達により生存的欲求を満たし得る以上の余剰生産物が得られるようになると、その余剰分を積極的に追い求める集団と、そうでない集団との間に当然差が生じて来るからである。

 そして、血縁集団内で頭を持ち上げて来るその物質的欲求は、その農業の発達の中で、まずその生産手段としての土地を非常に有用なものと見なし、それを所有しようとする。それに対して排他的独占権を行使し出すことになる。そして新たな所有地を獲得しようとして、共同体の他の血縁集団が所有する土地を、何らかの策を弄して己れの所有地としてしまったりすることも生じて来るであろう。

 又・共同体員すべてに用立てられていた入会地も、徐々にその所有権の前に消え去って行かねばならない。

 やがて有力血縁集団を中心とした氏族共同体は、その物質的欲求の下で、他の共同体の所有する土地を略奪し出す。

 その場合、征服された者達は、以前のような共同体の存続に精一杯な生産力の状態ではどのようにしても労働力を搾取することが出来ず、それらはそのまま無用なものとしてしか扱われなかったのであるが、その生産力が向上すると、今度は余剰生産物を獲得する為の労働力(奴隷)として規定され出すことになる。

 又、家屋に関してもその物質的欲求の下で豪奢なものが建てられるようになる。

 動産にしても、共有であった動植物は、その欲求の下で余剰生産物(利得)獲得の為の飽くことのない追求の対象として認められるようになる。

 又・共有物としてあった道具も私有化され、その欲求の下で高度に発達せしめられて来る。

 次に、様々な人間関係においても、その物質的欲求が強く発現し出すと、その果てしない欲求の下で、友人・恋人・家族などに対してまでも、己れの目的なり利得なりを達せんとする為の手段として規定し、それらの一切の関係を管理・支配しようとすることにもなる。

 然しそれほどではなくとも、その物質的欲求が血縁集団単位で認められる場合にも同様なことが言え、己れの利得の為に他の血縁集団を利用し、又は支配する。

 このようにして身分間係を生ぜしめ、他の氏族共同体を侵略するに至って奴隷階級を作り出すことになる。

 この段階では、その欲求の主体が血縁集団であることから、その有力な血縁集団が事実上氏族なり部族なりの支配層となる。そして、その支配層が己れの武力で築き上げて来た支配構造を正当北し、堅固ならしめる為に宗教的権威が創出され、それは、部族連合国家が成立する時、その国家を統合する権威的な力となるのである。

 然し、その権威も、支配層の武力によって保証されている以上、常に動揺せざるを得ない。

 

 さて、そのように連合国家が出現して来ると、今度は、個人の内に一切を支配しようとする物質的欲求が強く生じて来る。

 生産力が向上して豊かになり人口が増加すると、以前の血縁関係に基づく支配構造では到底直接その支配をすべてのものに及ぼすことが出来なくなる為、今度は個人の内にその欲求が強く発現し出し、その旧支配構造を覆すことになる。新たな意欲の下で新たな支配構造が作られることになる。

 そのカは生産手段に密着している者から生まれ、その生産力の向上に基づく余剰生産物を背景として武力を養い、それまで支配を続けて来た旧支配層に反逆することになる。

 その武力は旧支配構造を打ち砕くと同時に、新たな支配構造を作り出す力ともなり、その為、そのカに基づく強力な統一国家が出来上がるまでには、様々な確執が続けられることになるであろう。

 即ち、諸地域において勢力を増して来た領主は、その土地及び農民等を直接支配しようとして、新たな支配関係を作り出し、旧権力の介入を武力で阻止するようになる。

 ここにおいて新たな支配構造が根差すことになり、その物質的欲求の下で、領内の一切の土地・家屋・動産・民衆そして人間関係を支配しようとして、領内の隅々にまでその権力の網をかぶせることになるのである。

 従って、そのような支配を否定するような動きは徹底的に弾圧されることになる。如何に権力組織の上部に立つ者であろうとも、その封建制度に反する行いをなすことは、即ちその者の死を意味することになる。

 ところでこのような社会が生じて来ると、様々な「私有財産」を所有し続けようとして、惣領相続制が生じて来るであろう。

 惣領は父親の意志を伝えるものとされ、惣領がその一切の財産を相続することになるのであるが、それは正に、己れの物質的欲求の下で、その「私有財産」を子孫代々に旦って所有し続けようとする意欲の現れである。

 そして、その為の手段として婚姻がなされることになるが、そのような状況の下では配偶者(女)は、その者の物質的欲求を満たす為の手段としてしか認められず、用が立たなければ見捨てられることにもなる。

 そして、その赤子の父親が果たして己れであるのか否かが重大な問題となって来るため、女の密通に対しては、特に厳しく罰するようになるのである。

 このようにして、時・空における一切のものを所有しようとする意欲は、他の諸領主が支配する領土も略奪しようとすることであろう。そして領主間の様々な確執を経て、一人の領主が事実上国を統一し、至上権を獲得することにもなるであろう。

 ここにおいて、もと一領主の支配構造であったものが、統一国家の新たな支配構造となるのである。

 即ち、この支配構造は、農業等における余剰生産物の直接的な収奪を経済的基盤として、その封建的秩序を維持する為に厳重な身分制が敷かれ、又・前述のような相続制も制度として導入されることになる。

 

 ところで、そのような厳密な封建秩序の中においても、やがて商業の発達によって貨幣経済が浸透し出し、遂にはその秩序を崩壊させることになるであろう。

 まず、技術の進歩により交通手段が発達して、広範囲の世界において多量の商品が売買されるようになると、それに携わる商人達は急速に富み出し、商業が発達する。彼等は流通過程にだけ資本を投下して利潤(貨幣)を飽くことなく追い求めようとし、その為経済活動の自由及び国内市場を要求して、これを阻む封建的諸勢力と対立するようになる。

 又、封建領主においても、国自体が潤う為には商業を無視することは出来ず、そして己れ自身も、飽くことのない物質的欲求の下で、現支配体制を守ろうとする一方で、その貨幣をも求めようとすることから、どうしてもその支配には矛盾が入り込んで来ざるを得ない。

 そして又、農民も、農業技術の進歩及び品種の改良などにより生産力を高め、領主の搾取が強化されず却って金納化が進むような場合には、正にその貨幣によって己れの身分から開放されることが出来るようになる。

 このようにして、諸国家間の貿易が頻繁に行われ商人が活躍し出すと、貨幣を追求しようとする物質的欲求が強く発現し出すようになり、その為封建体制は徐々に崩れ出すことになる。

 然し、だからと言って、今度は商人がその欲求の下で新たな支配構造を作り出すことになると言うわけではない。

 この段階においては、只・その新たな国家が発生して来る為の過渡的な働きをするだけに止まるしかないのである。

 何故なら、商人は商品を動かして利潤を得ようとするだけで、それが保証される限り、如何なる体制を持つ国にあってもその欲求を満たすことが出来、場合によっては、その国の保護の下で特権を得て、莫大な利益を獲得することも出来るからである。

 

 ところで、封建制度の崩壊は、封建領主の貨幣に対する欲求によっても促され、その飽くことのない欲求は、彼をして過渡的な国家を作らしめることにもなるであろう。

 即ち、彼は封建的諸勢力の特権を確認しつつも、次第に勢力を持ちつつある商人や自由民の権利をも保護せざるを得なくなる。

 そして、もはや封建制度によってでは武力を確保することが出来なくなることから、傭兵を備えることになり、又・その国家を支える組織にも、やはり俸給によって官僚が傭われることになるのである。

 そのようにして貨幣によって一切が取り仕切られるようになると、その貨幣獲得の為に彼は狂奔し、国内の金銀鉱山を開発したり、貿易差額を蓄積したり、又・輸出商品を作る工業を保護・奨励したりする。

 そして特に、武力によって植民地を確保して貴金属等を略奪し、又原料の供給地及び商品の市場とすることにもなる。

 そして、この貨幣獲得の欲求はその国の商人のそれと結びつき、その為、商業が栄え資本が蓄積されることになるのである。

 さて、そのような経済活動の流れの中で、今まで農奴として封建社会につながれていた農民の中には、徐々に余剰生産物を残して貨幣を蓄え、己れの身分から開放されて独立する者が出て来ることは前述通りであるが、彼等も、その貨幣経済の中で貨幣を飽くことなく追い求め出すことになるであろう。

 即ち、市場の拡大を背負にして、自ら蓄えた資力によって毛織物や麻織物などの商品を生産し始めることになり、又・今までは封建体制の中で必要な量を毎年繰り返し再生産しているだけであったのが、やがてその市場の拡大につれて、その貨幣に対する欲求の下で商品を拡大再生産することになる。

 然るに一方その資力を蓄えた富農層が現れると同時に、土地を失って没落してゆく貧農層も生じて来て労働者となり、又・商業で蓄積した資本を元手に拡大再生産に乗り出す大親方に対して、中小親方・職人も賃銀労働者化することになる。

 このようにして、物質的欲求が貨幣に向けられるには、まず商業が発達していなくてはならないが、その商業をより発達させる為には流通に乗せる工業製品が作られねばならず、そこで、その貨幣に対する欲求の下で、物を加工して使用価値を創り出し、余剰価値を得てそれを拡大しようとする者が現れて来ることになるのである。

 そして、技術の進歩により能率的な機械が発明され出して来て、それらの動きに拍車をかけることになる。

 これらの内的・外的諸条件が整備されるようになると、産業資本家は急速に力を持ち出して来る。その者の物質的欲求の下で、新たな支配構造が産み出されて来ることになる。

 

 即ちまず、貨幣に対する欲求は、国王や商人においてだけでなく、産業資本家においても強く発現し出し、その加工品の原料及び市場を確保する為にも植民地政策を積極的に支援したり、又・以前の封建的諸勢力や特権商人に対して経済上の自由・平等を主張したりする。

 そして、このように産業資本家の台頭によって封建制度は事実上崩壊し、国家はその支えを産業資本家層に求めざるを得なくなる。その産業資本家層の成長が正に国力の増加を意味するようになる為、進んでその産業資本家層を保護・育成することになるのである。

 一方、その産業資本家も、己れの物質的欲求を満たすには国家の主導が必要である為、その国家(武力)を頼りに、植民地政策を押し進め、又・自由貿易なり保護貿易なりを採らせることになる。

 このようにして、彼等の物質的欲求である「利潤追求」が、国王の持っていた物質的欲求に取って代わって、新しい国家の実質的内容を規定することになるのである。

 従って、その産業資本家層の成長に伴い、以前の特権的商人の存在は許されなくなる。そして、封建制度の桎梏から個人を「開放」して、そのままでは生きてゆけない貧しい者達を安い賃銀で再び奴隷化し、酷使する必要があり、その為にも、「財産の自由」・「契約の自由」・「職業選択の自由」などの、個人の「自由」に関する制度的な保障がなされる。

 それは、資本家層の物質的欲求の下で作られ、彼等の活動の自由のみが配慮されているのであり、それに基づき価値観なり道徳槻なり思想なりが民衆に強要されることになるのである。

 

 ところで、前述通り、資源と市場確保の為侵略戦争が引き起こされ、非道い場合には、原住民がそのまま奴隷として連れて来られることもあったのであるが、産業革命を経て資本主義が高度に発達し出すと、独占的な大企業を形成する資本家層は、企業・経営の拡大を求めて、国家をして進んで後進国を征服せしめ、それを更に植民地化し、又は保護国化せしめるに至る。

 然し、そのように産業革命を経た資本主義国家が複数現れる段階では、国内の資本家層の利益と一体となった諸国家は、互いに争うことになり、遂には武力による衝突が起きることにもなるであろう。

 そこで展開される確執は国家同士のものとして現れるが、実質的には、諸国家内の資本家層同士の争いとして受け取ることが出来る。

 何故なら、資本家の成長期には、国内の資本の充実が即国力を高めることになる為、国家と資本家とが一体となつて海外へ進出するに至るからである。その状態においては、国家が主導的な役割を果たし、他の諸国家に後れをとらないように、国内の資本家を強大なものに育て上げようとして、戦争を始めることにもなるのである。

 

 そのようにして世界大戦が始まり、敗戦国と勝戦国とが産み出される。そしてそれ以降は、勝戦国主導の下で資本家同士が争い出すことになる。

 当然、勝戦国内の資本家は有利に活動することが出来、世界を舞台にして資本を蓄積することが出来るであろう。そして、その充分に蓄えられた資本を全世界に投資して、より多くの利潤を追求するに至るであろう。

 さて、このように資本が集中して来ると、今度は国家主導の下でではなく、その国家の枠を越え出た所で、充分に成長した資本同士が全世界を舞台にして衝突し出すことになる。貨幣に対する飽くことなき欲求の為に、互いに利潤を奪い合い、その貨幣によって一切を支配しようとする。

 即ち、未だ力が不充分で、その世界的な競争の中で生き残ることが困難な者は、国家にその保護を求めざるを得ず、国家を無視することは出来ないのであるが、然し、莫大な資本を持ち、多国籍に渡って活動して利潤を上げている者にとっては、正にその国家という枠そのものが、己れの欲求を満たしてゆく上で障害となつて来ることにもなるのである。

 そこでは、その物質的欲求の下で、直接資本同士が衝突し出すことになる。その確執の中で、徐々に競争に打ち勝った強大な資本が生き残り、その欲求の下で全世界を支配するようにもなるであろう。

 この段階に至るには、資本の充分な集中と、経済の充分な進展が必要となり、又・諸技術の進歩によって全世界が一つに結合されていなければならないであろう。

 以前の帝国主義時代には、植民地の豊富な資源と市場とを求めて、国家そのものが力まかせに侵略して来たのであるが、今度は、資本そのものが国家という武力によってではなく、その枠を越えて経済力の劣った国へ浸入し、そこで、労働力と資源を安く手に入れて商品を多量に安く製造し、全世界の市場に売り捌くことになるのである。

 そのようにして利潤を追い求め。競争を続けてゆくことから、そこでの確執は、以前の国家主導型のものに対して、「資本同士の間においてなされる植民地収奪戦」と言い表すことが出来、正に、その「利潤追求」の下で、植民地の人々を奴隷として酷使し、その資源を濫費し、そして公害を撒き散らすことになるのである。

 ところで、全世界が資本主義で蔽われ、より資本が集中して来ると、以前は国家(武力)が資本家を育て資本を蓄積させて来たのであるが、今度はその資本が国家を養うことになり、以前のような「国家」概念は崩壊し出すことであろう。そして、抽象的な資本(或は黄金)そのものが権力化し国家化するようになり、その為資本同士の確執は、それぞれが養っている武力同士の衝突として発現されて来ることにもなるであろう。そしてある場合には、その武力が資本そのものに反逆することも起こり得るのである。

 

 さてところで、資本家層の物質的欲求によってその内容を規定されている国家は、その欲求の下で奴隷として規定されている労働者等の反逆に会うこともあるであろう。

 生存的・性的欲求すら満足に満たすことの出来ない隷属状態の中では、無駄に死を迎えるよりも、それらの欲求を満たそうとして、資本家層に対して反逆する。その力は一点に向けられ、それによって支えられていた国家を破壊することになる。

 ところが、一度その資本家層の物質的欲求に囚われた国家を打ち砕いても、今度は労働者を「代表」する権力指向の者達が、再び己れの物質的欲求に基づいて新たな支配構造を築き上げ、新たな国家を作り出してしまう。

 「党の利益」(即ち己れの利益そして権力・権威)を目的として(国家の実質的な内容として)、一切の動産・不動産を国有とし、一切の民衆を支配し、一切の人間関係に干渉しようとする。

 然し、如何に財産を私有から国有に引き上げようとも、両者とも物質的欲求に基づく財産の所有(支配)である点では何ら異なることはない。たとえ財産の私有が認められずとも、その「党の利益」の下で権力者達は、様々な財産を支配し、或は占有することが出来るのである。又・人民そのものを隷属させることも出来、一切のものがその支配の対象となり得るのである。

 従って、党員の中でも権力指向の者達は、国家の権力を握らんとして様々な確執を続けることになる。

 その囚われた意欲の下で、己れの友人や恋人そして家族さえも、有用なものと規定し、それらの関係を管理し・支配しようとする。ちょっとした機会も逃さず、権力・権威を得る為の切っ掛けとなすことになる。

 又、そのような独裁国では、権力・権威の序列化が進み、ピラミッド形の支配構造が形作られる。そして他国に対して干渉し、己れの体制を守らんが為に様々な工作を施す。

 即ち、如何に民族が己れ自身の為に血を流し、革命を成し遂げようとも、その成果は直にその大国の物質的欲求の下でねじ曲げられ、そこで打ち立てられる「革命」政府は、即その支配構造の中に組み込まれてしまう。

 又、その支配構造の中に組み込まれていた政府の内に少しでも党の方針に反するような動きがあれば、それは徹底的に弾圧されてしまう。

 何故なら、如何に同じ「党の利益」を掲げるとしても、それらの政府は、その大国の強大な武力を背景とした権力者達の物質的欲求の下で、支配され従属を余儀無くされているからであり、その支配構造の頂点に立つ権力者達のみが至上権を持つからである。

 従って、その支配構造に組み込まれた諸国家は、たとえ形式的に存続するとしても、ほとんど実質的な至上権は行使し得ず、常にその支配構造の権力・権威に従わざるを得なくなるのである。

 然しながら、その武力によって形成された支配構造も、やがて同じ力によって覆されることにもなるであろう。

 

 以上、統一力がどのようにして「私有財産」を発現させるようになるかを、まず最初に生命の段階的構造に従って調べた。

 そして次に、人間の場合特に物質的欲求が強く発現されて来ることから、その「私有財産」を支える力が、如何なる形態及び内容を取った国家を歴史上発現させるに至るかを、個人から社会・国家、更に体制の支配関係にまで言及して調べて来た。

 このようにして、我々人間界における物質的欲求こそが正に、国家を作り出す実質的な力であることを明らかにしたのである。

 従って、以上のことから、単に現「国家」なり現「体制」なりを破壊しさえすればすべて足れりとすることは決して出来ず、そのような支配構造そのものをなくす為には、それらを発現させる力、即ち物質的欲求を打ち砕かねばならないのである。

 そして、その為にはまず、己れ自身のそれから始めねばならず、己れ自身が変わってゆかねばならないのである。

 さもなければ、如何に現「体制」なり現「国家」なり、又・社会や家族なりを打ち砕き開放したとしても、個人が国家であり権力であり続ける限り、やがては、その国家が飽くことなき物質的欲求の下で一切を支配しようとして、再び新たな「国家」や「休制」を、それらに代えて作り上げてしまうことになる。如何に無政府を唱えるとしても、己れ自身が国家の権化であり続ける限り、常にその物質的欲求の下で、支配構造が築き上げられて来ることになるのである。

 その為我々は、己れ自身の囚われた意欲を打ち砕かねばならない。我々は、「……主義者」と言う前に人間でなければならない。その盲目的な切迫の中から抜け出し、人間として生きなければならないのである。

 そのことからまず、革命が始まってゆかねぱならないのである。

 

 

「私有財産」の起源とその発展ーーーおわり

 

 

つづく

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