雑誌記事掲載 山釣りの世界TOP



1952年、秋田県平鹿郡十文字町生まれ。本名:菅原 徳蔵。

 秋田・源流釣友会の幹事長を拝命している。かつて、雑誌に投稿する時は「深山渓春」という名前を使ったこともあるが、自分の人生は源流の世界にあるのだから、本名で通すのが筋ということで、全て本名で通している。

 最初に釣り雑誌に投稿したのは、今では廃刊となった「北の釣り」という雑誌、その雑誌の編集長をしている阿部次郎さんから「釣り人は山登りの人たちのような感性がない」と言われたのが今でも強烈な印象として残っている。

 今考えると、釣り人は魚しか見えていない、それは「精神の貧困」そのものだ、ということを言いたかったのだろうと思う。

 管理人がどういう人間かは、誰しも知りたいことである。そこで、簡単に自己紹介をしたいと思う。

 大学は、1年浪人して憧れの京都へ。貧乏な田舎者だったから、一番安い学生寮に入ったのだが、そこは学生運動の巣だった。

 「朱に染まれば赤くなる」の諺どおり、明けても暮れても学生運動ばかり。それは、理想を追い求める青春の病だったのか、途中で見事に挫折。自分を見失い、自己を再発見するために、当時世界のヒッピーたちが集まるネパール・インドの旅へ。そこで見たものは、自己の再発見どころか、完全に自己崩壊の旅となってしまった。

 学生時代は勉強をした記憶がほとんどなく、お陰で6年もかかってやっと卒業する有り様。世の中は、既にオイルショックで大不況、就職先もままならず古里・秋田へ帰るしかなかった。そして、休みともなれば釣りに没頭。海であれ、川であれ、湖であれ、釣れる魚なら何でもよかった。女房には、竿を外へ放り投げられるほどの釣り馬鹿だった。

 能代に転勤になって初めて白神を知り、私の釣りの運命は大きく変わった。岩魚釣りというよりは、その岩魚が遊ぶ世界の美わしさに魅了されてしまった、と言った方が良いかもしれない。以来、私は岩魚以外の釣りを全て止め、山釣りの世界へのめり込んでいった。

 登山や沢登りから岩魚釣りに入る人は多いが、海から次第に上流に向って釣りあがり、やがて源流に生息する岩魚に釣られてしまう釣り馬鹿は、そう多くないように思う。それだけに、山の知識や沢登りの技術はゼロからスタート。

 お陰で生と死をさ迷う痛い目に何度もあった。山と渓谷の厳しさ、仲間の有難さ、岩魚と山菜、焚き火の有難さ・・・。岩魚の世界は、生きた大学であるかのように、私に初めて学問を強いたように思う。自然に対する畏敬と感謝の念をもつ縄文人やマタギ、アイヌ、ブナ帯文化に興味を抱くようになった。

 今では、釣りの名人になりたいとの願望が全くなくなった。釣りは、確かに技術だけれど、山で食べる分だけ釣れる技術で十分、わざわざスレた魚を釣り上げる技術は必要ないからである。釣りのための釣りを目指すのであれば、アユやヤマメを釣った方が遥かに面白い。同じ渓流魚を釣るにしても、餌釣りよりはフライやルアーの方が面白いに決まっている。技術的に難しい釣りほど面白いからである。

 けれども、私たちの山釣りは、未知の谷を目指す山旅が主目的であるから、釣りは晩のオカズを調達する一手段に過ぎないのである。大物は、単なる偶然を期待しているようなものである。何だか、悟ったような悟らないような変なヤツと思うかも知れないが、これが現在の偽らざる心境である。

 未知なる源流の岩魚釣りは、釣りの技術よりも山と渓谷を歩く技術の方が遥かに難しく、体力、精神力を要する。簡単に言えば、釣りの技術を競っている暇などないのである。山釣りは、最初から釣りの名人が目指すような世界ではなく、山や谷を丸ごと釣り上げようとする大馬鹿者の世界である。そんな馬鹿な渓師たちとネットワークを組めればいいな、と思っています。

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