デジカメ画像35枚、しばらくお待ちください・・・


Matagi and mountain fishing

 マタギのフィールドと山釣りのフィールドはピタリと一致している。「山釣り」などという言葉は、つい最近のことである。マタギに比べたら歴史も伝統もない。山は怖い、獣は怖い、水は怖い・・・山懐深く分け入れば、その怖さは、マタギも渓師も同じだ。だからこそ謙虚な気持ちになって、山に学び、獣に学び、岩魚に学ぶんだ。山の恵みは、「山神様からの贈り物」と考えるようになる。そんな畏敬と感謝の念を決して忘れないマタギたちと深山幽谷を共に旅することが私の夢だった。幸い、マタギ小屋の保存運動を通じて知り合った瀬畑翁や戸堀マタギたち、そして多くの山仲間たちと知り合い、その念願がかなった。連日大雨が降り続く中、危険と苦労も多かったが、それ以上に感激の沢旅だった。

 この感激のドラマを記録すべく、テンカラ一年生は竿を出すことなく、ひたすら一眼レフのシャッターを押し続けた。残念なのは、メインカメラではなく、サブカメラだったこと。これは、いずれ瀬畑翁が写真を含めて紀行文をまとめてくれるだろう。ここには、決定的な写真はなく、全て記録的にシャッターを押したデジカメ写真だけであることをお断りしておきたい。決定的な写真とは、どんな写真なのか・・・・。少しは自信があるのだが・・・。お楽しみに。

 瀬畑翁、柴田君と私の3名は、1日早くお助け小屋に向かった。雨が降り続く中、腰上、いや胸まで水の中に浸りながら遡行。雨はますます激しくなり、シャッチアシ沢が合流する地点に来るとご覧の通り。右の写真は、シャッチアシ沢入り口に懸かる滝だが、まるで台風でもきたような烈風のごとき形相、怒涛のごとく流れ落ち、この枝沢ですら渡渉できない状態だった。左は、その後に撮影した本流、あっという間にコーヒールンバ状態となった。
 前進することも後退することもできない。幸い、左岸に岩穴があった。ここでしばしビバーグするしかない。私は、この時点で今夜はここに泊るしかない、と思った。ところが瀬畑翁は違った。午後3時まで様子を見よう。雨が小降りになれば水は引くだろうと・・・  瀬畑翁の予言どおり、雨は小雨となった。柴田君に竿を出してみたらと薦めた。思ったとおり、岩魚は淀みに大挙避難していた。労せずして、三尾の岩魚を釣り上げた。一人一尾、今晩のオカズには十分だ。
 午後2時半、何とか水が引いた。その一瞬の隙をぬってマタギ小屋に向かって遡行を開始した。上からは雨、圧倒する堀内沢の水量と水圧に、時々足がヒキツリそうになった。ワニ奇岩の下流右岸は、圧縮した流れで、とても岸をヘツリながらでは突破できそうになかった。一昨年、瀬畑翁が流され、足を骨折した難所でもある。
 泳いで渡り、ザイルで横断するか、壁を高巻くかの判断に迫られた。安全を期し、右岸の壁を攀じ登った。小さく巻き、懸垂下降で難所を突破した。マタギ小屋に着いたのは、濁流と化す直前の午後5時を過ぎていた。間一髪セーフ、今考えても、よくここまで来れたと思う。瀬畑翁の獣的な勘と鋭い判断力がなければ、2日間岩穴に閉じ込められるところだった。

 翌日も雨また雨、沢を遡行してくるのは不可能だ。マタギたちは、山越えルートを来るに違いない。私は、苦労してやってくるマタギたちに岩魚をご馳走すべく、釣りに出掛けた。本流は、渡渉することもできず、全て白泡の渦でポイントなし。オイの沢に入ると、何とかポイントがあった。1時間半ほどで一人一尾の岩魚をキープ。雨はますます強くなってきた。午後4時を過ぎてもやってこない。「この雨じゃ、とりやめにしたんじゃないか」と瀬畑翁と話していた。3人で岩魚8尾じゃ多すぎるな、と思いながら川原で岩魚をざばいていると、突然、背後から覗き込むマタギたちが現れた。「よく来てくれた」、嬉しさで万歳を叫びたい思いだった。
 天気予報によれば、今日も雨のはずだった。しかし、山神様の機嫌が良く、一日雨が降らなかった。狩りならば、戸堀マタギがシカリを務めるのだが、本日は山釣り・・・瀬畑シカリを先頭に7人の大パーティは源流をめざして出発。
 増水したマンダノ沢は、いつもより迫力があった。渓を覆い尽くす深い森、苔蒸した巨岩の間を縫うように、天上から落下する白い帯の連続・・・これ以上ない渓谷美。しばし、見上げては「すげぇな〜」を連発。左の写真の右岸の岸壁が、マタギの狩場だ。熊が冬眠する穴も多いという。それを聞いた瀬畑シカリは、その岸壁に向かって、「ババババァ〜ン!」と三回、鉄砲を撃つ仕草を繰り返した。これには、マタギたちも爆笑だった。
 白い飛沫が降り注ぐF1の滝。その麗しさに、瀬畑翁はカメラを構えた。だが、カメラの調子がおかしく、なかなかうまく作動しなかった。ここは右岸の小沢を上り、大きく高巻く。
 F1を高巻くと、私を虜にしてやまない渓谷美が目の前に飛び込んでくる。一面深緑の中に白泡の帯が連なって落下するゴーロ連瀑帯。そのスケールの大きさと見る者を圧倒する迫力は、他に比類がない。 瀬畑シカリは、マタギたちと現在地を確認。どこから竿を出すか?
 深緑に包まれた急階段のゴーロは、一転開ける。ブナの倒木、ゴツゴツした岩肌を落下する滝は、水しぶきを上げて美わしい姿を見せてくれた。マタギたちは雑木が生い茂る斜面を、渓師は水と岩を上る。同じ沢を上るにも歩くルートは違っていた。戸堀マタギは、巨木を見ては熊の痕跡がないか、岸壁があれば、熊が入るような穴はないか・・・歩くルートだけでなく、目線が明らかに異なっていた。 蛇体淵まで一気に歩く予定だったが、岩魚の匂いに堪らず、その下流から竿を出すことに・・・。写真は、テンカラを振る藤村さん。聞けば、瀬畑翁のテンカラ釣法を勉強して、テンカラ釣りにハマッタという。ポイントの読みと正確なキャスティング・・・テンカラ一年生も早く自在にキャスティングできるようになりたいものだ。。
 増水していたので、岩魚の出は鈍かった。粘って、底から岩魚を誘い上げた藤村さん。  神が宿る蛇体淵。かつては、落差10mもあり、淵は蛇のように蛇行していたという。いつしか流木に堰き止められ、土砂が堆積したために、その姿が一変したらしい。
 瀬畑シカリには、大きな計画があった。マタギたちに、伝統的なテンカラで岩魚を釣り上げてもらうことであった。戸堀マタギは、岩魚釣りをやったことがない。そんな無茶な計画はないと思った。ところが瀬畑翁は、必ず釣れるという自信に溢れていた。上の写真は、テンカラの指導をしている瀬畑翁。何とわずか数分後、左の淵で戸堀マタギに尺近い岩魚が掛かった。4.5mのテンカラ竿が弓なりになり、水面を岩魚が割って出てきた。戸堀マタギの驚きと感激の笑顔は、カメラを構えた私の心と同じだった。やっぱりテンカラは、深山幽谷に同化しているせいか、どこを切り撮っても絵になる(お見せできないのが残念)。
 鈴木マタギは、短い仕掛けにドバミミズを付けたチョウチン釣り。大きな蛇体淵には見向きもせず、右岸から流入する魚止めの沢に向かった。急峻なガレ場から流れ込む沢、その草むらの下に小さな滝壷があった。餌を入れるや否や、すぐにアタリがあった。大物なのか、蛇体淵の方向へ引きずり込んできた。まるで熊を仕留めた時のような興奮した顔が印象的だった。
 蛇体淵で存分に遊び、源流に向かって出発。いつもは、左岸を巻くのだが、右岸にも巻き道があるとは知らなかった。
 長竿に長い仕掛けを自在に操る瀬畑翁。見ているだけで、勉強になった。魚に警戒心を与えないアプローチ、できるだけポイントから離れた位置から正確に振り込むキャスティング、岩魚に警戒心を与えず、ゆっくり出る岩魚をゆっくりアワセル・・・人からではなく岩魚から学び、独自に創造された瀬畑流テンカラ・・・やはり、百聞は一見に如かずだった。
 上天狗の沢を過ぎた源流部。弟子たちのテンカラを優しい眼差しで見つめる瀬畑翁。右の写真は、初めてテンカラ釣りに挑戦した小山マタギ。驚いたのは、初めてにしてはキャスティングが実にうまい。センスがあるとないとでは大違いだ。もちろん、源流岩魚を見事に釣り上げ、満面の笑顔を見せてくれた。師匠である瀬畑翁の喜ぶ顔がまた素晴らしかった。マタギとテンカラ、これほどピッタリする釣り方もない。
 ブナ林に囲まれたお助け小屋で記念撮影。手前左から、小山マタギ、戸堀マタギ、朝日沢を狩場にしている鈴木マタギ、後列左から菅原、田沢湖町神代の藤村氏、柴田君、瀬畑翁。
 小屋の中や周辺を掃除した後、山の神に祈る儀式を行った。戸堀マタギを先頭に東の方向に向かって祈った。お助け小屋の保存と畏敬と感謝のをもつ山人の心の伝承・・・多くの恵みをもたらしてくれた山の神に深く感謝の意を捧げた。4日目、瀬畑翁と小山マタギは、まだ小屋に残るという。離れ難い気持ちを抑えて、5人は小屋をあとにした。
 4日目にして初めて渓に光が射し込んだ。上るときは地獄だった。今朝、山の神に祈りを捧げたのがよかったのか、これ以上ない好天に恵まれた。渓も渓師も水と光に輝いていた。藤村さんと柴田君、共に瀬畑翁のテンカラ門下生となり、すっかり仲良くなっていた。これだから山釣りはやめられない。
 水に濡れることを嫌うマタギ、でも腰上まで水に入ると、その快感が堪らない。戸堀マタギの笑顔が、その全てを物語っていた。右の写真をご覧下さい。マタギなら、斜面を巻くはずだが、水に入った方が早く安全、快適であることを知ると、果敢に水の中に飛び込んでいくようになった。流れの早い瀬は、スクラム渡渉で突破した。
 下流でビバーグした跡があった。何と買物袋に沢山のコメ、サバの味噌煮の大きな缶詰2個、サンマの缶詰3個が置き去りにされていた。戸堀マタギが言った。「こんなごとをするがら、熊がおがしくなるんだ。こんな缶詰なんか、簡単に壊して中を食べてしまう。人間が食べる味を覚えさせたら、熊ほどおっかねぇものはねぇんだ」。田沢湖町では、タケノコシーズンになると、残飯に餌付いた熊があちこちに出没、何と熊避け鈴に寄って来ると言う。こんな馬鹿げたことが実際に頻繁している。北海道では、残飯を捨てないことがヒグマ対策の最大の基本とされている。東北でも「熊出没注意!」ではなく、熊と人間の共生を願うなら「残飯とゴミは捨てるな!」と書くべきではないか。

 恐らく大雨が降り続く中、増水した沢を上ることができず、目的地より遥か下流でビバーグ。しかし翌日になっても水は引かず、重い食糧を放り投げて退散したのだろう。ちょうど昼だったので、サバの味噌煮2個をナガサで切り開き、いただいた。燃やせるゴミは全て燃やし、残飯を掃除、コメと缶詰、空き缶はザックに背負って沢を下った。釣り師たちよ、もっと山と獣に学べ、苦しいからといって、食糧や残飯、ゴミを放り投げて逃げるようでは山に入る資格がないではないか。山に入れば、山の流儀に逆らわず行動しなければならないことを忘れてはならない。これはキャッチ&リリースを論ずる以前の基本中の基本だろう。

 朝日沢を狩場にしている鈴木マタギは、若いのに生粋のマタギという印象があった。山を歩く力、持久力はもちろん、堀内沢の山々を実によく知っている。朝日沢周辺は、今年だけで10回を越えているという。シャッチアシ沢や大祝沢へゼンマイ採りにきた話、熊猟に供えて重い荷を背負い、朝日岳へ登る稜線を辿って朝日小屋に何度も足を運んだ話、朝日沢の斜面を越えてマンダノ沢へ熊を追った話など・・・この山が日本一好きだという気持ちが伝わってくる。下る途中戸堀マタギがボソリと言った。
 「鈴木君のおじいさんは、朝日を猟場にした素晴らしいマタギだった。こいつは、いいマタギになるよ」。私も思わず大きく頷いた。
 瀬畑翁と4日間山ごもりしたが、下界では想像もできないほど凄い人物であることがわかった。雨具を着ても、どうせ水の中に入れば内から外から濡れる。だから、雨が降っても雨具は着ない。半袖のシャツ一枚。遡行の時は軍手もはめず素手、靴下も履かない。股ズレは、濡れたパンツが原因、ならばパンツははかない。ズボンは植木屋が作業着として使うニッカズボン。ザックは縦長のアタックザックが一般的だが、横にポケットが付いた昔懐かしいリュックサック的なもの。中は、業務用の厚くて大きなビニール袋を防水用として使用。そんな野性的なスタイルで増水した渓や藪の中に飛び込んでゆく。

 ザイルは滑るからといって、布テープを使用、沢登りの定番であるハーネスやエイトカン、カラビナなど近代的な道具は一切使わない。懸垂下降は、肩がらみで降りる。着替えは、使い捨ての紙製の服。それを捨てずに何年も使っている。ベルトは何と自転車のタイヤのチューブ。いざという時は、これを切って焚き付けように使うという。コップはおまけでもらったカップ・・・まさに常識破りの男、リサイクルの達人、山に転がっているものを器用に使いこなす術は凄いの一語。私も瀬畑翁の真似をして、パンツも靴下もはかなかった。これは素肌感覚で実に快適だった。一見無謀に見えるスタイルだが、実に合理的なスタイルであることがわかった。ところが、翁の真似をして素手で沢を歩いたら、手が傷だらけになった。伸びたアイコの刺やバラ、虫・・・これは獣の肌じゃないとできない。

 私は、翁に向かって「獣みたいな人だね」というと、「いやいや仙人と呼んでくれ」という答えが返ってきたが・・・。山での行動力、観察力、記憶力、獣的な危険予知能力、判断力は抜群・・・瀬畑翁は、いったん山に入れば、「仙人」どころか「獣」みたいな人だとつくづく思った。だからこそ、私が山に入るときは、決して忘れない熊鈴さえ付けてはいなかった。

 「狩りになれば皆獣になるのだ」というマタギたち。瀬畑翁が、マタギに生まれてきたら、きっと歴史に残る名シカリになったことだろう。お助け小屋を建造した故藤沢シカリ、その小屋を守ろうとした瀬畑翁とシカリの弟子たち・・・皆どこかで繋がっているような不思議な因縁を感じた。これは、山に何日も入って、人間も獣にならなければ理解できないことなのかも知れない。