山釣りの世界TOP


 小説の読書感想文・・・などというものは小中学校以降、書いたことはなかった。それも、先生に「書け」と言われて義務的に書いたに過ぎなかった。だが、今回だけは違う。感想を書かずにおれないほどの強い衝撃を受けたからだ。

 「邂逅(かいこう)の森」は、大正から昭和の初め頃、秋田県阿仁町打当のマタギ・松橋富治の生涯を描いた長編小説。読み終わった後、しばらくベットに横になるしかなかった。魂が激しく揺さぶられ、心が動揺していたからだ。はっきり言えば、この作品に圧倒されたというほかない。

 富治が身を置く善之助組のシカリ・鈴木善次郎と獣を殺す旅を続ける「第一章 寒マタギ」「第二章 穴グマ猟」「第三章 春山猟」。この導入部は、東北の山間奥地に連綿と受け継がれてきたマタギとはどんな集団なのか、どんな狩りの技術で獣を獲るのか、旅マタギとは・・・など、マタギに関する民俗学的・文化的知識を、小説という分かりやすいスタイルでマスターできる。

 例えば、旅マタギについては・・・「これだけの数のマタギが狭い阿仁の山里に暮らしていると言うことは、猟場をめぐってのせめぎ合いが常に存在していることを意味していた。・・・そのため、外の地域に獲物を求めて遠征するマタギたちが、自然発生的に生まれた。それが旅マタギ、あるいはデアイマタギや渡りマタギとも呼ばれる、出稼ぎ猟を生業とする猟師である」

 富治は、アメ流しで出会った地主の娘・文枝に夜這いを仕掛け、その後、密会を繰り返す。ついには身分違いの禁じられた恋が発覚、村を追われ渡り鉱夫となる。俄然オモシロクなるのは「第五章 渡り鉱夫」から。ここから、一気に最後まで読まされてしまった。いや、読まなければ眠れない状態に陥ってしまった。私は、主人公の富治に乗り移ったかのように、怒り、叫び、迷い、喜び、呟き、涙をこぼした。

 第五章以降に出会う人物は、富治の生涯を左右する。弟分の見習い鉱夫・小太郎は、一筋縄でいかない大男だが、意外な過去を持っていた。さらに姉のイクは、わずか十二歳で女郎屋に身売りされた薄幸な女だった。

 昭和の初めと言えば、昭和恐慌と東北を襲った凶作が相次ぎ、娘の身売りが大きな社会問題となった時代で、決して珍しいことではなかった。昭和9年、秋田県保安課がまとめた娘の身売りの数は、1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍にも増加している。また、娘の身売りだけでなく、一家の飢え死にを避けるため、子だくさんの家では、幼い我が子を間引いたり、捨てたりすることも少なくなかった。

 作者は、こうした山間奥地の悲しい現実を背負う娘としてイクを登場させる。だが彼女に悲しむ暇などなく、むしろその生き様は、力強い。またイクの弟で、富治の一番弟子となった小太郎は、貧しい山間奥地・八久和の炭焼き小屋に捨てられた子どもだった。

 男と女の愛も随所に出てくるが、これは愛というより獣的である。浅田次郎氏は「本書は去勢された男たちのための、回復と覚醒の妙薬である。男とは本来どういう生き物なのかを、読者は知るだろう」と書いている。まさにそのとおりの作品だと思う。

 鉱夫長屋が大雪崩に巻き込まれる大事件が起きる。雪崩に生き埋めになった小太郎が九死に一生を得て、鉱夫になる道を断念する。「・・・人間てのは、お天道様と一緒に生きていくべき生き物だって、俺ぁ思うんだ。今までさんざん日陰を歩いてきた俺だけどよ。お天道様に逆らった生き方をしちゃ、ろくな死に方が待ってねえ。今回の雪崩で、骨の髄までそれがわかった。ありゃあ、神様が俺たち人間に天罰を下したに違えねえんだ」

 富治も渡り鉱夫をやめ、小太郎の故郷・八久和でマタギとして再出発することを決意する。しかし、閉鎖的なムラ社会は、「余所者」を簡単に受け入れない・・・村に受け入れてもらうためには、それ相応の代償を求められる。それが、村で厄介者扱いされていた娼婦あがりのイクと結婚することだった。

 イバラの道と思われた薄幸な女・イクと結婚し、マタギのシカリとして第三の人生を歩み始める。ところが、まるで別人のように変わるのは、再度マタギの人生を選んだ富治よりも、むしろ薄幸な人生を歩み続けたイクの方だった。そのたくましく、力強く生きる女の生き様にも圧倒される。

 分けてもらう田畑もない山間の豪雪地帯・・・しかも余所者がそこに住みつき生きていくことは並大抵のことではなかった。「そんな中で、一家が飢え死にせずに乗り切れたのは、やはり獣のおかげだった。富治がマタギ仕事で獲る毛皮と熊の胆が現金を生み、獣の肉が飢えを満たした」。富治がシカリとして率いる富松組は、単に自分が生きていくためだけでなく、貧しさに娘の身売りをするしかないほど追い詰められた村人をも救った。それは、山(獣)から生きる糧を得るということだけでなく、自分も、家族も、村も、山に生かされているを意味している。

 そして最終章「山の神」で、物語はクライマックスに達する。一生に一度しか巡り合わないであろう山の主、コブクマとの壮絶な闘い・・・コブクマとは、かつて阿仁のシカリであった善次郎から聞かされていた。

 「ミナグロだのミナシロだの、あるいはコブグマだのな、マタギさ伝わる獲ってはわがんねえクマが現れるのは、山の神様がらの人間さ対する警告なのしゃ。森や獣の何かがおがしぐなりはじめている時に、奴らは姿を現すに違えねえんだ。俺を獲るのはかまわねえ、しかし、俺と刺し違えてマタギとしてのおめえも死ぬ・・・」

 三度引き金を絞ったが、山の神が乗り移ったクマは一向に倒れない。ついに大グマは、富治を倒し、右足を喰いはじめる。その生々しい描写は、まるで自分の体がクマに喰われているような戦慄に襲われる。

 東北の方言をそのまま使った「邂逅の森」は、東北に生まれ育ち、その厳しい自然と風土にまともに向き合いながら書き続ける作家・熊谷氏でなければ、決して書けない作品だと思う。

 マタギ文化を民俗学的に記録した本は多いが、誰もが気軽に読める小説という形で提示した価値は大きい。ともすれば、気難しくなりかねない重いテーマを、万人が気軽に読め、かつ魂の奥底まで揺さぶる小説に仕上げたことは、驚きを通り越して唖然とさせられる。山本周五郎賞に続き、直木賞のダブル受賞の栄誉に輝いたのは、この本を読めば誰もが納得するだろう。

 現代は、自然に飢え、生きる意味さえ喪失しつつある時代だが、そういう時代だからこそ、歪んだ自然観、歪んだ生命観を正す作家・熊谷達也さんの登場を待ち望んでいたように思う。

 最後に「マタギサミットinさんぽく」で作者・熊谷さんが自ら語った言葉・・・「自然の中には、小賢しい思想よりも、もっと大きなものがある」との深い意味が、この作品を読んで初めて理解できたように思う。
文藝春秋|本の話より|自著を語る(熊谷達也)

 「・・・野生の動物を追い、自らの手で仕留める興奮と快楽が、狩猟の本質であることを知った。同時に、それによってこそ彼らが生かされていることや、絵に描いたような山間僻地の小さな村に踏み止まり、山と共に暮らしていられることも、私は知った。

 彼らに流れる狩猟民の血は、実は、都会に暮らす我々の中にも、等しく眠っている。それが時として暴れだすと、手に負えないものとなり、社会生活の破壊者となってしまう。だが、猟により、その血を解き放つ経験を蓄積しているマタギたちは、人間に潜む野性や獣性、そして欲望を制御する術(すべ)も知っている。

 山に入ったマタギは、同じ人間とは思えないほど、里にいる時とは顔が変わる。存在そのものが変容する。そんな人間の生の姿を、私は『邂逅の森』という小説で描きたかった。」
「邂逅の森」(熊谷達也著、文藝春秋、2100円)
購入先HP・・・Amazon.co.jp: 本 邂逅の森
直木賞受賞作家の群像 熊谷達也
秋田県阿仁町「阿仁ぶな物語」
MSN-Mainichi INTERACTIVE 話題

山釣りの世界TOP