世界遺産・白川郷合掌造り集落 山釣り紀行TOP

 民俗村・飛騨の里・・・入り口を入ると、まず緑に染まった五阿弥池に立ち並ぶ合掌造りの重厚な民家群に圧倒される。飛騨の厳しい自然と風土から生まれた多様な茅葺き民家や榑(クレ)葺き民家、和紙透き小屋、炭焼き小屋、水車小屋、路傍の神仏、段々畑、田んぼなど、歴史に刻まれた美しい風景が見事に再現されている。「屋根のない民俗博物館」としては間違いなく一級品だ。ゆっくり散策するなら二時間以上はあっと言う間に過ぎるほど質・量ともに充実している。(白川郷の合掌造りについては、「世界遺産・白川郷合掌造り集落」を参照願いたい)
 松倉山の地形をうまく利用し、田んぼ、段々畑、石垣、鎮守の森、道祖神、屋敷林に囲まれた茅葺き屋根の古民家が並ぶ・・・暗い民家には囲炉裏に火が焚かれ、沢筋には清らかな水が走り、板葺きの小屋では水車が回っている。かつてどこにでも見られた雪国の風景が見事に再現されている。これこそ「生きた博物館」と呼ぶにふさわしい。秋田にもこんな野外博物館があったらと羨ましく思うことしきりだった。
 かつて雪国の農山村は、どこも貧しかった。それがために、自然の力を最大限に活かす知恵と工夫に満ちている。バブルが崩壊し、大量生産、大量浪費、大量廃棄の時代から自然循環型社会への回帰が叫ばれるようになった。こうした時代だからこそ、物のない時代に生きた人々が厳しい自然を相手にいかにして生きたかに学ぶ必要があるだろう。飛騨の里では、金さえあれば何でも手に入る時代の進展とともに、日本人が捨て続けてきた宝物を一つ一つ拾い集めて野外博物館を作った。「飛騨の里誕生物語」では、そんな時流に取り残された過去の遺物を拾い集め「生きた博物館・飛騨の里」を完成させるまでのドラマが記録されている。
 「飛騨民俗村の使命」には次のように記されている。「私たちが飛騨の里で感じていただきたいのは、昔の日本人が培ってきた、現代に通じる「自然への深い眼差し」と「知恵の集積」です。それらは民家の柱一本、草鞋一足に至るまで、ぎっしりと詰まっています。・・・未来を知るためには過去を知らなければなりません。飛騨の里は未来への鑑として、日本人の進むべき道を示してくれると私たちは確信しています。」
 車田・・・田んぼの真ん中にある1本の杭を中心として同心円状の稲株が目を引く。まるで車輪の形に稲を植えることから「車田(くるまだ)」と呼ばれている。日本では新潟県佐渡島と岐阜県高山市松之木町にのみ現存している。杭の中心から7本の線を伸ばし、そこに1株3本の苗を5株づつ植えていく。起源は定かでないが、豊作を祈る神事に関した農作業の方法と推測されている。また伊勢神宮にお供えする米を作っていたと言う説もあるとか。
 「国指定重要文化財 旧吉真家」。江戸時代中期に建てられた茅葺き入母屋造り民家。手前下に板葺きの下屋がついている。2階の窓にムシロをかけ、光と風を確保し、カイコの飼育などに適した造りとなっている。
 中に入ると、板の間に囲炉裏がある。ここで暖をとり、濡れた衣服やワラ靴を乾かしたり、煮炊きをしたり、焼くことで食事を作った。火は同時に照明の役割も果たす。囲炉裏は火の果たす全ての機能を備えた家族の暮らしの中心であった。「人の生活で大切なことは、火を炊くことと水を使うこと」・・・これは、電気もガスも水道もない深山幽谷に泊まった時にいつも感じることと同じである。現代人は、人間が生きていく上で最も基本的な「火」と「水」の有難さを忘れているのではないか・・・と、この古い民家は訴えているように思う。
 釣瓶(つるべ)井戸・・・木製の桶で水を汲み上げる井戸。水道のない時代は、全国どこにでもあった。水は生活に欠くことのできないものだけに、水神様を祀る所も多い。水神は、飲料水、かんがい用水などをつかさどる神のこと。特に農村では水田稲作のために水神に対する信仰が深かった。水神は水のある場所によって、川の神、泉の神、滝の神、池の神、井戸神などの名で信仰されてきた。
 「県指定重要文化財 旧道上家」(建築年代、江戸時代末期)・・・茅葺き屋根が丸みを帯び、「兜(かぶと)」を被ったようなユニークな形をしていることから「兜造り」と呼ばれている。壁から屋根の天井にかけてカーブを描いているように支えているのは「チョウナ梁」。この材は、山の斜面に生え、雪圧によって根元が曲がった根曲がりの幹を利用している。ここにも雪国に生きる人々の知恵が活かされている。
 薪・・・囲炉裏で燃やす薪を伐り出したり、運んだりする仕事は冬の重要な生業だった。3月に伐採して積み上げ1年間乾燥させる。次の年の2月の積雪期に、ソリで運んだ。薪は春に作業をしたことから、飛騨地方ではハルキ(春木)と呼ばれている。(写真:飛騨・世界生活文化センター)
 「市指定重要文化財 旧八月一日家」・・・荘川村西願寺の住職が居住していた茅葺き民家入り母屋造り。室内には、木材の運搬に利用されたソリが多数展示されている。
 冬の積雪期に使ったソリは、実に多種多様である。山から道路まで運び出す「山出しゾリ」、道路から家まで運ぶ「引付けゾリ」、平地を運ぶのに適した「三つ枕、四つ枕ゾリ」など。
 二階の屋根付き出窓がオモシロイ。「鼻小屋」とも呼ばれ、屋根裏の採光に使われている。家の軒下に大量の薪が積まれている。これは飾りではなく、毎日囲炉裏の火を絶やさず維持管理するためのもの。囲炉裏の煙による燻蒸は、害虫を駆除し、茅の腐りを抑えてくれるからだ。さらに、毎年腐った茅屋根を部分的に取り換える作業も行っている。美しい景観や古い民家を維持保全するためには、見えない苦労があることを忘れてはならない。
 炭焼き小屋・・・木炭は薪と並んで重要な燃料だった。幕末には町屋の発達に伴い炭の需要が増え、許可を得た特定の地域で御用炭の生産も増加した。明治以降、炭が自由に生産できるようになったことから、冬場の生業として炭焼きの仕事が山村に広がっていった。炭にする原木は、ナラ材が最も良いとされた。
 秋田県五城目町北ノ又集落・・・秋田の山村でも、今や伝統的な萱葺き民家が連担して残っている例は珍しく、かつて映画「イタズ」の舞台ともなった集落。この萱葺き民家は、秋田の山村を代表する古民家だが、上から見ると全てL字型の曲がり屋形式となっている。これに対し、飛騨の里の古民家は、全て直線タイプ(もちろん、秋田にも直線タイプの萱葺き民家もあるのだが)だった。この違いはどこからくるのだろうか。台風の影響を受ける山峡の地・飛騨と、ほとんど台風の影響を受けない秋田の山村との違いも一つだと思うのだが・・・。
 秋田県矢島町・土田家住宅・・・17世紀後半の建築と推定される県内最古の民家で、国指定文化財。主屋とその上前方に座敷中門が突き出す「中門造り」の住宅である。建築年代、柱の配置や仕上げなどから、東日本有数の古い民家で、中門造り発生の歴史を考える上で、学術上貴重な建造物。こうした中門づくりは、秋田・山形から越後にかけて分布する貴重な民家建築だが、これもまた直線ではなく、L字型タイプである。
 榑(クレ)葺き民家「県指定重要文化財 旧中薮家」・・・飛騨地方の中央部にあたる農家や町屋は、板で葺いた榑(クレ)葺き民家がほとんどを占めていたと言う。瓦は高価で、とても貧しい農村では使えるものではなかった。クレの材料は、クリ材が最も水に強く腐りにくいため、耐久性が強い。それでも寿命は5〜6年と短い。昭和30年代以降トタン屋根の普及によって、ほとんど姿を消してしまった。秋田では、秘湯・鶴の湯温泉や黒湯温泉など、ごく一部でしか見ることができない貴重なもの。
 秋田・乳頭温泉郷、鶴の湯温泉・・・右が茅葺き屋根、左が板葺きの屋根。まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような景観が残っている。ブナを中心とした広葉樹の森、清冽な水、本陣の伝統的な建築物、湯治場のたたずまいを残した浴場の雰囲気・・・湯治客が少なくなった現在も、時流に流されることなく昔の原風景をそのまま残しているのが鶴の湯温泉の最大の魅力である。
 旧中薮家内部・・・広い土間に囲炉裏のあるオエと作業場のニワがある。こうした土間のままで生活する床形式を「土座形式」と呼ぶ。かなり古い形態の民家であることが推測できる。
 「国指定重要文化財 旧田口家」の内部・・・内部の広さに圧倒される。雪の少ない南飛騨で代々名主を務めた大きな農家。村の寄り合いなどに使えるよう部屋数が多く、広い空間が大きな特徴。
 路傍の神仏(左:地蔵堂 右:道祖神)・・・全国各地の農山村には、小さな祠、石仏、道祖神などが見られた。飛騨の里の散策路には、こうした見落としがちな路傍の神仏もきめ細かく再現されている。秋田なら山の神、田の神の石碑があるのだが・・・。
 左:田の神・秋田県角館町(撮影:池田和子) 右:仙北街道沿いに現存する山の神の石碑

 古来より、農民たちは山を神とみなしてきた。田植えが近づくと、「山の神」が里に降りて「田の神」になり、秋の収穫が終わると、また山に帰って「山の神」になると信じられてきた。10月15日が「田の神」が「山の神」になる日と言われ、餅を供え山へ送った。こうした自然に対する信仰心は、自然が、厳しい北国の気候風土に生きる人々に、多くの恵みをもたらしてきたからである。
 左:鎮守の森、匠神社 右:円空仏・・・円空は、江戸時代前期に北海道から近畿に至るまで旅したお坊さんで、各地に「円空仏」と呼ばれる木彫り仏像を刻み残していった。粗削りだが柔和で温かみのある表情が多くの人々を魅了した。
 和紙透き小屋・・・飛騨地方の和紙は「山中(さんちゅう)」と呼ばれる地域で盛んに作られたことから「山中和紙」と呼ばれた。飛騨産の和紙は、寒い厳冬期、雪の中でコウゾをさらし、自然漂白されて作られるため非常に強靭だと言う。
 わらび粉小屋・・・山深い山村では、水車を利用してワラビの粉をひいた。米が余りとれない高冷地では、焼畑とワラビの根からとれる澱粉が貴重な食料だった。秋にワラビの茎が枯れる頃、その根を掘り出して水に浸し柔らかくする。それを水車のエネルギーを利用して砕く。次に木をくり抜いて作ったフネに入れ、底に沈殿した物を乾燥させて澱粉を集めた。こうした水車小屋では、ワラビ粉だけでなく、米や麦、そばなどの穀物を精米、製粉もしていた。
 左:板倉・・・昔の農家の典型的な穀物倉 右:消防小屋と火の見やぐら
 他に郷倉もあった。飢饉や凶作に備えて、穀物を蓄えるために建てられた倉庫を「郷倉」と呼び、かつてはどこの農村にも見られた。地域内で自給自足する以外になかった時代の危機管理の知恵でもあった。
 「国指定重要文化財 旧若山家」・・・昭和33年、ダムの建設によって水没することとなった合掌造りの民家を移築したもの。屋根の勾配は約60度と急勾配で、正三角形に近い独特の外観が目を引く。建築年代は寛政9年(1751年)、4階建て。
 「県指定重要文化財 旧西岡家」・・・白川郷を代表する合掌造りの民家。建築年代は江戸時代後期で、4階建て。詳細は「世界遺産 白川郷合掌造り集落」を参照。
 山手の散策路から飛騨の里を眺望する。散策路をのんびり歩き、一軒一軒、360度外観を眺め、内部をゆっくり観察しながら説明看板を読む。時には、メモをとり江戸時代にタイムスリップした感覚に浸る。わずか1時間程度では、とても飛騨の里全てを体感することができなかった。今度は一日かけてじっくり歩いてみたい・・・としみじみ思った。なぜなら、ここには「日本が捨てた宝物」がぎっしり詰まっているからだ。
小京都飛騨高山・・・古い町並み風景
 高山市三町伝統的建物群保存地区・・・朝6時、まだ薄暗い中を三脚とカメラを持って散歩してみた。市内の真ん中を流れる宮川は清らかで、何となく京都の鴨川の風情を思い出す。そして古い町並みが続く路地に入ると、ますますミニ京都と呼びたくなるほど歴史に磨かれた美景が広がっていた。市内のほんの一部しか見ていないが、高山市は、単なる観光都市ではなく、街全体がエコミュージアムといった印象を強く受けた。誰もがカメラを構えたくなる風景こそ、理屈抜きに素晴らしい。
 飛騨高山の古い町並みは、京文化を色濃く残す近世の城下町。風景の品格、あるいは洗練された風景とでも形容したくなる雅やかな出格子の町屋が軒を連ねている。
 司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ(朝日文庫)は、全43巻にも及ぶ大作だ。その中の第29巻には「秋田県散歩と飛騨紀行」が収録されている。秋田と飛騨が一緒に収録されたのは、単なる偶然だろうか。以下に「飛騨紀行」に記された一文を抜粋する。

 「飛騨の高山を、小京都という。このことは、印象としてまぎれもない。ある町角では、ふと京都よりも京都ではないかとおもったりする。規模が小さいだけに、品格のある作りも、その磨き方も入念なのである。」(司馬遼太郎「街道をゆく 飛騨紀行」より)
 「飛騨では大工が重んじられてきた。飛騨大工の誇りの高さと仕事熱心さは大変なものだったらしい。たとえば一定の予算で請け負っても、得心がいかないと自腹を切っていい材料を買って使ったりすることが、ふつうだったらしい。このため棟梁といっても、名声のわりには家計は火の車だったといわれる。・・・いま高山の町をあるいていると、匠たちが思う存分腕をふるったミノのあとを幾つか、町家づくりに見ることができる。」
 「幕府領であること、百七十七年つづいた。その間、大商人が軒をならべていた。草高わずか三万石とすこしの飛騨で、その首邑がこれだけの経済力をもちえたのは、単に商品経済の中心だったということだけでは考えられない。・・・川上、小島、白川郷など、十数か所に鉱山を稼動させ、江戸期いっぱい、金属を生み出していたことが大きな要素だったといっていい。」
 「町を歩いていて感じたのは、さきに古川町の町並の価値に感心したものの、やはり高山市の町並や家屋の洗練度のほうが高いということだった。高山を京都とすれば、古川町は、鞍馬寺のふもとの街道ぞいの町並に比せられるべきかと思ったりした。鞍馬には、古格な京づくりの家々がのこっているのである。」
 古い町並を流れる水路・・・せせらぎの中に沈む赤や黄色の落ち葉が美しい。
 看板や暖簾、メニュー表示にも洗練された「飛騨美学」のこだわりが感じられる。
 「籠の渡しの図」((飛騨・世界生活文化センター))

 「飛騨」という地名について、司馬遼太郎は次のように記している。「まことに、飛騨は山国である。岩の崖が衣のヒダのようにしわんでいるからヒダというのだとか、・・・また鄙(ひな)、田舎と同根語で未開地を意味しているのだといったふうに、いろんな説がある。

 ・・・ただ諸説を読んでいると、ひろやかな濃尾平野の北方にあって、棚をなすような山国というイメージが---くろぐろとした森や地をうがって流れる渓流、小径をふさぐ岩石あるいは巨岩の崖などといった地形・地物---が浮かんでくる。・・・都のひとびとからみれば、どこか、お伽の国めかしい国に思われていたのではあるまいか。

 ・・・中山七里は、飛水峡以上の渓谷美として知られている。・・・七里のあいだ、旅びとは岩を飛び、崖をつたわなければならないということから、おこった。美濃から飛騨へは、大変な旅だった。」

 「飛騨紀行」には、「田舎」とか「未開地」、「山国」「大変な旅」といった言葉が出てくるが、俗世から逃れようとして旅立った松尾芭蕉もまた「みちのく東北」を旅し、岩手、山形、最北の秋田県象潟まで足を運び、名作「奥の細道」を著した。飛騨と秋田は、地理的に離れているものの、都の人々にとっては、「遥かな未知の世界」であったという共通点があるように思う。
 飛騨と秋田の風土、歴史、民俗文化を比較していると、大変気になる歴史上の人物を思い浮かべた。それは美濃の隣、三河国(愛知県)で生まれた漂白の旅人・菅江真澄である。彼は、30歳の時、長野へ旅立ち、以降北へと針路をとり、新潟、山形、秋田、青森、岩手、宮城、北海道をめぐり、48歳の時に再び秋田にやってきた。その後28年間、この世を去るまで秋田を旅し、多くの著作を残した。「菅江真澄を高く評価したのは、民俗学の創始者である柳田国男(1875-1962)だった。柳田は真澄を自分の学問の先覚であるようにして敬愛した。」(「秋田県散歩」司馬遼太郎)
 一説によると、真澄のスポンサーは植田義方(よしえ)という大金持ちで、真澄に歌枕の探訪記を記させ、現代風に言えば、観光パンフ、旅行ガイドを発行させるためだったという。ところが、各地を訪ね歩いているうちに真澄の考え方が大きく変わった。「真澄の歩いた道は大変な道であった」と、研究者たちは口をそろえて言う。秋田の厳冬期、腰まで雪に埋もれながら、ひたすら歩き、ひたすら記録し続ける。歌枕より、雪国の暮らしぶりを記録に残すことが自分の務めだと、考え方を180度変えたと推測されている。真澄は、生涯妻子をもたず、家も構えず、遠く奥州を旅しながら膨大な著作を残した。

 旅人は、昔から「未知の世界」を好み、時にその魔力に人生を狂わされることもあるらしい。また、そうした感性豊かな人たちの多くが歴史に残る偉業を成し遂げてきたことも事実である。それは近代化の中で取り残された遺物を一つ一つ拾い集め、時に「ゴミを集めて金を取る」などと罵倒されながらも、「日本が捨てた宝物」で日本一の野外博物館「飛騨の里」を見事に完成させた。「飛騨民俗村・飛騨の里」はもしかして、世の常識から大きく外れた「奇人変人の傑作」の一つと言えるかも知れない。
参 考 文 献
飛騨民俗村・飛騨の里
「街道をゆく29 秋田県散歩 飛騨紀行」(司馬遼太郎著、朝日文庫)
週刊日本の街道25「飛騨街道」(講談社)
「2003飛騨高山総合パンフレット」(高山市産業振興部観光課)
飛騨民俗村・飛騨の里 お問合せ先
高山市役所飛騨民俗村管理事務所
〒506-0055 高山市上岡本町1丁目590
0577-34-4711 FAX 0577-33-4714
E-mail t.iwata@city.takayama.gifu.jp       iwata@hidanosato.org
飛騨民俗村ホームページ  http://www.hidanosato.org/

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