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北秋田郡米代川水系、幽閉された源流に細々と生き残るイワナの謎
 「昔は、あの沢のイワナは全部頭がつぶれていた」・・・との奇妙な言い伝えが残っている。この奇妙なイワナと初めて出会ったのは、1987年9月14日のこと。当時の記録ノートには「鼻のつぶれた奇形イワナを釣る。先天性奇形なのか、それとも増水時に岩につぶされたのだろうか。ともあれ゛長助イワナ゛と命名しておこう」と記されている。

 その三年後、1990年7月14日、秋田さきがけ新聞に「頭のつぶれたイワナ」の記事が掲載された。頭のつぶれたイワナは、普通のイワナ20尾に対して1尾の割合で混じっていたというのだ。発生率が異常に高く、昔からいたとなれば、単なる奇形や突然変異とは考えられない。この衝撃的なニュースを知って以来、「頭のつぶれたイワナ」の写真を撮りたい、記録に残したい」・・・と、ずっと念願していた。
 頭のつぶれたイワナの謎を追う・・・その計画を、釣り仲間の小玉氏に告げると、異常な乗り気を示した。2002年7月6日、小玉氏と伊藤氏、私の三名は秘渓を目指して朝5時前に車止めを出発。降り続く小雨の中、ひたす杣道を歩いた。この秘渓を訪れるのは十数年ぶり、記憶は完全に風化しつつあった。奥は深いが、途中イワナの魚影はほとんどなかったはずだ。ならば、秘渓の小沢に入渓する前に、ちょっとイワナと遊んでみようということになった。それがために、帰路は、暗闇の中を歩く最悪の事態となってしまった。
 真っ暗な岩穴トンネルから落下する滝。かつては、この左手の屹立する斜面に鼻をぶつけるようにして攀じ登り、わずかな小枝にぶら下がりながら尾根まで一気に上がった。暗い廊下状のゴルジュを越えるとF2の滝がある。壷は深いが、当時は流木を伝って簡単に突破できた。ところが・・・

 左手の屹立する斜面を直登するのは危険極まりない。本流と秘渓の分水嶺を乗っ越すルートを探す。突き出す岩場の中間部、斜面はきついが何とか草や木を頼りに登れそうな場所を見つける。落差はおよそ30m。雨で濡れた斜面に足場を作ろうとしても簡単に崩れてしまう。登るには何とか登ったが、下りとなればザイルなしには不可能だった。いざ、秘渓に下ろうとしたら、記憶に残るF2の滝が見えた。何と足場となる流木はなく、暗く深い淵が剥きだしになっていた。やむなく左手の斜面をトラバースしながら、やっとの思いで秘渓に降り立った。
 かつて秘渓下流部は、イワナの魚影が極端に少なかった。水質に問題はないか・・・と、まず川虫を採取した。すると、カワゲラ、トビゲラが本流より多く生息していることがわかった。ならば、と小玉氏が絶好の壷に、採取したカワゲラを静かに投げ込んだ。目印が一気に清冽な流れを切り裂いた。釣り上げたイワナに全員の目線が注いだ。何と「頭のつぶれたイワナ」ではないか。余りにも簡単に釣れた驚きと嬉しさが複雑に入り混じり、何度も奇妙なイワナの頭を覗き込んだ。

 全長は約23cm。上顎が切り取られたように目の直前でなくなり、下顎が突き出している。奇妙な顔を除けば、ごく普通のイワナである。頭のつぶれたイワナは、アメマス系かと思われたが、よく見ると側線の下に薄い橙色の斑点がはっきり見える。前ビレ、腹部、尾ビレは、鮮やかな柿色で居付きの特徴をよく示している。側線より上の白い斑点は、比較的大きく鮮明である。これは、この水系に生息するイワナの特徴と同じだった。この奇妙な口では、大きな口をしたイワナに比べ捕食が著しく難しいはずだ。頭のつぶれたイワナを見れば、誰しも、普通のイワナとの生存競争に敗れ、個体は著しく小さいに違いないと思うだろう。ところが、意外にも大きな魚体だった。(1990年の新聞記事では20cm前後と記されている。私が初めて釣り上げたのも20cmほどだった。)
 雨が降り続き、なかなかカメラが出せない悪コンデションだった。小雨になったところを見計らって、生かしビグから虫捕り用のカゴに移し、雨を防ぐために、上から折りたたみ傘をさして撮影した。
 F3二条の滝。谷は鬱蒼とした原生林に包まれ薄暗い。見渡す限りの岩場は、苔とダイモンジソウに覆われ、いかにも源流という雰囲気に満ちている。丸々太ったイワナの魚信は、魚止めの滝まで止むことはなかった。それだけに時間はあっと言う間に過ぎていった。
  F4の滝。頭のつぶれたイワナが生息する渓は、上二又まで穏やかな渓相が続いている。滝らしい滝は、源流部まで数えてわずか4つに過ぎない。私が見る限り、F1の滝を除いて、その上流にある3つの滝全てが、増水を利用すれば、イワナの遡上が可能であるように見えた。
 秘渓の標準的な渓相。空梅雨が続いているので、極端な渇水状態だったから、イワナが走る姿があちこちで見られた。必死に「頭のつぶれたイワナ」を釣ろうと懸命に竿を振る小玉氏。イワナの食いは抜群、スレていないことがすぐにわかる。とにかく、餌をくわえると、竿がのされるような激しい引きをする。ところが、なかなか針掛りせず、逃げられるケースが多かった。もしかして、頭のつぶれたイワナだったのだろうか。姿を見ていないだけに不思議としか言いようがないが・・・。もしそれが「頭のつぶれたイワナ」だとしたら、確率は5%どころか数割に達するだろう。
 餌で釣り上げた尺上イワナ。一見アメマス系イワナのように見えるが、側線の下にうっすらと橙色の斑点が見える。釣り上げたサイズは、8寸から尺前後とほとんどが良型だった。魚体の大きさに比べて顔が著しく小さいという印象を受けた。雨が降っていたためにカメラに撮ることはできなかったが、普通のイワナと頭のつぶれたイワナの中間種のようなイワナも釣れたことを付記しておきたい。
 私のテンカラに食らいついた31センチのイワナ。ちょっとした小滝の滝壺。その右側の流れ出しに振り込んだら、いきなり黄色のラインが走った。竿を立てると、大きな魚体が水面を切り裂き、手前に飛び込んできた。黒い逆さ毛鉤を完全に飲み込んでいた。
 やっと二尾目が釣れたのは、上二又付近に来てからだ。頭のつぶれたイワナが複数生息することが実証できただけでも貴重な一尾だった。しかも全長は約28センチ、比較的大きな魚体だった。各々リリースを繰り返しただけに、釣り上げたイワナの正確な数字は不明だが、私の勘ではおよそ40尾は釣り上げている。20尾に1尾の確率は、ほぼ変わらず一定しているような気がする。普通のイワナと頭のつぶれたイワナは、お互いに勢力争いをすることもなく共に生きているような印象を強く受けた。それにしても奇妙奇天烈な顔である。

 上の写真、イワナの顔をじっくりご覧ください。比較的大きな個体だけに、頭のつぶれたイワナの特徴がよく出ている。下顎がお椀あるいは川虫を捕獲する網のような格好をしているのがお分かりだろうか。これから言えることは、飛んでいる虫や水面を行き交うトンボ、カエル、ネズミ、トカゲ、蛇など、比較的大きな餌を捕食するには、どうみても不利である。しかし、石の下にいる虫あるいは流れ下る獲物を捕食するには、実に合理的な口のようにも見えるから不思議だ。
 なぜ、この沢にだけ「頭のつぶれたイワナ」が生息しているのか・・・この疑問は、全く解明されていない。出口が、断崖絶壁のトンネルと滝で、本流と隔絶された環境であることに疑問を挟む余地はない。隔絶された源流部で特異な遺伝子が固定した可能性が高い、と考えるのが妥当ではないだろうか。最近、各地方、各水系のイワナは、それぞれ独特の遺伝子を持つと言われているが、その事実を正面から訴える貴重な固体であるとも言えるだろう。
 秘渓源流部のゴーロ滝をゆく。とうに帰らなければならない時間は過ぎていた。しかし、少なくとも魚止めの滝を確認しなければ、頭のつぶれたイワナの調査とは呼べない。大場所を荒っぽく釣り上がり、何とか魚止めの位置を確認できたのは幸いだった。
 鬱蒼としたブナ、サワグルミ、ヒバなどの混交林に覆われた源流・魚止め付近の全景。薄暗い最奥の源流、頭のつぶれたイワナが群れる不思議な渓、そんな神秘性を秘めた渓の雰囲気を一層かきたてるかのように、頭上から雨が止むことなく降り注ぎ、下る途中、大粒の雨に変わった。
 頭のつぶれたイワナと同じ沢で釣れた普通のイワナたち。斑点の色の違いから、アメマス系とニッコウイワナが混生している渓であることがわかる。これは、秋田の源流では特殊でもなく、むしろ一般的に見られることである。それだけに謎は深まるばかりだ。
 「頭のつぶれたイワナ」は、生物学上極めて貴重な個体であることは言うまでもないが、我々釣り師にとっても、イワナの「原種保護」を考える際に、なくてはならない貴重な個体である。万が一皆さんが釣り上げたら、全ての個体をリリースしてほしいと願う。上の写真は、撮影後、頭のつぶれたイワナをリリースするシーン。「子孫を絶やすなよ」と祈るようにリリースした。
 「頭のつぶれたイワナ」調査に参加した仲間と記念撮影。右から伊藤氏、小玉氏、私。おびただしい流木と苔生す岩が累積した源流部で。時計は既に午後4時を過ぎていた。渓を急ぎ足で下り、最後の屹立する岩場はザイルで何とか突破したが、途中あっと言う間に真っ暗となった。本来なら、その時点でビバーグするのが安全なのだが、幸い小玉氏がヘッドライトを持っていたので、手探り状態で下る。足元も見えない暗闇を歩くこと数時間、車止めに辿り着いたのは、午後9時30分だった。何と下り始めてから5時間余りが過ぎていた。頭のつぶれたイワナを釣り上げてから15年、幾度となく計画しては実現できなかっただけに、頭のつぶれたイワナに再会できた喜びは、実に実に大きかった。

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