「海嶺」(三浦綾子著)を讀んで


私は自分が恥ずかしくなった。

今まで「漂流」「聖書の和訳」というキーワードには、即座に「ジョン・万次郎」と答えていたことが。
然し、裏を返せば「海嶺」が私に与えた衝撃がいかに大きかったか、ということにもなる。

こんな事が、江戸時代末期に本当にあったのだろうか。あったとしたら、この音吉漂流記だけだったのだろうか、と、私の好奇心はついつい深入りしていった。
図書館で3册程、漂流記関連の本をかりて来た。

それらを読んで更に驚いたのは、記録に残っている漂流だけでも数百、知られていないものまで入れると、その数百倍はあったのではないか、という事だった。

江戸時代、何故こんなに多くの漂流が起きたのだろうか。

その疑問の答えとして「海嶺」の中の水主頭と岩松のやり取りから探って見よう。
少し長いけれども引用する。

水主頭「大船に乗ったつもりで安心せえ。船が弱いんじゃない、嵐が強いんだ。」

岩松は海難は天災だけではなく人災でもあると知っている。長い航海の中で大小の嵐に幾度も遭っていた。
そしてその度に千石船の弱点を身に沁みて知った。例えば胴の間は甲板ではなく、取り外しのできる踏立板が並べられているだけだ。大波をかぶれば、たちまち水は船を浸すのだ。また、畳八畳もある大きな舵は、 船尾にぶら下がっているだけで、固定されてはいない。・・・

なぜそれらの構造が改良されないか、それは、鎖国を固執する幕府の方針に合致する造りだからだ。
つまり千石船は遠洋に耐え得ない近海船であった。

私は、2,3年前に家族で佐渡へ旅行した事を思い出した。佐渡の国小木民俗博物館という所で千石船を見たのだ。
 
小学校の体育館程の建物の中に、真新しいピカピカの千石船(平成10年より展示)が堂々と展示されていた。随分大きくて立派な船だなあ、江戸時代にもこんなに素晴らしい造船技術があったのだと感心して見てきたが、 もしあの時、漂流のことを知っていたら、もっと別の見方をしたかも知れないと思うと残念でたまらない。

「海嶺」上巻の息をもつかさぬ迫力、それは、漂流した人にはまことに申し訳ないのだが、やっぱり一年2ヶ月にもおよぶ、極限状況での人間ドラマだからではないかと思う。
著者はあとがきで、海嶺は史料に基づいたものもあるが、フィクションでもあると言っている。

どこかに聖書が見え隠れしている様に思えるのもそういう理由によるのではないかと思った。
私には、縦糸に漂流、緯糸に聖書が織り込まれているように思えてならない。

「海嶺」から吉次郎が亡くなる2日前のところを引用してみる。

 
死ぬ2日ほど前、寝につこうとした音吉に、吉次郎が言った。
「音、すまんかったなあ」・・・
「音、お前は、四つ五つの時から、みんなのほめられもんやったもなあ。だけどなあ、俺はほめられたことは、一度もなかったでなあ・・・」...


自分がほめられる度に、傍らにいた兄の吉次郎は、どんなに淋しい思いをしてきたことであろう。

このほんの数行のなかに、旧約に出てくる「カインとアベル」の話(創世記4章)を重ねあわせてみた。
私も、若い頃に同じような経験をしたことがあるのだから。

兄が結婚し私は兄嫁と同居するようになったが、兄嫁は気立てもよく腰も低く、近所でも大変評判がよかった。
そうなると世間では、私と兄嫁を比較して私がわがままな小姑だと、なにかにつけて思うようだった。
比較されれば、たとえそれが事実であっても、いやなものだ。

そんなある時、私は神谷美恵子が、こんな事を書いてあるのを讀んだ。

「人間は何も悪い事をしなくても、存在そのものが、相手を傷つけることだってある。」

これを讀んで、なんだかほっとしたものだ。それは、誰でも罪を犯すものだって事がわかったからだ。
吉次郎は、死を迎えて弟に心から謝罪する。
私は吉次郎をほめてやりたいと思った。

吉次郎の通夜の晩、水主達のだれもが、吉次郎の死に後ろめたさを感じた。

わけても、水を盗もうとした吉次郎を、小突いたり蹴ったりした夜のことが、だれの胸をも噛んでいた。

千石船(佐渡の国小木民俗博物館にて)
みんな口々に、利七が悪い、三四郎だ、千之助だとののしりあうのだが、・・・

新約のなかに「御父が慈悲深くあらせられるように慈悲深いものであれ。人を裁くな、そうすればあなたたちも裁かれぬ。人に罪を定めるな、そうすれば罪に定められぬ。ゆるせ、そうすればゆるされる。
(ルカ6/36-37、マテオ7/1-5)という言葉があるが、全くその通りだと思う。しかしこれは、決して易しいものではない。だからこそ、キリストが弟子達に諭しているのだから。
 
私の家族も、旅先で道を間違えたり、何か失敗したりすると、すぐにだれかれのせいにしたがり喧嘩になるのだが、遠慮のない家族では、特にそうなりやすいものかもしれない。
それにしても、今の世の中「他人を裁く」ことのみ多い様な気がする。

最近の少年達の殺人事件などでも、先ず何があっても
「他人を殺すな」(出エジプト記20/2-17)
これが大前提ではないだろうか。
岩松は妻の母を間接的に殺してはいる。
が、彼自身、他人を裁くことはなかった。航海中、もし彼の意見に従っていれば遭わなかったかもしれない数々の苦難にも、黙って耐え、他人を非難することはなかった。

厳しい漂流生活中、若い二人の命が助かったのも岩松のおかげだろう。
彼の犯した罪は罪として、少なくも二人の命を救ったことには間違いない。

聖書は厳しいばかりではない。久吉がお蔭参りから、小野浦の家に帰って来た時を思い起こして欲しい。

久吉は「お蔭参り」に行くために、母の少しばかりのほまちを、茶箪笥の引き出しから持ち出して、そのお金も使い果たして一月あまり、父親に叱られるのも覚悟のうえ、家の中に足を踏み入れた。

「あの、父っさま、今・・・」・・・
「久吉かあ-よう戻ったなあ」痛いほどに又平は久吉を抱きしめ、不意に号泣した。


この場面は放蕩息子の譬えとして聖書のなかにも大変良く似た場面がある。(ルカ15/11-32)

ある人に二人の息子がいて、弟が財産を分けてくれと言うので、父は財産を二人にわけた。
が、弟は幾日も経たないうちに、お金を使い果たして家に帰ってくる。・・・
父は彼を見つけ、あわれに思い、走りよって彼の肩を抱いて口づけを浴びせた。

私は、「海嶺」を讀んで久しぶりに聖書を開いた。

徳川幕府は何故あれほどにキリスト教を厳しく禁止したのか、日本が外国に侵略される事をおそれたからだろうか。

秀吉が禁教令をだしたのは、たった半日間の出来事だということを、ついこの間知った。

秀吉はその時、宣教師に招かれて彼の乗って来た船に行き上機嫌でワインなどを飲んで帰って、その晩に禁教令をだしたというのだ。一体、秀吉が船内で見たものは何だったのだろう?

以後、300年も人々から信仰の自由を奪い、どれほど多くの命が奪われたことだろう。

海嶺は三浦綾子の形を変えた聖書物語でもあり、音吉達の生き方を通して「愛」というものを形づけて見る事が出来た様な思いがした。