「壷算」と水不足

 これを書いているのは2005年6月であるが、今年はどうも空梅雨ぎみである。こうなると水不足が懸念される。
 ところで、「水不足」というが、一体どれくらいの水があれば足りるのか?各種の資料を調べればわかるんだろうが、ここではちょっと別の観点から考えてみたい。たとえば昔の人はどれくらいの水を使ったんだろう?

 江戸っ子は「水道で産湯を使ったお兄いさん」と啖呵を切った。実際、江戸時代から水道が発達していた。その水道の使用量といった統計はどこかにあるのか?
 一方、大坂にはそんな立派な施設はなかったようである。明治28年になって「人口61万人をうるおす程度のやや規模の大きなものを完成させた」
 水道が無かった時代、庶民は井戸も掘れない。どうしたかというと、「水屋」から水を買った。それを貯めておくための水壷を常備していた。この水壷を買いに行くというのが、上方落語「壷算」である。だからあの話はきわめて大坂的なのだ。東京の人も演じるようだが、「水道で産湯を使ったお兄いさん」にはそぐわない。やるにしても、上方の話であるとはっきり断ったほうが良いと思う。
 その「壷算」では、たぶん子供もいなさそうな若夫婦の所帯で「一荷入りではそろそろ足らんから、二荷入りの壷を買う」という台詞が出てくる。これが当時の水の使用量を推定するヒントになりそうである。

 ちなみに、この「壷算」は、勘定をちょろまかすトリックばかりが有名であるがじっくり聞いてみると、時代背景がきわめて明確な噺なのだ。まず壷の値段が3円とか6円とか。これで江戸時代でないことははっきりする。一方、既に述べたように明治28年頃には大阪にも水道ができているから、それよりは前の時代のはずである。
 「な、うまいこと言いまっしゃろ。うちのかか、小学校出とるだけのことはある」という台詞にも注目したい。中学校まで義務教育の現在では、これはつまらないギャグかと思ってしまうが、小学校が法的に義務教育になったのは1886(明治19)年という。それ以前も全員就学が原則ではあったらしいが、それでも小学校卒業(当時は4年)まで行かない子も結構いたものかと思える。子守りをしながら教室を覗く「おしん」もいたんだろう。しかし、大阪みたいな都会では、特に男子は早く丁稚奉公に出て、商売や職人としての技能を身に付けることを目指したのかもしれない。一方、女の子は学校へ行ってれば良い所へ嫁に行けるかもしれない。ま、結局は「長屋のあほ」と所帯持つことになるとしても。これが「うちのかか、小学校出とるだけのことはある」という台詞の背景かと思われる。
 さらに、いよいよ瀬戸物町へ入ると、「このごろは何でも瀬戸物でできるねんで。見てみい、あのお人形なんか、まるで生きてるような」。明治の頃にヨーロッパの陶磁器の技術が導入されて急速に発達したということは百科事典などにも載っている。まさにそんな時代の噺なんだろう。

 さてそれでは、「一荷」とはどれくらいの量かということが問題になるが、石川英輔「大江戸リサイクル事情」ではこれを約60リットルと推定している。もっともこれは水ではなく下肥の場合なのだが、しかし英輔師匠の推定は極めて明快で、水にもほぼそのまま当てはまりそうである。略述すると、「一荷とは、人のかつぐ天秤棒の両側につけた桶に入る量である」。そして英輔師匠が農家や資料館などで保存している肥桶を計ったところ、内径が35cm、深さが40cmぐらいが普通だったという。「満杯にして38リットルぐらいだが、貴重な肥料をこぼさずに運べる限度は八分目ぐらいだから」約30リットル。一荷の2桶では60リットルとなる。充分説得力があるし、それに、この種の推定ではたとえ1割や2割の誤差があってもあまり気にすることもなかろう。倍とか半分とかでなければ推論を立てるには充分である。だからここでは英輔師匠にしたがって一荷=60リットルとしておこう。
 そして明治の大阪の(若)夫婦は「一荷入りではそろそろ足らんから、二荷入りの壷を買う」と言っている。二荷入りを買ったからといって、ただちにそれだけの量を使うわけでもなかろう。一荷(60リットル)よりもちょっと多い程度だろうが、多目に見て100リットルとしておこうか。そしてたぶんこれは一日の使用量だろう。水屋はほぼ毎日来たと思われるし、一方、日に何度も水を買い足すというのも不便と思うので。したがって1箇月では3m3になる。
 一方、筆者の家は似たような家族構成である。しかし水道の使用量を調べて見ると、月に20m3程になっている。明治の夫婦の実に7倍である。

 ここで、「手水まわし」という噺をもうひとつ。
 ある田舎の宿に大坂の客が泊まった。朝になって、その客が「手水をまわしてくれ」と言う。ところが、これがわからない。宿の主人をはじめ一同が思案している。ある者が言う。「長い頭と書いて『ちょうず』と読む。ところで、隣の村にえらい頭の長い男がおる。さてはその噂が大坂にまで及んで、見物に来たのに違いなかろう」。
 早速その男を呼び寄せて、客の前で頭を回させる。しかし客はただ呆れて帰ってしまう。
 これではあかんと、主人、番頭を伴って大坂へ情報収集に向かう。そこそこの宿に泊まる。朝、女中に「ちょうずをまわしてくれ」と頼む。ほどなく、水を張った手桶と歯磨き手拭が運ばれてくる。そうか、これが『ちょうず』というものか。さてどうするのか?件の主人、しばらく考えた後、歯磨き粉を手桶の水に解いて、ぐるぐる回した末に、飲み始めた。手桶一杯の水、とても飲めるものではない。半分は番頭に飲ませた。ところへ女中が来て、「もうお一方の手水です」。いや、もう飲めん。
 現代人だって、そんなに大量の水を飲めるわけじゃない。明治に比べて7倍の使用量の水は、飲食のためではないことは明らかだ。

 ひとつ大きいのは風呂だろう。昔の、特に長屋の住人は銭湯だったはず。現在ではたいていの住宅が風呂付き、この違いは大きいはずだ。筆者の家でも、ほぼ毎日風呂を沸かす。
 以前に、気温とガス使用量の関係を調べてみたことがある。最寄の気象庁アメダスの月平均気温と、自宅のガス使用量を比べてみたのだ。当然のことながら、気温の低い冬にはガス使用量が多く、夏には少ない。この関係は気温対ガスのグラフ上で1本の直線にほぼ乗った。さて、その直線を引き延ばして、ガス使用量が0になる気温を求めて見ると、40℃となった。これは風呂の温度である。
 さらに、月の水道使用量に(40℃−月平均気温)を掛けてみたところ、ガスの使用量(カロリー)にほぼ一致した。何のことはない。我が家では水道の水(気温とほぼ同じ)を風呂に沸かす、そのためにガスを使っているのだ。少なくとも「第一近似」ではそう言っても良さそうだ。無論、ガス、水道は調理などにも使うが、風呂に比べれば量はぐっと少ないということだろう。風呂の残り湯は洗濯にも使うにしても、捨てる量も小さくはない。

 水洗トイレも大きい。昔の長屋は水洗ではなかった(さらに共同トイレだった)。
 江戸時代には下肥が高値で取引されたということは前掲書に詳しい。そんな貴重な肥料を、今はこれまた貴重な水とともに流し去っている。もったいない話ではある。

 殿中で殿様御手ずから菜をお作り遊ばし、これをお召し上がりになる。どうもあまり美味くない。
殿「三太夫、余の作った菜は何故こう美味くないかの」
三「おそれながら申し上げます。下々では下肥を使いまするが、殿中では水肥のみでござりまするゆえ、味が落ちるものかと存じまする」
殿「左様か。ならば苦しゅうない。その下肥を、これへかけて参れ」
 「目黒の秋刀魚」の、これは先代三遊亭金馬師のCDの枕の部分。今の若い人も、この殿様同様じゃないか?

 子供の頃住んでいた家はまだ水洗トイレではなかった。家はちょっとした山の上にあって、そこには車も上がれなかった。汲取り屋さんは、天秤棒の両側に「一荷」の肥桶を担いで、肥柄杓で汲取っていた。つまり江戸時代そのままのスタイルである。道は石段になっていたが、どうしても揺れるので、所々にこぼれていた。これが1960年代前半である。ただし、既に下肥にはならず、海に捨てると聞いた。
 「汐汲み人形」というのがある。子供の頃、これを「汲取り人形」と言った子がいた。天秤棒で桶を担ぐというスタイルで馴染み深かったのが上記の「汲取り屋さん」だったということである。なんぼなんでも、あの綺麗なお姫様が「汲取り」というのは、すごい発想ではあるが。
 あの人形は「汐汲」という舞踊を題材としているようである。その元は能の「松風」で、在原行平と松風・村雨の物語。その松風は舞踊では様式化されてお姫様然としているが、本来は須磨の浦の海女というから、ずっと逞しいはず。海水を満たした「一荷」の桶を担いだか?しかし60リットルということは60kg。俺はよお担がんぞ・・