1945年8月6日は旧暦六月(大)二九日である。翌々日が朔(新月)で、したがって大潮である。
 広島の川は半分海なのである。毛利輝元築城の頃は城の近くまで海が入っていた。現在の市街地の大部分は、その後干拓や埋め立てでできた土地で、残った部分が川となっているのである。これはたとえば東京の隅田川なども同様で、古代には浅草あたりまで海だったようだ。このような川は当然、潮の影響を受ける。

 実は筆者は、中学高校の6年間を広島で過ごした。最南端したがって川の下流の吉島に住み、やや上流の大手町中学校(今は無い)、国泰寺高校に通った。通学路はほぼ元安川沿いである。南大橋または明治橋で川を渡る。バスで登校する時は万代橋、帰りは放送会館前から乗って平和大橋を渡り、平和祈念館前を通る。そんなわけでほとんど毎日元安川を眺めていたので、潮によって大きく変わることはつぶさに見ている。

 原爆が投下された時、多くの被爆者が川に飛び込んだという。しかし、当日が大潮であったとすると、満潮時と干潮時では川の水位は随分違うはずである。
 海上保安庁海洋情報部のページでは、この日の潮汐を推算できる。その結果を見ると、原爆が投下された8時頃はちょうど満潮で、潮位は304cmに達している。15時頃には干潮で46cmにまで下がっているので、川はほとんど干潟になっただろう。
1945年8月6日 広島の潮汐推算値(海上保安庁海洋情報部による)
毎時潮高   (平均水面の季節変動を含んでおります。)
00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11
(cm) 234 188 156 155 183 222 258 288 304 291 247 190
12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23
(cm) 136 86 49 46 86 151 219 283 337 366 355 316

 ところで、井伏鱒二「黒い雨」には、被爆当日の川の水位についての記述が処々に見られる。以下にそれらを引いて、上記のことを検証してみる。

・・当人は六日の朝早く広島市内の長寿園という農園で畑仕事をしていて被爆した。・・・空を見ると真黒に見え、白島中町や西中町が火の海になっていた。・・火の手はますますひろがって来た。それでサキは、後家の気丈さを出すのはこのときだとばかり、思いきって川に飛び込むと竹筏たけいかだにつかまって水のなかに身を沈めた。(これは市役所が市民に呼びかけて、空襲のときの避難用に設備させた竹筏の一つである)川の水は満潮時のため四尺あまりであった。・・
「黒い雨」pp227〜228(新潮文庫版)

 たしかに「満潮時」と書かれている。「四尺」(120cm)というのは、304cmという推算値と食い違うように見えるが、潮高の基準は略最低低潮面すなわち既往の観測からこれ以下の潮高はほとんどあり得ないと考えられる面であるから、この場所の川底がその基準面より180cmほど高いと考えれば良いのである。それは必然、潮高が180cm以下になった11時過ぎからは川は干潟になったと考えるべきである。ただし上流からの流入があるから、全くこのとおりではないだろうが、余程の大雨でもない限り、水位が大きく変わることもないだろう。もっともその頃には、まさに「黒い雨」がかなり強く降ったわけだが。
 長寿園がどこにあったかは定かでないが、白島中町はJR広島駅と横川駅の中間の北側に見られる地名で、市街地の中では上流のほうであるから、この付近なら川底がある程度高いのも肯ける。

 早朝から西郊の草津へ行っていた矢須子は、広島の異変に気が付いて船で戻るが、これが「九時ごろ出発」(pp22)、そして「今、もう引潮だろう」(pp23)とあり、これも上の推算値と一致する。

 さて、閑間重松しずましげまつは横川駅で被爆し、線路づたいに広島駅へ向かうが、
・・九割がた渡ったところに、貨車が横に倒れて通りを塞いでいたが、身を伏せ匍匐前進で辛うじて渡ることが出来た。貨車の真下のあたりは川の水が浅いので、転がり落ちて重なりあっている大量の玉葱が見えた。
「黒い雨」pp68
 このあたりは前述の白島中町からは近いはずだが、「川の水が浅い」となっている。もっともこれは「貨車の真下のあたりは」と限定されているので、川全体のことではなかろう。

 重松は広島駅から比治山の東を回って御幸橋へ出る。御幸橋では「橋の欄干が一本もない」(pp102)ことに気付くが、水面についての記述はない。
 そして千田の自宅に着くと、妻のシゲ子、そして草津から船で戻っていた姪の矢須子と幸運にも合流する。さらに、矢須子を送ってきた能島が御幸橋の川下に船を待たせているというので、それに乗って草津へ逃れようとする。が、再び御幸橋へ行ってみると、待たせているはずの船がない。
「潮順から云って、ここから川上に行っている筈はないな。すると、もすこし川下かね。では、こうおいで下さい」
「黒い雨」pp118
 被爆からゆうに数時間は経っているだろう。「潮順から云って」というのは、潮はもう引いていることを示唆しているようだ。だから水深の浅くなった川上には「行っている筈はない」のだろう。

 船を諦めた三人はいったん宇品の日本通運へ向かうが、そこからまた千田の自宅へ戻る。が、自宅付近はすべて焼き払われている。それで重松の会社のある古市へ向かうべく、再び横川駅を目指す。鷹野橋、白神社しろかみしゃ、紙屋町、広島城。要するに市街地をほぼ縦断する。これは井伏が被爆直後の街の様子を描くためだろう。
 堤防に出ると三篠橋みささばしは中ほどがなくなっていた。僕は計画を変更して、相生橋を渡るため堤防を川下に向って行った。
「黒い雨」pp134
 相生橋は原爆ドームのすぐ傍である。
 ここでも続々と川面を死体が流れ、橋脚に頭を打ちつけて、ぐらりと向きを変える有様は二た目と見られたものではなかった。
「黒い雨」pp135
 死体が流れるほどの水はあったことになる。
 そして太田川(本川)右岸側の左官町、空鞘町そらざやちょう、寺町を北上し、横川橋へ辿り着く。ここは最初の白島中町からは近いが、
 僕らは川のなかを歩いて行くよりほかなかった。岸寄りに草の生えた洲があるが、飛び飛びにあるのだから草むらばかりは歩けない。僕らは流れに入って、上流に向って歩いて行った。せいぜい膝までの深さである。
「黒い雨」pp137
 完全に潮が引いている。
 この後、「涼しい葉蔭」でしばらく眠ってしまう。「どのくらい眠ったか知らないが」(pp138)、目覚めると「太陽は西に傾いていた」(pp139)。これは18時〜19時ころだろう。そうすると川の中を歩いたのはその数時間前、ちょうど干潮の頃と思われる。

 このように、「黒い雨」を辿っていくと、当日の潮汐の推算値とはかなり良く一致するのである。

Dec. 22, 2008
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