『蒼氓』と『細雪』の神戸

 石川達三『蒼氓』は次のように始まる。
 一九三〇年三月八日
 神戸港は雨である。細々とけぶる春雨である。海は灰色にかすみ、街も朝から夕暮れどきのように暗い
 三ノ宮駅から山ノ手に向う赤土の坂道はどろどろのぬかるみ・・・・である。この道を朝早くから幾台となく自動車が駈け上って行く。それは殆んど絶え間なく後から後からと続く行列である。この道が丘につき当って行き詰ったところに黄色い無装飾の大きなビルディングが建っている。後に赤松の丘を負い、右手は贅沢ぜいたくな尖塔をもったトア・ホテルに続き、左は黒く汚い細民街に連なるこの丘のうえのこれが「国立海外移民収容所」である。
 ちなみに第1回芥川賞を受賞した時の『蒼氓』は、この「国立海外移民収容所」を舞台にした第一部だけという形であったという。
 さて、「三ノ宮駅」とあるのは現在のJR元町駅である。明治の初めに鉄道が開通したときここに「三ノ宮停車場」ができた。それが昭和に入って が現在の場所にできた時(1931年)、官営鉄道の駅も移動した。そして元の三ノ宮駅の場所には元町駅ができたのである。
 その「(旧)三ノ宮駅から山ノ手に向う赤土の坂道」は鯉川筋である。現在では山手幹線までは広い道になっているが、それより北側は細い道で、その突き当りに「国立海外移民収容所」があった。筆者が子供の頃の1960年代には「移民センター」と呼ばれてなお存続していた。実際、南米移民はまだ行われていて、「ぶらじる丸」「あるぜんちな丸」といった移民船が神戸港から出ていたのである。おそらく移民する人達は『蒼氓』に描かれているのと同様にここで出発を待ったのだろう。筆者はその移民センターの近くの歯科に通っていたのだが、そこは日本に居るうちに入れ歯を作るという人達で繁盛していた。『蒼氓』ではここに滞在するのは僅か1週間であるが、入れ歯を作るということはもっと長かったのかもしれない。
 ところでその鯉川筋、谷崎潤一郎『細雪』では 。阪神大水害(1938)より少し前であるが、既に「赤土の道」ではなかったようである。
鯉川筋の画廊 大塚銀次郎が昭和五年七月から昭和十八年にかけて、神戸元町の鯉川こいかわ筋に開いていた画廊。「画廊」という店名だったので、一般には「鯉川筋画廊」、または「神戸画廊」と呼ばれた。小磯良平・東郷青児・三岸好太郎らの展覧会が開かれ、文化人のサロンともなっていた。
谷崎潤一郎『細雪』注解

 『蒼氓』に戻って、「右手は贅沢ぜいたくな尖塔をもったトア・ホテル」とある。ここはその後もう一度出てくる。
欄干の蔭に雪が残っている。隣りのトア・ホテルのヒマラヤ杉の美しい林立の中に立派な自動車が車体を光らせながら出入りするのが見えて、杉の枝から雪がさらさらと崩れていた。
石川達三集(筑摩書房)『蒼氓』p27
 一方、『細雪』では 。 雪子ら蒔岡家は立派な自動車で乗り着けたのだろう。
 そのホテル名が由来とされるトア・ロードは、(現)三宮へ向かうバス路線である。そのバスは、西側の平野方面から山麓道路を通り、移民センター(旧移民収容所)の前を過ぎてここを南へ折れる。筆者も子供の頃そのバスによく乗った。その東側は北野異人館街である。
 「左は黒く汚い細民街に連なる」とあるが、移民センターのすぐ左は再度山ふたたびさんドライヴウェイの入り口でその左はもう山腹である。ただ、山麓道路の左を下ると住宅街の中を路地が走っていて、その下は私立神港学園のグラウンドである。筆者の通った歯科医院もここにあった。
 当然というか、『細雪』にはこんな「細民街」の記述はない。

 近年、神戸といえばファッションの街とかグルメの街などと言われる。
 ちなみに、オリエンタル・ホテルといえばながく神戸の都市的格調の象徴のようなホテルであった。格調だけでなく、その実質も、かつては、コックさんなども神戸のオリエンタルで修業したといえば存分尊敬されたものだったが、・・・
司馬遼太郎『街道をゆく 神戸散歩』
 このオリエンタル・ホテルも『細雪』には出てくるが、ともかくそんなことで洋食でも中華でも、神戸には昔から有名店が多かった。
 そして『細雪』では、 とか、 とか、 とか、 など、実に多彩である。中で南京町やユーハイムはあの鯉川筋からも近い。
 対して『蒼氓』であるが、
勝田一家はまずい収容所の夕食をやめてレストランでカツレツ等を食って新聞を買って帰った。彼等は久しぶりに浮世の風に当たったように元気づいていた。
石川達三集(筑摩書房)『蒼氓』p19
 他には がある程度。店の名前も何も書かれていない。
 片や芦屋のええしのいとはん達、こなた父祖の地を売り払ってブラジルへ渡る移民たち。その境遇の差が如実に現れているだろう。

 『蒼氓』の移民たちは第三突堤の「ら・ぷらた丸」に乗り込み、ブラジルへ出発する。その突堤は税関のすぐ先、現在ではポートアイランドに繋がる神戸大橋のある第四突堤のひとつ西側である。
 突堤には見送りの小学生が三、四百人も整列していた。彼等は港に近い学校の生徒たちで、移民船が出る度毎に交替で見送りに来るのであった。
 子供達は大きな船が出て行くのを見るのが嬉しさに、移民の投げるテープを先を争って拾った。大抵の移民には親戚知己の見送りというものは殆んどないのだ。
石川達三集(筑摩書房)『蒼氓』p47
 筆者はそんな見送りに参加したことはないが、1960年頃には移民船出発の光景はテレビのニュースで度々見たものである。
 『細雪』では、おそらく同じ埠頭に隣のドイツ人一家の母国への帰還を見送る。
シュトルツ家の一行は昼間のうちに乗り込んでいたので、悦子達は夕飯を早めに済まして出かけ、阪神の三宮からタキシーを飛ばしたのであったが、税関の前を通り過ぎると、たちまちイルミネーションを附けたプレジデント・クーリッジ号の姿が不夜城のごとく埠頭にそびえているのは見えた。
新潮文庫『細雪』(中)p184
 戦争の激化による別れとは言え、移民船の出航ほどの悲壮さはない。

Oct. 2023
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