一九三〇年三月八日 神戸港は雨である。細々とけぶる春雨である。海は灰色に霞み、街も朝から夕暮れどきのように暗い 三ノ宮駅から山ノ手に向う赤土の坂道はどろどろのぬかるみである。この道を朝早くから幾台となく自動車が駈け上って行く。それは殆んど絶え間なく後から後からと続く行列である。この道が丘につき当って行き詰ったところに黄色い無装飾の大きなビルディングが建っている。後に赤松の丘を負い、右手は贅沢な尖塔をもったトア・ホテルに続き、左は黒く汚い細民街に連なるこの丘のうえの是が「国立海外移民収容所」である。 |
鯉川筋の画廊 大塚銀次郎が昭和五年七月から昭和十八年にかけて、神戸元町の鯉川筋に開いていた画廊。「画廊」という店名だったので、一般には「鯉川筋画廊」、または「神戸画廊」と呼ばれた。小磯良平・東郷青児・三岸好太郎らの展覧会が開かれ、文化人のサロンともなっていた。 |
欄干の蔭に雪が残っている。隣りのトア・ホテルのヒマラヤ杉の美しい林立の中に立派な自動車が車体を光らせながら出入りするのが見えて、杉の枝から雪がさらさらと崩れていた。 |
ちなみに、オリエンタル・ホテルといえばながく神戸の都市的格調の象徴のようなホテルであった。格調だけでなく、その実質も、かつては、コックさんなども神戸のオリエンタルで修業したといえば存分尊敬されたものだったが、・・・ |
勝田一家はまずい収容所の夕食をやめてレストランでカツレツ等を食って新聞を買って帰った。彼等は久しぶりに浮世の風に当たったように元気づいていた。 |
突堤には見送りの小学生が三、四百人も整列していた。彼等は港に近い学校の生徒たちで、移民船が出る度毎に交替で見送りに来るのであった。 子供達は大きな船が出て行くのを見るのが嬉しさに、移民の投げるテープを先を争って拾った。大抵の移民には親戚知己の見送りというものは殆んどないのだ。 |
シュトルツ家の一行は昼間のうちに乗り込んでいたので、悦子達は夕飯を早めに済まして出かけ、阪神の三宮からタキシーを飛ばしたのであったが、税関の前を通り過ぎると、忽ちイルミネーションを附けたプレジデント・クーリッジ号の姿が不夜城の如く埠頭に聳えているのは見えた。 |